自宅のペントハウスに帰ってきたワイナンドをドミニクが迎える。
「ゲイル、どうなさったの?」
「え?どうって?」
「なにか嬉しそうに見えますもの」
「『軽やかな気分』と言う方が近いな。うん、今の私は、確かに気分が軽やかだ。三十年ぶりに軽やかな気分だ。三十年前の自分になりたいということではないがね。なれるはずもないが。今の気分が意味するところで言えば、もとのままにもどったという感覚かな。現在のままで最初の地点に戻ったという感覚。実に非論理的で、ありえないことだが、しかし、これは素晴らしいね」
「どなたかに会ったということではありませんこと?女性かしら?」
「確かに会ったよ。しかし女性ではない。男だ。ドミニク、今夜の君は綺麗だね。しかし、こんなことはいつも言っているな。こんなことが言いたかったことではないのだが。そうだ、言いたいことはこれだ。君が今夜はとても綺麗だから、私は実に気分がいい」
「ゲイル、ほんとうのところ何ですの?」
「何でもないよ。生きるってことは、なんて簡単なんだろうという感じがするだけさ。いかに多くのことがご大層に見えることか。でも実はまったく大したことじゃない。それがわかった気分さ」
ワイナンドはドミニクの手を取り、自分の唇にあてる。
「ドミニク、私たちの結婚が続くなんて奇跡だと考えることが、どうしても止められなかったよ、今までは。でも、もう信じられる。この結婚が壊れることはない。何が起ころうが、誰が現れようが」
ワイナンドの言葉を聞きながら、ドミニクはガラスの窓にもたれる。
「ドミニク、君に贈り物がある。私は、君にこの台詞はしょっちゅう言っているけれども、今度のは特別だ。今年の夏までには、君への贈り物を私は手にしていることだろう。私たちの家が完成するぞ」
「家?そのことについて、あなたは随分と長い間おっしゃらなかったですわね。もうお忘れになっていると、私は思っていました」
「実は、この半年、他のことは何ひとつ考えていなかったよ。君の気持は変わっていないかい?君はニューヨークから引っ越したいのだろう?」
「ええ、ゲイル。あなたがお望みでしたらば。もう建築家はお決めになりましたの?」
「それ以上のことすら、すでに済ませたよ。君に見せるべく設計図まで、もう用意できている」
「まあ、拝見したいわ」
「書斎に置いてある。来たまえ。君に見てもらいたい」
ドミニクは微笑んで、ワイナンドの手首を指でつかむ。ドミニクはワイナンドの後についていく。ワイナンドは書斎のドアを開け放したままにして、まずドミニクを先に書斎に通す。書斎には照明がともされている。ドアに面した机の上に完成予想図が立てかけられている。その予想図に書かれている署名を見るには、ドミニクの位置は机から離れすぎている。
しかし、その完成予想図を見たとき、ドミニクにはすぐにわかった。このような家を設計できる建築家がいるとしたら、誰であるのか、それができるただひとりの建築家が誰であるのか、すぐにわかった。
ドミニクの両肩が動く。円を描き、ゆっくりとねじれる。柱に縛られて、逃げる希望が絶たれてしまったかのように。しかし彼女の体だけは、本能的な最後のあがきの身振りをしているかのように。
ドミニクは思う。今、ゲイル・ワイナンドの目の前でロークの腕の中に自分がいたとしても、こうまで体がひどく震えることはないだろうと。この設計図は、ロークの生身の肉体よりも、もっとロークその人だった。ゲイル・ワイナンドという好敵手の力に呼応して創造された設計図だ。ドミニクは突然に理解した。これは必然的な出来事なのだ。こうならなければならない事態なのだ。
「まさか、こんなことが偶然であるはずはないわ」と、ドミニクはつぶやく。
「何だって?」
ワイナンドの質問には答えず、ドミニクは片手を伸ばしたまま、すべての会話を静かに拒否し、その図面のある場所まで歩いていく。カーペットに彼女の足音は吸い取られている。その図面の隅に、鋭い線で書かれた署名があるのが見える。「ハワード・ローク」とある。図面に描かれている邸宅の形よりも、その署名の方がまだ震えを生じさせないのだった。
その署名は、ドミニクにしっかりしろと告げるか細い一点だ。ドミニクへのロークからの無沙汰(ぶさた)の挨拶でもある。
「ドミニク?」
やっと彼女はワイナンドに顔を向ける。ワイナンドは、ドミニクの答えを彼女の表情の中に見出している。だからこう言った。
「君が気に入るということは、わかっていた。こういう不適切なやり方を勘弁してくれたまえ」
ドミニクは、ワイナンドの書斎に置かれたベッドにもなるソファまで行き、そこに腰を下ろす。クッションに背を押しつけて座る。クッションがあるおかげで、かろうじてまっすぐ座っていられる。
