第2部(48) 自分が邪悪な人間になっていることに気がつく利他的キャサリン

例のストッダード対ローク訴訟の公判から3日後の晩のことだった。エルスワース・トゥーイーは自室でラジオを聴きながら座っていた。その晩は仕事をする気になれなかったので、しばしの休息を自分に許し、肘掛け椅子に贅沢な気分でもたれていた。

ラジオから流れる複雑な交響曲のリズムを指がとるままにしている。ドアをノックする音が聞こえてきた。「どおぞ~」と、のんびり彼は答えた。

キャサリンが入ってきた。叔父のくつろいだ時間に闖入(ちんにゅう)してきた自分自身をわびる視線がラジオにまで向けられている。

「エルスワース叔父様、お仕事していらっしゃらないようだから・・・私、お話ししたいの」

キャサリンは前かがみの姿勢で立っている。やせた体つきで、曲線というものがない。高価なツイードのスカートをはいているが、アイロンがかかっていない。化粧がくずれたままである。白粉(おしろい)が顔のあちらこちらに残っているが、その下の素肌には生気がない。26歳だというのに、30歳を越えている事実を隠そうとしている女性のように見える。

ここ数年で、叔父の手助けをしながらキャサリンは有能なソーシャル・ワーカーになっていた。貧しい人々のための生活改善や教育に当たるセツルメント・ハウスで有給の職を得ていた。今では自分自身のささやかな銀行口座も持っている。時には、友人たちと昼食にもでかけるようになった。ただし、同じ職業の年上の女性たちばかりである。彼女たちとは、未婚の母親の問題や、貧しい人々の子どもたちの自己表現や、大企業の邪悪さについて話し合ったりした。

ここ数年、トゥーイーはこの姪の存在を忘れてしまっていたようだ。しかし、姪の方は、言葉数も少なく、自分を消してしまうような慎ましさで、叔父である自分のことを非常に意識していた。それは、トゥーイーにもわかっていた。彼のほうから姪に話しかけることはめったになかった。

しかし、姪の方は、小さな助言を求め、絶えずいつも叔父のところにやって来た。キャサリンは、トゥーイーのエネルギーで回転している小さなモーターのようだった。キャサリンは、どんな劇を見に行くかを叔父に相談せずに観劇に出かけることはなかった。叔父の意見を確かめずに、どこかの講義に出席することもなかった。一度、キャサリンが、ある娘と仲良くなったことがあった。その娘も、ソーシャル・ワーカーで、知的で有能で陽気で、貧しい人々を愛していた。しかし、トゥーイーはこの娘との交際を認めなかった。キャサリンは、彼女との交際を絶った。

叔父の助言が必要なとき、キャサリンは、いつも手短に質問するのだった。叔父の仕事の邪魔にならないように気遣っているのである。たとえば、食事のとき、次のメニューが出てくるまでの間とか、叔父が外出するときエレベーターで待っているときとか、居間で寛いでいるにしても、ラジオで大事なことが放送されずに、局名がアナウンスされている間とかに、キャサリンは質問してくるのだった。叔父の時間の中でも、ほんのゴミのような隙間以外には、何も要求するつもりはないことを示すのを忘れないのが、この姪だった。

だからこそ、この姪が部屋に入ってきたとき、トゥーイーは驚いて彼女の顔を見た。で、こう言ったのだった。

「もちろん、構わないよ。今は忙しくないしね。どちらにしても、忙しいから君の話が聞けないなんてことは、私はしない。ラジオの音量を少し下げてくれないかい?」

キャサリンはラジオの音を小さくして、叔父と面と向かう位置にある肘掛け椅子に身を沈めた。彼女の動作はぎこちない。まだ若い少女のようだ。今のキャサリンからは、いつもの確信を持って動く習慣がすっかり消えている。といっても、時折、急に頭を動かしたりする動作などから、自分が叔父に説明し始めるつもりの苛立ちを抑制し耐えようとしているのが見て取れる。

