第1部(34) キーティングの母は息子とキャサリンの結婚に反対する

キーティングは床の上に座っている。アパートの居間の暖炉に置かれた模造品の丸太のそばにいる。両手を両膝の上で組み合わせている。同居している母親の質問を聴いている。

母親は、ドミニクはどんな容姿なのか、何を着ていたのか、彼に何を話したのか、ドミニクの母親が彼女に残した遺産はどれぐらいだと思うかなどと、しきりにキーティングに問う。

今では、キーティングはドミニクと、しょっちゅう会っている。今夜も、ドミニクと何軒かのナイトクラブをはしごして帰ってきた。ドミニクは、キーティングの誘いはいつも受けた。彼に会うことを断るのではなくて、彼とよく会うことこそ、より完璧に彼を無視している証拠であるかのように。

それでもドミニクに会うたびに、次に会う計画を熱心にキーティングは立ててしまう。一ヶ月ほどキャサリンには会っていなかった。叔父のトーウィーから託された調査の仕事で、キャサリンは忙しかった。

キーティングの母親は、息子のディナー・ジャケットの裏地にわずかにできた破れを繕(つくろ)っている。あれやこれやと質問を浴びせながら。

そのとき玄関のベルが鳴った。

「あら、何かしら、こんな時間に」と、母親は言う。

キーティングは立ち上がり、玄関のドアに歩いていく。訪問客は、キャサリンだった。

キャサリンは、大きな古ぼけた型崩れしたバッグを両手で掴んで立っている。何事か意を決しているように見える。同時に、何事かためらっているようでもある。少しだけ彼女は後ずさりする。

「こんばんは、ピーター。お邪魔していいかしら?お話しがあるの」

「キャティ!もちろんいいよ。君が来てくれるなんて嬉しいよ。お入りよ。母さん、キャティだよ」

キーティングの母親は、キャサリンの足元を見る。まるで船の揺れる甲板に乗り込むときのようなおぼつかない足取りだ。母親は息子を見る。何かが起きたことはわかっている。非常に用心して対処すべき何かが。

「こんばんは、キャサリン」と、柔らかな声で母親は挨拶する。

今のキーティングには、キャサリンを見たときに感じた突然の突き刺してくるような喜び以外には何も意識できない。その喜びは、何も変わらない、お前は確実に安全だ、彼女がいればすべての疑いが解けると、キーティングに告げている。彼女の訪問の時間の遅さや、これはキャサリンにとっては、彼の住居への初めての、かつ招かれざる訪問だということを忘れている。

「こんばんは、おば様。お邪魔して申し訳ありません。多分もうかなり遅い時間でしょう?」と、キャサリンは明るいが虚ろな声で挨拶する。

「あら、いいのよ。構わないのよ」と、母親は答える。

それから、キャサリンは早口で話す。分別をなくし、自分の発した言葉の響きにすがりつくように無意味なことを口走る。

「帽子を脱ぐわ・・・おば様、どこに置いたらいいでしょうか?このテーブルの上でしょうか?これでよろしいかしら?・・・いいえ、多分、この机の上の方がいいかしら。歩いてきたので少し湿っていますけれど。帽子がですが。この帽子濡れていますから、机の塗りを損なうかもしれないわ、湿気で。素敵な机ですね。この塗りがおかしくならないといいけど・・・」

「どうしたの、キャティ!」

キーティングは、やっと彼女の尋常ではない状態に気がつく。彼女は、キーティングを見る。彼女の瞳が怯えている。

「キャティ!コートを脱ぎなよ。こちらにおいでよ。暖炉のそばで暖まらなくちゃ」

キーティングは、暖炉のそばまで丈の低い椅子を押して行く。キャサリンをそこに腰掛けさせる。キャサリンは、黒いセーターに、古い黒いスカートを身につけている。キーティングの住居に来るために着替えることさえしなかったのだ。キャサリンは背を丸め、両膝を固く閉じている。さきほどよりは、低い自然な声で彼女は話し出す。その声には、痛みを初めて他人に訴えるような響きがある。

