第1部 (2) 学部長とロークの対話

スタントン工科大学は丘の上に在る。スタントン工科大学は、丘の下に広がるスタントン市がかぶる王冠のように屹立(きつりつ)している。

ゴシック様式の寺院が、その王冠に継ぎ木されているので、中世の砦のようにも見える。繊細なレースじみた装飾に満ちた寺院だ。遠くから眺めれば、その華麗な寺院は、砦のように頑丈な大学の建物におんぶしている格好である。

学部長室は礼拝堂のようだ。ステンドグラスの高い窓がひとつある。そこから射し込む幻想的な薄明かりが、その部屋を光のたまるプールのように見せている。輝きを衰えさせた遅い午後の光が部屋に流れ込んでいる。ステンドグラスの窓には両腕をひじのところでねじ曲げた堅苦しい様子の聖人が描かれている。

ロークが学部長室に入った時、学部長の姿がはっきり見えなかった。机の向こうに座っている学部長の輪郭がぼんやりとしていたからだ。学部長の机は告解(こっかい)聴聞席(ちょうもんせき)のような曲線をしている。

学部長は小柄で、ほどよく肉づきのいい紳士である。どんどん広がりつつある肉がさらに広がるのを、彼の不屈の威厳が、かろうじてせき止めているといった案配である。

「ああ、ローク」と学部長は微笑んだ。「ま、座りなさい」

ロークは腰をおろす。

学部長は胃のあたりで両手をからませて、予期してた嘆願がロークから発せられるのを待つ。嘆願はない。学部長は咳払いをする。

「私が君のことを真剣に考えているということは、重々(じゅうじゅう)君も承知していると思う。だから、今朝の不幸なできごとについて私が大変遺憾(いかん)に思っていると今更言う必要はないだろうね」と、学部長は話を切り出す。

「全く必要ありません」とロークは答える。

学部長は、ロークを怪訝(けげん)な顔で眺める。しかし、気にせず話を続ける。

「私は君を退学させる案には票を入れなかった。棄権した。ともあれ、理事会で君を弁護する熱心な先生方もいたよ。数は少ないがね。中でも構造工学の教授は君を奉じる十字軍のごとく活躍した。数学の教授もそうだった。しかし不幸なことながら、君を放校させることに票を入れるのが自らの義務だと感じる方々のほうが、はるかに多くてね。ピーターキン教授など君を退学にしないならば自分が辞職するとまで言い出してねえ。これには大学もまいったよ。ピーターキン教授を随分と怒らせてしまったことを、君はわかっているのかね」

「わかっています」と、ロークは言った。

「そこなんだ、問題は。君は、建築設計に対して、その科目に値する注意を払ったことがないだろう。君は工学技術科学については優秀な成績をおさめてきた。もちろん、未来の建築家にとって工学技術科学の重要性は否定はできない。しかし、なぜそこまで極端かねえ、君は?君の専門の芸術的精神的側面だと思われることを、なぜ無視する?どうしてあの無味乾燥な技術的な数学的な科目ばかりに集中するのかねえ。君は土木工学者になるのではなくて、建築家になるつもりだったのではないかね」

「これは余分なことではないでしょうか?」とロークは訊ねる。

「もう、過ぎたことです。今ここで、僕の選択した科目について議論しても意味がありません」

「私は君の助けになりたいと思っているんだよ、ローク。君はこの件について公平に考えなくてはいけない。この件が起きる前に何度も警告を与えられていなかったとは、君は言えないはずだ」

「はい、おっしゃるとおりです」

学部長は椅子の位置を変える。ロークは学部長を不快にさせる。ロークの目は丁寧に礼儀正しく学部長に注がれている。

学部長は思う。この若者の私に対する姿勢に不適切なところは何もない。実際のところ、全く適切だ。非常に適切だ。ただ、まるで私がここに存在していないかのような目ではあるが。

