第4部(9) ワイナンドはローク脅迫に失敗する

ワイナンド邸の図面の用意ができた。ロークはワイナンドの執務室に電話した。一ヶ月間ほど、ワイナンドと話はしていなかった。

「ローク様、少しお待ちいただけますでしょうか」と、ワイナンドの秘書が言う。

ロークは待った。秘書の声が受話器に戻ってきて、社主が今日の午後に図面を持ってこちらに来ていただけないかと申しております、と告げた。秘書はワイナンドがロークに会う時間も告げた。ワイナンドが電話口に出ることはなかった。

ロークがワイナンドの執務室に入ると、ワイナンドは挨拶した。

「ご機嫌はいかがでしょうか、ロークさん」

彼の声は慇懃(いんぎん)で形式的だった。彼の無表情で儀礼的な顔つきから、一時はロークとの間に芽生えていた、あの親密さがすっかり消えている。

ロークは、ワイナンドに彼の未来の邸宅の図面を渡した。透視画法で大きく描かれた完成予想図も渡した。ワイナンドは、それぞれの図面をじっくりと検討した。長い間、図面を手に持って静止していた。それから、やっと彼は顔を上げて、言葉を発した。その声は、無礼なほどに礼儀正しい。

「ロークさん、私は非常に感じいっている。私は、初めてあなたにお会いしたときから、あなたには非常に感銘を受けてきました。ついては、私はあなたと特別な取引をさせていただきたい」

ワイナンドの視線はロークに向けられている。柔和さが強調された視線だ。ほとんど優しいといってもいい視線だ。まるでロークを用心深く取り扱いたいのだと言っているような、まなざしである。ワイナンド自身の目的のために、ロークを無傷なままにそっとしておきたいと思っているかのようだ。

ワイナンドは完成予想図を持ち上げ、二本の指の間にはさみ、その図の表面に照明の光がまっすぐあたるようにする。その白い用紙が一瞬の間だが、反射鏡のように輝き、そこに描かれた鉛筆の線をくっきり浮かび上がらせる。

ワイナンドは柔らかな口調で言う。

「君はこの屋敷が建てられた光景が見たいわけですね?非常に見たいわけですね?」

「はい」と、ロークが答える。

ワイナンドは、完成予想図を持っている手を動かさず、それをはさんでいる指だけを離す。彼の執務机の上に、その厚紙が落ちる。図が描かれている面を下にして落ちる。

「ロークさん、この家は建つでしょう。あなたが設計したとおりにね。この図に描かれているように、そのまま。ただし条件がひとつある」

ロークは、椅子の背もたれに身体をあずけて座っている。両手をポケットに入れて、注意深く、ワイナンドの次の言葉を待っている。

「ロークさん、どんな条件なのか、君は私に訊ねたくはないですか。結構。ではその条件を言おう。私が君に申し出る取引を君が受け入れるのならば、私も君のこの案を受け入れよう。私が将来建てることを請け負うすべてのビルの設計を担当する建築家に君がなるという契約に、私は署名したい。わかっているだろうが、これはなかなか厄介な課題だ。あえて言うが、建設関係の仕事ならば、この国の誰よりも私には支配権がある。君の職業についている人間ならば誰でも、私の専属の建築家になりたいと願ってきたはずだ。私は、その立場を君に提供したい。交換に、君はある条件を君自身に課さなければならなくなる。それらの条件を明らかにする前に、私としては、万が一、君が私の申し出を拒否した場合に、どんな結果が生じるかに関して指摘しておきたいと思う。君も噂で耳にしたことがあるだろうが、私は拒否されるのは好まない。私が所持している力というものは、二方向に作用できる。私にとっては、いとも簡単なことだ。この国のどこであろうと、君にいっさい設計の注文が来ない状態にするのはね。そうなっても、君の理解者というのは必ずいるだろう。しかし、大きな仕事を君に依頼できる、それなりの大物や大手企業の中には、建築業界に占める私の立場から来る圧力に耐えられるような者はひとりもいない。君は、仕事がなく才能を浪費する期間を経験したことがあったねえ、過去に。あんな程度のことは、何でもないことだったのだよ、私が君に課すことのできる障害に比べれば。君は、また花崗岩の採石場にもどらなければならなくなるかもしれない。ああ、そのことについてなら知っている。一九二八年の夏、コネティカットのフランコン採石場のことは。どうやって知ったかって?私立探偵を雇ったのだよ、ロークさん。そう、君は、また採石場にもどらなければならなくなるかもしれない。ただし、今度はどこの採石場も君を雇わない。私には、それが予測できる。さて、私が君から何を要求したいのか、じっくり話すとするか」

ゲイル・ワイナンドという男に関する噂の中で、このとき彼の顔に浮かんだ表情に関しては、まだ誰も口にしたことがなかった。その表情を目にしたことのある男は、ごく少数だったのだが、誰ひとりとしてその経験を口にすることはなかった。この表情を見たごく少数の男たちの第一号はドワイト・カーソンだった。今、このときのワイナンドの唇は開き、目はギラギラ光っている。それは、苦悶から生まれた肉感的な快楽の表情だ。ワイナンドの餌食(えじき)となる人間の苦しみと、彼自身の苦しみの両方から生まれる快楽の表情だ。

