第2部(14) ロークを意識しているエルスワース・トゥーイー

日曜日の朝だ。キーティングは、もう一枚のトーストに手を伸ばす。テーブルの端っこに、母親が彼のために置いておいてくれた新聞の日曜版がずっしりと積み重ねられている。

キーティングは、その新聞を取り上げる。彼は、新聞の束からグラビア写真ページを抜き取る。そこで手を止める。ある建物の完成予想図の写しがそこに在った。ハワード・ローク設計エンライト・ハウスの完成予想図が。

キーティングには見出しを見る必要もなければ、その完成予想図の隅に描かれたぞんざいな署名を確かめる必要もない。他の誰にも、こんな家を考え出すことはできない。キーティングには、そのことがわかる。この描き方のスタイル。静かであると同時に暴力的な描き方を、キーティングはよく知っている。

紙の上で高度に張りつめたワイヤーのような鉛筆の線。見る分には、ほっそりと無頓着だが、決して誰にも触ることができないようなその線。この建物は、イースト・リヴァーのそばの広大なスペースに建てられる集合住宅用建築物だ。

しかし、キーティングは、最初一目みたとき、それを建物としては把握できなかった。岩の結晶が隆起してできた大きな塊に見えた。しかし、同時に、その塊は、その岩の自由で幻想的な隆起を抑制する厳しい数学的な秩序というものを有している。鮮やかな角度から直線的にナイフで切断されたような空間。なのに、宝石細工人の手によるもののように繊細な造形の調和がある。

信じられないぐらい様々な形をした各戸。別個の単位を形成しているそれぞれのアパートメントの形に、ひとつとして同じものはない。しかし、ひとつの形が別のもうひとつの形へと必然的に自然に連結し、全体を形成している。

したがって、この建物の未来の居住者は、かごの堆積のような四角い建物の中の四角いかごを所有するのではなく、他の住居と繋がる一戸の住居を所有することになる。ひとつの岩の側面には鉱石の結晶体がひとつ着いているように、エンライト・ハウスの各戸は、まことに自然に連結している。

キーティングは、その完成予想図を見る。ハワード・ロークがエンライト・ハウスの建築家として選ばれることを、キーティングはもう随分前から知っていた。新聞でロークの名前を数度見かけていた。大した記事ではない。それらの記事はすべて、「エンライト氏から、何らかの理由で選ばれた若い建築家、おそらく興味深い若い建築家」としてのみ、ロークのことを言及していた。その完成予想図の下の見出しには、この建物の建設はすぐに開始されるとあった。

そうか、とキーティングは思う。新聞を置く。だから、どうした?新聞は、ロイス・クックの黒と赤の本の脇に置かれる。キーティングは両方を眺める。ロイス・クックがハワード・ロークに対抗して自分を守ってくれるような気持ちになる。ぼんやりとではあるが。

「ピーターちゃん、何よ、それは?」と、母親の声が背後から聞こえる。キーティングは、肩越しに新聞を母親に手渡す。新聞は、それに目を走らせた母親から、さっさとまた彼の肩越しに、テーブルの上にどさりと戻される。

「おやおや」と、母親は肩をすくめる。「ええと・・・」

母親は息子の傍らに立つ。母親が着ているきちんとした絹のドレスは、あまりに体にぴったりしすぎていて、彼女が身につけているコルセットの固い窮屈さを露にしてしまっている。小さなピンが母親の喉元できらきら光っている。そのピンは、それが本物のダイアモンドでできているということを、これ見よがしに見せつけるのに十分なほど小さい。

母親は、今や、この母子が転居した新しいアパートメントそのものみたいだ。いかにも派手で高価そうに見える。アパートの装飾は、キーティングが自分自身のためにした初めての建築家としての仕事だ。中期ビクトリア朝様式の新しい家具がしつらえられている。保守的で重々しい調度である。客間の暖炉の上部には、大きな油絵がかかっている。まるで有名な先祖の肖像がかかっているように。実際は違うのだけれども。