「素敵なところに住んでいるのね・・・とても暖かくて広々として・・・そうしたいときは、いつでも窓を開けることができるんでしょう?」

「キャティ、ねえ何が起きたんだい?」

「何も。特別な何かが起きたわけではないの。それは、そういうことではなかったの。ただ、私があなたに話さないと気がすまなかったの。どうしても、今夜」

キーティングは、母親のほうに視線を送る。

「母さんが席を外した方がいいかな・・・」

「いいえ、このままでいいわ、ほんとうに。おば様がお聞きになってもいいことなの。聞いていただいたほうがいいの」

キャサリンはキーティングの母親の方を向き、実にあっさりと言う。

「おば様、ピーターと私は婚約しています」

キャサリンは、今度はキーティングの方を向いて言う。声の調子が変だ。

「ピーター、結婚したいの、今、明日でも、できるだけ早く」

キーティングの母親の手は、ゆっくりと膝に降ろされる。それからキャサリンを見る。目には何の表情も浮かんでいない。キーティングが自分の母親に期待したこともないような威厳を漂わせて、母親は静かに言う。

「知りませんでした。とても嬉しいわ」

「お気を悪くなさっていらっしゃいませんか。ほんとに、お気を悪くなさっていらっしゃらない?」

「気を悪くするなんて、どうして?そういうことは、あなたと息子の間で決めるものですもの」

「キャティ!どうしたっていうの?なぜ、できるだけ早くだなんて」

「ええ、ええ、これじゃまるで・・・まるで、そこらの女の子がよく抱えてしまうみたいな悩みに私も取りつかれているみたいだけど・・・でも、違うの!そんなんではないの!そんなことありえないって、わかっているでしょ!」

「もちろん、そんなことありえないさ。だけど、しっかりして。何なの、いったい?君が望むならば、僕は今夜でも君と結婚する。わかっているだろう?ただ、何が起きたの?」

「何も。もう大丈夫よ。ちゃんと話すわ。私がおかしくなってしまったと思うでしょうね。でも、私、あなたと結婚できないだろうっていう気持ちが突然したの。何か恐ろしいことが私に起こりつつあるっていう気持ちがしたの。だから、その気持ちから逃げなければならなかったの」

「君に起きつつあることって何?」

「わからない。ある物事とかそういうものではないの。今日一日中、私は資料のノートをとっていたの。電話もなかったし、お客様も来なかったわ。そしたら、突然、今夜、あの感覚が襲ってきたの。悪夢みたいなものよ。どう言ったらいのかわからない種類の恐怖。私は致命的な危険にさらされていて、何かが私を閉じ込めようと襲ってきて、私はそれから逃れられない・・・逃げようとしても駄目で、もう遅すぎるという感じなの」

「何から君は逃れられないって?」

「はっきりわからない。あらゆること。私の人生全部。わかるかしら、流砂みたいな。滑らかで自然で。それについて気づくこともないし、疑うこともないの。とても簡単に歩けるのよ、その上なら。でも、気づいたときには、遅すぎるの・・・そういうものが私を捕まえるんだと感じたの。だから、もうあなたと結婚は絶対にできないんだって、だから今、走らなければ、走って逃げないと、もう絶対に駄目って感じたの。そんな気持ちになったことないでしょう?説明できないようなことが怖いって言う気持ちなの」

「僕だって、そういう気持ちになったことあるよ」

「私の頭がおかしくなったと思わないでね」

「思わないよ、キャティ。そもそもことの始まりは何だったの?何か特別なことでもあったの?」

「そうね・・・今思うと、馬鹿みたいだわ。私は自分の部屋で腰を掛けていた。テーブルの上には書類とか本がいっぱいだったわ。書き物するスペースがほとんどないくらい。私の周りの床にも書類が山積みで、それが少しだけカサカサ音をたてていた。ドアは居間に向かって半分だけ開けておいたから、少しだけ隙間風が吹き込んできていた。だったと思うわ。叔父も居間で仕事していた。私はそういう仕事うまくやれるようになってきて、何時間もそれに集中していたのね。もう時間が何時頃かなんてことさえ、わからないほどだったの。そのときなのよ、突然それが私を襲ってきたの。なぜだか、わからない。そのとき、私は周りを見回した。そしたら・・・叔父の姿は居間には見えなかったわ。叔父の影だけが壁に映っていた。とても大きな影。背の丸まった影。それは動かなかった。ただ、とてもとても大きかったの!」

