第4部(12)ロークのオフィスにワイナンド来訪

受付室の秘書は驚愕(きょうがく)して、その貴族的な風貌をした紳士を見つめた。何度も新聞などで見たことがある顔だ。

「ゲイル・ワイナンドと申します」と、その紳士は自己紹介のつもりか軽く会釈して言う。

「ロークさんに是非お会いしたいのですが。ご都合が良ければですが。もしお忙しいようでしたらば、私のことはお伝え下さらなくて構いません。約束しておりませんので」

秘書は、ワイナンドが予告もなしにこの事務所にやって来ることなど予想もしていなかった。このような重々しい丁重な調子でワイナンドが面会を求めてくることも予想していなかった。

秘書は、訪問者のことをロークに知らせた。ロークが微笑みながら、すぐに受付室にやって来た。この訪問に異常なことなど何もないと思っているかのような、ごく自然な態度である。

「こんにちは、ゲイル、お入りください」

「やあ、ハワード」

ワイナンドはロークの後に続き、彼の仕事部屋に入る。大きな窓の向こうに、昼下がりの陽の陰りが、マンハッタンの眺望を空に溶けているかのように見せている。雪が降っている。黒い斑点のようなものが乱舞している。マンハッタンの眺望のあちこちに見える灯りを、激しい勢いで横切っている。

「ハワード、君が忙しいならば邪魔したくはないんだ。大事な用件があるわけではないから」ワイナンドは、自宅での晩餐以来、五日間ほどロークに会っていなかった。

「忙しくないです。コート脱いだらいかがですか。図面持ってきましょうか?」

「いいんだ。家のことを話したいわけではないから。本当のこと言うと、用事など何もないのに来た。一日中仕事していたものだから、いささかうんざりしてしまって、ここに来たいような気分になった」

ワイナンドはロークの仕事机の端の方に置いてある椅子に腰掛ける。自分の執務室ではついぞ感じたことのない気楽な姿勢で、ワイナンドは座る。ポケットに両手を突っ込み、片方の脚をぶらぶらさせる。

「ハワード、君に話しかけるのは、ほとんど必要ないな。君を見ていると私自身のコピーみたいなだと、いつも思うよ。しかも、私のコピーである君は、オリジナルの私がこれから先に見るであろうものを、すでに見てしまっているという感じもする。君は、私が口に出すあらゆることが前もって聞こえるみたいだしな」

ワイナンドの視線が、ロークの仕事部屋をゆっくりめぐる。

「もし、私たちが言うところの『イエス』を、ここにある事物に私たちが与えるとしたら、やはりこの仕事部屋を私が所有しているということになるのかな?」

「そうなれば、やはりあなたが所有することになります」

「ここで私が何を感じているか、君わかるか?いや、寛いで自分の家にいるみたいだと言う気はないよ・・・まだヘルズ・キッチンにいた頃に感じたような気分がしている。あそこで過ごした日々の中でも最上の日々の頃の感じだ。そんな日なんて、何日もあったわけではないのだが。しかし、時々は・・・こんなふうに座っていたりすると・・・波止場のそばの壊れた壁のかけらがあって・・・私の頭の上には星が沢山またたいていて、周りには濡れて湿った積荷(つみに)があって、ハドソン河は腐りかけた貝の匂いがしていて・・・ハワード、君は過去を振り返ったりするとき、まるで過ぎた日々の全部が均一に回転して目の前を過ぎていくような気がしないか?タイプライターに挟まれた用紙の動きのように均一に。もしくは、それが点のように見えることもあるな。たどり着いた点みたいに。それから、またタイプライターにはさまれた紙のように回転していくわけだ」

「ここがたどり着いた点だな、と思うことはあります」

「そんなとき、君はそれがちゃんとわかるわけだな?それが何であるか、わかるわけだな、人生でたどり着いたある一点だと、わかるわけだな?」

「ええ」

「私にはわからない。後になってから、ああ、あの時こそが、その到着点だったのかとわかることはあったが。しかし、なぜ、その時にはわからないのかなあ。昔こういう瞬間があった。私は、あのとき十二歳だった。壁を背にして、殺されるのを待ちながら立っていた。そのときの私にわかっていたことは、俺が殺されるわけがない、ということだけだった。後になってから、そう思ったわけではないよ。喧嘩の最中に思ったわけでもない。ただ、待っているとき、その一瞬にそう思ったんだ。しかし、なんで、あの時のこと、あの一瞬のことを思い出すのかなあ。なんで、あの時のことが、後になってから何度も思い出す一点となるのか、理由がわからない。そしてなぜあの一点、あの人生の一瞬を私が誇りに感じているのか、その理由がわからない。あの時のことを、なぜ私はここで思い出すのだろう。わからないなあ」

