その朝の9時、ピーター・キーティングは自室の床を歩きまわっていた。ドアはロックされている。キャサリンが自分を待っている9時になっているということは、すっかり忘れている。彼は、キャサリンのことは自分に忘れさせてしまっていた。キャサリンが意味するあらゆることを心の中から閉め出していた。
自室に鍵をかけたのは母親を避けるためだった。昨晩、息子の苛々と激しい落ち着きのなさを見て、母親は息子に打ち明けさせた。息子は、はねつけるように言った。ドミニク・フランコンと結婚したと。ドミニクはどこかの親類に結婚したことを知らせるために街から出て行ったと。
母親はびっくり仰天するやら、大喜びするやら、質問攻めにするやら大騒ぎになった。息子の方は何も答えられず、かえって自分の動揺を隠すことができた。キーティング自身、自分が妻を持ったということが信じられなかった。またドミニクが朝になったら、ほんとうに自分のところに戻ってくるのかも、確信が持てなかった。
キーティングは母親に、自分の結婚の公表を禁じた。しかし、母親の方は昨晩のうちに、あちこちに電話しまくっていた。今朝はもっとあちこちに電話している。だから、今のキーティングの家の電話は鳴りっ放しである。電話に出ると、息せき切って、驚きと祝福にあふれるばかりの声で「ほんとうなの?」と訊かれる始末だ。
この結婚のニュースが、電話してきた人々の名前や社会的地位によって、マンハッタンの街中にどんどん円を描いて広まっていくさまが、キーティングには目に見えるようだ。しかし、彼は電話に出るのをいやがった。彼自身は、ひとりぼっちで自室という水も漏らさぬ箱の中に隠れ、冷たく、途方にくれ、怯えている。
玄関のベルが鳴ったとき、時刻はほとんど正午だった。キーティングは両手で耳を塞(ふさ)いだ。客が誰で何の用なのかも知りたくはなかった。そのとき、喜びで甲高くなってはいるが、愚かしくも困惑しているような母親の声が聞こえた。
「ピーターったら、もう、どうして自分の奥さんをお迎えしてキスしてあげないの?」
キーティングは廊下に飛び出した。ドミニクがそこにいた。柔らかなミンクのコートを脱いでいるところだった。その毛皮のコートが、彼の鼻腔(びこう)に戸外の冷たい空気とドミニクの香水があわさったような匂いを感じさせた。ドミニクは、その場にふさわしく微笑んでいる。まっすぐキーティングを見つめて言う。
「おはよう、ピーター」と。
一瞬の間、キーティングはハッとして立ち尽くすが、その瞬間、すぐに今朝から続いている電話の呼び鈴のすべてを思い起こした。その電話が自分に保証して与えた勝利を実感した。いっぱいの観衆に見守られた競技場にいる男のように彼は歩いた。彼は微笑んで、言う。
「ドミニク、夢が本当になったみたいだ」
自分たちが不幸に突き進んでいるという、ふたりの間にあった理解は、もうどこかに消えてしまっている。ふたりの結婚は、この種の結婚が、ふつうにたどる成り行きどおりのものになっている。ドミニクも嬉しそうに見える。彼女は言う。
「花婿が花嫁を抱きかかえて、玄関に入ってくるというのではなくて残念だわ、ピーター」
キーティングは、ドミニクにキスをせずに、彼女の手を取り、彼女の手首の上あたりの腕にキスした。さりげない親密な優しいしぐさだ。キーティングは、母親がそこに立っているのを見て、派手な威勢のいい勝ち誇った動作で言う。
「母さん、ドミニク・キーティングだよ」
母親がドミニクにキスするのをキーティングは見る。ドミニクも、しごく真面目な態度で、母親にキスを返している。母親は息を詰まらせている。
「まあ、なんて嬉しいことでしょう。ほんとうに嬉しいわ。神様の祝福がありますように。まあ、あなたがこんなに綺麗な人だったなんて、予想もしていなかったわ」
さて、次にどうしていいものやら、キーティングにはわからない。ドミニクは気を利かせたのか、この母と息子がドギマギする間も与えず、居間まで歩いて行って、こう言った。
「まずはお昼をいただきましょう。ピーター、お部屋を案内してくださる?1時間かそこらで私の荷物が来ますから」
母親は、とっておきの笑顔を作って言う。
「昼食は、ちゃんと3人分用意してありますのよ。フランコン・・・あら、私ったら、あなたをどう呼べばいいのかしら?キーティング夫人というのではねえ・・・」
「ドミニクですわ、もちろん」と、ニコリともせずドミニクが答える。
「みんなに知らせようか。誰か招待してもいいし・・・」
キーティングは話し始める。しかし、ドミニクが遮る。
「あとでいいですわよ、ピーター。自然に広まります」
しばらくしてドミニクの荷物が届いた。ドミニクはサッサとキーティングの寝室に入っていく。キーティングは、それを眺めている。ドミニクは、メイドに指図しながら自分の衣服をぶらさげさせている。クローゼットの中身を整理しなおしたいからと、キーティングに手助けを頼んだりする。
キーティングの母親は、不思議なそうな顔をしている。