キャサリンは肩をすくめる。さっき、今にして思えば馬鹿げていると言ったのだが、こうして思い出してみると、そのことは、やはりキャサリンにとっては馬鹿げたものとは思えなくなっている。

「そのときなの、あの気持ちが私を襲ったのは。叔父の影は全く動こうとしなかった。だけど、書類はみな動いていた。その書類がゆっくり床から離れて、私の喉元に来て、私は窒息するんじゃないかと思った。そのとき、私は恐怖にかられて叫んだの。それから私は帽子とコートを掴んで走ったの。居間を走りぬけたとき、叔父が何か言ったと思うわ。だけど私は振り返らなかった。答えもしなかった・・・できなかったの。私は叔父が怖かったの。今まで一度も私にきついことを言ったこともないエルスワース叔父様なのに、叔父が怖かったの・・・」

キーティングの母親は、乾いた歯切れのいい声で、こう口を挟む。

「あらあら、あなたに何が起きたかはっきりしているわ。あんまり根(こん)を詰めたから、疲れ過ぎたのよ。だから、少しヒステリックになっただけよ」

「はい・・・そうかもしれません・・・」

「違うよ。違う。これはそんなことじゃない・・・」

キーティングは、ストライキの集会があった会場のロビーの拡声器のことを考えていた。エルスワース・トゥーイーが聴衆に語りかけていたときのあの声を思い出していた。そして、あのときに感じた得体の知れない恐怖も。キーティングは、あの恐怖を振り払うかのように、急いで言う。

「そうだ、母さんの言うとおりだ。キャティは仕事のし過ぎでおかしくなったんだ。まったく君の叔父さんという奴は・・・いつかあいつの首を絞めてやるからな」

「あら、叔父が悪いんじゃないわ!叔父は私に仕事をさせたくないんですもの。叔父自身が私のこと仕事のしすぎだって言ったし。だけど、私はそうするのが好きなの。私が取るノート、どんな小さな情報だって、それはみな何百人の若い学生に、国中の学生に伝えられるものなの。私は、人々を教育することの手助けとなっている。そんな素晴らしい大義の中のほんのちっぽけな役割しかしていないとしても・・・だからこそ私は誇りに思っているの。だから仕事をやめたくないの。不満があるわけではないのよ。愚痴を言いたいわけでもないの。だからこそ、今夜みたいな気持ちになったのが不思議なの。あのとき私の心に何が起きたのか私にもわからないの」

「ねえ、キャティ、僕たち明日の朝、役所で手続きしてこようよ。すぐ結婚するんだ」

「そうしましょう、ピーター。でも、ほんとにいいのかしら?きちんとした理由はないけれども、私はそうしたいの。とてもそうしたいの。そうしたら、全てが大丈夫だってわかるの。何とかやっていけるわ。私だって働くし・・・」

