資料室から、記事の切抜きがいっぱいつまった分厚い大封筒を給仕が運んできたとき、ワイナンドは顔を上げて言う。
「そんなにあるのか?ハワード・ロークがそれほど有名とは知らなかったな」
「だって、社主、ストッダード殿堂裁判ですから」
給仕の少年はここまで言って口を閉ざす。何も不都合なことは起きていない。ただ、ワイナンドの額の皺が形作る隆起(りゅうき)が目にはいっただけだ。彼の額にそのような形が生じることの意味がわかるほど、この少年は社主のことをよくは知らない。
一瞬の間をおいて、ワイナンドは言う。
「そうか。ご苦労だった」
給仕の少年は、ワイナンドの執務机の表面に張られたガラスの上に、分厚い大封筒をドサリと置いて、退室する。
ワイナンドは、その大封筒のふくらんだ黄色い紙の形をじっと見つめる。ワイナンドは不思議に思う。なぜ俺は、この大封筒を開くことを躊躇(ためら)っているのか。
ワイナンドは背筋を伸ばす。執務机の両端に沿ってまっすぐ両腕を伸ばす。全部の指が伸びて、ぴったりあわさっている。彼は見おろす。執務机の上に置いてある大封筒を見下ろす。それから、おもむろに片手を動かし、自分の方に大封筒を引き寄せる。それを開き、読み始める。
エルスワース・トゥーイーの「聖所侵犯」の記事がある。アルヴァ・スカーレットの「われらが子ども時代の教会」という記事がある。論説もあれば聖職者の説教もある。演説もあるし陳述書もある。論説委員への読者からの投書もある。『バナー』が、辛らつな風刺をめいっぱい効かせ抑制もなく書きまくった証拠資料だ。写真もいっぱいある。風刺漫画もいっぱいある。インタヴュー記事もある。抗議決議文もいっぱいある。読者からの投書は、ほんとうにおびただしくある。新聞紙上でローク批判が、まさに炎上していた。
ワイナンドはそれらの資料の全部に目を通した。几帳面に全ての活字を読んだ。山積みになった記事がひとつひとつ一番上に置かれてゆく。ワイナンドは姿勢を変えることもせずに読み続ける。手を動かすのは、切り抜きの記事をめくるため、その下にある別の記事を読むためだけだった。機械的な完璧な動きで、ワイナンドの手は動いていく。ワイナンドの目が切り抜きの記事の最後の文字をとらえるごとに、彼の指が持ち上げられていく。その記事を読むのに必要以上の秒数をかけることは許されない機械的な動きだ。
しかし、それでも、ストッダード殿堂の写真を見たときは、ワイナンドは長い間、じっと手の動きを止めていた。例のロークの写真、「スーパーマン君、気分はいいかい?」と見出しのついた恍惚としたロークの写真を見たときも、ワイナンドは姿勢を変えなかったのに。
ワイナンドは、ストッダード殿堂の写真だけを記事から破り、それを執務机の引き出しにしまった。それから、また他の記事を読み出した。
ストッダード殿堂裁判の報告に進む。エルスワース・M・トゥーイーの証言記録があり、ピーター・キーティングの証言記録がある。ラルストン・ホルクウムやゴードン・L・プレスコットの証言を記事にしたものもある。ドミニク・フランコンの証言からは何の引用も抜粋(ばっすい)もなく、単に短い報告があるだけだ。ロークは、「被告側証拠提出辞退」をしている。裁判終了後、トゥーイーのコラム「小さき声」に、ロークに関して少し言及があった。
それ以後ロークに関する記事はなかった。ただ、三年後の日付で、またロークに関する記事が出てきた。例のモナドノック渓谷保養地関連だ。
ワイナンドが全ての記事を読み終えたのは、かなり時間も遅くなってからだった。秘書たちは、とっくに帰宅していた。
ワイナンドは、社員が帰った後のがらんとした社屋やロビーの静寂さを感じる。しかし、印刷機の回転する音だけは聞こえる。あらゆる部屋を通して社屋に響く低いブンブンうなり回転する振動の響きだ。ワイナンドは、この音を聞くのが好きだ。この音は、この新聞社の社屋の心臓部の音だ。この音は胸の鼓動だ。ワイナンドは、その音に耳をすませる。その音は、明日の『バナー』を生産する音だ。
