第3部(15) ワイナンドはドミニクに結婚を申し込む

甲板に立ってワイナンドはまだ話を続けている。旅のことを、ふたりが航海しているこの暗い海の向こうにある数々の大陸のことを。

この暗黒のはるか向こうにある大陸が、この海と空という空間を希望と期待で満たしている。人間が切り拓いた大陸が存在するからこそ、この海と空の広大無辺さが意味を持つのだ。

ドミニクは待っている。すでにワイナンドの話に受け答えするのもやめている。彼の饒舌(じょうぜつ)を止める短い沈黙を使用する機会を、彼に委ねている。ドミニクは自分が予期している言葉を彼が言う機会を、彼に委ねている。しかし、彼はその言葉を口に出さない。

「疲れましたか?」

「いいえ」

「デッキ・チェアを持ってきましょうか。腰掛けた方がいいかな?」

「いいえ。ここに立っています」

「少し寒いでしょう。明日までには、はるか南に行っています。そうすると夜になると、ほんとうに真っ赤な海を見ることができます。それは、実に美しい眺めです」

ワイナンドは、しばらく黙った。波を進むヨットの速度をドミニクは感じている。水面に長い傷をつけながら波を切って進むヨットに対して、海が、水面が、抵抗のうめきをあげている音が聞こえる。ドミニクは訊ねる。

「いつ船室に行きますの?」

「船室には行きません。私と結婚していただけませんか?」

ワイナンドは静かにそう言う。奇妙なほどあっさりと唐突に簡単に言う。変更できない事実の前に、なすすべもなく立っているかのように。

ドミニクは驚きを隠せない。ワイナンドはドミニクが驚くことを前もって予測し、あらかじめその驚きを目にしていたかのように静かに微笑んでいる。ドミニクの心を理解している。

「他のことなど言わない方が最善だと思うのですが。しかし、あなたは、ちゃんと私が話すのをご希望だと思うので、あえてお話します。沈黙に甘えてはいけませんからね。私はあなたに今夜多くのことを語りました。ですから、もう少し話させて下さい。あなたは、私を人類に対する軽蔑の象徴として選んだ。あなたは私を愛してはいない。あなたは、私に対して何も保証する気はない。私は、あなたにとって自己破壊の単なる道具でしかない。私はそれに関して全部承知しています。私はそれを受け入れます。そのうえで、あなたに結婚していただきたいと言っているのです。あなたは、この世界への復讐として、語ることのできない行為を犯したいと望んでおられる。そして、その行為は敵に自分を売るという形はとらず、敵と結婚するという形をとる。敵の中でも最悪の敵に、自分の最悪さを対抗させるのではなくて、敵の中でもまだ一番ましな敵に自分の最悪さをぶつける。あなたは、一度はその行為を試みましたね。しかし、あなたの餌食(えじき)になった人間は、あなたの目的にかなうだけの価値のない人物だった。ならば、あなたの望む条件で、私を選んだらいいのではないかと、私はあなたに懇願しているのです。私自身の思いが何であるにせよ、あなたとの結婚で私が何を得たいにせよ、それは、あなたにとって重要ではない。その点においては、私は恨めしく思います。しかし、あなたはそんなことを知る必要はありません。あなたが、そんなことを慮(おもんぱか)る必要はありません。私は、あなたに何の約束も課しません。何の義務も課しません。あなたが望むのならば、私からいつ去ってもいいのです。どのみち、そんなことは、あなたにとってどうでもいいことなのですから・・・私は、あなたを愛しています」

ドミニクは立ち尽くしている。片腕を背後に伸ばし、指は甲板の手すりに押し付けられている。

「私は結婚を望んでおりませんでした」

「わかっています。しかし、あなたが知りたいのならば、あえて言いますが、あなたは間違いを犯したのです。私はそう断言します。あなたは、私がかつて出会ったことがないほどの清浄な人間というものを、私に見せてしまったのですから」

「私が清浄だなんて・・・」

「ドミニク、私はいろいろ裏で糸を引くようなことをして人生を過ごしてきた男です。あなたが選んだような恐ろしい形に歪んだものとなって表れなければ、私は清浄さとか真の純粋さというものを信じられるわけがないでしょう。ともあれ、私が感じることが、あなたの決定に影響を与えることはないのです」

ドミニクは、ワイナンドをじっと見つめる。このヨットに乗ってからの数時間を信じがたいものを見るように眺める。

ドミニクは思う。今日、ワイナンドが言ったことは、私が思ってきたことをすべて言葉にしたものだわ。ワイナンドが自分に与えた申し出や関係のありようは、まさに私と同じ価値観を共有する世界に属するわ。ワイナンドは、だからこそ、私と航海にやってきた目的を捨ててしまった。この人のように話す人間とともに堕落を求めるなど不可能なことだわ。

ドミニクは、ワイナンドのからだに手を触れ、何もかも打ち明けて話したいという思いに突然かられる。ワイナンドに自分の苦しみを理解してもらい、つかのまでいいから苦しみから解放されたいと思う。それから、そんな目で私を見つめないでほしいと、彼に頼みたい。

そのとき、ドミニクは思い出す。

ワイナンドは、そのときのドミニクの手の動きに気がついた。彼女の指は、もはや緊張したまま手すりに頼ってはいない。支えが必要なはずなのに、そんなものはいらなくなっている。その瞬間が何か重要性を帯び、彼女の指は緊張から解けながらも、しっかりと手すりを握っている。まるで、何かの手綱(たづな)をしっかりと捕まえたかのようだ。しかし、あくまでものんびりとした調子である。もはや、こうしているのも大した努力は要らないといわんばかりの自然な力強さが、ドミニクの体に宿ったかのようだ。