「だけど、あなたたち、どこかには行かないの?あまりに突然でロマンチックでいいけれど、新婚旅行にも行かないつもり?」
「行きません。ピーターのお仕事の邪魔はしたくありませんの」
「ドミニク、これは一時的だからね。別のアパートに、もっと大きなアパートに引っ越さないとね。君に選んでもらいたいな」
「あら、どうして?引越しなんて必要ありません。ここでいいじゃありませんか」
「私が引っ越すからいいのよ。私は、私用に小さいお部屋を借りるわ」
キーティングの母親が寛大にも言う。母親は、ドミニクに対する圧倒的な恐怖に突き動かされ、思わずそう口に出してしまった。
「いけません。お母様が、そんなことなさってはいけません。私、何も変えたくありませんの。ピーターの今までの生活どおりに、私が合わせます。そうしたいのです」
「あなたって優しい人ね!」
母親は微笑む。ドミニクに関しては、それは全く優しいことにはならないのだが。
母親のほうはわかっている。自分がこの狼狽(ろうばい)状態から醒めてみれば、この義理の娘を自分が憎むであろうことは確実に予想がつく。まだ鼻であしらわれて冷淡にされる方が耐えられるのかもしれない。キーティングの母親にしてみれば、ドミニクの、こんな威厳に満ちた丁寧さなど耐えられるものではない。
電話が鳴った。事務所の主任設計士が、キーティングに祝福の電話をしてきたのだった。その設計士は言った。
「今、耳にしたばかりですよ、僕たちは。ガイが、びっくり仰天しています。ガイに電話するか、すぐにこっちに来るか、何かしたほうがいいと思いますが」
キーティングは、事務所に急行した。しばらくの間でも、家から逃げられるのが、ありがたかったからでもある。理想的な妻を獲得した輝かしい若き夫にふさわしい完璧な態度で、キーティングは事務所に入った。大きな声で笑い、製図室でみなの握手に答えた。けたたましい祝福の言葉と、羨望と、いくつかの猥褻なからかいに満ちた陽気な叫び声をいっぱいに浴びながら。それから、フランコンのオフィスに急いで行った。
部屋に入り、ガイ・フランコンの顔に微笑が浮かんでいるのを見た瞬間、その微笑は祝福のように見えたが、キーティングは奇妙にも罪の意識を感じた。キーティングは、フランコンの両肩を愛情を込めて力強く引きながら、言った。
「僕はとても嬉しいです、ガイ。ほんとに嬉しいです・・・」
フランコンは静かに答える。
「こうなると、僕はいつも思っていたよ。だけど、今、あらためて、これでいいんだと感じている。ピーター、ここはみんな君のものになるのがいい。みんなね。この部屋も、もうすべてね。近いうちに」
「何をおっしゃっているのですか?」
「ピーター、僕はもう疲れた。もうこれがほんとうに最後だなとわかるような疲れをおぼえる時が誰にだって訪れるものだ・・・君には、まだわかるまいがね。君はまだ若すぎるから。しかし、こうなれば、ピーター、もう僕がここでうろうろしていても、しかたない。時々は、僕も正直でいたくなるんだな。正直ってのは、なかなかいい気分だよ・・・ともかく、そのうち僕は引退する。そうなれば、みんな君のものさ。もう少しだけ、ここらあたりうろちょろしているのも楽しいけどね・・・ほら、僕はここが好きだから。とても活気があって、きちんと事が運ばれていて、みんな僕を立ててくれるしさ、実にいいところだよ、フランコン&ハイヤー建築設計事務所というところは。あれ?僕は何を言っているのかな、もうフランコン&キーティング建築設計事務所だったね。で、もうすぐキーティング事務所になるというわけだ・・・ピーター」
ここまで話してきたフランコンが、ふとキーティングに訊ねる。
「あまり嬉しそうじゃないね、なぜだい?」
「もちろん、嬉しいですよ。とても、ありがたいと感謝していますし、いろいろなことに感謝しています。でも、引退したいなんて、よりにもよってどうして、今そんなことを思うのですか?」
「本気で言ったわけじゃあない。でも、ここのものは、いずれみんな君のものになるって僕がさっき言ったとき、君は嬉しそうに見えなかったね。僕としては・・・僕が君に残すものを、君に喜んでもらいたいよ、ピーター」
「ガイ、どうして、そんなことおっしゃるのですか。変ですよ」
「ピーター、僕にとっては、これは非常に大事なことなのだ。僕が君に残すものを、君が喜んでくれるってことは。君に誇りに感じてもらいたいのだ。君は喜んでくれるね?」
「そりゃあ、そうじゃない人間がどこにいます?」
こう答えながらも、キーティングはフランコンの顔を見ない。フランコンの声の中にある懇願するような響きが耐えられない。
「そうだよ。誰が喜ばないことがあるものか。もちろんだな・・・君は喜んでくれるね、ピーター?僕は、君に僕を誇りに思ってもらいたいんだ、ピーター。僕は、僕が何ほどかのことを成し遂げたと知りたいのだ。僕がしてきたことには何がしかの意味があったと感じたいのだ。つまり、僕は、どうでもいいようなことをしてきたわけではないのだと確信したい」