「ねえピーターちゃん、日曜日の朝にあなたを急(せ)くような真似はしたくないのだけれども、もう着替える時間ではなくて?もう走らないといけないような時間よ。遅刻などしてもらいたくないわね、あなたには。トゥーイーさんがお宅に招いてくださるなんて、とても素晴らしいことだわ!」

「そうだね、母さん」

「他に有名なお客様は、いらっしゃるのかしら?」

「いいや。他に客はいないよ。だけど、あそこには、トゥーイー以外にもうひとり住んでる。有名ではないけどね」母親は、期待を込めて息子を見つめる。

「キャサリンがいる」

その名前は、何にせよ、もう母親にはなんの効果も持っていない。奇妙な確信が最近の母親を膜のようにおおっている。特定の質問が、もういっさい貫通できない脂肪の層のようだ。

キーティングは苛立ちを覚えながら立ち上がり、着替えるために自室に行く。

キャサリンと彼女の叔父であるトゥーイーが最近引っ越してきた、なかなかに高級な定住もできるホテルを訪問するのは、キーティングにとって初めてである。

そのアパートメントに関してキーティングはあまり記憶に残らなかったが、ただ、そこは簡素で非常に清潔で、ちゃんと考えぬかれた無駄のない慎ましさもある住居だった。膨大な蔵書もあった。数は少ないにせよ絵があったが、それらは本物で貴重なものばかりだ。キーティングには、これぐらいのことしか思い出せない。なぜかエルスワース・トゥーイーのアパートは誰も記憶できないのだ。その主人たるトゥーイー以外には。

その日曜日の午後、そのアパートの主は濃い灰色のスーツを着ていた。まるでユニフォームのようにきちんとしたいでたちだ。黒い人口皮革でできた寝室用のスリッパは赤で縁取りされている。そのスリッパの安っぽさは、トゥーイーのいかめしい優雅さを冷笑しているかのようだ。その安っぽいスリッパには逆背悦的効果がある。全部を完璧に整えることには関心がないのだと言わんばかりの、いかにも物にこだわらない風情が、トゥーイーの優雅さを完璧にしている。

トゥーイーは、幅の広い低い椅子に腰掛けている。顔には注意深い優しさをたたえている。その優しさがあまりに行き届いているので、キーティングもキャサリンも、ときおり、自分たちは単なる意味のないシャボン玉でしかないと感じてしまう。

キーティングは、キャサリンが椅子の端っこに、背中を丸めて座っているのが気に食わない。彼女が両脚をぎこちなく不細工に後ろにひっこめているのも気に食わない。なぜキャサリンは、秋になっても春や夏と同じスーツなど着ているのかとキーティングは不満に思う。

キャサリンは、絨毯の真ん中あたりの一点にじっと目をすえている。めったにキーティングの方も見ないし、叔父の方には全く目を向けない。キャサリンには、なぜか重く生彩のない何かがまとわりついている。それに、ひどく彼女は疲れているようだった。

トゥーイーの身の回りの世話をする使用人が、茶を持ってきた。

「君、お茶をいれてくれないかい?」と、トゥーイーはキャサリンに言う。

「午後のお茶ほど良いものはないですね。大英帝国が壊滅しても、あの帝国が文明にまたとないふたつの価値ある貢献をしたと後世の歴史家は認めるでしょう。このお茶という儀式と探偵小説ですよ。キャサリン、まるで肉を切る斧みたいにポットの取っ手を握ることはないのではないかい?でも気にしないでいいよ。それも可愛らしい。ピーターとか私が君を愛するのは、君のそういうところだからね。もし、君が伯爵夫人のように優雅ならば、私たちは君を愛することはないだろうから。いまどき、誰が伯爵夫人になど用があるだろう?」