キャサリンは叔父の顔を見つめる。眼鏡の奥にある彼女の瞳は、じっと大きく見張られている。しかし、彼女の心の奥にあるものは見えない。キャサリンは言う。

「エルスワース叔父様、ずっと何をしていらしたの?叔父様が関係している大きな裁判で勝ったとか何とか新聞で見たわ。よかったわ。私ときたら、ここ何ヶ月も新聞を読んでないの。とても忙しかったから・・・いいえ、違うわ。ほんとはそうじゃない。時間はあったの。でもここに帰ってきたら、もう何もする気にならなかったの。ただベッドに倒れこんで、寝るだけ。エルスワース叔父様、人って疲れているから、やたら眠るのかしら?それとも、何かから逃げたくて眠るのかしら?」

「おやおや、そんなこと言うなんて君らしくないねえ。全然君らしくない。キャサリン、どうしたの?」

キャサリンは、靴のつま先を見ながら、唇を動かすのも努力がいるようだったが、やっと言う。

「叔父様、私ね、自分がおかしいのではないかと思うの。私、不幸なの。ひどく気が沈むの」

トゥーイーは黙って姪を見つめる。しごく真面目な顔つきで、目は優しい。キャサリンは、小さな声で言う。

「わかってくださる?叔父様、怒ったりしない?私を軽蔑なさらない?」

「どうして、私が君を?」

「こんなこと言いたくなかったの。自分自身にさえ言いたくなかったの。今夜だけじゃないのよ。ずっと前からなの。全部話していい?びっくりなさらないでね。私、叔父様にはお話ししなくちゃ。昔よく通っていた告(こっ)解室(かいしつ)みたいだわ。でも、私は教会に戻ったわけではありません。宗教というのは単なる階級搾取の一装置でしかないって、わかっています。ちゃんと叔父様が説明してくださったのですから。でも、ただ、ただ、私は誰かに話を聴いてもらわないと、どうしようもない気分なんです」

「キャティ、まずねえ、どうして君はそんなに怯えているの?そんなに怯えていてはいけないよ。私に話すのに、怖がっているようじゃ駄目だよ。体を楽にして、ほら、いつもの君らしく、何が起きたか話してごらん」

「叔父様って・・・ほんとうに鋭いのね。私が怯えているということも、私が言いたくなかったことなの。でも、叔父様は、すぐ見抜いてしまう。そう、私は怖いの。私が一番怖いのは、自分自身でいるってことなの。私は、邪悪なの」

トゥーイーは大きな声で笑う。人の気分を害するような笑い方ではなく、温かい笑い方ではあった。それでも姪の話しぶりの深刻さを台無しにするような大声だった。しかし、姪の方はニコリともしなかった。

「いいえ、叔父様、ほんとうです。説明します。いつだって、子どもの頃から、私は正しいことをしたいと思っていました。誰だってそうだと思っていました、あの頃は。でも今は、そうは思えないの。なかには最善を尽くそうとする人もいるわ。たとえ間違いを犯してもね。でも、そんなこと気にもかけない人もいる。そういうことって、とても大事な問題だわ、善と悪って。だけど、私はいつも思ってきた。何が善であれ、それが善だと私が知ることができる限り、私は善を実現させるために心から努力するって。それこそ誰もができることだって。そうでしょ?こんなこと言うと、叔父様には、とっても子どもっぽく聞こえるでしょうね」

「いいや、キャティ、そんなことはないよ。先を話してごらん」

「ええ、初めはね、私はわがままというのは邪悪だとわかっていたの。そのことは確信していたの。だから、自分自身のためには何も要求しないようにしていたの。ピーターが何ヶ月も来なくなっても・・・駄目よね。このことは、叔父様は許して下さらないとは思うけれど」