「君に与えられた問題は……」と学部長は話を続ける。

「君が設計しなければならなかった課題についてだが、いったい君は何をやらかした?君が設計したもののすべてが……まあそれも様式と言えるのかもしれないが、私にはそう呼べないね。信じがたいほど君は勝手なやり方をしている。この大学が君に教えようとしたあらゆる原則に反している。芸術のありとあらゆる先達(せんだつ)や伝統に反している。君は、自分のことをいわゆるモダニストだと考えているかもしれない。それは、全くの愚行だ。こう言っても君は気にしないと思って、あえて私は言うのだが」

「気にしません」

「様式の選択については好きにしていいということで、例の課題を君は与えられた。で、君はその荒々しき離れ業(わざ)の設計図を提出した。まあ、率直に言えば、君の担当教授は君を合格にしてしまった。教授はどう理解していいかわからなかったから、やむなくね。しかしだ、チューダー様式礼拝堂とかフランス式オペラハウスとかの歴史的様式の課題を与えられたのに、リズムもなければ理にかなってもいないような、沢山の箱が積み重ねられたみたいなしろものを提出したのは、どういうことかね。あれが課題に対する君の解答なのかね。それとも君ははっきりと反抗したかったわけか」

「あれは反抗でした」とロークは言った。

「我々としては君に機会を与えたかった。君の他の科目における輝かしい成績を鑑(かんが)みて。しかし、君がこれを提出した時……」と学部長は自分の前に広げられた紙の上に、こぶしを荒っぽくドンと置く。

「今年度の最後の課題として君に与えられたのはルネサンス様式の邸宅の設計だった。なのに、これは、やりすぎだったね」

そこにはひとつの完成予想図が描かれてあった。ガラスとコンクリートの家が。

隅には鋭い角張った署名がされてあった。ハワード・ロークと。

「こんなものを提出したとは。我々が君を合格させると思うのかね」

「思いません」

「この件で、もう我々には選択の余地が残されなくなってしまった。こうなってしまった以上、君が我々に関して苦々(にがにが)しく思うのも当然だが」

「僕はその種の気持ちは感じておりません」と、静かにロークは言う。

「申し訳なく思っています。通常ならば、こういったことが起こることを僕は僕自身に許さないのですが。今回は誤りました。僕は、この大学が僕を退学させるまで待つべきではありませんでした。もっと前に大学を辞めるべきでした」

「まあまあ、そう落ち込まずに、君。それは君がとるべき適切な態度とは言えないよ」

学部長は微笑んで、自信たっぷりに前に身体を傾けた。やっと思惑(おもわく)どおりに交渉を開始できる事態を楽しみながら。

「実はこれが私と君との面談の本当の目的なのだよ。私は、このように落ち込んだままで、君に大学を去ってもらいたくない。私は個人的に学長の機嫌のいい時をみはからって、そのことを学長に申し上げたのだよ。しかし・・・君、ちゃんとわきまえておいてくれたまえ、学長はこの件に関与していなかったのだからね。君は事態がいかに深刻なことかわかっているわけだから、君が一年間、大学を離れ休息し、考え直してみれば……つまり成長してみればと言っていいだろうが、そうしたら君を大学に戻す機会も我々としては持てるかもしれない。もちろん、確かな約束はできない。あくまでも、この話は非公式なものだし、極めて異例なことでもある。しかし、状況とか君の素晴らしい成績とか考慮に入れれば、実に好都合な機会もありえる」

ロークは微笑む。

それは、幸福そうな微笑みでもないし、感謝に満ちた微笑みでもない。それは単純で簡単な微笑みだ。学部長の態度の変化を見物して面白がっているような微笑みでもある。

「先生は僕の事を誤解しておられます」とロークは言う。

「何をもってして先生は、僕が大学に戻りたいと思っているとお考えになったのでしょうか」

「え?」

「僕は大学に戻る気はありません。ここで学ぶことは僕にはもうありません」

「わからんねえ、君の言っている意味が」と学部長は表情を強張(こわば)らせて言う。

「僕が意味するところを説明しても無駄なことです。先生にとっては重要なことではありません」

「できれば説明してくれないかね」

「お望みならば、お話しさせていただきます。僕は建築家になりたいのであって、考古学者になる気はありません。ルネサンス様式の邸宅を作ることが僕の目的ではありません。そんなものを建てる必要など、もうありません。なのに、なぜそれを設計することを学ばなくてはならないのでしょうか」

