ドミニクが訪問するパーティが催される邸宅の客間や、レストランや、アメリカ建築家協会の事務所などで、人々は、『バナー』上に繰り広げられるドミニク・フランコンのハワード・ローク攻撃について噂した。あのロジャー・エンライトのところで仕事している奇形的建築家ハワード・ローク攻撃について噂した。おかげで、醜聞(しゅうぶん)とはいえ、ロークの名前はすっかり知れ渡ることになった。
オースティン・ヘラーは、ロークばかりでなくドミニクの友人でもあったので、その件についてはドミニクに意見をした。それまで見たことがなかったぐらいに、ヘラーはドミニクに怒りまくった。
「ドミニク、いったい君は何をやっているんだ?ありゃ、今まで僕が知る限り、活字になって公の目にふれたものの中でも、ジャーナリズムの乱暴狼藉(ろうぜき)の最低最悪の露出だね。ああいう類のことは、エルスワース・トゥーイーにでもやらせておけばいいじゃないか」
「エルスワース・トゥーイーは立派なんでしょう?彼のやることならば、私がしてもいいんじゃありませんか?」
「少なくともね、あいつにはロークに対して汚らしい罠をしかけないでおくという、まっとうさがあるよ。もちろん、あれはあれで下司(げす)ではあるがね。しかし、君ときたら、どうしたというのだ?君は誰のことを書き、何をしているのか、わかっているのか?ホルクウムじいさんのお粗末な駄作を褒め称えるのはいい。君のお父さんや君のお父さんが共同経営者にしたあのハンサムな肉屋のカレンダーみたいな若い奴のご機嫌とりをして面白がるのはいい。勝手にしたまえ。しかし、同じやり方を、ロークのような人物の評価に使うのは、やめたまえ。私は、君のことを、きちんとした判断力と高潔さを持っていると思っていたのだがねえ。そういうものを行使する機会が与えられればね。君は、まぬけな連中の仕事について書かなければならないので、そのまぬけどもの凡庸さを強調しようとするためにだけ、やくざみたいに振舞っているのだと、私は思っていたよ。なのにロークのような立派な建築家のことを・・・」
「オースティン、あなたは私を見損なっていらしたのです」
ロジャー・エンライトが、ある朝、『バナー』のドミニクのオフィスにやってきた。挨拶もせずに彼はこう言った。
「ドミニク、帽子をかぶって。僕といっしょに来なさい。見に行くんだ」
「おはようございます、ロジャー。何を見ますの?」
「エンライト・ハウスだよ。かなりできてきたからね」
「あら、ロジャー、もちろんごいっしょさせていただきます。エンライト・ハウス拝見したいです、是非」
エンライト・ハウスの建設現場に行く途中、ドミニクは訊ねる。
「ロジャー、どうなさったの?私に賄賂を贈るおつもりですか?」
ロジャー・エンライトは、リムジン車の大きな灰色のクッションに厳しさを漂わせた姿勢で座っている。ドミニクの方を見もしないで、彼はドミニクの問いに答える。
「私は愚劣な悪意なら理解できる。無知な悪意も理解できる。しかし、故意の腐敗というものは理解できない。君が何を書こうが君の自由だ。しかし、愚劣なわけでもなく、無知でもないのに、なぜああいうことを君は書けるのか?」
「ロジャー、あなたは私を過大評価なさっておられます」
ドミニクは肩をすくめる。それから、目的地に着くまで何も言わない。
エンライト・ハウスの建設現場に到着してから、ロジャー・エンライトとドミニクは木製の柵を通過し、むきだしの鋼鉄や厚板がジャングルのようにいっぱいある作業現場に入り込む。
ドミニクはハイヒールの靴のまま、軽々と、石灰塗料が飛び散った板を踏み越えて行く。無用心で横柄で優雅な姿勢で、頭をそびえさせ、歩く。立ち止まって、鋼鉄の枠の中にはまっている空を見上げる。いつも見る空よりも遠くに見える空だ。そびえ立つ何本かの長い梁のために、うんと遠くに、うんと奥に、空が押しこまれているように見える。