「もうそんなこといいよ。そんなこと話す必要ない。何とかやっていける。どうってことない。ともかく結婚しよう。あとのこと何とでもなるさ」

「ピーター、あなたそれでいい?」

「いいさ、キャティ」

ここで、キーティングの母親が口を挟む。

「さて、これで一件落着ね。熱いお茶でも入れるわ、キャサリン。帰る前に飲んでおいたほうがいいわ」

母親はお茶を用意した。キャサリンは感謝しながらそれを飲み、微笑みながら言う。

「私・・・私、よく心配していたんです。おば様が許して下さらないかもしれないって」

「どおおうして、そんな考えが浮かんだのかしらねえええ??」

と、母親のほうは母音を引き伸ばし、ゆっくり言う。

「さて、キャサリン、ちゃんときちんとしたお嬢さんらしく、急いでお家にお帰りなさいな。で、ゆっくりお休みなさい」

「母さん、今夜はキャティ、ここに泊まれないの?」

「ピーター。感情的にならないの。キャサリンの叔父様がどうお思いになるかしら」

「あら、もちろん、泊めていただくわけにはいかないわ。私、もうすっかり大丈夫よ、ピーター。帰ります、私」

「帰らなくてもいいんだよ、もし、君が・・・」

「もう怖くないわ。私は大丈夫。私がほんとうにエルスワース叔父様のことを怖がっているなんて思わないでね」

「ならばいいんだけど。でも、まだ行かないでよ」

また、母が口を挟む。

「ピーター!あなた、これ以上遅くなってから、キャサリンに街中をうろうろさせるつもり?」

「僕、キャサリンを送って行く」

「いいえ」と、キャサリンはキッパリと言う。

「これ以上馬鹿なことしたくないわ。いいの。そんなことまでしていただくわけにはいかないわ」

キーティングは、玄関のところでキャサリンにキスをして言う。

「明日の朝10時に迎えに行く。それから役所に行って手続きしよう」

「ええ、ピーター」と、キャサリンはささやく。

キーティングは、キャサリンが帰ったあとドアを閉める。少しのあいだ立ち止まっている。自分が両のこぶしを握り締めていることに気がついていない。それから、彼は意を決したように居間にもどる。母親の目を見る。無言の請求である。母親のほうは息子を静かに見返したまま座っている。

「母さん、もう僕は、どんな反対も聞かないからね」

「私は反対なんてしたことがないわ」

「母さん、僕がキャティを愛していることをわかってもらいたいんだ。もう何も僕を止めることはできないということもね」

「大変結構なことね、ピーター」

「母さんは、キャティのどこが気に入らないんだい」

「私が気に入ろうが、気に入らなかろうが、あなたにとっては重要なことではないでしょう」

「母さん、重要なことに決まっているだろう。もちろん、母さんの気持ちは大事だよ。わかっているくせに」

「ピーター、私にしてみれば、キャサリンのことは好きでも嫌いでもないの。私は自分のことは何も考えていないの。あなた以外のことはね。今時の子どもなんて、母親のそんな気持ちありがたがることもないでしょうけれど」

「ねえ、母さん、僕が母さんに感謝しているってことは、母さんもわかっているだろう。僕が母さんを傷つけたくないってことも、わかっているくせに」

「ピーター、あなたが私を傷つけるなんてこと、ありえないのよ。あなたがあなた自身を傷つけない限りはね」

「どうしたら僕が自分自身を傷つけることになるんだよ」

「ちゃんと聴いてくれる?」

「僕が母さんの言うことを聞かないとか無視したことがあったかい!」

「もし、ほんとに、私の意見を聞きたいなら、あえて言うわね。あなたがキャサリンと結婚するとしたら、それは私のこの29年間の歳月のお葬式になるわ。あなたに私が賭けて来たすべての希望のお葬式ね」

「どういうこと?」

「ピーター、私は、キャサリンのことが嫌いなわけではないのよ。かなり好きなほうだわ。いい娘さんよ。しばしば、とりとめもなくなって、あんな程度のことで騒ぎ立てるとしてもね。それでも、キャサリンはきちんとした娘さんよ。いい奥さんになると思うわ。人柄のいい、こつこつと働く、きちんとした方のいい奥さんに。でも、あなたの妻となると、ピーター、あなたの妻となると!」

「・・・」

「ピーター、あなたって謙虚ね。謙虚過ぎるの。それが、いつもあなたの問題だったわ。あなたは自分を過小評価している。あなたは、まるでそのへんのありきたりの若者みたいに自分のことを考えている」

「僕は、そのへんのありきたりじゃないよ!」

「ならば、頭を使いなさいよ!自分の未来に何があるか、わかってるの?あなたは、もうすでにここまで来たのよ。これから先どこまで行けることか!あなたには、それがわかっていないんじゃないの?そう、最高中の最高とはいかなくても、トップにかなり近いところ、建築という職業での、だから・・・」