「君、ルネサンス様式は死んでいないよ、とんでもない。その様式の家ならば毎日どこかで建てられている」

「はい、建てられています。これからも建てられるでしょう。しかし、僕が建てるわけではありませんから」

「おや、おや、おや、それは子どもじみた答えだねえ」

「僕はこの大学に建築を学びに来たのです。課題を与えられた時、僕にとってその課題の唯一の価値というのは、将来にほんとうにそれを建築する時に解決できるように、その建築物の問題を解決することを学ぶことでした。いつかそれを実際に建築できるように僕は設計しました。僕は、すでに、ここで学べることは全て学んでしまいました。先生が評価なさらない構造科学の面でも。もう1年も、イタリア様式建築の絵葉書を描くことは無意味です」

1時間前、学部長は、この面談ができる限り平静に進行することを望んでいた。しかし、今はロークが何らかの感情を見せることを望んでいる。動揺を示すところが見たい。こういう状況に陥った人間が、こうも静かに自然にしていられるのはおかしい。

「君が建築家になった時、もしなったらばの話だが、あのように君は建てることを本気で考えている?」

「はい」

「君、誰が君にそうさせるかねえ」

「それは問題ではありません。問題は、誰がそれを僕にさせないかなのです。誰にも僕を止めることはできません」

「君、これは真剣な話だ。私は、もっと前に君とじっくり真剣に話をしておくべきだった。僕は残念だ。わかっている、わかっている、わかっている、話を遮(さえぎ)らないでくれたまえ。君はこれまでに現代建築とやらをひとつ、ふたつ見たことがあり、君はそのアイデアをもらったわけだ。しかし、わかっているかい。例のいわゆる現代建築なるものはみな一過性の夢幻でしかない。君は理解しなければならないよ。建築におけるあらゆる美しいものがすでに為されてしまったということを。それは、全ての権威者によって証明されてきた。過去のあらゆる様式の中に宝の山がある。我々にできるのは、その巨匠たちの業績から選ぶことだけだ。いったい、現代の我々が、彼らを超えて、どう向上できるというのだね?我々は、先人たちに敬意を払い、恭(うやうや)しい態度で彼らの成し遂げたことの反復を試みるだけなのだ。それしかできない」

「なぜでしょうか」とハワード・ロークは訊ねる。

学部長は思う。いや、いや、この青年は特に他に何も言ってはいない。この問いかけに全く他意はない。ただ無邪気に質問をしているだけだ。彼は私を脅(おど)しているわけではない。

「それは自明のことだよ!」

「ご覧ください」とロークは、平静に言い、それから窓を指差す。

「キャンパスと町がここから見えます。どれだけの数の人々が町を歩き、生きていることでしょう。しかし、あの人々の中のどれだけが、またはすべての人々が建築についてどう考えていようが、僕にはどうでもいいことです。もしくは他のことにしたって、彼らがどう考えていようが、どうでもいいことです。そんな僕が、彼らの祖父たちが建築に関して考えていたことを、なぜいちいち気にしなければならないのでしょうか」

