第1部(1) ローク退学になる

ハワード・ロークは笑った。 傍若無人な笑い声だ。

ロークは、断崖の先端に全裸で立っている。ロークの身体は空を背にしている。彼の身体は、長い直線と角度でできている。無駄のない身体である。

ロークは、掌(てのひら)を外に向けて両腕を脇腹にそって降ろしながら、厳粛に立っている。風を背後に感じている。風が髪を空に向かって吹き上げる。彼の髪はブロンドでもなく赤毛でもない。熟したオレンジの外皮(がいひ)の色そのものだ。

これから先の数日は、辛いだろうな。直面しなければならない問題がある。計画の準備もある。ちゃんと考えておかなきゃ。

しかし、ロークは思う。あれこれ考えてもしかたない。俺がすべきことは決まってる。もう随分前に決めたじゃないか。

ロークは花崗岩を眺める。湖の周囲にそびえる花崗岩を眺める。彼は思う。切って壁にするのにちょうどいい。木々を見る。割って丸太にするのにいい木だ。

それらの花崗岩に一筋の錆(さび)がある。地面の下に鉄鉱石があるのだなと彼は思う。鉄鉱石ならば、溶かされ、空を突き刺し立ち上がる梁(はり)にいい。これらの岩は俺のためにある。これらの岩は、ドリルを待っている。ダイナマイトや俺の声を待っている。割られ、裂かれ、打たれ、再生されるのを待っている。俺の手がそれらに与える形を待っている。

ロークは、湖を切ってまっすぐ湖畔まで泳ぐ。衣類を置いておいた岩までたどり着く。周囲を名残(なごり)惜しそうに見渡す。

スタントンに住み着いて以来3年間、彼は唯一の息抜きとしてこの湖に来ていた。1時間でも余裕があればいつでも来ていた。泳いだり、休んだり、考えたり、独りになるためだったり、元気を取り戻すために。ただし、そんな余裕はなかなかなかったけれども。

今日、新しい自由を手に入れた彼が最初にしたかったのは、この湖に来ることだった。なぜならば、ここに来るのは今日が最後だったから。

この日の朝、ハワード・ロークは、スタントン工科大学建築学部を退学になった。

ロークは、のんびりと、しかし機敏に歩く。はるか前方にスタントンの町が見える。マサチューセッツの海岸に長々と横たわる町だ。スタントン工科大学のような宝石の住まいとしては小さな町だ。その偉大なる工科大学は、遠方の丘の上にそびえたっている。

道行く人々は、ハワード・ロークが通り過ぎる時、ついつい振り返って彼を見てしまう。中には、なにゆえか唐突に恨みがましいような気持になり、ロークの後ろ姿を凝視してしまう者もいる。なぜそうしてしまうのか、彼らにはわからない。それは、ロークの存在そのものが、ほとんどの人々の中に目覚めさせる本能のようなもののせいだ。

ハワード・ロークは誰も見ない。彼にとっては、彼が歩いていく街路には誰もいないのと同じだ。やろうと思えば、何のこだわりもなく真っ裸でそこを歩くことだって彼にはできる。

ロークは、スタントンの中心部にある広々とした緑地を横切る。その緑地は多くの商店の窓で縁取られている。それらの窓には、次のように描かれた真新しい貼り紙が飾りつけられている。

「22年度生大歓迎!お元気で、22年度生!」

スタントン工科大学の1922年度生は、その日の午後に卒業式を控えていた。

ロークは、あいかわらず手を大きく振りながら脇道に入る。長い家並の一番奥に、キーティング夫人の家がある。ロークは3年間その家に下宿していた。

キーティング夫人が、玄関ポーチに立っている。ポーチの手すりにぶらさげられている籠の中のつがいのカナリアに餌を与えている。ロークを目にした時、夫人は興味深そうにしげしげとロークを見つめる。何とか同情という表情を作ろうと口元を引き締めようとする。が、うまくできない。

ロークは、夫人について気にもとめずに、ポーチを渡り下宿している家に入ろうとする。

夫人が彼を呼びとめる。

「ロークさん!」

「は?」

「ロークさん、残念でしたわねえ・・・」夫人は殊勝(しゅしょう)げに言いよどむ。

「あの、今朝のことね・・・」

「何のことですか?」とロークは訊(たず)ねる。

「大学を退学になったことですよ。なんと申し上げてよいのやら。ただ、私がそう思っているということだけお伝えしたくて」

ロークは、夫人を見つめながら突っ立っている。夫人にはわかっている。ロークが自分など本当は見ていないことを。そういう言い方は不正確だわ、と夫人は思う。この男はいつだってまっすぐ人を見る。この男の忌々(いまいま)しい目は何ひとつ見落としはしない。

ただ、この男は、この男に接する人間に、まるでその人間がそこに存在していないかのように感じさせる。

ロークは、ただ夫人を眺めて、つっ立っている。

「私が申し上げたいのはね」と夫人は話を続ける。

「人間が苦しむとしたら、その人間が犯した間違いのせいですからね。もちろん、あなたは、これで建築家になることは諦めねばならないわ。でも、まだ若いのですもの。何かきちんとしたお仕事で、ちゃんとやってゆけるわよ」