キャサリンは茶を注ぐ。ガラスのテーブルに茶をこぼす。それは今までの彼女がしたことのない類の粗相(そそう)だった。

繊細な造りのティー・カップをいかにも無造作に持ちながら、トゥーイーは言う。

「一度、君たちがいっしょにいるところを私は見たかったのですよ。そんな理由も特にないのに、時に私は愚かになり感傷的になります。人間誰もがそうであるようにね。キャサリン、君の選択に対するお世辞だよ。君には謝らなくてはいけないね。君がこんなにも趣味がいいとは私は思っていなかった。君とピーターは素晴らしい組み合わせだ。君はピーターに非常に貢献するだろうね。ピーターのために、宣伝され売れているシリアルなど使って朝食を用意し、彼のハンカチを洗い、彼の子どもを生むだろう。子どもたちは、次々に麻疹(はしか)にかかって、厄介だろうけれど」

「エルスワース、あなたは・・・あなたは許してくださるのですね?」と、キーティングは、心配そうに訊ねる。

「許す?何を私が許すのですか、ピーター?」

「僕たちの結婚を、です」

「する必要もないような質問ですねえ、全く!もちろん許します。しかし、君たちはまだなんて若いことか。それが若い人ってものですがね。何も存在していないところに問題を作ります。ピーター、君は、まるで、キャティとの結婚そのこと全体が承認されないかもしれないほどの重要な問題であるかのように質問しましたね、僕に」

「キャティと僕とはもう何年も前に会ったのです」

「一目惚れだったのでしょう!」

「はい」

と、キーティングは答えるが、自分が嘲笑されているように感じる。

「季節は春だったにちがいありませんね。ふつうは、そうですね。暗い映画館でね、いつも。映画の世界に若いふたりは我を忘れて、手をとりあってね。しかし、あまりに長く手を握り合っているものですから、手に汗をかくのでしょう?それでも恋するということは美しいことです。これまで聞いたなかでも最も綺麗な話です。最もありふれた話でもありますが。キャサリン、そんなふうに顔を背けるものではないよ。ユーモアの感覚を失うことを、我々は自分自身に許してはいけないのだよ」

トゥーイーは微笑む。彼の微笑の優しさが、キーティングとキャサリンを包む。その優しさは、あまりに大きいので、その大きさがふたりの愛をちっぽけで卑しいものに見せてしまうほどだ。トゥーイーは訊ねる。

「ところで、ピーター、いつ君たちは結婚するつもりですか?」

「ええと、そうですね・・・これといってはっきりと日を決めているわけではありません。あのご存知のように事情がありましたから、そのいろいろなことが僕の身に起きていましたし、キャティにはキャティの仕事があるし、それに・・・あの、ところで、結婚したら、キャティは仕事はやめます。僕は許しません」

「そりゃ、もちろん、僕だって許しませんよ。もし、キャサリンが仕事を好まないのならば」

キャサリンは、クリフォードにある貧しい人々のためのセツルメントで、昼間担当の保母として働くようになっていた。これは、彼女自身が決めたことであった。叔父がその施設で経済学のクラスを担当した縁で、何度もその施設に、キャサリンは行った。それで、そこの仕事に興味を持ったのである。

「でも、私は仕事が好きなの!ピーター、なぜ、あなたがそれを嫌がるのかわからないわ」

キャサリンは唐突に興奮した面持ちで言う。キャサリンの声にはきつい調子が少しある。挑戦的で不快な調子が。

「今までの人生で、私はこれほど物事を楽しんだことがないわ。救いのない不幸な人々を助けるのよ。今朝も、あそこに行ってきたの。行く必要はなかったのだけれども、だけどそうしたかったの。で、仕事すませてから、急いで帰ってきたものだから、着替えする時間もなくて、でもそんなことはどうでもいいわ。私がどんな格好していようが誰が気にするかしら?それに」

キャサリンの声からきつい調子は消えて、今は熱心に早口で語っている。

「エルスワース叔父様、想像してみて!あの小さなビリー・ハンセンが、喉が痛いっていうの。ビリーのこと覚えていらっしゃる?看護婦さんがいなかったので、私がアージロールを喉に塗ってあげなくてはならなかったの。あの子ったら、喉の奥に、それはそれはひどい白い粘液質の斑点がいっぱいできていたのよ!」