「それが聖なる伝統だからだよ」

「なぜでしょうか」

「君、頼むよ。君の建築に対する、その途方もないナイーヴな態度をやめてくれないかね」

「僕にはわかりません。なぜ先生はこれが、偉大な建築だと僕に思わせたいのでしょうか」と、ロークはパルテノン神殿の絵を指さす。

「それが」と学部長は言う。「パルテノン神殿だからだ」

「そうです。忌々(いまいま)しくも、これがパルテノン神殿だからです」

「愚劣な質問に浪費する時間は、私にはない」

「わかりました」とロークは席を立つ。彼は、学部長の机の上から長い定規を取り上げ、パルテノン神殿の絵の掛かっているところまで歩く。

「この神殿のどこがおかしいか申し上げましょうか?」

「それはパルテノン神殿だよ!」と学部長は言う。

「そうです。忌々(いまいま)しいパルテノン神殿です!ご覧ください」とロークは話し始める。

「まず、この有名な円柱の有名な溝掘りです。縦溝(たてみぞ)装飾ですね。これは何のためでしょうか。木の継ぎ目を隠すためです。円柱が木で作られていた時代の継ぎ目隠しです。しかし、大理石で作られるとなれば、そんな継ぎ目は無用です。トリグリュポス、縦溝、これらは何でしょうか。木です。木の梁(はり)です。古代の人々が木の丸太小屋を建て始めた時に梁は設けられねばなりませんでした。つまり、先生方が賛美するギリシア人は、大理石で木造建築の構造を複製して神殿を作ったのです。先人たちがそうしたからという理由だけで、そうしたのです。それから先生方が賛美するルネサンス期の巨匠たちがやってきて、木造建築の複製をした大理石建築の複製をしっくいで複製しました。今や、現代において、我々は、木造建築の複製である大理石建築の複製であるしっくい建築の複製を、鋼鉄やコンクリートで複製しているわけです。なぜでしょうか?」

学部長は座ったまま、ロークをしげしげと見つめている。

何かが不思議だ。奇妙だ。ロークの言うことがではない。ロークのその言い方が。

「それが規則だからですか?」ロークは話し続けている。

「僕の規則は、こうです。ひとつの材料で作ることができるものは、他の材料では、決して作られてはいけないのです。同じ材質のものなどありません。地上で同じ質の敷地もありません。完全に同じ用途(ようと)を持った建築物もありません。用途に、敷地に、材料が形を決定します。もし一貫したひとつの理念によって作られないのならば、その理念があらゆる細部に行き届かなければ、何ものも合理的ではないし美しくもなりません」

さらにロークは言う。

「建築物は生き物です。人間のように。その完全さとは、それ自身の真理、そのひとつの主題に従うことによって達成されます。それ自身のひとつの用途に従うことによって達成されます。人間は身体の各部分を借りることはできません。建築物も、その建築物が持つべき魂をどこかから借りてくることはできません。その建築を設計し作る誰かが、その建築物に魂を与えるのです。その魂を表現するために、あらゆる壁を、窓を、階段室を与えるのです」

「しかし、表現の適切な形式の全てが、はるか昔に発見されてしまっている」と学部長。

「表現、何の表現でしょうか。パルテノン神殿は、その元となった木造建築を建てた祖先の目的と同じ目的で作られたのではありません。空港はパルテノン神殿と同じ役目をしていません。あらゆる形にはそれ自身の意味があります。あらゆる人間が、自らの意味と形式と目的を創造します。なぜパルテノン神殿がそれほどに重要なのでしょうか。他人のやったことではないですか。あなた自身のものではないからという理由で、ただその理由で、なぜパルテノン神殿が神聖なものになるのでしょうか?あなた自身でないからという理由で、なぜ他人の方が正しいのでしょうか?なぜ真理の場所を多くの虚偽が占拠してしまうのでしょうか?なぜ真理は単なる算数の事項になってしまうのでしょうか。つまり、なぜ唯一無二のものではなく、足し算できるような程度のものになってしまうのでしょうか?あらゆることが、他のすべてのことに適合するために、本来の意味をはぎとられ歪んでいます。どうして、そうなるのでしょうか?何か理由があるにちがいありませんが、今の僕にはわかりません。その答えが知りたいです。できることならば」