ロークはその場から去ろうとする。

「あら、ロークさん!」夫人はまた呼ぶ。

「は?」

「あなたの留守中に、学部長さんからお電話がありましたよ」

その瞬間、夫人はロークの顔に何らかの感情を見ることを期待した。ロークが崩れ落ちるのを目撃するのにも匹敵(ひってき)するような、ある種の動揺を。

ロークが崩れ落ちるところが見たい。夫人にそう思わせるような何かがロークにはある。しかし、それが何であるかは、夫人にはわからない。

「え?」ロークは訊ねる。

「学部長さんが」と、夫人は自分の言葉の効果を呼び戻そうとして、はっきりしないことを口に出すような調子で言う。

「秘書さんを通してですけど、学部長さんが」

「は?」

「秘書さんがあなたに伝えて下さいって。あなたが戻り次第、あなたにお会いしたいそうよ、学部長さんが」

「そうですかー」

「今さら、学部長さんがあなたに何のご用かしらねえ?」

「さあ、どうでしょうか」

ロークはこう言った。「さあ、どうでしょうか」と。しかし夫人の耳には、こう聞こえたのだ、はっきりと。「さあ、どうでもいいから」と。信じがたい思いで夫人はロークを凝視(ぎょうし)する。

「ところでね、今日ね、ピーターが卒業するの」と、夫人はそれまでの話とは何の関連もなく言う。

「今日?ああ、そうですね」

「今日は私にとっては特別な日だわ。息子を大学まで出すのに、これまでどれほど切り詰めて、人様(ひとさま)に頭を下げてきたことか。愚痴を言っているわけではないのよ。私はそういうタイプじゃないから。ピーターはできのいい子だし」

夫人は、背筋を伸ばす。夫人のずんぐりした小さな体は、コットンドレスの糊(のり)の効いた折り目の下につけたコルセットで非常にきつく締め上げられている。コルセットに締め上げられた脂肪は、ドレスの外の手首や足首にはみ出ている。

「だけど、もちろん」と夫人は急いで話し続ける。これは夫人お気に入りの話題だから熱心になる。

「私は息子自慢したいわけではないの。母親にも運がいいとか悪いとかあるの。与えられた境遇というのは、その人にふさわしいものなのだから、文句は言えないわ。あなた、これからのピーターに注目してね。正直に言ってしまうと、あの子がアメリカで一番の建築家にならないはずがないわ。そうならないわけがないわ!」

ロークは立ち去ろうと体を動かす。

「私ったら、何をしているのかしら!無駄話したりして」と夫人は晴れやかに言う。

「ロークさん、急がないと。学部長さんがお待ちでしょ」と。

夫人はロークが網戸(あみど)を通って行く後ろ姿を見つめながら立っている。彼女の家の居間のきちんと整理された小綺麗さの中をロークのやせたひょろ長い姿が横切って行くのをじっと見つめている。

ロークが家の中にいるのを見ると、夫人はいつも不快になる。彼はかすかな不安感を与えるから。突然ロークが腕を大きく振り、コーヒー・テーブルや陶磁器(とうじき)や写真立てを粉々にするのではないかという不安感だ。ロークにそんなことをする傾向は皆無だったのに。なのに、夫人はロークの暴力が表出されるのを期待してきた。なぜかはわからないままに。

ロークは二階に上がり自室に入る。その部屋は広くて、がらんとしている。壁に塗られた白色のしっくいの清潔な輝きだけが明るい部屋だ。

キーティング夫人は、ロークがそこに住んでいるという感じを持ったことがない。ロークは、夫人が下宿部屋用にしつらえた最低限必要な家具に、ひとつなりとも彼自身の家具を加えなかった。絵も飾らなかった。

ロークは、自分の衣類と建築の図面以外は何も部屋に持ち込まなかった。衣類はほとんどないが、図面は何枚も何枚もある。図面は、部屋の一画に高々と積み重ねられている。

キーティング夫人は、その何枚あるとも知れぬ図面が部屋の住人であると時々思う。人間はここには住んでいないと思う。

ロークは、これらの図面が積み上げられた部屋の一角に歩いてきたところだ。彼は、そこからまず一枚を取り上げる。それから次の図面を、それから別の図面を一枚ずつ取り上げる。それらの幅広い用紙を見つめてロークは立っている。

それらは、まだこの地上に建てられたことのない建築物の図面である。そこに描かれているのは、地上最初に生まれた人間によって建てられた地上最初の建築物に見える。その人間は、建築物のことなど全く知らないし聞いたこともないのに、この建物を建てたようだ。

何枚もの図面に描かれている建築物には共通の特徴がある。それらの構造は必然的にそうあるべき形を有しているという特徴が。

ロークの描く図面には努力の痕跡(こんせき)がない。描き手が、それを描くにあたって座り込んで大いに呻吟(しんぎん)した感じがない。

それらの建築物は、地面から自然に湧き出てきたように見える。何らかの生命力によって、完璧に、これ以上適切なことはありえないという状態で生み出されたように見える。

その図面の鋭い鉛筆書きの線は、まだまだ学ぶべきことが多い稚拙(ちせつ)さを残している。しかし、その線には、一つとして過剰なところがない。何か欠けているということもない。描かれている建築物の構造は単純で飾り気がない。