「その理由などさぐることはないですよ」

「君には、その理由がわかるのか?」

「言ったでしょう。理由など知る必要はないです」

「私は、自分の過去についてずっと考えてきた・・・君と会って以来ずっと。過去のことなどいっさい振り返らずに何年間も過ごしてきたのに。いや、いや、君がそこから導き出せるような秘密の結論などというものはないよ。こんなふうに過去を振り返ったからといって、それが私の感情を傷つけることにはならないからね。しかし、過去を振り返ったからといって、気分がいいわけでもない。ただ、過ぎ去った日々を振り返って眺めているだけなのだが・・・何かを求めるとか探しているわけでもなく、思い出の中を旅しているわけでもない。ただ、でたらめに行き当たりばったり、歩き回っているような感じなんだ。宵闇(よいやみ)の中を田舎道で迷って歩き回っているような、で、少し疲れを感じているような・・・なぜ、君にこんな話をするのかと言うと、君にいささか関係があるからなのだ。その関係というのは、君のことがいつも私の心に去来(きょらい)しているからでね。過去の中をさ迷っていても、私の心はいつも君のところに戻っていくんだ。君と私は、同じような境遇で人生を始めたということが、ずっと私の頭から離れない。同じ点から私たちは出発した。徒手(としゅ)空拳(くうけん)から始めた。そのことが、私の頭から離れない。それを、どうこう言うつもりはない。そのことに何か特別な意味があるとは思えないからな。ただ、『君と私は同じような境遇で人生を始めた』・・・それが何を意味するのか、君にはわかるか?」

「いいえ」

ワイナンドは、ロークの仕事部屋をざっと見回す・・・ファイルの整理棚の上に新聞が乗っていることに気がつく。

「いったい、ここの誰が『バナー』を読むんだ?」

「僕ですよ」

「いつから?」

「ひと月前からですよ」

「サディズムからか?」

「いえ、単なる好奇心から」

ワイナンドは椅子から立ち上がり、新聞を取り上げ、各ページにざっと視線を走らせる。一箇所のところで彼は目を留め、クスクス笑う。彼は、そのページを掲げる。そこには、博覧会「世紀の行進」のために建設された建物の写真が載せられている。

「ひどいねえ?」と、ワイナンドは言う。

「うちの新聞もなあ、こんなひどいしろものを売り込まなければならないとはね。吐き気がするよ。しかし、君があの博覧会の責任者連中に言ってのけた話を思い出すと、気分がよくなる」

と、言いながらワイナンドはまたクスクス笑う。

「君は、協力して設計することはしないし合作(がっさく)もしない、と連中に言ったんだろう?」

「ゲイル、僕がそう言ったのは、ハッタリとかそういう類からではありませんよ。わかりすぎるくらい、はっきりとした常識を言っただけです。人は自分自身の仕事で合作などできません。あの人たちのいわゆる協力と言うやつですが、私が設計した建物を建てるために作業員と協力するということはできます。しかし、彼らが煉瓦を積む手伝いは僕にはできません。同じく僕が設計するのを彼らが手助けすることもできません」

「私は、あの博覧会の責任者の連中のことを載せるスペースを、うちの新聞に設けるよう強要されたよ。しかし、まあそんなことはどうでもいい。ともあれ、君は、あの連中の顔に平手打ちを食わせてやったわけだ」

ワイナンドは、怒るわけでもなく新聞を脇にどける。

「こういうのは、今日私が出席しなければならなかった昼食会みたいなものだな。広告会社の全米総会があってね。私は、うちの新聞に連中が広告を依頼するように、私の評判を大いに高めておく作業をしなければならなかった。チョコマカあちこちに挨拶しまくって体を動かしたり、くねらせたり、馬鹿話したりしてね。全くもってうんざりしたよ。おかげで苛々と血が騒いでしまって、誰でもいいから脳天をぶち割りたくなった。そのとき、君のことを思い出した。私はこんなに苛々しているが、君は、こういう類の状況になっても何も感じない奴だなと思い出したわけだ。どんな意味でも君は影響されない。広告会社の全米総会なんてものは、君に関する限り存在しないのと同じだ。そんなものは、君にとっては、いっさい意志の疎通ができない四次元か何かの世界にあるようなものだろう。そう思ったら、私は一種特別な解放感を感じた。ホッとしたんだ」