「何を私が許さないだって?」

「ピーターと私のことよ。だから、私、このことについては話さないわ。ともかく、今はそれが重要なことではないんです。そう、私が叔父様といっしょに暮らすようになって、なぜ、あんなに私が嬉しかったかおわかりになるでしょう。叔父様は、他の誰よりも私利私欲のなさという点において、理想に近い方だわ。だからこそ私は、今の私がしている仕事を選びました。叔父様が、そうしろとおっしゃったわけではないわ。だけど、叔父様はそう思っていらしたでしょう?私は、それを、だんだん感じるようになった。だから、ソーシャル・ワーカーの仕事を始めたとき、私はすごく自信があった。不幸ってものは利己主義から生まれるって知っていたし。人は、他人のために自分を捧げることの中にだけ、ほんとうの幸福を見出せるってわかっていたし。叔父様が、そうおっしゃったのよ。たくさんの人々がそう言ってきたでしょう、今までにも。ほんとう、歴史上の偉大な人々は、何世紀もの間、そう言ってきたわ」

「で?」

「あの、叔父様、私の顔をちゃんと見てお話ししてくださらない?」

トゥーイーの顔は、一瞬の間だけ静止していたが、それからその顔に明るい微笑が浮かんだ。彼は言った。

「キャサリン、君に何か不都合なことが起きたのかい?君のストッキングが、ちぐはぐだとか、もっとお化粧に気をつけたほうがいいとかはさておいて、他に何か?」

「叔父様、笑わないで。お願いだから、笑わないで。叔父様が、人間はどんなことにも笑えるようにならなければならないって、おっしゃったことは、私もわかっています。特に自分自身を笑うってことね。でも、ただ・・・私は笑えないの」

「キャティ、もう笑わないよ。だけど、問題は何なの?」

「私は不幸なの。ぞっとするほど不幸なの。陰険で威厳なんて全然ないみたいに不幸なの。不潔・・・なように不幸なの。それから不正直なの。私、何日も自分を直視しないようにしてきたわ。考えるのが怖かったから。それが、いけないのね。だから・・・私は、だんだん偽善的になりつつあるんだわ。私は、いつでも自分自身には正直でいたかったのに。だけど、今の私はそうではないの。そうじゃないの!そうじゃないのよ!」

「落ち着いて。大きな声を出さないで。近所の人に聞こえるじゃないか」

キャサリンは、片手の甲で額をぬぐう。頭を振る。それから小さな声で言う。

「ごめんなさい・・・すぐおさまります」

「君は、なぜ不幸なの?自分が不幸だと思うの?」

「わかりません。理解できないの。たとえば、クリフォード・ハウスで妊産婦が気をつけなければならないことを教える講座を開こうと、いろいろ手配したのは私でした。私のアイデアでした。だからお金も集めたし、講師も私が見つけてきました。その催しはうまくいっています。私は、そのことが嬉しいはずなのに。でも、嬉しくないの、ちっとも。成功しようが失敗しようが、どうでもいいことだっていう気分なの。じっくり座って、私は自分に言いきかせるんです。たとえば、マリー・ゴンザレスの赤ちゃんが、いいお家(うち)の養子になるように手配したのは私だって。だから、今の私は幸福なはずだって。でも、そうじゃないの。私は何も感じないの。正直言いますと、ずっとここ何年間も私が感じてきた感情は疲労感だけです。わかるの。肉体的な疲労ではないの。ただ疲れています。まるで・・・まるでもう何かを感じる対象が何も残っていないみたいなんです」

キャサリンは眼鏡をはずす。自分の眼鏡と、叔父のかけている眼鏡という二重の障壁があるために、自分の気持ちが叔父に届かないから、眼鏡をはずしたというような仕種だ。キャサリンの声は低い。やっとの思いで、彼女は言葉を発する。