「君、頼むから」と学部長は言葉を差し挟(はさ)む。

「座りたまえ。その方がいい。君、その定規を置いてくれないかねえ。さて、僕の話も聞いてくれたまえ。建築家にとっての現代建築の重要性については誰も否定していない。我々は、過去の美を現代が必要なものに適応させることを学ばねばならない。過去の声というのは、人々の声だからね。建築においては、ただひとりの人間の手によって発明された物など、ひとつもない。まともな創造的過程とは、ゆっくりとした漸進(ぜんしん)的な匿名の集団的なものだ。ひとりひとりの人間が他人と協力し、多数の人々の基準に自らを従属させてきた」

「しかし、先生」と静かにロークは語る。

「お言葉を返しますが、僕はこのさき60年は生きます。その時間のほとんどは仕事に費やされます。僕は僕がしたいことを仕事に選びました。僕がそこに喜びが見出せないのならば、僕は60年間の拷問に僕自身を委(ゆだ)ねることになります。僕にできうる限りの最上のやり方で仕事ができさえすれば、僕は人生に喜びを見出せます。しかし、最上とは基準の問題です。僕は僕自身の基準を設けました。僕は何も継承しません。僕は伝統のない先端に立ちます。おそらく、あることの始まりに立つかもしれません」

「君はいくつだ?」と学部長は尋(たず)ねる。

「22歳です」とロークは答える。

「無理もない」学部長はそう言って、ほっとしたように見える。

「君もいずれは大人になる」学部長は微笑む。

「古い基準は何千年もの間生きてきた。誰もそれらを超えて向上できなかった。君の言うモダニストとは何かね。つかのまの流行だよ。人の注意を引こうとする露出症の試みだ。彼らの行く末がどうなったか君は見たことがあるかい。何か永久的な偉業を達成した者の名前が言えるかい。ヘンリー・キャメロンを見たまえ。20年前は立派な男だった。指導的建築家だった。今の彼はどうだい。今の彼ときたら。そう一年に一度でも車庫の改造の仕事が入れば、運がいいだろうね。飲んだくれのしょうがない男だよ、彼は」

「ヘンリー・キャメロンについて先生と議論する気はありません」

「おや、君は彼と懇意(こんい)かい?」

「いいえ。ただ彼の建築物を見たことがあります」

「それで、君はそれが……」

「僕は、ヘンリー・キャメロンについて先生と議論しないと申し上げました」

「いいだろう。今の僕が君にかなりの許容範囲を与えているということは、君も承知していなければならないよ。君のような振る舞いをする学生との議論に僕は慣れていない。しかしながら、僕としてはできることならば、明らかに悲劇になりそうなことの機先(きせん)を制しておきたい。つまり、君のような明らかに優秀な頭脳に恵まれた若者が、わざわざ自分の人生を混乱させるというのは悲劇だからね」

学部長は、なぜ自分がこの若者のためにできることは全てすると、数学の教授に約束してしまったのかと考えた。その教授が、ロークの描いた設計図を指差して言ったからだった。「すごい奴ですよ、彼は」と。

学部長は思う。なるほど、すごい奴か。もしくは犯罪者なのではないか。学部長は辟易(へきえき)している。うんざりしている。この若者を、すごい奴であると認める気には、どうにもなれない。

学部長は、ロークの経歴について耳にしたことについて思い出す。

ロークの父親はオハイオ州のどこかの鋼鉄錬鉄業者だったが、随分前に亡くなっている。この若者の入学書類には近親者の記載はなかった。それについて質問された時に、ロークは関心なさそうにこう言ったものだ。「親類がいるとは思いません。いるかも知れませんが、知りません」と。

その時、そのようなことに関心をもつべきことを自分が期待されていることにロークは驚いたようだった。ロークは大学で友だちをひとりも作らなかったし、求めなかった。成績優秀だからということで入会を勧められたフラタナティ[訳注:大学の入会審査のある男性クラブ]に入ることも断っていた。