ワイナンドはファイルの整理棚にもたれて、両の脚を前方にすべらせる。腕を組んでいる。それから、静かに優しくワイナンドは語りだす。

「ハワード、私は一度だけ子猫を飼ったことがある。そいつは勝手に私にくっついてきた・・・ノミだらけの小さな獣さ。そいつは溝に落ちていた。皮と骨だらけで、泥だらけで・・・そいつは、私の家までついてきた。私はその猫に餌はやったが、蹴飛ばして追い出した。でも、翌日になると、またそいつが現れて私の後をついてきた。おしまいには、とうとうその猫を飼うことにした。そのとき私は十七歳で、『ガゼット』で働いている時だった。特別なやり方だが、その新聞社で仕事を覚えている最中だった。私が人生で学ばなければならなかった特別なやり方でね。ちゃんと仕事も覚えてうまくやっていたんだが、まあ全部うまくやりおおせたとは言えない時もあったよ。かなり危ない時、まずい時だって何度もあった。そういうことが起きるのは、いつも夕暮れの頃だった。一度、自殺したくなったこともあった。怒りのためじゃない。怒りがあったからこそ、私はもっと働く気になったからな。恐怖のせいでもなかった。なんで自殺したくなったかといえば、それは嘔吐(おうと)感のためだったんだよ、ハワード。もう吐き気がするような、うんざりした思いにとりつかれてね。まるで全世界が水面下にあり、その水は澱んでいて流れないという感じだった。その水は下水管から逆流して、あらゆるものを飲みつくし、空や私の脳までも食らうような、そんな感覚だ。そう感じさせるような、心底うんざりするような嘔吐感さ。そんな時、俺は子猫を見た。この猫は、俺が嫌悪するような事など何も知らないんだなと、そのとき思った。この猫は、そんなこと意識することもできないんだって。あの子猫は清潔だった。清浄だった。絶対的な意味で清潔だった。なぜならば、猫には世界の醜悪さを感知するだけの能力などないからな。猫のあの小さな脳の内部の意識の状態を想像しようとしたり、子猫の生きてはいるが、ただ清潔で自由なだけの意識を共有しようとすることに、どんな解放感や安堵感があるのかって?そんなことはわからない。ただ、俺は床に寝転がって、猫の腹の上に自分の顔を乗せて、その小さな生き物の鼓動を聞いていた。そうしているうちに気分がよくなった・・・そこなんだな、ハワード。君のこの仕事場は、あの腐りかけた貝の匂いのする波止場だ。君は、少年の頃の私の味方だった子猫だ。こんなとんでもない敬意の表現は冗談じゃないか?」

ロークは微笑む。ワイナンドは、ロークのこの微笑が喜びの印であることが、わかっている。

ワイナンドは窓辺まで歩き、外の風景を眺めながら立つ。

「一体全体、なんで私はこんなことを言っているのかな。わけがわからん。ここ最近は、私の人生の中でも最初と言っていいくらい幸福な毎日だった。私が君と面会したのは、私の現在の幸福の記念碑を建てたかったからだった。私がここに来るのは安らぎを見つけるためだ。そして、ちゃんと私は、それを見つけることができた。にもかかわらず、こんなことを私は話している。いいんだ、気にしないでくれ・・・しかし、いやな天気だな。君はもう仕事は片付けたのか?ここでしなければならない仕事はすませたのか」

「ええ。ちょうどすませたところです」

「いっしょにメシでも食べに行かないか。この近所でいいから」

「いいですね」

「電話使っていいか?ドミニクに、夕飯はすませてくると言っておかないと」

ワイナンドは電話番号を回す。

ロークは、製図室のドアの方に移動する。事務所を出る前に部下に指示を与えておかねばならなかったから。しかし、ついロークはドアのところで立ち止まってしまう。立ち止まって、聞き耳を立てることが止められない。

「もしもし、ドミニク?・・・そうなんだ・・・疲れているのかい・・・いや、そうじゃないよ。何か君の声がそんな感じだったから・・・今晩メシは家でとらない。いいだろう、ね?・・・ちょっとわからないなあ、遅くなるかもしれない・・・うん、マンハッタンで食べる・・・違うんだ、ハワード・ロークとメシを食べる・・・もしもしドミニク?・・・そう・・・何だって?・・・彼の事務所から電話している・・・じゃあ」

ワイナンドは、受話器を置く。

 

自宅のペントハウスの書斎兼図書室で、ドミニクは電話に手を置いたまま立ちつくしている。まるでまだ電話が繋がっているかのように。

ロークに再会して以来の五日と五夜、ドミニクはひとつの欲望と戦ってきた。ロークのところに行くという欲望である。ふたりきりでロークに会いたいという欲望である・・・どこでもいい、どこかで・・・ロークの部屋でもいいし、事務所でもいいし、そのへんの通りでもいいから・・・ただ一言言葉をかわすためだけでいい。一目会うだけでいいから・・・ともかく、ロークとふたりきりで。

しかし、ドミニクは行動に移すことができなかった。もう、彼女が行動すべき分の割り当てはないのだ。今度は、ロークが自分のところに来るべきなのだ。もしロークがそれを望むのならば。ロークがいつか自分からやってくると、ドミニクにはわかっていた。ロークは、ドミニクに待っていてもらいたいのだと彼女はわかっていた。だから、ドミニクは待っている。待ってきたのだ。それでも、ドミニクはひとつの思(し)惟(い)にすがってしまっている。ある住所に。コード・ビルの中にあるロークの事務所の住所に。

ドミニクは受話器の取っ手をつかみながら、じっと立っている。ロークの事務所に行く権利など私にはないのだと、ドミニクは思う。しかし、ゲイル・ワイナンドにはある。

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