ドミニクは、これらの鋼鉄の籠が将来どのように見えるか想像してみる。その姿が目に浮かぶ。その大胆な角度が見える。将来は、簡素で論理的な全体として命を与えられることになるであろう、その形の信じがたいほどの複雑さが目に浮かぶ。実際は、今はまだ、そのむきだしの枠組みは壁を形成するのに、大気でできた面しか持っていない。寒い冬の日に、未来に誕生する約束だけを信じて立っている枠組み。むきだしの枠組み。最初の緑色の芽が芽吹くのを待っている葉の落ちたむき出しの樹のごとく。
「素晴しいです、ロジャー」
ロジャー・エンライトは、ドミニクの声を聞いて彼女の方を見る。復活祭の日の教会で見るような顔を、神々しい何かを間近で見ている少女のような顔を、そこに見る。
「私は、過小評価はしない。君にしても建物にしても」
乾いた声で、ロジャー・エンライトは言う。
「おはようございます」
低い硬い声が、エンライトとドミニクふたりのそばから聞こえる。ロークの声だ。ドミニクは、そこでロークを見ても驚かない。ロークが近寄ってくるのは聞こえなかったけれども、ロークがいないこの建物を考えることは不自然だったから。
ロークはこの建設現場にいると、ドミニクは感じていた。建築現場を囲む柵を越えた瞬間から、ロークは、ずっとここにいたのだと、ドミニクは感じていた。この建築物の構造そのものがロークだとドミニクは感じていた。彼の肉体よりももっと個人的に生々しく、それをドミニクは感じていた。ロークは、今、ロジャー・エンライトとドミニクの側に立っている。この寒気の中、帽子もかぶらずに、くたびれたコートのポケットに両手をつっこんでいる。
「フランコンさんだ。こちらローク氏」
ロジャー・エンライトは紹介する。
「一度、お会いしましたわね。ホルクウムさんのお宅で。覚えていらっしゃるかしら」と、ドミニクは言う。
「もちろんです、フランコンさん」と、ロークが答える。
「フランコンさんに見てもらいたかったんだ」と、エンライトの言葉。
「ざっと御案内いたしましょうか?」と、ロークがエンライトに訊ねる。
「ええ、お願いしますわ」と、ドミニクの方が先に答える。
3人は建設中の建物の中を歩く。作業員たちが好奇の目でドミニクを見つめる。ロークは、将来の部屋の間取りや、エレベーターの仕組みや、暖房設備、窓の配置などについて説明する。まるで、建築請負業者のアシスタントに説明するような具合に。
ドミニクは次から次へと質問する。それにロークが答える。「ロークさん、広さは何立方フィートでしょうか?」とか「鋼鉄は何トン必要ですか?」とか。
エンライトは、ロークとドミニクと共に歩いている。視線は地面に向けているが、実は何も見ていない。まもなくしてから、エンライトは、ロークに質問する。
「ハワード、工事の進行はどうだい?」
「予定より2日早いです」
それから、ロークとエンライトは、兄弟のように工事の進行について立ち話を始める。そこにドミニクがいることなど忘れている。3人の周りで耳障りな大きな音を出してうなっている機械類のために、ともすれば、話し声も聞こえなくなりがちである。
工事中のそのビルの中央あたりに立ち、ドミニクは思う。もし、私がロークの何も持っていないとしても、彼の肉体以外は何も持っていないとしても、ここには、彼の肉体以外の全てのものがある。ちゃんと目で見て、触れることができるぐらい、みんなここにある。ここにいれば、みな与えられる。この梁や桁に、この導管に、この大きく広く伸びる空間、全てがロークそのものだもの。この世界は、ローク以外の誰のものでもない。確かにロークのものよ。ロークの顔のようであり、ロークの魂のようだわ。ここには、ロークが作った形がある。ロークの内部にあるものがある。そのものこそ、ロークをして、この建物を作らせたものよ。結果も原因もみな、ここにある。この鋼鉄のあらゆる線の中に雄弁に存在する。ロークの動機である力が存在する。ひとりの男の自己そのものが存在する。でも、この一瞬は私のものでもあるのよ。それを見て理解できたという名誉のために、この瞬間は私のものだわ。