「でも、それだけではないんです。もっとひどいことがあるんです。私の中で恐ろしい何かが起きているんだわ。私、あの人たちを憎むようになってきています。だんだん人に残酷で意地悪で料簡(りょうけん)が狭くなってきています。前には絶対になかったのよ、こんなこと。今の私は、人が私に感謝するのを期待しています。私は感謝を要求するようになってしまった。スラムの人たちが私に挨拶してお辞儀してご機嫌をうかがったりすると、気持がいいの。そんな自分に私は気がついた。卑屈で従順な人だけを好きになっている自分に気がついた。一度・・・一度、私ったらある女の人に言ってしまいました。私たちのような人間が、あなたみたいなクズのような人間のためにどれだけ苦労しているのか、あなたはわかってないって。感謝していないって。後で、私は何時間も泣きました。自分が恥ずかしかったから。あの人たちが私にいろいろ口答えすると、だんだん恨みを感じるようになってきたんです。あの人たちには、あの人たちの考えどおりにする権利なんてありゃしないし、私が一番よくわかっているのだし、私があの人たちに関しては最終的な決断を下す立場にあるんだって、感じてしまっているのよ、今の私は。私たちソーシャル・ワーカーみんなが心配していた女の子がいたんですが。その子ったら、すごくハンサムだけれども、評判の悪かった男の子と、いつもふらふらしていた。その件に関しては、何週間も私はその子に説教しました。あの男の子と関わっていては、ろくでもない目にあうわよって。だから早く手を切ったほうがいいわよって。なのに、あのふたり結婚したんです。今では、あの界隈では一番幸福な夫婦なんです。私がそのことで嬉しいと思っているか、ですって?いいえ!私は怒っている。むかむかしてる。あの子に会うと、やっとかろうじて普通にしていられるぐらいだわ。それから、仕事がどうしても必要な女の子もいた。家庭の事情がほんとうにひどくて。私、その子のために職を見つけてあげるって約束したの。でも、私が見つける前に、あの子は自分でいい職を見つけてきたわ。私、そのときもすっごく不快だった。誰かが、私の助けなしに落とし穴から這い出てくると、すごく嫌な気分になるんです。昨日なんか、大学に行きたいって言う男の子としゃべっていたのだけれども、私ときたら大学なんかに行くよりも職につくべきだって言って、その子をがっかりさせてしまいました。そのときも、私は怒りを感じていた。そのとき突然気がついたわ。どうして怒りを私が感じたかといえば、私自身がすごく大学に行きたかったからよ。叔父様、覚えていらっしゃるでしょう?叔父様は私が大学に行くことは許して下さらなかった。だから、あの男の子も大学に行かせたくなかったんだわ、私・・・エルスワース叔父様、おわかりになる?私は、だんだん利己的になってます!私は利己的になってしまったんです!」

トゥーイーは、静かに訊ねる。

「それだけ?」

キャサリンは両の目を閉じる。それからまた目を開け、膝に置いた両手に視線を落とし、話し続ける。

「ええ・・・そんな風になっているのは私だけではないということ以外は、話したわ。たくさんの人たちがそうよ。私がいっしょに働いているソーシャル・ワーカーの人たちね・・・どうして、そうなってしまったのかわからないけれども、私には・・・どうして同じことが私にも起きているのかも、わからない・・・前は人の手助けができれば、いつも悦びを感じていたのに。思い出すわ。あの日、ピーターとお昼ご飯をいっしょに食べたんだったわ。帰る途中に、手回しオルガン弾きの老人を見たの。私は、バッグにあった5ドルをその人にあげた。あれは、私がそのとき持っていたお金の全部だったのに。クリスマス・ナイトっていうシャンペン買うために私が節約していたお金だったのに。私、ほんとにクリスマス・ナイトが欲しかった。でも、あの手回しオルガン弾きの老人のことを考えると、幸せだった・・・あの頃は、よくピーターとも会っていたから・・・ピーターに会って帰ってくるときは、私は、あの界隈(かいわい)のどんなボロを着た子どもにでもキスしたくなったものです・・・でも、今は、貧しい人々を憎み始めています・・・ソーシャル・ワーカー仲間の人たちもそうだと思う・・・だけど、あの貧しい人たちは私たちを憎んではいない。そうしたっておかしくないのに。あの人たちは私たちを軽蔑している・・・おわかりになる?おかしいでしょう。奴隷を軽蔑するのは主人の方でしょう。主人を憎むのは奴隷の方じゃないの。なのに、あの人たちは私たちを軽蔑している・・・これでは、どっちがどっちだか、わかりゃしない。多分、何かがおかしいのだわ。でも私には、どこでおかしくなっているのか、わからない・・・」