「トップにかなり近いところだって?それが、母さんが思っていること?もし、僕が最高中の最高になれないならば、僕が生きている間に、この国を代表する建築家になれないのならば・・・ほかにどんなにいい線に行っても仕方ないよ!嫌なこった!」

「だけどね、そのいい線にまでさえも行けないものよ。何がしかの犠牲を払う強さがなければ、どんな仕事でも、まず最初の段階にさえ行けないわ」

「でも・・・」

「あなたの人生は、あなたのものではないのよ、ピーター。もし、あなたがほんとうに高みを目指しているならばね。普通の人たちとは違うの。あなたのキャリアが問題なの。他人の尊敬を勝ち得るためには、あなた自身を否定する強さがいるの」

「母さんは、ただキャティが嫌いなだけだろ」

「そりゃ、私は認めることはできないわ。自分の恋人へのいささかの配慮もなく、何でもないことのために、恋人のところに押しかけてきて、恋人を仰天させて、あげくのはてには狂った妄想があるからといって、恋人の将来を窓から捨てるように頼むような娘をあなたの妻として認めるなんて。そんな妻からどんな内助の功が期待できるのかしら。ピーター、私の身にすれば、キャサリンとの縁組は理想的よ。キャサリンとなら問題なく、やってゆけるわ。キャサリンならば姑を立ててくれるし、素直に言うことも聞いてくれるわよ。かたや、フランコンのお嬢さんならば・・・」

キーティングはひるむ。この問題が出てくるとはわかっていた。これは、口に出されるのが恐かった問題だった。

「ええ、そうよ、ピーター・・・このことは、私たちが口に出さなければならない問題なのよ。私はフランコンのお嬢さんとは、うまくやって行けないでしょう。そんな優雅な社交界のお嬢様が、私みたいな野暮で無学な姑に我慢などしないわよ。そんなお嬢さんは、私みたいな者を家から追い出すでしょうよ。だけど、私が考えているのは私のことではないの」

「母さん!僕がドミニクと結婚するなんて。あいつは僕のことなんかに目もくれないんだよ!」

「話をそらさないで、ピーター。自分は何でも欲しいものは手に入るって思ってたじゃないの、あなたは」

「僕はドミニクと結婚したくない」

「したくない?したくないの?あら、あなたはそれができる立場にいるのに。自分自身を見なさい!この街で最高の建築家であるガイ・フランコンを捕まえたでしょう。いずれ、フランコンはあなたに事務所の共同経営者になってくれと言うわ。あなたの若さでよ。フランコンは娘と結婚してくれと、あなたに頼むつもりなのに。なのに、あなたときたら、明日になったら彼のオフィスに行って、僕は何でもない女の子が好きで結婚しますと言うつもり?少しは他人がどう思うか考えなさいな。フランコンがそんなこと承知すると思う?」

「彼には気に入らないだろうね」

「絶対に気に入らないわよ!絶対にあなたは事務所から追い出される!」

「まさか!やめてくれよ、母さん!」

「あなたが妻にしたいと思っているのは、手や足の置き所もわかっていない不器用な小さな女の子よ。あなたが家にお連れしたい大事なお客様から走って逃げるような羊みたいにおとなしいちっぽけな子よ。あなたは、それで十分だと思うのね?自分自身をごまかしては駄目よ、ピーター・キーティング!どんな偉大な人間でも、自力でそこまでになった人はいないの!まさにどんぴしゃりの女性というものがいかに、男を助け成功者中の成功者を作ることか!あなたのところのフランコンは、お手伝いさんと結婚したわけではないでしょ。絶対そうではないでしょ。少しは、他人の目になって物事を見なさいよ。世間はあなたの奥さんについてどう思うかしらね?ピーター、ちゃんと成功者たちに恥じない行動をとらなくちゃ。あんなありふれた小さなお荷物と結婚するような男について、世間はどう思うかしらね」