「フランコンさん、疲れましたか?」
ロークがドミニクの顔を見ながら訊ねる。
「いいえ、全然。私、ずっと考えておりましたの。ロークさん、ここにあなたは、どんな構造の配管をなさるおつもりですか?」
それから数日後、ドミニクはロークの部屋にいた。ロークの製図用テーブルの端に腰掛けながら、ドミニクは新聞を見ていた。そこには自分が書いたコラムが載っている。そこにはこう書かれてあった。
「私は、エンライト・ハウスの建設現場を訪問した。私は思う。いつか将来、空襲の爆弾が、あのビルをあとかたもなく吹き飛ばしてくれればいいのにと。それは、あのビルにふさわしい終焉であろう。あのビルが古び、染みで汚れるのを見るよりは、そのほうがいい。あのビルに居住する人々の家族写真や、汚い靴下や、カクテルのシェイカーや、グレープフルーツの皮などで、あのビルが貶(おとし)められるのを見るぐらいならば、そのほうがずっといい。あのビルに住むことが許されるような人間など、このニューヨーク市にはひとりもいない」
ロークがやってきて、ドミニクのそばに立つ。ドミニクに寄り添い、ドミニクの膝に自分の脚を押しつける。それから、微笑を浮かべながら新聞を見おろす。
「これでまたロジャーが目を白黒させるね」
「もう読んだかしら、彼?」
「彼が、それを読んでいたとき、僕はたまたま彼のオフィスにいたんだ。最初のうちは、凄まじい罵り言葉で君を罵倒してたけれどね。でも、そのあと彼はこう言った。待てよ・・って。で、もう一度君のコラムを読んでいた。で、顔を上げて、何とも不思議そうな顔になった。もう全く怒っていなかった。で、こう言ったよ。こう読めば、そうなるけど・・・別の読み方をすれば・・・ってさ」
「あなたは何と言ったの?」
「何も言わなかった。ドミニク、僕は非常に嬉しかった。だけどさ、いつになったら、君は、あんな大げさな褒め言葉を僕に書いてくれるのを止めるの?あれでは他の誰かだって気づくよ」
「他の誰か?」
「エンライト・ハウスに関して最初に君が書いたときから、僕にはわかっていたからね。君は僕にそれをわかってもらいたかった。だけど、他の誰かだって、君のこの逆説的な賞賛を見抜くかもしれない。君はそうは思わないの?」
「ああ、そうね。でも、いったいどこの誰が、わざわざそんなことに気づくかしら。もしかしたら・・・ローク、あなた、エルスワース・トゥーイーのこと、どう思う?」
「よせよ、なんで僕がエルスワース・トゥーイーのことなんか気にかける必要がある?」
(第2部25 超訳おわり)
(訳者コメント)
ドミニクは、エンライト・ハウス建設作業現場に行く。
そこで建つビルの枠組みを見つめながら、設計者ハワード・ロークの精神や肉体の在りようをまざまざと感じる。
恋人のドミニクだからこそ、生々しく感じる。
その描写がいい。
うーん。この集合住宅ビルのイメージが浮かばないのが残念だ。
それにしても、マンハッタンにしろ、シカゴにしろ、上海にしろ、超高層ビルskyscraperの景色には、ほんとうにウットリする。
人間ってすごいなあ、こんな巨大なものを地上に立ち上げることができるんだと、感心する。
あああ……マンハッタンの超高層ビルの遠景は、私がこの地上で最も美しいと思うもののひとつだ。
このアイキャッチ画像は、このセクションの内容とは関係ないです。
位置的には、ニュージャージーのどこかの高層ビルの建設現場の写真のようだ。いや、マンハッタンの南部で、ハドソン川に近い位置かな。
多くのおびただしい数の無名の人々が創ってきたんですね、超高層ビルの風景。
地上の星たちがね。
この写真に写っている男性は、まさか100年近く後の時代の日本人に見られるなんて夢にも思わなかったでしょうね。
超高層ビルの風景を創ってくれた人々全てに感謝します。ありがとうございます。
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