ロークに初めて会った日の翌朝、マロリーはロークの事務所にやって来た。
ロークは、「殿堂」の完成予想図をマロリーに見せた。考慮すべき問題を頭にめぐらしながら、製図台のそばに立っているマロリーは、昨日とはうって変わっている。彼には、もう不安定なところはない。受けた痛みを思い出しているようなところもない。
設計図を持つマロリーの手の動きは、キビキビとしていて確かである。任務についている兵士のそれのようだ。その手の動きは示していた。それまでの日々の間にマロリーが経験してきた苦難は、彼の中に存在する才能や機能を、なにひとつ損なわなかったということを。今のマロリーには、個人的なことで動揺しない不屈の非情なる確信というものがあった。ロークと対等にマロリーは接している。
長い間、マロリーは設計図を検討していた。それから頭を上げた。マロリーの顔に浮かぶ表情は、すべて抑制されていたのだが、目だけは隠せない。
「気にいったかい?」ロークが訊ねる。
「ロークさん、そういう馬鹿なこと訊かないでよ」
マロリーは、設計図のうちの一枚を手に取り、窓辺まで行き、図面からロークへと視線を動かし、その視線を、またロークから図面へと戻す。
「ありえない。ありえないよ。こういうのが可能とは思えない。あの中に、これ?あの俗悪さの中に、これ?」
マロリーは外の街路の方向に設計図をゆらゆら振る。眼下に見える通りの先の角にはビリヤード場がある。コリント様式の吹き放ち柱廊がついた下宿屋がある。ブロードウエイのミュージカルの看板もある。屋根の上にピンクがかった灰色の下着がずらりと干され風にたなびいている風景も見える。マロリーは街を眺めながら、まだ言っている。
「同じ街に存在できるのかなあ。同じ地球上とはいえ・・・だけど、それでも、あんたはそれを可能にしたわけか。ならできるよな・・・もう怖がることはないんだよな、俺も」
「何を恐れなくていいって?」
マロリーは、丁寧に注意しながら、その完成予想図をテーブルにもどす。それから、ロークの問いに答える。
「昨日、あんたは第一の法則ということについて、何か話してくれたじゃないか。人間は最高のものを求めるべきだという法則・・・だけどさあ、最高のものが見えるのに、それが欲しくない連中が存在するんだ。そういうこと理解できるかい、あんた?」
「いいや」
「だよな。あんたには、わからないよな。一晩中、あんたについて考えていたんで、全然眠れなかった。あんたは、自分の秘密って何かわかる?あんたの秘密は、その空恐ろしいほどの無邪気さだよ」
ロークは、マロリーのまだ少年っぽさの残る顔を見つめながら、大声を立てて笑う。
「ロークさん、笑わないでよ。おかしくはないんだよ。俺は自分が何を言っているかわかっている。だけど、あんたはわかってない。あんたには理解できないんだよ。あんたのその絶対的な健康さのせいでね。あんたは、あまりに健康だから、病気ってものが想像つかないんだ。あんたは病気についてはわかる。でも、ほんとうのところは信じられないんだ、そういう状態が。あんたより俺の方がよく知っていることだって、いくらかはあるんだ。だって俺は、あんたほど強くはないからね。俺は理解できるんだ、物事の裏側が。だから、ああいうことになっていたわけでさ・・・昨日、あんたが目にした状態のことね」
「終わったことだ」
「多分、もう終わったことだよ。でも完全に終わってはいない。もう俺も恐れてはいないけれどもさ。恐怖が存在するということだけは、俺はわかっている。それが、どういう種類の恐怖かということもわかっているんだ、俺は。あんたには、その種の恐怖は考えつくこともできない。ねえ、あんたが、めいっぱい想像できる最高に身の毛のよだつ体験って何だい?俺にとってはさ・・・よだれたらしている野獣といっしょに独房に、武器もなしに放り込まれることとか、脳みそを食らいつくす病気にかかってしまった狂人といっしょに牢に入れられるってことだな。そういうとき、たとえば野獣に向かってこっちに来るな、俺にさわるなと叫ぶだろう。一番効き目のある言葉を投げつける。向こうがとっさに答えられないような言葉をさあ。そのときさ、そいつがあんたの言うことなんか耳にはいってないということが、わかる。あんたの言葉など届いてないって、どうやっても届きっこないって、わかるわけ。だけど、そいつはそいつで呼吸もして、そいつなりの目的があり、あんたの前で動いている。