高校も働きながら通った。スタントン工科大学での3年間も苦学生だった。

子どもの頃から、ロークは建設現場工事労働者として働いてきた。左官から配管から鋼鉄作業など、手に入る仕事は何でもしてきた。町から町へと、オハイオからだんだん東に進み、東部の大都市へと移動しながら働いてきたのだ。

学部長は、去年の夏の休暇中に、ロークがボストンで建設中の超高層建築工事現場で働いているのをたまたま見かけた。彼は、地上から放たれるリベットを受けている最中だった。

ロークの長い身体は油に汚れたつなぎの作業服の下で伸び伸びとリラックスしていたが、目だけは油断していなかった。彼の右腕は大きく前方に振られ、いかにももの慣れた様子で、苦もなく、熱されて火のようになったボール状のリベットが下から飛んでくるのを受け止めていた。熱されたリベットがバケツに入り損ね、ロークの顔を直撃するかに見える最後の瞬間に、ロークはリベットを易々(やすやす)と受け止めていた。

「君ねえ、ローク」と穏やかに学部長は言う。

「君は教育を受けるために懸命に働いてきた。残すところあと一年ではないか。君のような立場にいる若者として、考慮すべき重要なことがあるだろう。建築家という仕事につきものの考慮すべき実際的な側面だよ。建築家は、彼自身の中に目標があるわけではない。彼は、大きな社会という全体の小さな一部でしかない。協力というのが現代世界の鍵となる言葉だ。特に建築家という職業においてはね。君は、将来の君の顧客について考えたことがあるかね」

「はい、あります」

「顧客だよ」と学部長は言う。

「顧客。まず何よりもそのことを考えてみたまえ。顧客とは、君が建てた家に住む人間だ。君の唯一の目的は、顧客への奉仕だ。君は、顧客の望み通りに、顧客にふさわしい芸術的表現をするよう熱望しなければならない」

「そうですね、確かに、僕は僕の顧客のために、建てることができる中でももっとも快適で、もっとも論理的で、もっとも美しい家を建てることを熱望しなければならないでしょう。また僕が持つ最高のものを顧客に売ろうとしなければならないし、最高のものを顧客に知ってもらえるよう、顧客に伝えなければならないでしょう。確かにそれは言えます。しかし、僕はそれをする気はありません。なぜならば、僕は誰かに奉仕したり、誰かを助けたりするために建築をするつもりはないからです。顧客を持つために建築をする気もありません。僕は、建築するために顧客を持つつもりです」

「どうやって、君は顧客に君の考えを強制するつもりかね」

「僕は強制するつもりもなければ、強制されたりもしません。僕を必要とする顧客が僕のところに来るのです」

この時、学部長はやっとわかった。ロークの話し方の何が自分を奇妙な思いにさせるのか、その理由が。

「君ねえ」と学部長は言う。

「君がね、私が君の意見に合意できるかどうかを、君が気にかけているかのように話すのならば、君の言うことももっと説得力があるように聞こえるかもしれないねえ」

「確かに」とロークは答える。 

「先生が僕の考えに同意してくださるかどうかは、僕にとってはどうでもいいです」

あまりにもあっさりと悪びれずに、ロークはこう言った。

学部長は気分を害する気にもならない。それはある事実の陳述のように聞こえたからだ。このことに学部長は初めて気がついた。不思議だった。

「君は他人がどう思おうと気にしないのだね。それは理解できないでもないが。しかし、君は、君の考えに他人が賛同してくれるようにしたいとも思わないのだね」

「はい、そうです」

「しかし、それは・・・ それはとんでもないね、君」

「でしょうか?そうかもしれません。どうとも僕には言えません」

「この面談ができてよかったよ」と、唐突に大きな声で学部長は言う。

「この面談のおかげで私の良心が解放された。他の先生方が述べられたように、私も、君には建築家という職業はふさわしくないと確信するよ。私は君の助けになろうと考えていた。今は理事会の決定に賛同する。君は励まされるような人間ではないね。君は危険人物だ」