キャサリンは、最後の反抗的な態度をほとばしらせるかのように、頭を上げて言う。

「私が理解しなければならないことが何か、叔父様にはおわかりにならない?私は自分が正しいと思ったことを正直にしているのに、それが私を駄目にしているのは、なぜ?それは、私が生まれながらに邪悪で、善き人生を送る能力がないからでしょうね、多分。だって、そうとしか理由が説明できないわ。でも・・・でも時々思うんです。これは変だって。理にあわないって。ある人間が心からまじめに善意を持っているのに、善きことが達成できないなんて。私が、こんなにひどくなるはずありません!だって、私はすべてを諦めたのに。利己的な欲望なんて私にはありません。私自身のものなど何もないのに・・・なのに、私はこんなに惨めな気持ちでいる。他のソーシャル・ワーカーの人たちもそうだわ。私は、この世の中で、利己的でなくて幸福な人なんて、ひとりも知らないわ。叔父様以外にはね」

キャサリンはうなだれる。もう頭を上げない。自分が求めている答えにさえ、もう関心はないようだった。

「キャティ、キャティったら」

トゥーイーは優しく、しかし非難するように言う。キャサリンは黙って待っている。

「キャサリン、君の今の状態に関して私に何か言ってほしいわけだね、君は?」

キャサリンはうなずく。

「なぜならば、君はすでに自分自身で答えを出しているよ。君が言ったことの中に答えはあるのだから」

キャサリンは、ぼんやりと目を上げる。

「君は何を話してきた?君は何について不満を言ってきた?自分は不幸だ、楽しくないっていう事実についてだね?キャティ・ハルスィーについて話してきたよね。他の何かについてではなく。さっきの君の話しは、私がこれまで耳にした中でも、もっとも利己的な話だったよ」

キャサリンは、難しくてわからない授業に困惑している小学生みたいに真面目な顔で、目をぱちくりさせている。

「君は、自分が今までなかったほどに利己的になっていることに自分で気づいてないの?君は気高い仕事を選んだ。ただし、君が達成できる善のためではなく、善を達成することの中に君が見出せると期待した個人的幸福のためにね」

「でも、私はほんとうに人々の助けになりたかったのよ」

「なぜならば、人々を助ければ、君が善となり美徳にかなうからだよ」

「それは・・・そうです。それは正しいと思ったし、正しいことをしたいと思うのは美徳でしょう?」

「それが、君の主たる関心事ならば、それは確かに美徳だ。しかし、それがいかに自分勝手なものであるか、君にはわからないの?自分さえ美徳にかなってさえいれば、他の誰かのことなんかどうでもいいってわけかい?」

「でも、もし自分に・・・自分に自尊心というものがないのならば、どうやって人はひとかどの人間になれるのかしら?」

「どうして、君がひとかどの人間にならなくてはいけないの?」

キャサリンは両手を広げ困惑している。

「君にとって、第一に気になることは、自分が何を考え、感じ、何を持っていて、何を持っていないか、なのかな?もし、そうならば、君は、そのあたりにいるありふれた利己主義者でしかないよ」

「でも、人は自分の体から飛び出すことなどできないわ。自分は自分でしかないわ。どこまでいっても自分しかないでしょう?」

「そうじゃない。君は、自分の狭い魂から飛び出すことだってできるのに」

「つまり、私は自分が不幸でありたいと望まなくてはいけないの?」

「そうじゃない。君は、何につけても望むことをやめなければならないということだよ。キャサリン・ハルスィーがいかに重要であるか忘れなくてはならないよ。なぜならば、君自身は重要ではないから。わかるかなあ。人間というのはね、他人との関係においてのみ重要なのだから。他人にとって役に立つ存在であるか、自分が何を他人に奉仕できるかにおいてのみ、重要なのだから。このことを完全に理解できないのならば、惨めさとかそういうようなもの以外は、君は何も得ることができない。君が貧しい人々に対して残酷な気持ちをいだいていることを自覚したという事実から、いったいどんな宇宙的悲劇が生まれるというのだい?それがどうしたの?そんなことしても、単に苦痛が大きくなるだけだ。人間はね、ある何がしかの変化を通過しなくては、動物的な残酷さから精神的生き物の状態にいたるまで跳躍(ちょうやく)できない。その変化の中には、邪悪に見えるものもあるだろう。あらゆる成長というものには破壊がつきものだからね。卵を割らなくては、オムレツは作れない。君は、喜んで苦しまなくてはいけない。残酷にならなければ、不正直にならなければ、不潔にならなければならない。あらゆることを進んでしなくてはね。君の自我という、その最も頑固な根っこを殺し尽くすためには、あらゆることをしなくてはならない。君の根っこたる自我が息絶えたとき、君がもはや自分のことなど何も気にならなくなったとき、君自身が何であるとか、誰であるかなど思うことが君の心から消えたとき、君の魂の名前も忘れてしまったとき・・・そのときこそ、さっき君が話していた種類の幸福を君は知ることになる。そうなって、やっと精神的偉大さという門が君の前に大きく広がるのだよ」