キャサリンの声は、何か偉大なる美を語っているかのように、うっとりした輝きを帯びている。キャサリンは、自分の仕事について、子どもたちについて、その施設について、延々と話し続けている。

トゥーイーは、大真面目にその話に耳を傾けている。何も言わない。さっきまでの、人をからかうような陽気さは消えて、自分で口にした「ユーモア感覚を忘れてはいけない」という忠告を忘れている。トゥーイーは真剣だった。非常にほんとうに真剣だった。それまで、キャサリンの皿が空であることに気がつくと、トゥーイーは、サンドイッチの盆を無造作に彼女に勧めていたのだが、今は、敬意を十分に表した動作で、盆を勧めている。

キーティングは、苛々しながら、キャサリンの話が途切れるまで待っている。ほんとうは話題を変えたい。部屋を見回すと、日曜版の新聞があった。これは、キーティングが長い間、質問したかったことなのだ。キーティングは、注意深くトゥーイーに質問する。

「エルスワース・・・ロークについてのご意見をお聞かせくださいませんか」

「ローク?ローク?ロークとは誰ですか?」と、トゥーイーが訊ねる。

このとき、キーティングには、はっきりわかってしまった。トゥーイーが、その名前を繰り返したときの、あまりに無邪気な、あまりに取るに足りないようなことを口に出しているといった態度や、かすかに軽蔑するような疑問符が語尾に聞き取れるような、そんな言い方のために、キーティングには、はっきりわかってしまった。トゥーイーは、ロークという名前をよく知っている。ある話題について全く知らない場合、その話題に関する無知を、そうも強調したりはしないものである。

「ハワード・ロークですよ。エルスワース、あなたもご存知でしょう、建築家の。エンライト・ハウスの設計をすることになっている人物です」

「ああ、あのエンライト・ハウスの担当者がとうとう決まったのですね?」

「今朝の『クロニクル』新聞に、写真が載っています」

「そうですか?『クロニクル』には目を通したのに」

「それで・・・あの建物について、どうお考えになりますか?」

「それが重要なものであるのならば、僕の記憶に残っているはずでしょう」

「それは、そうですね!」

キーティングの答え方は、その音節が踊るように弾んでいる。

「あれは、ひどい狂ったようなしろものです!今まで見たこともないような物です。見たいとも思わないような物ですよ」

キーティングは、悪魔(あくま)祓(ばら)いされたような感覚を味わっている。先天的な病気を持っていると信じ込んで人生を過ごしてきたのが、突如として、世界で最高の専門医の診断によって、自分が健康そのものであると知らされたような感覚だ。エルスワース・トゥーイーはハワード・ロークの設計に興味を持たなかった!

キーティングは、大声をたてて笑いたかった。思う存分、馬鹿のように、抑制も威厳もなく笑いたかった。だからキーティングは、ロークについて、更に話したくなる。

「ハワードは、僕の友人のひとりなのです」

「君の友人?彼のことを知っているのですか?」

「僕が、彼のことを知っているかですって?だって、いっしょに学校に通いましたから。ええ、スタントンです。3年間僕の家に下宿していましたしね。彼の下着の色とか、どんなふうにシャワーを浴びるかまで言えますよ。ちゃんと彼のことは見てきたのですから」

「スタントンで、君の家に下宿していた?」

トゥーイーは、キーティングの言葉を繰り返す。トゥーイーは、一種の注意深い正確さで話している。彼の声には小さく乾いた響きがある。決定的な響きがある。

これはかなり奇妙だなと、キーティングは思う。トゥーイーが、ハワード・ロークについていろいろ質問している。しかし、その数々の質問は筋が通っていない。その質問は、建物に関するものでもないし、建築学に関するものでも全くない。要点のはっきりしない個人的な質問ばかりだ。それまで聞いたこともないような人物について訊ねるにしては、奇妙なものばかりだ。