長い間みじろぎもせず、ワイナンドは座っていた。自分の新聞『バナー』が、ハワード・ロークに対して何をしてきたのか、ワイナンドは初めて知った。
(第4部(7) 超訳おわり)
(訳者コメント)
2ヶ月と1週間ぶりの超訳更新だ。
夫の入院や退院以後の通院や化学療法や自宅療養につきあっているうちに、いろいろ考え発見したすえに、超訳サイトに戻ってみると、まだまだ私の「超訳度」が足りないと思った。
超訳始めた時点で、十分に作者のアイン・ランドの仕事を、良かれと思うゆえとはいえ、踏みつけにしているのだから、ここはもっと思い切って踏みつけにすべきだ。
この超訳作業を終えたら、もっとさらに超訳して、電子ブックにしよう。
で、今回の更新から、もっと省いていいと思う部分はガンガン省きます。
このセクションも、けっこう省いた。
このセクションの前の部分のトゥーイーとアルヴァの部分は全部省いた。
ふたりが、ワイナンドとロークが会ったことについて驚き、これからの2人は「同じセクト間の戦争が一番激しいぞ、宗教戦争になるぞ」と、噂するところだ。
この頃には、すでにアルヴァはトゥーイーの手の中に入ってしまっている。
『バナー』新聞社は、いつにまにか、トゥーイーの仲間たちや手下が入り込んでいる。
ワイナンドは、新聞社で働く自分の部下たちを自分の手駒としか考えていないので、前提として彼らに無関心である。
彼らが何事かできるとも思っていない。
トゥーイーのような人間たちは、何かを創造することはできないが、他人の創造物に寄生して、その創造物を変質劣化させることは得意である。
それだって、しっかり脅威となりうる。
しかし、ワイナンドはあまりにトゥーイー的人間たちを侮蔑軽蔑しているがゆえに、彼らの脅威に無頓着である。
寄生虫には寄生虫の意地もプライドもあるので、宿主の隙を狙って何でもする。
何も自ら生み出せない寄生虫ができることは、生み出せる人間を叩いて自分の嫉妬心を慰めることを正義と称して騒ぎ立てることだけだ。
そのひとつが、ハワード・ローク叩きだった。
ストッダード殿堂騒ぎだった。
新聞マスメディアというものは、寄生虫が跋扈しやすい業種だ。
何も生産しないから。持っているのは言葉だけだから。
それも俗情との結託をめざす言葉だけだから。
俗情と結託して、そのことによって得る影響力こそマスメディアが望むものだ。
マスメディアの事実や真実を多くの人々に伝搬するという本来の使命や目的は忘れ去られる。
もともとが、『バナー』は、社主のワイナンドの大衆が最も欲しいものを大衆のもとに届ければ儲かるというビジネスセンスによって作られた新聞社だった。
しかし、事はそんなに単純ではないのだ。
大衆の欲しいものの中には、彼らや彼女たちの自分たちの人生への鬱屈した思いを癒すものが含まれる。
癒しとは、しょせんは矮小なものである。
一時的な気晴らしでしかない。
人生に対する鬱屈は正面から何か大きなことや高いことに挑戦することによってでしか解消されない。
コスモを上げることによってでしか昇華できない。
しかし、多くの人々は自分自身への不信と世界への恐怖から、正道を進まず、安易な道を選ぶ。
『バナー』は、俗情と結託しているから最も多くの読者を獲得してきたのであり、大衆の意識の向上を前提としていたら、popularではありえない。
ハワード・ロークなるものを批判し潰すのは『バナー』が『バナー』であるためには、当然のことなのだ。
トゥーイーのような寄生虫を呼び込むのは、『バナー』の宿命だ。
この時点で、ワイナンドは気づくべきだった。
ハワード・ロークに魅かれる自分自身と自分が作り上げた『バナー』は相入れないと。
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