「でも、叔父様、ならば、その門が大きく開いたときに、いったい誰が門の向こうに入ることになるんですか?その時には、すでに自分というものが消えているのでしょう?」

トゥーイーは快活に大声で笑う。キャサリンの返答に感心して笑ったように見える。

「おや、おや、君が私を驚かせるなんてことがあるとは思えなかったけれども。これは意外だ。キャティ、なかなか気の利いた冗談だったね。しかし、わかっているね?それは単なる気の利いた冗談でしかないよね?本気で言っているわけではないね?」

「ええ、多分・・・でも・・・」

キャサリンは納得できない顔をしている。

「キャサリン、抽象的なことを扱う場合、あまり文字通りに受け取ってはいけないよ。もちろん、その門に入るのは君だ。君が君自身でなくなるなんてことがあるはずないよ。君は、ただもっと広い自分を獲得することになる。他の全ての人々の一部であり、かつ全宇宙の一部であるような自分自身をね」

「どうやって?どんなふうに?何の一部になるのですって?」

「我々の使用する言語全体が、個人主義の言葉だからねえ、用語から習慣から何から何まで。だから、こういうことを議論するのは実に難しいのだけれども、君にはわかるね?自分が自分であること、アイデンティティなんてものは幻想なのだよ。崩れつつある古い煉瓦から新しい家を建てることなどできない。今の君には、現在の概念という媒介から、私が言うことを完全に理解することはできないだろうね。我々は、自我という習慣に毒されている。私利私欲のない社会における善悪がどういうものになるか、また我々は何を感じるようになるのか、またどんなふうになるのかは、我々には予想がつかないからねえ。まずは、自分自身、自我というものを破壊しなくてはいけないのだよ、我々は。人間の頭というものは実に頼りないものだ。我々は考えてはいけない。信じなければいけない。キャティ、信じるのだよ、たとえ君の頭が反対を唱えても。考えてはいけない。信じるのだよ。君の心を信じなさい。君の頭脳を信じてはいけない。考えないで、感じるのだ。信じるのだよ」

キャサリンは、静かにすわっている。思慮をめぐらして座っている。しかし、どこか、戦車にひかれてしまった何かにも見える。彼女は、従順に小さな声で答える。

「ええ、エルスワース叔父様・・・私・・・私、そんなふうに思ったことありませんでした。つまり、その、私は考えなければならないといつも思っていた・・・でも、叔父様が正しいわ。そうね、信じるわ・・・理解しようとしてみます・・・いいえ、理解するためでなく、感じるためね、信じるためね。つまり・・・ただ、私はとても弱いの・・・叔父様とお話した後って、自分がすごく小さく感じられる・・・ある点においては、私は正しかったのだと思うわ。私には価値がないっていう・・・でも、そんなことどうでもいいのよね・・・どうでもいいことなのだわ・・・」

(第2部48 超訳おわり)

(訳者コメント)