「彼はよく笑いますか?」

「めったに笑いません」

「不幸そうに見えますか?」

「全然」

「スタントンに友人は多かったですか?」

「どこにいても、友だちはできない奴です」

「学友たちは、彼が好きではなかったのですね?」

「彼のことなど誰も好きにはなりませんよ」

「なぜですか?」

「あいつは、あいつを好きになるなんてお門違いだ、と人に思わせます」

「出歩いたりとか、飲んだりとか、遊んだりするのは好きですか、彼は?」

「全然」

「彼は、金銭は好きですか?」

「いいえ」

「彼は人から褒められるのが好きですか?」

「いいえ」

「彼は神を信じていますか?」

「いいえ」

「彼は口数が多いですか?」

「ほとんど話さないですね」

「他人が彼とその議論を・・・つまりどんな話題にしろ、議論するとき、彼はよく人の意見を聞くほうですか?」

「じっと聞いていますよ。そうでない方が、ずっとましなのに」

「それは、どうして?」

「彼が人の意見など聞かないほうが、まだ軽蔑的な感じが減ると思いますね。僕の言いたいことを、わかっていただけるかなあ・・・人があんな態度で耳を傾けていると、その人物にとっては、こっちの話なんか実は聞こうが聞くまいが、どうでもいいのではないかと思わされてしまいます」

「彼は建築家になりたかったのですか?いつも?」

「あいつは・・・」

「ピーター、どうしましたか?」

「いいえ・・・なんというか、その点は不思議です。あいつが建築家になりたいと思っていたかなんて・・・あいつが建築家になるのは、あまりに当たり前なことに思えるので僕としては、あいつに建築家になりたいかなどと訊く気にもならなかったというか、訊くのも馬鹿馬鹿しいというか・・・あいつは、建築のこととなると偏執的ですからね。建築は、あいつにとってとんでもなく大きな意味を持っています。だから、あいつは人間的な視点というものを、いっさいがっさいなくしてしまったのです。そんな自分自身の姿を自分で嗤うなんてあり得ないですね。ユーモアの感覚を持つなんてことは、いっさいありませんね、あいつには。エルスワース、ユーモアの感覚のない人間っていますよ、この現代でも」

「じゃあ、建築家になれない場合、どうするのかと彼に訊くのはどうですか?」

「あいつは、建築のためならば、そのためには死体でさえ踏み越えて進む奴です。どんなことも、どんな問題も踏みつけて行く奴です。人間すべてだって踏みつけて進むでしょう。そうまでしてでも建築家になる奴ですよ、あいつは」

トゥーイーは、ナプキンを折りたたむ。膝の上の糊の利いた小さな四角い布を折りたたむ。彼は、それを正確に折りたたむ。対角線に折り、はっきりとした折り目を作るために、端に沿って爪を走らせる。トゥーイーは訊ねる。

「ピーター、君は、例の若い建築家の小さな集団について私が言ったことを覚えていますか?もうすぐ、その最初の会合を開こうと準備しているところです。その集団の未来の会員になれるような何人かには、もう話はしましたが、彼らが言うには、やはり君が会長にふさわしいそうですよ。随分と君は評判がいいですね」

それから30分間ほど、トゥーイーやキーティングは歓談した。キーティングが暇乞(いとまご)いをしようと立ち上がったとき、トゥーイーは窓辺に立ち、寒いが、よく晴れた明るい午後の最後の陽光に眼をやり、ふりかえって言う。

「いい天気ですよ。今年中でこんなにいい天気の日も、もうないでしょう。ピーター、キャサリンを連れて、少し散歩にでも出かけたらどうですか?」

「あら、お散歩したいわ、私!」と、キャサリンがせがむ。

「じゃあ、行ってらっしゃい。どうしたんだい、キャサリン。私の許可など待つ必要があるの?」と、トゥーイーは陽気に微笑む。

キーティングとキャサリンは、いっしょに戸外に出る。昼下がりの陽光にあふれた街路の冷たい輝きの中でふたりきりになったとき、キーティングは、自分の感覚を取り戻しつつあるのを感じる。キャサリンがいつも自分にとってどのような意味を持つのか、それらの意味の全てを自分が確認できるのを感じる。他人がいるときでは感じられない不思議な感情が戻ってくるのを感じる。