このとき、ドミニクは、あのストッダード殿堂を思い出していた。まったき高みをめざす情熱について語り、自分の体でマンハッタの超高層ビル群を守りたいと言う自分の目の前にいる男、ワイナンドについて考えると・・・彼女は、『バナー』に載った一葉の写真を思い出す。エンライト・ハウスを見上げているハワード・ロークの写真を思い出す。その写真の見出しはこうだった。「スーパーマン君、いい気分かい?」と言う悪意に満ちたものだったが。

ドミニクは顔を上げ、ワイナンドを見つめて言う。

「あなたと結婚?新聞王の夫人になるのですか?」

ワイナンドがその問いに答えるとき、言いにくそうな響きが彼の声にはあった。

「そうです。そう、あなたが呼びたいのならば、そういうことになります」

「お申し出をお受けいたします」

「ありがとう、ドミニク」

ドミニクは、もうどちらでもいいといった無関心な態度で、その後の展開を待っている。

しかし、ワイナンドはドミニクの方を向き、今日一日中そうであったように話し続けるだけだ。陽気さをかすかに含んだ静かな声で。

「この航海の日程を短くしましょう。一週間だけにしましょう・・・またしばらくしてから、このヨットで落ち合いましょう。ニューヨークに戻った日に、あなたはリノに発って下さい。ネヴァダ州の町です。あそこなら離婚の手続きが簡単にできます。ご主人のことは私にまかせて下さい。ストーンリッジのことはご主人が手がけることになりますし、その他、ご主人が望むことは何なりと私が用意します。神の祝福、いえ呪いにでも任せておきましょう、あの人物に関しては。あなたがリノから戻ったら、すぐ結婚しましょう」

「わかりました、ゲイル。では船室に行きましょう」

「そうしたいですか?」

「いいえ。ただ、私たちの結婚をご大層なものにしたくはありませんから」

「ドミニク、私は、ご大層なものにしたいのです。だから今夜の私は、あなたに触れません。私たちが結婚するまで、あなたには指一本触れません。馬鹿馬鹿しい振る舞いだとお思いでしょうね。私たちのどちらにとっても、結婚の儀式など意味のないことだということは、わかっています。しかし、慣習にのっとって、慣習どおりにすることが、私たちの間では、唯一可能な異常さでしょう。だからこそ、私には、その慣習どおりにするという行為が必要なのです。私の行為の中に例外を設けるには、これしか手がないのです」

「あなたのお好きなようになさって下さい、ゲイル」

このとき、ワイナンドはドミニクを引き寄せ、彼女の唇にキスをした。その行為は、彼の言葉の完結を意味していた。今夜の最後の言葉でもあった。

その一種の言葉が、あまりにも親密なものだったので、ドミニクは思わず体を硬くする。ワイナンドの行為に反応しないでおきそうになる。しかしドミニクはすぐに自分が彼の行為に反応しているのを感じる。自分を抱いている男の肉体的事実以外の全てのことは、強いて自分に忘れさせる。ハワード・ロークのことも考えない。

ワイナンドはすぐにドミニクを離す。彼は、ドミニクの体の反応と変化に気がついた。ドミニクには、それがわかる。彼は微笑みながら、言う。

「ドミニク、あなたは疲れていますね。おやすみなさいを言いましょうか?私は、しばらくここにいますから」

ドミニクは、その言葉に素直に従う。ひとりで船室に下りて行く。

(第3部15 超訳おわり)

(訳者コメント)

このセクションは、このまんま。

散々女性に関して遊んできたゲイル・ワイナンドが、唐突にドミニクに結婚を申し込む。

ドミニクは、プロポーズを受ける。

なんという展開か。

ワイナンドは、ドミニクから愛されなくても、構わないと言うのだ。

この世界の愚劣さと腐敗の象徴のような反知的新聞の代表の「バナー」紙の社主である自分を軽蔑していても構わないと言うのだ。

自分自身におぞましいこと行為を課すことがドミニクの願いなら、ドミニクの夫のピーター・キーティングでは役不足だから、アメリカ中で低俗新聞を発行する自分に妻になればいいと言うのだ。

ワイナンドは、やっとこれで自分は結婚する気になれる真底清浄な女にめぐり合ったという安堵感を漂わせて、ドミニクにプロポーズした。

ワイナンドは「聖なる結婚」をしてみたいので、結婚式までドミニクに触れないと言う。

このワイナンドも、わざわざ別離を選んだドミニクやハワード・ロークと同じく、奇妙に変態的に潔癖でありますね。

ところで、第二次世界大戦前の新聞王とかメディア王というと、映画『市民ケーン』Citizen Kane (1941)を思い出す。

この「市民」というのは、ローマ帝国的市民の意味ね。

その辺の庶民は「市民」とは言わない。

ただの一般ピープル。

「市民」とは、政府や議会に物が言えるような社会的影響力も地位も資産もあるのが「市民)」。

オーソン・ウェルズ扮するセンセーショナリズムで売った新聞王が、大統領の姪と結婚したりして栄華を極めるが、20歳も年下の歌手の愛人に溺れ、政治的スキャンダルにまみれ、妻から去られ、さらに愛人からも去られて、広大な邸宅でひとり死んでいく物語だ。

この新聞王は、実在の新聞王のウィリアム・ランドルフ・ハースト(William Randolph Hearst: 1863-1951)がモデルであったことは、よく知られている。

ハリウッド映画界で衣装係やシナリオライターとして働いていた作者のアイン・ランドが、この作品を意識していなかったはずはない。

となると……ワイナンドとドミニクの結婚の結果も予想つくのではないか?

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