このセクションは非常に重要なのだ。

キャサリンの告白は非常に重要なのだ。

この小説のこのセクションの時代背景は1931年だ。

1929年の株価大暴落でアメリカばかりでなく世界中が大不況The Great Depressionに陥った。

アメリカの失業率が40%を突破した。

食料を求めて、ボランティアの食糧配給に人々が行列を作った時代だ。

トゥーイーは、隠れ社会主義者であり高度福祉社会(という人類家畜社会)構築をめざしているので、姪のキャサリンも影響を受けている。

利他主義を素直に信じる善意の塊がキャサリンだ。

婚約者のキーティングがグズグズと結婚を延期しているが、苦情も言わず、キャサリンはソーシャルワーカーとして働き、マンハッタンのスラム街に住む人々の支援活動をしている。

様々な職が女性に解放されていなかった時代において、中産階級の女性が従事して世間体もよく恥ずかしくなかった職は、教師以外には宣教師(中国やアジアにキリスト教を広めるための仕事で、未亡人がよく従事した。日本のキリスト教系女子学校は彼女たちが設立した)や貧困層支援のソーシャルワーカーだった。

キャサリンは、貧しい人たちのために働きたいとソーシャルワーカーになった。

アメリカの1930年代は、今の時代とよく似て、ボランティアの貧困者支援活動が盛んであった。教育支援活動も盛んだった。

実質的にはソ連スパイ300名に動かされていたルーズベルト政権も、失業者対策に熱心であった。

(ただし、不況対策は成功せず、アメリカが経済不況を脱したのは第二次世界大戦の軍需景気のおかげであったが)

しかし、次第にキャサリンは気がついていく。

自分より恵まれない不幸で貧しい人々にあれこれ指図していることが嬉しい自分自身の支配欲やケチな権力欲に。

自分より恵まれない不幸な人々が幸福になると、恨めしくて許せない自分自身の気持ちに。

自分の貢献を認めずに自分に感謝せず、軽蔑すらしているらしき貧しい人々に怒っている自分自身に。

自分は決して他人の幸福のために仕事しているのではなくて、自分の優越感や支配欲のために仕事しているということに。

利他的なつもりでいたのに、自分がすっかり利己的になっていることに。

はっきり言って、利他的であることが期待され求められやすい職業従事者は、よほど気をつけないといけない。

他人の助力がないと生きていけない人々の手助けをしているうちに、自分を必要とする人々がいないと自分の存在意義がないと感じてしまうようになる。

自立しているし幸福なので自分を必要としない人々がいると、彼らや彼女たちを憎んでしまうようになる。

ひいては、幸福な人々を憎んでしまう。

不幸な人々を助けることが生き甲斐になると、その不幸な人々がずっと自分を必要としてくれる状況が続くことを望んでしまう。

つまり、不幸な人がずっと不幸なままでいてくれることを望んでしまう。

真摯に真面目に真剣に利他的であろうとする人は、間違えると、他人の足を引っ張ることになる。

利他的であることを期待される職業で代表的なものは、政治家に聖職者に教師に医師に看護師や介護士などの医療従事者に社会福祉関係の仕事に、「母親」だ。

一般的には、利他的職業が陥りやすい利己的な支配欲にキャサリンは気がつくだけ、聡明だ。

しかし、叔父のトゥーイーに相談したのは大間違いだった。

彼こそ、確信犯的に利他主義の仮面を被った支配欲権力欲の権化なのだから。

叔父は、「自分のことなど考える必要ない。それこそ利己的だ。自分がどうなってもどうでもいいと自己を捨てることこそ神の目に叶う生き方だ」と、詭弁を弄する。

聡明なキャサリンは、「人間はどう言っても個人の人間であって、自分というものしかなく、自分から逃げることができない個別的な存在なのに、自分を捨てるなんてできるのだろうか?」と思う。

しかし、キャサリンの洗脳され具合は強力で、叔父の詭弁に抵抗できない。

「自分が幸福でないとしょうがないでしょ!人間はどれだけ集団の中で生きていても個別の存在であり、自分の心があるんだから!幸福でいたい自分を受け容れるからこそ、他人の幸福への希求も理解できて共感できるんでしょう!自分を大事にしない人間は、他人も大事にしない!」と言い返せない。

自分が善意なので、他人の邪悪さがわからない。

人間知が足りない。

文学の素養不足だね。

観察不足でもある。

まあ、キャサリンみたいな人は結構いますねえ……

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