それって怖いだろう?そういう状態こそ、世界中に起きていることじゃないか?それこそが、人類の中ではびこり、のさばっている状態だろ?同じことだよ、今の世の中に起きていることは。閉ざされて、心がなく、まったくの気まぐれの何か。でも、目的があり、それなりの狡猾(こうかつ)さを持っている。そういう生き物がこの世の中に徘徊(はいかい)している。俺は、自分のことを臆病者とは思わない。ただ怖いんだ。俺にわかっているのは、そういうことだけ。つまり、そういうものがこの世に存在するということだけが怖い。俺には、そういうものの目的はわからない。その本質もわからない」
「スタントン工科大の学部長の法則ってやつだな」
「何だよ、それ?」
「ああ、たまに僕が考えることんなんだけど・・・マロリー、君はどうしてエルスワース・トゥーイーを狙撃(そげき)した?」
ロークは、その若者の目をまっすぐ見つめて、つけ加える。
「話したくないならば、言う必要はないよ」
「話したくない。だけど、あんた実にタイミングよく適切な質問をするね」と、マロリーは声を緊張させて答える
「座れよ。制作手数料について話そう」と、ロークは言う。
マロリーは、ロークが建物について説明しながら、どんな彫刻が必要か話している間、じっと集中して耳をすませている。ロークは、完成予想図の方を指さしながら、結論を言う。
「彫像はひとつだけでいい。ここあたりに立てる。裸婦の像だ。建物について理解すれば、そこに置く彫像がどうあるべきか、わかる。人間の精神さ。人間の中にある英雄的なるもの。憧れや希望であると同時に達成であり成就であるもの。英雄的なるものを求めることで、高揚させられるもの。その存在の本質によって高揚するんだ。神を求めていたら、そこに自分自身を見出すんだ。自分自身のありよう以上に高いものはないということを示すんだ。君は、僕が求めるものを実践できる唯一の彫刻家だ」
「そうだよ」
「僕が顧客の意を汲んで仕事するように、君は、君の仕事してくれるだろう。君は、僕が望むものが何か理解できる。あとは君次第だ。君の好きなように仕事をしてくれ。モデルを誰にするかについては、僕には提案がある。でも、君の目的に僕の考えているモデルが合致しないならば、君の好きなようにモデルを選んでくれ」
「あんたが推薦するモデルって誰?」
「ドミニク・フランコン」
「まさか!」
「彼女のこと知ってるか?」
「見たことはあるよ。もし、あの人がモデルならば・・・すごいぞ!この仕事に、あの人ほどぴったりのモデルはいない。あの人ならば・・・」
マロリーは言いかけて口をつぐむ。それから、がっかりしたように言う。
「無理だよ。あの人が、あんたのために、そんなことするはずない」
「するよ」
ドミニクの父親のガイ・フランコンは、その件について耳にしたとき、娘に怒った。
「ドミニク、物事には限度というものがある。いくら君のやることでも、だ。なぜ、そんなことをする?よりにもよって、ロークの建物だぞ。さんざんロークをけなすことを書いたり言ったりしておいてだ・・・世間がどう思うか考えたまえ。他の誰かがやるならば、誰も気にかけない。どうでもいい。しかし、君だ・・で、ロークだ!僕がどこかに行けば、必ず誰かが君のことを訊いて来るだろう。どう答えればいいんだ、僕は?」
「お父様もその私の彫像を注文なさればいいわ。複製を。素敵な彫刻になるわよ」
ピーター・キーティングは、その件については、誰とも話そうとしなかった。しかし、パーティーでドミニクに会ったとき、質問してしまった。そんなことを言うつもりはなかったのだけれども。
「君が、ロークの『殿堂』とやらの彫刻のモデルをしているって、本当?」
「本当です」
「ドミニク、僕は嫌いだな、そういうの」
「そうですか?」
「ごめん。そんなこと言う権利は僕にはないってわかっているけど・・・たださ・・ただ世間がさ、君がロークと仲良くしているところなんか見たくないからさ。ロークは駄目だよ。ローク以外の誰かならば、まだしも」
「どうしてかしら?」
好奇心に満ちたドミニクの探るようなまなざしは、キーティングを不安にさせる。彼は、ぶつぶつ言う。
「多分、多分さ、君があんなにロークの仕事を軽蔑していたのが、正しいことではなかったように見えるからね。君がロークを批判したから、僕はすごく嬉しかったけど・・・だけど、それは正しいことではなかったみたいだから・・・君にとって」