「誰にとってでしょうか」とロークは訊ねる。

しかし、学部長は立ち上がる。それは面談が終ったことを示していた。

ロークは学部長室を出る。ゆっくりと歩きながら長い廊下を通過する。階段を降りる。芝生の広がるキャンパスに出る。

ロークは、今までにも学部長のような人間には随分と会ってきた。ロークは彼らを理解できたためしがなかった。ただ、自分の行為と彼らの行為の間には、ある重要な差異があるということだけがわかっていた。そのことは、もうかなり前にロークを悩ませることをやめていた。

ただ、ロークは建築物の中にある中心的主題を求めていた。そして人間の中にある中心的衝動を求めていた。ロークには、自分の行動の源泉がわかっている。しかし、世間の人々のそれは発見できなかった。

もう彼は気にしなかった。ロークは、他人についてあれこれ考えることを、ついぞ学んだことがない。

が、ロークにも時には不思議に思う。いったい何が彼らをして彼らの状態にさせているのだろうか?

再び、ロークは学部長について考えをめぐらす。学部長が自分にしたあの尋問にはどこか重要な秘密が関与していたとロークは思う。ロークが発見しなければならない原則というものがそこにはある。

しかし、ロークは考えるのをやめる。大学の建物の煉瓦(れんが)塀に沿って走る蛇腹状(じゃばらじょう)の灰色の石灰岩に、陽光があたっている。午後も遅い太陽の光があたっている。色褪せる前の瞬間に、まだとどまっている光だ。

ロークは、世間の人々のことなど忘れてしまう。学部長についても忘れる。ロークが発見したかった学部長の尋問の背後にある原則のことも忘れる。弱々しい光に照らされてその石灰岩がどれほどに美しいか、またこの石を何に使うかということだけを、今のロークは考えている。

ロークは、大きな一枚の紙を思い浮かべる。空の輝きが教室の中に差し込むのを許す窓が設けられた壁が、空想の紙の上に立ち上がる。ガラスの長い筋のいくつもが帯のように連なる窓が設けられた壁が、灰色の石灰岩がむきだしになっている壁が、紙の上に立ち上がるのをロークは想像する。

その大きな大きな図面の隅には、鋭い角張った署名が書かれている。ハワード・ロークと。

 

 (訳者コメント)

スタントン工科大学のモデルはマサチューセッツ工科大学である。ボストン郊外にある。

ロークが、もうこれ以上学ぶことがないと思い退学する(させられる)スタントン工科大学には教会がくっついていることに注意。

ロークについて全く理解できない俗物の学部長(名前すら言及されていない)の執務室が、教会の礼拝堂のようで、窓がステンドグラスになっていることに注意。

科学的精神に立脚し合理性を追求する工科大学に、建築物にせよ、人間にせよ、不合理なる中世の教会的なるものがへばりついていることに注意。

ロークと学部長の対話は、あまりカットできなかった。

ハワード・ロークという人間の発想とかスタンスが、鮮やかに示されているので。

学部長にとっての建築は、先人たちの建築物を模倣することであり、顧客の要望に適応することだ。

ロークにとっての建築は、人間が誰一人同じではないように、それぞれが唯一無二だ。

ある建築物の持つ属性も与えられる条件も、それぞれに違うのだから。

22歳にして、それを明確に意識しているローク。

ちなみに、この小説が書かれた時代は、建築家は国家が認めた資格ではない。

建築家として自分が意識すれば、彼は建築家である。

彼の仕事が建築家の仕事としてふさわしいのならば、彼は建築家だ。

ある職業に従事する条件として、政府が法的に定める資格要件をクリアしていなければならないなんて、職業選択の自由の権利に反するなあ。

第1部 (2) 学部長とロークの対話” への1件のフィードバック

追加

  1. ロークは確かに危険な人物だと思いました。建築に対して純粋。だからこそ、将来にとてつもないトラブルを起こしそうな予感がします。
    しかし、大した人物だとも思えました。

    他人の意見を気にしないことの力強さと危険性を考えさせられる回でした。

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