「あなたは、ご自分で確信できないのですか?確信していないのですか?」
「ピーター、どうした?」
「全く、あなたに、そんな権利がありますか?確信が持てないと悩む権利なんて!あなたの年齢で、その名声、その名誉、その・・・」
「ピーター、僕は自分自身に納得したいのだよ。一生懸命、働いてはきたからねえ」
「なのに、納得できないっていうのですか、あなたは!」
キーティングは怒っていた。怯えていた。ガイ・フランコンのような名声や富を得ても、自分の人生に納得できないのならば、自分の人生を肯定し、その意義を確信できないのならば、僕はどうなるのだ。僕がどれだけのことをして、どれだけ人を裏切って、ここまで昇ってきたと思っているんだ。全てを獲得しているガイ・フランコンが自分の人生に確信が持てないのならば、僕のやってきたことに何の意味があるのか。これから僕がするであろうことに何の意味があるのか。
その瞬間、唐突にある男の顔がキーティングの頭に鮮烈に浮かぶ。キーティングは思わず以下の言葉を口走っていた。
「そうさ、僕は、自分を確信している奴を知っている。そいつは、最後の最後まで自分を信じることができるんだ。そいつの喉を切り裂いてやろうかと思いたくなるぐらいに、忌々しくなるほど、そいつは自分に納得しているんだ!」
「ピーター、誰のことを言っているんだ?」
フランコンは静かに訊ねる。
「ガイ、ガイ、何やっているのですかねえ、僕たちは?何を話していたのでしたっけ?」
「さあ、何だったかな」
フランコンはそう答えるが、疲れているように見える。
その晩、ガイ・フランコンはキーティングの家に、結婚したばかりの娘夫婦と夕食をともにするために、やって来た。粋な着こなしをして、キーティング夫人となった娘の手にキスをするとき、彼は古風な恭しい姿勢をとり、目をしばたいた。
ガイ・フランコンは、ドミニクに祝福の言葉を与えるときは、いとも真剣に見えた。口数も少なかった。彼にはめったにない真摯な態度だった。娘の顔をちらりと見たときの彼の瞳には、懇願するような光がこもっていた。彼は、娘から、いつもの彼女の鮮やかで鋭い嘲りを期待していた。しかし、その代わりに、彼が目にしたのは、娘の優しいまでの静かなまなざしだった。
娘は何も言わない。ただ身をかがめて、父親の額にキスをしただけだった。父の頭に優しく自分の唇を押しあてただけだった。習慣的な儀礼的なキスにしては、ほんの一秒ほど長いキスを。彼は震えを感じる。つい正直に、他の誰にも聞こえないように、ガイ・フランコンはささやいてしまった。
「ドミニク、君は、ほんとうは不幸なんだろうね・・」
「あら、お父様、どうしてそんなことおっしゃるのかしら!」
「あ、すまない。僕は馬鹿だね・・・こんな素晴らしいおめでたいときに・・・」
娘は父親の腕をとり陽気に笑った。しかし父親から見た娘は、ほんとうは少しも幸せそうではなかった。
その晩は、訪問客がひっきりなしだった。招待されていない客もあれば、前もって来訪を告げずにやって来た客もあった。みんな、結婚の知らせを聞いて、キーティング宅に立ち寄るだけの名誉や資格が自分にあると思った人々ばかりである。
キーティングは客たちを迎えて、自分が嬉しいのかそうでないのか、自分で自分がわからなかった。この陽気な混乱が続いている限り、この状態はこれでいいのだと思える。ドミニクは、実に優雅に適切にふるまっている。ドミニクの立ち居振る舞いや客への応対には、いつもの彼女のからかうような風刺的な辛らつさはみじんもなかった。
(第2部52 超訳おわり)
(訳者コメント)
ドミニクとキーティングの結婚は、この2人をよくは知らない人々からは大いに祝福されている。
でも、キーティングの母親も、ドミニクの父のガイ・フランコンも、ふたりの結婚に、言葉には出さないが、不吉さを感じている。
この小説で変だなと思うことはいくつもあるが、ドミニクの父親のガイ・フランコンが急に変化している。
ストッダード公判を、ガイ・フランコンは傍聴しなかった。
馬鹿馬鹿しいからという理由で。
それまでのガイ・フランコンの軽薄さから考えれば、彼は裁判見物に来るのが不思議じゃない。
ロークに対しても怒りを持っていたはずだ。
でも、彼は裁判を苦々しく思うという良識を示した。
で、今回、ガイ・フランコンは、キーティングが娘のドミニクと結婚したことに手放しで喜んでいない。
自分の順風満帆な名誉も富も手に入れた人生に疑問を感じているようなことまで、ガイ・フランコンはキーティングに語る。
そして、ドミニクに会った時に、娘が幸せではないと感じる。
ガイ・フランコンは確実に変化している。
物語の終わりころに、ガイ・フランコンはもっともっと変化している。
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