ただし、そう見えるのも、いかほどの仕事が、いかほどの複雑な手法が、いかほどの緊張した思考が、その単純さと飾り気の無さというものを生み出せるのか、よくよく理解できるようになるまでのことだ。

よほどの見識がある人間にしかわからない水準の高い単純さと飾り気のなさだ。

その図面に描かれているものは、どれも、細部のひとつさえも、どの法則もあてはまらない。ロークが描く建築物は古典様式でもない。ゴシック様式でもない。ルネサンス様式でもない。それはまさにハワード・ローク様式である。

図面を一枚一枚見直していたロークが、ある図面のところで、動きをとめる。その図面に、ロークは満足したことがない。どうにも納得できない一枚だった。

ロークは、大学の課題とは別に自分に課す訓練としてこの図面を描いた。ある敷地を目にして、立ち止まってどんな建造物がその場所にふさわしいか考え、これを描いた。何が足りないのか考えるために、その図面を凝視するだけで幾晩も過ごしたこともあった。今、またそれを見ている。そして、何が間違っていたのか、ロークは不意に唐突にわかった。

ロークはテーブルにその図面を放り出すように置く。かがみこむ。自分が描いた端正な図にいくつもの直線を引く。しばらくしてから描きやめる。またそれをじっと見つめる。

1時間ほどして、ロークは誰かがドアをノックする音を聞く。

「どうぞ!」作業をやめずに、彼は答える。

「ロークさん!」ドアにキーティング夫人が立っている。彼のやっていることを見て、息を呑んでいる。

「あなた、いったい何をしているの?」。

ロークは振り返る。夫人が誰だったか思い出そうとするかのように彼女を見つめる。

「学部長さんはどうなったの。学部長さんがあなたを待ってらっしゃるんじゃないの」

「ああ、そうでしたね、忘れていました」

「忘れていたですって?」

「はい」

そう答えるロークの声には、夫人の驚きように驚いたといった響きがある。

夫人は、咽が詰まったかのように言う。

「あのね、私に申し上げられることはね、学部長さんにお会いになることはあなたのためになるってことなの。4時半には卒業式が始まるから、学部長さんにはあなたに割く時間がそうあるとは思えないでしょう?」

「すぐ行きます」

親切にせよ、お節介(せっかい)にせよ、このように夫人を行動させたのは、彼女の好奇心だけではない。夫人には、大学の理事会がローク放校の決定を覆(くつがえ)すかもしれないという密かな恐怖がある。

ロークは、二階の廊下の突き当たりにあるバスルームに寄る。

夫人は、ロークが手を洗い、乱れたまっすぐの髪を、なんとかきちんと見える程度に直しているのをじっと見ている。ロークがバスルームから出て、階段を降りようとした時、夫人はそのまま彼が外出するつもりなのに気がつく。夫人は、彼の衣服を指差して言う。

「ロークさん、あなたその格好で行くつもり?」

「いけませんか?」

「だって、あなた学部長さんですよ!」

「他に着るものないですから」

この子は、なんでこんなに嬉しそうに、そんなことを言えるのかと、夫人は呆れる。

(訳者コメント)

主人公が、ガハハハと笑っているところから始まっている。主人公は脳天気に笑っている。

大学(大学院もしれない。School of Architectureだと大学院だけれど、3年間在学していたのだから、おそらく学部の3年生であろう。あえて大学の建築学部と訳した)を、あと1年で終了するのに。

自分がすることが何であるかを明確に把握している人間のあっけらかんとした明るさ。

わざわざ、明るく振る舞うことすら必要ないほんとの根アカな主人公出現。

根アカとか根暗とかの分類を超えた存在。

この青年は、大自然と拮抗するかのように崖の先端に全裸で立っている。

眼下の湖を見下ろしても、自然の雄大な風景に圧倒などされない。

自然の雄大さと自分の卑小さを比べるなんてしない。

どんなに自然が雄大でも、その自然の雄大さを意識して感じる人間の意識がなければ、自然など存在しないのと同じだ。

意識者がいなければ、存在しないのと同じだ。

主人公のハワード・ロークの心は、雄大なアメリカの東海岸の自然を呑み込むほどに大きい。

自然の花崗岩や樹々を見れば、それを建築にどう利用できるか考えるロークに、自然を恐怖する心性はない。

自然を崇拝していたって、しかたない。

その自然に対峙して、自然の脅威に抗いながら、自然を活用して文明を構築してきたのが、人類なのだから。

後世のエコロジーなんか蹴飛ばすロークは痛快だ。

私は、自分の心が萎縮しているなあと意識すると、この小説の冒頭のあっけらかんと徒手空拳で全裸で立つロークの姿をイメージする。

何をチマチマ考えているんだ、1度の人生を小さく縮こまって生きてどうするんだ、と思い返す。

ここに出てくる下宿の女主人のキーティング夫人のロークに対する悪意も面白い。

こういう女性って多いよね。

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