「うるさい!」キーティングは怒鳴る。

しかし、母親はさらに言い続ける。息子がすわっている間、ずっと母親はしゃべり続ける。息子は荒々しい仕種でこぶしの関節を鳴らしながら、ときどきうなるような声を出す。

「だけど、僕はあの子が好きなんだ・・・駄目だよ、母さん、駄目だ・・・僕はキャサリンを愛している・・・」

窓の外の街路が朝の光で白みがかった頃、やっと母親は息子を解放した。息子がよろよろと寝室に行くのを許した。母親は、最後にこう言って息子に駄目押しをした。

「少なくとも、ピーター、ほんの数ヶ月だけ待ってくれるようにキャサリンに頼めるでしょう。ハイヤーはいつ死ぬかわからないんだし、そしたら、あなたが共同経営者になったら、キャサリンと結婚できるでしょ。キャサリンだって、その程度ならば待ってくれるわよ。もしあの子があなたをほんとうに愛しているのならば・・・自分の将来を考えてちょうだい。で他人がどう思うか考えてちょうだい」

キーティングは眠れなかった。

キーティングは、キャサリンとの約束どおり、午前10時にキャサリンの住居の玄関ベルを鳴らした。キーティングは何もまだ決めていなかった。応対に出たキャサリンが自分の手を取り、室内に招き、結婚すると言い張る・・・それで決定はなされるだろうと、彼はぼんやり考えていた。

キャサリンがドアを開けて微笑む。幸福そうに確信に満ちて。まるで何事もなかったかのように。彼女はキーティングを自室に案内する。

「ピーター、いつでも行けるわよ。コート取ってくるわ」

「叔父さんには言ったのかい?」

「ええ、言ったわ。昨晩言ったの。私がもどったとき、まだ仕事していたのよ、叔父は」

「なんて言っていた?」

「何も。ただ笑って、結婚の贈り物には何がいいかって聞いただけよ。だけど、随分と叔父は笑ったの!」

「叔父さんはどこにいるの?叔父さん、僕に会いたいんじゃないかい?姪の結婚相手なんだからさあ」

「仕事場の新聞社に行かなければならなかったの。いずれたっぷり、あなたとは会うことになるだろうから今朝はいいって言っていたわ」

「ねえ、キャティ。僕は・・・君に話したいことがある」

キーティングは、キャサリンの顔を見ないように、ためらいながら言う。声には抑揚がない。

「あの、ルシアス・ハイヤーがさあ、フランコンの共同経営者なのだけれども、かれが重い病気でさ、あまりもう長くはないんだ。フランコンは、かなりあからさまに、ハイヤー亡きあとは、僕がその立場に立つって、ほのめかしている。だけど、フランコンったら、僕が彼の娘と結婚したらいいという馬鹿な考えを抱いていてさ。あ、誤解しないでよ。そんなことありえないんだからさ、わかっているだろう。だけど、僕はフランコンにそう言えないんだ。で、僕は思ったのだけれども・・・もし、僕らが待ってたらって思ったわけだ・・・ほんの数週間のあいだ・・・そしたら、僕の事務所での立場も確かなものになる。そしたら、フランコンは僕に何もできなくなる。彼のところに行って、僕が君と結婚すると言ってもね・・・だけど、もちろん君次第だから、それは」

キーティングは、キャサリンを見る。それから彼の声は切羽詰った調子を帯びる。

「もし君がどうしても今すぐ結婚したいって言うのならば、すぐ役所に行こう!」

「だって、ピーター。だって、それならば私たち待ってもいいじゃない」

と、キャサリンは静かに、穏やかに、驚きの色を見せながら答える。

キーティングは安堵して微笑む。しかし、目は閉じる。

「もちろん、待ちましょうよ。そんな事情だって知らなかったわ。それはとても重要なことだわ。急ぐ理由なんて何もないのですもの」

「君は、僕をフランコンの娘に取られるなんて心配はしないよね」

キャサリンは声を立てて笑う。

「あら、ピーター、私、あなたのことよくわかっているわ」

「だけど、もし君がどちらかといえば・・・」

「いいえ、延期したほうがずっといいわ。あなたが待つほうがいいと思うのならば、私も待つほうがいいわ。今朝ね連絡があったの。叔父はね、今年の夏ね、西海岸のとても有名な大学で、今やっているのと同じ講義をやってくれと頼まれたの。だから、叔父を一人ほっておけないと思ったの。私の資料調査の仕事が中途半端だしね。それに、結婚しますって私が言ったら、エルスワース叔父様があんなに笑うなんて。まだ早すぎるのかもしれないわ。少し待ったほうが賢明かもしれないわ」

