ゲイル・ワイナンドは執務室の机に向かい、大家族を養うことに関する道徳的価値について説く論説のゲラを読んでいる。
その論説の文章ときたら、散々噛まれたチューインガムだ。クチャクチャに噛まれ、また噛まれ、吐き出されたものの、誰かにまた取り上げられて噛まれたチューインガムだ。陳腐でさんざん繰り返されてきた言葉の羅列だ。
こんなとき、ワイナンドはハワード・ロークのことを思い出す。それから、また『バナー』のゲラを読み始める。ロークのことを思い出したから、さっきより仕事が楽に感じられる。
「優美さとは若き娘の最大の財産です。必ず毎晩、下着は洗いましょう。教養ある話題をいくつかはお話できるように勉強しておきましょう。そうすれば、あなたが望むままのデートができるでしょう」
「明日のあなたの星座は、慈善の座にあります。勤勉さと誠実さが、工学や公認会計やロマンスの分野で大いなる報酬をもたらすでしょう」
「ハンティングトン=コールズ夫人のご趣味は、ガーデニングとオペラに、アメリカ植民地時代の砂糖入れの蒐集です。夫人はご自分の時間を、幼いご子息であるキットちゃんのお世話と、数え切れないくらいの慈善活動に振り分けておられます」
「あたいは、ただのミリー。ただの孤児(みなしご)」
「完璧なるダイエットをお望みの方々へ。十セントと宛名を書き、切手を貼った返信用封筒をご同封の上、こちらにお送り下さい」
ワイナンドは、こうした文章のゲラを何枚も何枚もめくっていく。ハワード・ロークのことを考えながら、めくっていく。
ゲイル・ワイナンドは、クリーム・オー・プリン社との契約に署名した。ワイナンド系列の新聞のすべてに、毎週の日曜版ごとに二ページ丸まる使った広告を載せるという契約である。
ワイナンドの執務机の前にいる契約相手の会社の面々は、肉でできた凱旋門(がいせんもん)のごとく鎮座(ちんざ)していた。彼らは、ワイナンドにとっては勝利の記念碑ともいえる。忍耐と計算を繰り返してきた幾晩かが勝利をおさめたのだ。高級レストランでの接待や、喉に流し込まれる酒のグラスや、何ヶ月もの思案に、ワイナンド自身が発揮した活力が勝利をおさめたのだ。
ワイナンドの生き生きとした活力は、グラスの中の液体のように契約相手のプリン会社の面々の厚い唇の開口部に流れ注ぎ、その短くて太い指の中に流れ込み、この執務机を超え、毎週の日曜版二ページ分の広告へと変化することになった。イチゴで飾られた黄色いプリンやバターと赤砂糖のカラメル・ソースがたっぷりかけられた黄色いプリンの大きな絵となって、ワイナンドの新聞の紙面を飾ることになった。
ワイナンドは、彼らの頭越しに見る。執務室の壁に飾られた写真を見る。そこには、空と川と、ある男の顔が写っている。大空に向けられたロークの顔が写っている。
しかし、心が痛いとワイナンドは思う。ロークのことを思うと心が痛い。彼のことを思えば、確かに様々な仕事はするのが容易になる。仕事上関わらなければならない人々も、記事のチェックも、大企業との広告掲載契約も、みな簡単で単純なことに感じられる。
そうだ、ロークのことを考えると心が痛くなるからこそ、他のことが容易に感じられるのだ。痛みは刺激剤でもある。
ワイナンドは思う。ひょっとしたら、俺は、あの名前、ロークの名前を憎んでいるのではないだろうか?俺は、彼の名前を憎み続けるのだろうか?これこそ、俺が耐えたい痛みなのかもしれない。
そのあと、自宅のペントハウスで、ロークに直(じか)に対面しながら座っているときは、ワイナンドは痛みを感じない。大声で笑いたい欲望を悪意も敵意も全くなく感じる。
「ハワード、君が今まで君の人生でしてきたことは、人類が理想としてきた形からするとまちがっている。しかし、こうして君は現に存在している。この事実は、全世界にとってとてつもない冗談に思えるね」
ロークは、暖炉のそばの肘掛け椅子に座っている。暖炉の火の輝きが、ワイナンドの書斎のあちこちを移動している。書斎に置かれているあらゆるものの周辺を暖炉の火の灯りが曲線を描いて照らし出す。そうすることが嬉しくてたまらないかのように煌々(こうこう)と照らし出す。このような贅を尽くした書斎を手にすることを成し遂げた男の趣味の良さに太鼓判を押すかのように、照らし出す。
ワイナンドとロークは、今ふたりきりでいる。夕食後、ドミニクは同席を遠慮した。ロークとふたりきりでいたい夫の気持を察したからである。
「君は、我々全てにとっての冗談だ」とワイナンドは話し続けている。
「君は、そのあたりを歩いているあらゆる人間にとっての冗談だ。俺は、今でもいつも街をゆく人々を眺めている。前には地下鉄にもよく乗っていた。世間の連中のうちどれくらいが、うちの『バナー』を持っているかどうか調べるためにね。俺はその連中を憎みもするし、時々は恐れもしたものだけど、今じゃあ、誰を見たってこう言いたくなる。『おい、おまえなんか、かわいそうな馬鹿じゃないか!』ってね。それだけしか感じないんだ、今では」
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