ドミニクは、ワイナンドをじっとみつめる。彼は暖炉の前面を囲むマントルピースにもたれ、からだの半分は机の上の図面に向いているのだが、ちょうどドミニクの前に立っている状態だ。ドミニクは、その図面を避けることなどできない。ワイナンドの顔は、その図面を映し出す鏡のように感じられる。
「ゲイル、お会いしたことあるの?」
「誰に?」
「この図面を描いた建築家に」
「もちろん、会ったさ。つい一時間前にも会っていた」
「最初にお会いになったのはいつ?」
「先月だな」
「この間、ずっとあなたはこの方を知っていらしたのね?・・・毎晩・・・お帰りになるときも・・・夕食のときも・・・」
「なんで君に言わなかったのかってこと?私は、君に、まずはこの図面を見せたかったから。こんなような家を私はずっと心に描いてきたが、他人に言葉でどう説明していいのかわからなかった。この世の中に、私が心から望むことを理解し、それを設計できる人間が実際にいるとは思えなかったのだ。しかし、彼は、それができた」
「彼って?」
「ハワード・ロークさ」
ドミニクはその名前を聞きたかった。ゲイル・ワイナンドによって発音されるその名前を聞きたかった。
「ゲイル、あなたは、なぜその方をお選びになったの?」
「アメリカ中を見て回ったんだ。私が気に入った建物は、みな彼によって設計されたものだった」
ドミニクは、ゆっくりうなずく。
「ドミニク、君が『バナー』にいたとき、いつも君が批判していた建築家を私は選んでしまった」
「私が書いたものをお読みになったのね」
「読んだ。君は批判するにも、奇妙なやり方をしていたがね。君は彼の仕事を高く評価しているにもかかわらず、個人的には彼を憎んでいることは明らかだった。しかし、ストッダード殿堂の公判では、彼のことを弁護もしたね」
「はい」
「一度は、彼のために働いたことさえある。あの彫像のことだよ、ドミニク。あれは、彼が設計した殿堂のために制作されたものだった」
「そうです」
「そこが不思議なのだ。ロークを弁護したことで、君は『バナー』を解雇されたじゃないか。私が彼に設計依頼したとき、私はそのことにまだ気づいていなかった。あの公判のことは知らなかったから。あのとき問題になった建築家の名前など忘れてしまっていた。ドミニク、ある意味では、彼のおかげで、私は君を獲得することができたのだよ。あの彫像だって、例の殿堂に置かれていたのだし。今度は、この図にあるような家を、彼は私に提供してくれるというわけだ。ドミニク、君はどうしてロークのことを憎んでいたのかな?」
「私はあの方を憎んでなどおりませんでした」
「では、昔のことはもう問題ではないと考えていいね?」
「私は、もう何年もあの方にはお会いしておりません」
「一時間もすれば会うことになるよ。今夜、うちに夕食に来ることになっている」
ドミニクは片手を動かす。その手がソファの肘掛けにらせん状の模様を描く。ちゃんと冷静にそういう動作が自分はできるのだと、自分自身を納得させるために、その動作をドミニクは続ける。
「ここに?」
「そうだ」
「あなたが、あの方を夕食にお招きしたのね?」
ワイナンドの顔に微笑が浮かぶ。この家に客を迎えることを、ワイナンドは好んでいない。だから、彼はこう答える。
「今回は別格だ。彼には来てもらいたいんだ。君はあまり、あいつのことは憶えていないだろうが・・・君を驚かせたくてね」
ドミニクはソファから立ち上がる。
「わかりましたわ。メイドに指示してきます。私も着替えなくては」
(第4部10 超訳おわり)
(訳者コメント)
ドミニクは、キーティングと離婚するためにネヴァダ州リノに向かう途中で降りたオハイオ州クレイトンで会って以来、ロークとは会っていない。
そのロークが、もうすぐ自宅にやって来る。
こういう展開は上手い。
アイン・ランドのstory telling の才能はすごい。
しかし、突っ込みどころはある。
ワイナンドほどの人間が、なんでドミニクとロークの関係に気がつかないのだろう?
ロークのことを私立探偵に調べさせたら、女性関係については何もわからなかったこと自体、おかしいと思わなかったのだろうか。
不在の顕現は、何かの存在を意図的に隠蔽しているのだ。
ドミニクは、ロークの設計したストッダード殿堂の彫像のモデルになった。
ドミニクは、裁判でロークを弁護するような証言をした。
ドミニクは、その前から自分のコラムでロークの建築を評価するようなしないような微妙な書き方をしていた。
ドミニクとロークの両方の人間を知っているワイナンドが、この二人が惹かれあわないはずがないと、気がつかないのがおかしい。
ワイナンド鈍い。
鈍過ぎる。
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