「うん、そうだね。だけどさ、キャティ、もし君が昨夜みたいに感じたら・・・」

「もうそんなことは起きないわ!もう恥ずかしい。昨日の夜、いったい何が起きたのか、今では想像もつかないわ。思い出そうとするんだけど、もうわからないの。後になってみると、ものすごく馬鹿馬鹿しい感じ。昨日の晩の私ったら、随分とわけのわからないこと口走ったでしょう?」

「もうそのことは忘れろよ。君は神経過敏のかわいいお嬢さんなのさ。じゃあ、しばらくのあいだ結婚は延期だ。そう長い間ではないから」

「ええ、ピーター」

キーティングは突然、怒ったように言う。

「あ、出勤に遅れる。走っていかないと」

キーティングは、その瞬間、このキャサリンの部屋から逃げなければならないと感じる。

「指輪持ってくるよ。明日の晩御飯、いっしょにしようよ」

「いいわ、ピーター。素敵だわ」

キーティングは、ほっとしながらも陰鬱な気持ちのまま歩いていく。

お前は、二度と手にすることのない機会を逃したのだと、キーティングに告げる感覚がある。鈍いが執拗な感覚がある。何かが自分とキャサリンを封じ込め閉じ込めつつあるという感覚だ。呪われているような感覚だ。キャティと僕はそれに屈服してしまった。僕たちが戦うべきものは何だったのか。そう自分自身にぼんやりと問いながら、キーティングは事務所に急ぐ。

キャサリンは、キーティングが帰ったあと、部屋の真ん中で立ち尽くしている。空虚で寒々しい思いがしている。この瞬間になってやっと、キャサリンは気がつく。キーティングが僕について来いと無理強いしてくれるのを自分が期待していたことに。

それから、キャサリンは肩をすくめる。私って馬鹿だわと自嘲の笑みを浮かべる。それから、いつものように仕事にとりかかるために机につく。

キーティングとキャサリンは、確かに唯一の機会を逃した。二度と得ることのない貴重な機会を失った。ふたりにそれがわかるのは、まだ何年か先のことだ。

(第1部34 超訳おわり)

(訳者コメント)

エルスワース・トゥーイーの姪のキャサリンは、人を疑わない純真な娘だ。

その純真な娘が、ほとんど我を通したことのない娘が、初めて間接的ながら叔父に抵抗して、キーティングに約束どおり結婚しようと言いに来た。

彼女自身は言語化できないが、彼女の魂は叔父の邪悪さを感じている。

叔父の邪悪さから逃げなければ、自分は絶対に幸せになれないと、心の奥の声が彼女に告げている。

なのに、結局は、キャサリンは自分の心の奥の声を封じてしまう。

叔父の家から出るチャンスはキーティングとすみやかに結婚することでしかないのに、結婚を延期することを承諾してしまう。

キーティングは、キャサリンの方を愛しているくせに、ドミニクを妻とする方が世間体がよいという母親の言葉に負ける。

キーティングとキャサリンは似ている。

自分の心の奥の声に断固として従う勇気の欠如において。

チャンスは前髪しかないから、チャンスが来たらすぐに掴めとは、よく言われることだ。

自分の心の声に耳をすませること、自分の魂が求めていることを見据えることは、若い頃は特に難しい。

若い頃ほど、虚栄心や他人の思惑や打算に振り回されるからだ。

自分自身に正直でいることは、なかなか身につかない。

若い頃から注意して意識していないと、他人の欲望が自分の欲望にすり替わってしまう。

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