キーティングはキャサリンの手を取る。キャサリンは手を引っ込め、手袋をはずす。自分の指をキーティングの指の中にすべりこませる。キーティングは唐突に思う。あまり長く手を取り合っていると、手に汗をかくと。キーティングは苛立ちを感じながら歩みを速める。

今、僕たちは、ミッキーマウスとミニーマウスみたいに歩いている。僕たちは、通りすがりの人々から見れば、おそらく滑稽だろうな。

こうした不快な思いから自分自身を振り切るために、キーティングはキャサリンの顔を見る。キャサリンは、まっすぐ金色の陽光の方向を見ている。彼女の口元に薄いかすかな笑い皺がある。静かな幸福の微笑だ。と同時に、キーティングは、彼女のまぶたの端が青白いのに気がつく。ほんとにキャサリンって貧血症なのだろうか。キーティングは、そんなことを思い始める。

(第2部13 超訳おわり)

 (訳者コメント)

エルスワース・トゥーイーとピーター・キーティングが登場すると、訳していてもテンションが下がって困った。

あああ〜〜うっざい。

エルスワース・トゥーイーみたいに上品ぶっていかにも温厚な教養豊かな紳士風だけど、底意地が悪くて皮肉と嫌味しか言わず、異常に口が達者というのは、大学教授に多い。

だから、彼の口調や物言いは、私が若い頃に遭遇してきたしょうもない年配の大学教授のそれを真似て合成させた。

ほんとに後ろから蹴り入れてやりたいような奴ばかりであったよ。

それはさておき、このセクションにおいて、キーティングとトゥーイーは、ロークについて語っている。

ロークは、石油王のロジャー・エンライトに気に入られ、イースト・リヴァー沿いに建てられる大きな集合住宅エンライト・ハウスの設計を任せられた。

その完成予想図が新聞に発表され、ロークはささやかながら脚光を浴びている。

the Enlight Houseは、まさにEnlightenment、この世界に光をもたらし明るくするという意味であり、ロークが手がける大集合住宅にふさわしいネーミングだ。

ああ、よかった!

トゥーイーは、明らかにロークのことを知っているに、エンライト・ハウスの斬新な設計にも注目しているくせに、キーティングの前ではロークのことを知らないように装っている。

それだけ気になっているわけだ。

で、キーティングにいろいろと質問して、どうやら、ロークはキーティングとは全く違い、トゥーイーが洗脳操作できそうもない人間と見当をつけている。

このセクションで、注意すべきもう一つのことは、キャサリンの変貌だ。

キャサリンから生き生きとした素朴な溌剌とした明るさが消えている。

同居している叔父のトゥーイーの毒がキャサリンに回ってきている。

貧しい人々のための福祉活動に参加するようになっているキャサリンは、決して幸せそうに見えない。

キャサリンが熱心に福祉活動について語れば語るほど、キャサリンの内なる空虚が透けて見えてくる。

トゥーイーの掲げる正義と偽善を真に受けた素直なキャサリンは、彼女がほんとうに望む生き方から遠くなりつつある。

トゥーイーは、キャサリンがムキになると、ユーモアのセンスを忘れてはいけないと言って、キャサリンの真摯な姿勢を暗に軽蔑する。

トゥーイーは、キャサリンのほんとうの明るさや生きることを信じる姿勢に嫉妬している。姪を引きずり下ろしたいのだ、この確信犯的偽善者は。

もちろん、キーティングは鈍いので、キャサリンの変貌の理由がわからない。テキトーにトゥーイーに操られ続ける。

あーーうざい!

 

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