「ピーター、そうかしら?」
「そうだよ。ともかく、君は、ロークを人間として好きなわけではないよね?」
「ええ。私は人間として好きなわけではないわ、ロークのことは」
エルスワース・トィーイーは不快だった。『バナー』社のオフィスでドミニクとふたりきりでいるとき、トィーイーは言った。
「ドミニク、君は実に愚かでしたねえ。今からでも気持ちを変えて、断ったらどうですか?」
「私の気持ちは変わりません」
トィーイーは腰を下ろし、肩をすくめた。しばらしてから、微笑んだ。
「そうですか。では、お好きにおやりなさい」
ドミニクは、新聞記事の校正をしている。何も言わない。トィーイーは、タバコに火をつけ、こう言う。
「で、彼は、スティーヴン・マロリーを雇ったそうですね」
「ええ。おかしな偶然ですわね」
「お嬢さん、これは偶然なんていうものではありません。こういうことに、決して偶然ということは、ないのです。事の背後には、基本的な法則というものがあるのですよ。ロークはそんなこと知らないし、誰かがロークにマロリーを勧めたわけでもないということは確信できます」
「あなたは、マロリーがロークの仕事をすることを認めるのね?そう信じてよろしいのかしら?」
「全面的に認めますよ。そうなると、あらゆることがまさに適切になります。ずっとよくなりますねえ」
「エルスワース、なぜマロリーはあなたを撃ったのかしら?」
「私には、ほんのこれっぽっちもその理由はわかりません。さあねえ。ロークならば、わかると思いますよ。ちなみに、君を彫像のモデルに選んだのは誰ですか?ローク?それともマロリー?」
「あなたには関係ないことでしょう」
「なるほど、ロークか」
「ちなみに、ロークに話しておきましたわ。ホップトン・ストッタードがロークを雇ったのは、あなたの推薦があったからだって」
トィーイーは、タバコをはさんだ指を思わず止めた。火のついたタバコが宙にとどまっている。それから、また指を動かしタバコを口にさした。
「言ったのですか。それは、またどうして?」
「『殿堂』の設計図を見せてもらいました」
「良いできでしたか?」
「良いできなんてものではありませんでした。はるかにそれ以上でした」
「君が私のことを話したとき、彼は何と言っていましたか?」
「何も。笑っていましたわ」
「へえ、そうですか。よかったじゃないですか。もうしばらくしたら、多くの人々が彼の仕事に加わって、たいそう賑やかになりますよ・・・」
トゥーイーはニヤリと笑った。
(第2部39 超訳おわり)
(訳者コメント)
ドミニクが彫刻家マロリーのモデルになる。
「ストッダード人間精神の殿堂」は、依頼者のポップトン・ストッダードからすれば、あらゆる既存宗教から等距離にあって、あらゆる既存宗教を足して割ったみたいな宗教のエッセンスを表現する寺院であって欲しい。
ロークは、そんなことイメージしていない。
人間が自分の外部に設定している神を求めて求めて、突き詰めていけば、自分の中にこそ神はいるのだとわかるような、そんな時間と契機を提供する寺院をロークは建てたい。
その神を求めて自分の内部の可能性に気がつく人間像をマロリーには製作してもらいたい。
で、そのモデルがドミニクなのだ。
まだドミニクは自分の中にこそ神と呼ばれるような大いなるものが存在していることには気がついていない。
しかし、ドミニクはこの世という彼岸の向こうにある大いなるものを信じて求めている。
求めすぎてきたがゆえに、孤独に閉ざされて生きてきたのがドミニクだ。
そのドミニクがロークと出会うことで、この世界に開かれつつある。
そういうドミニクこそが、「ストッダード人間精神の殿堂」に唯一置かれる彫像のモデルにふさわしい。
そのことは、ロークやマロリーには理解できる。
しかし、ドミニクの父親のガイ・フランコンやキーティングには、サッパリわからない。
トゥーイーにはわかる。
トゥーイーこそ、最高のものを知っていながら、それを潰そうとする存在だから。マロリーは、だからトゥーイーを狙撃した。
魂が氷漬けにされているトゥーイーこそ、真に邪悪な人間だ。
それでも、そんな人間でも、ドミニクが自分が潰したいローク側に協力するのは不快だ。
トゥーイーも、ひそかにドミニクに恋しているからね。
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