ある朝、ワイナンドはロークの事務所に電話する。
「ハワード、今日いっしょに昼飯を食えるかな?三十分後にノードランド・ホテルで会おう」
三十分後、ワイナンドは、ホテルのレストランのテーブル越しにロークと体面し、微笑みながら肩をすくめ、こう言う。
「何でもないんだ、ハワード。特に理由はない。ただ、ムカムカする三十分を過ごしたものだから、その後味の悪さを取りたくて」
「どんなムカムカする三十分でしたか?」
「ランスロット・クロウキーと並んで写真を撮った」
「ランスロット・クロウキーって誰ですか?」
ワイナンドは大声で笑う。いつもの抑制された優雅さを忘れて爆笑する。給仕のびっくりした眼差しなど意に介さない。
「それだよ、ハワード。だから、俺は君と昼飯が食べたかったんだ。君にかかると、何でも、そんな具合に言われてしまうなあ」
「どうかしたのですか、その人物が?」
「本は読まないのか、君は?ほんとに知らないのか?ランスロット・クロウキーというのは、いわゆる『われらが時代における国際世界の最も鋭い観察者』だ。これは、批評家がうちの『バナー』に書いていた言葉でね。ランスロット・クロウキーは、どこかの組織か何かに、今年の作家として選ばれたばかりだ。日曜版の付録で、うちの新聞が彼の伝記を連載している。だから、俺はそいつの肩に手を回してポーズを決めなければならなかったというわけだ。そいつはシルクのシャツを着て、ジンの匂いをさせていたよ。そいつの二作目というのが、子ども時代の思い出を書いたやつで、その子ども時代の体験が、国際世界で起きていることを理解する基礎になったとか、そんなことを書いた本だ。十万部売れたそうだ。しかし、君はそんな名前など聞いたことないときた。食えよ。昼飯食えよ、ハワード。俺は、君がものを食う姿を眺めるのが好きだ。君がもう一度失業するといいなあ。そうしたら、俺は毎日でも昼飯を君に食わせることができるのになあ」
夕暮れどき、仕事が終わる頃に、ひょっこり予告もなしにワイナンドがロークの事務所か、彼のアパートに来ることも、よくあった。ロークのアパートは彼自身が設計したエンライト・ハウスにある。イースト・リヴァー沿いに建てられた結晶体の形をした集合住宅のひとつに彼は住んでいる。
ロークのアパートは、仕事部屋と図書室と寝室でできている。家具は自分でデザインしたものばかりだ。ワイナンドは、長い間わからなかった。なぜ、ロークのアパートが彼に贅沢な印象を与えるのか、その理由がわからなかった。
だが、ロークの部屋の家具というのは人の目に入らないのだと気づいて、その理由がやっとわかった。ロークのアパートには、ただただ清潔な空間の広がりが在る。達成するのが容易ではないような簡素さという贅沢が、実現されている。いくら金がかかっているかという観点から言えば、ロークのアパートは、ワイナンドがこの二五年間で足を踏み入れた住居の中でももっとも質素で慎ましいものだったのだが。
「ハワード、俺たちは同じような境遇から人生を始めた」と、ワイナンドはロークの部屋を一瞥(いちべつ)しながら言う。
「俺の判断と体験から言えば、君は横丁の溝あたりにくすぶっているのが当然の人間なんだ。しかし、君はそうはならなかった。この部屋が好きだよ、俺は。ここに座っているのも好きだ」
「僕も、あなたがここにいるのを見るのが好きですよ」
「ハワード、君は、ひとりの人間に支配力をふるったことがあるか?」
「ないです。そうする機会を与えられても、それはしないでしょう、僕は」
「俺には信じられないな」
「一度、その機会を提供されたことがありましたよ、ゲイル。でも僕は断りました」
ワイナンドは、いたく好奇心を刺激されて、ロークの顔を見つめる。なぜならば、ロークの声のなかに、ロークが感情を抑制すべく努力しているような響きがこめられていたからだ。そんな響きをロークの声から聞くのは初めてだった。
「なぜだ?」
「そうしなければならなかったのです」
「その男への尊敬のためか?」
「女でした、相手は」
「ええ?馬鹿だなあ、君は。女への尊敬からだって?」
「僕自身への尊敬からですよ」
「俺にはわからんね。わからせようとしても無駄だぜ。俺たちは、これ以上ないっていうほど正反対な人間だな」
「僕も前はそう思っていましたが。そう思いたかったのですが」
「今はそうではないのか?」
「今はそうではありません」
「俺が犯してきたあらゆる行為を君は軽蔑しないのか?」
「僕が知っている限りの、あなたがしてきた行為についてはね」
「なのに、まだ君は、この部屋に俺がいるのを見るのが好きなのか」
「はい。ゲイル、かつてあなたのことを特別な悪の権化(ごんげ)と考えていた男がいました。彼は、あなたのことを、彼自身や僕を破滅させる邪悪さの象徴だと考えていました。彼は、彼の持つあなたへの憎しみを、僕に残していきました。ほかにももうひとつ理由があって、ともかく、そのふたつの理由から、僕はあなたを憎んでいると思いこんでいました。あなたに会うまでは」
「君が俺を憎んでいたということは俺も知っていた。何が君の感情を変えた?」
「それをあなたに説明することはできません」
ワイナンドとロークが、ワイナンド邸の建設工事がされているコネティカットの地所に、いっしょに自動車を駆って出かけることもあった。その頃にはすでに、凍った地面から邸宅の壁が立ち上がっていた。
ロークが、未来の邸宅の部屋を回って歩く後をワイナンドはついて行く。ロークが作業員にいろいろ指示を与えるのを、脇に立ってじっと見つめる。
ときどき、この建設現場にワイナンドひとりで来ることもある。作業員たちは、一台の黒いロードスターがくねくね曲がった道を昇り、現場のある山の頂(いただき)までやってくるのを目にしたものだ。ワイナンドの姿が少し離れたところに立ち、建設中の骨組みなど眺めているのを目にしたものだ。
そうしているワイナンドの姿には、彼の社会的立場を示唆するあらゆるものが、いつも漂っていた。彼の身に着けているコートの静かな優雅さ、帽子の角度、自信に満ちたその姿勢、張り詰めて緊張していながら、気楽でさりげないその姿勢。
これらの全てが、「ワイナンド帝国」を思わせた。北アメリカ大陸の東海岸から西海岸までとどろき渡る出版界の帝国だ。ツヤツヤと光沢のある表紙で飾られる雑誌の帝国だ。映画館で、映画の合間にニュース映画をいっぱいに映し出す映像という光線の帝国だ。世界中に巻かれる電信線の帝国だ。世界のありとあらゆる場所、あらゆる首都に、その帝国の力は流入する。あらゆる秘密の重要なことが決定される部屋の中に、昼と夜とを問わず、この男、ゲイル・ワイナンドの生きる刻々の時間を通して、その帝国の力は流入する。
この男の人生の一秒一秒は、なんと値段の高いものだろうか。今、この男は洗濯物をしているときの水のような灰色の空を背景にじっと立っている。この男のかぶっている帽子の縁に雪のかけらがゆっくりと舞っている。
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