ワイナンドとドミニクが航海に発つ二日前、ワイナンドがドミニクに夜も更けてから電話を寄こした。
「今、すぐお越し願えませんか?」
彼はドミニクに依頼している。ちょっとの間があり、彼はつけ加える。
「あなたが推測なさっておられる用事ではありません。私は、約束は守ります。あなたは全く安全です。今夜、あなたにお会いしたいだけなのです」
「わかりました」
そうドミニクは答えて、それから驚く。ワイナンドが電話の向こうで、「ありがとう」と静かに言ったから。あの暴君のメディア王ゲイル・ワイナンドが。
ワイナンドのペントハウスの彼の住居専用のロビーにエレベーターが着く。ドアが開けられると、そこにはワイナンドが待っていた。
しかし、ワイナンドはドミニクをエレベーターから降ろさない。かわりに自分もそこに乗り込んで、ドミニクに告げる。
「私の住まいには入っていただきたくないのです。下の階に参りましょう」
エレベーター係はワイナンドを眺めている。面白そうな顔つきである。
エレベーターが止まり、施錠されたドアの前で開く。ワイナンドは開錠し、最初にドミニクを部屋に通す。それから彼女のあとに続き、その美術ギャラリーに入る。彼の個人的美術館に入る。
ドミニクは、ここが外部の人間が入れない場所であることを思い出す。ドミニクは何も言わない。ワイナンドも説明しない。
何時間も、ドミニクは黙ってその広大な部屋を歩き回る。信じがたいほどの美の宝庫を眺める。厚いカーペットが敷き詰められてあるので、ふたりの足音も聞こえない。ニューヨークの街の喧騒(けんそう)も聞こえない。窓がないからである。
ワイナンドはドミニクが行くところをついて来る。ドミニクが立ち止まるところで立ち止まる。彼の目は、ドミニクが作品から作品へと移す視線に応じて動いている。時おり、彼のまなざしはドミニクに注がれる。ドミニクは、ストッダード殿堂に置かれてあった自分の彫像のそばを、立ち止まりもせずに通り過ぎる。
ワイナンドはドミニクを急がせもしないが、長居させようともしない。まるで、このギャラリーをまるごとドミニクに引き渡してしまったかのようだ。
そろそろ帰らねばとドミニクが決めたとき、ワイナンドはドアまで彼女を送って行った。そのとき、彼女は訊ねた。
「なぜ、ここを私に見せようとお考えになったのでしょうか?そうなさっても、私があなたのことを好意的に考えることはありません。もっと悪く考えるようになるかもしれませんのに」
ワイナンドは静かに答える。
「ええ。そうなるかもしれないと予期したでしょうね。もし、ここを見せれば、あなたが私のことを好意的に考えるようになると私が期待したならば、ですが。しかし、私はそんなことを期待したわけではありません。ただ、あなたにここを見ていただきたかったのです。それだけです」
(第3部13 超訳おわり)
(訳者コメント)
このセクションは非常に短い。
ワイナンドは自分のアパートメントビル(そこの最上階のペントハウスに住んでいる)の地下全フロアを自分の買い集めた美術品のギャラリーにしている。
超富裕層の趣味のひとつは芸術品を集めること。
ワイナンドは正規の教育機関で学んだことのない成金ではあるが、代々の貴族のように芸術や文化への鑑識眼がある。
ワイナンドが自分が集めた美術品を他人に見せたことがないのは、ワイナンドがほんとうに優れた美術品を愛しているからだ。
他人に見せびらかすために集めてきたわけではなく、自分の心の空虚を満たし癒すために集めてきたのだ。
くっだらねー世の中ではあるが、人間はこのような美しいものも創造できる。人間存在の明るい側面を、ワイナンドは、自分のギャラリーにおいてだけ見いだすことができる。
そのようなギャラリーをものを見る目のない人々に見せるわけがない。
しかし、ドミニクには見てもらいたかった。
ドミニクならば、自分と同じ美意識と見識を共有できると予想したからだ。
そのような女性に出会ったのは、初めてなのだ。
ドミニクが特に注意して見る美術品は、ワイナンドもとりわけ愛する作品なのだろう。
その予想があたり、ワイナンドは嬉しい。
あああああああ〜〜
いいなああ!!
自分の美術館が持てるなんて!!
ボストン美術館のAsia Collectionを見たとき、ボストン美術館に住めたらどんなにいいかと思った。
これらの美術品を全部自分のものにして、自分だけ鑑賞しようとは思わなかった。
そこが、私のダメなところ。
中産階級的発想しかできないところ。
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