「私は、私が将来建てるであろう商業的建物の全部を君に設計してもらいたい。商業的建物が設計されるのならば、そうあってほしいと大衆が望むような商業的建物だ。だから、大衆の希望に応じて、君はロココ調のホテルも建てるし、半分グレコ様式のオフィス・ビルも設計するわけだ。君は、大衆の好みに選ばれた形の中で、それらとは全く相容れない君の才能を行使することになる。そうやって、君は私のために金を稼ぐことになる。君は君の素晴らしい才能を手にして、かつ、それを従順に馴らさなければならなくなる。創造性と従属の両立だ。世間はそれを調和と呼ぶだろう。君は君自身の領域において、私の心の中にある『バナー』、私があるべき姿と考えるところの『バナー』のエッセンスを創造する。『バナー』など創造するのに才能など無用だと君は考えるかい?しかし、君の未来の立場はそういう類のものになる。君が私の住居として設計した家は、君が設計したままに建てても構わない。しかし、それがこの地上で建つ最後のロークの建築だ。私の後で君に何かを依頼する人間などいない。君は、古代の支配者が自分の宮殿を設計した建築家を死に至らしめたといった史実を呼んだことがあるだろう。その支配者は、誰にも真似できないような名誉をその建築家に与えたのだよ、そうすることによって。古代では、建築家は殺されるか、両目をえぐられるかされたそうだが、現代では、その方法も違ってくる。君は、これからの生涯、ずっと大多数の人間たちの意志に従うしかなくなる。君と議論する気は私にはない。その機会を君に提供する気はない。私は、単にひとつの選択肢について述べているだけだ。君は、露骨で簡潔な言葉を理解できる人物だ。だから私ははっきり言う。君は、ひとつだけ選択できる。もし、君が私の申し出を拒否すれば、君は二度とふたたび何かまともな建物を手がけることはできなくなる。しかし、君が私の申し出を受諾すれば、君は君が建てられることを目にすることを切に願っているこの邸宅を君自身で建てることができるし、君が好まないにせよ、他の様々な建物を建てることができる。そうすれば、君も私も大儲けだ。君はこれから死ぬまで賃貸用の大規模な住宅地を設計することになるかもしれないな、ストーンリッジ開発のような。さて、これが、私が望むことというわけだ」

ワイナンドは前かがみになった。彼がよく知っているし、大いに楽しんでもきた反応のひとつを待っている姿勢だ。たとえば、怒りのまなざし。もしくは義憤(ぎふん)のまなざし。もしくは、激しくほとばしる誇りの表情。

「ええ、もちろん、喜んでお申し出を受けますよ。簡単なことです」とロークは陽気に答える。

ロークは手を伸ばし、ワイナンドの執務机の上から鉛筆を取り上げ、最初に手に触れた紙を手にした。堂々とした立派なレターヘッドのついた便箋だ。その便箋の裏に、彼は素早く何かを描いた。彼の手の動きは、なめらかで自信に満ちていた。便箋に向かって何事か描いているロークの顔をワイナンドは見つめる。皺ひとつない彼の額を見つめる。ロークの眉は直線を描いている。神経を集中させているが、その努力を苦にせずに楽しんでいる顔だ。

ロークは頭を上げ、机をへだてて座っているワイナンドに向かって、何かを描きつけていた便箋を投げつけた。

「これが、あなたのお望みのものですか?」

そこには、ワイナンドの邸宅が描かれていた。コロニアル様式のポーチに、腰折れ屋根に、二本の重量感のある煙突に、二、三の小さな柱形に、二、三の舵窓型の窓があらたに設けられている。それは、決して過去の様式を座興(ざきょう)でなぞったという類のものではなかった。どんな建築学の教授でも優れた趣味と呼ぶであろうような、あらゆる過去の様式の現代建築における翻案とも言うべき、きちんとした設計案であった。

「素晴らしいじゃないか、まさか!」

驚きのあまりワイナンドの息がとまったようだった。その反応は思わず出てしまった、といったもので直接的だ。

ロークは言う。

「だから、もう黙って下さい。もう二度と僕にあれこれ建築的提案など聞かせないでいただきたいですね」

ワイナンドは椅子に沈み込み、大きな声をたてて笑った。長い間、ワイナンドは笑い声をたてていた。笑いが止められないのだった。しかし、その声は、ほんとうに心から楽しんでいるようには聞こえなかった。

ロークは、疲れたように頭を振った。

「あなたは、ちゃんとはるかによくわかっているはずだ。そんなのは、僕にとっては通用しない古い手です。僕の非社交的な頑固さはよく知られていることだから、これは想定外でした。僕を誘惑することに時間を浪費するような人間が、この期(ご)に及んでも性懲りもなく現れるとは」

「ハワード、私は本気で言ったのだ。この図を見るまではね」

「あなたが本気で言っていることを僕は知っていました。しかし、あなたともあろう方が、それほど愚かになれるとは」

「とんでもない機会をつかみかけていたんだぞ。そのことを君はわかっていたのか?」

「全然わかっていませんでした。僕には信頼できる味方がいますから」

「味方って何だ?君の高潔さか?」

「あなたの高潔さですよ、ゲイル」

ワイナンドは執務机の表面に目を落とす。しばらく無言でいる。それから、やっと彼は言う。

「それは、どうかな。君の勘違いだ」

「そうは思えません」

ワイナンドは頭を上げる。疲れているように見える。彼の声が無頓着(むとんちゃく)に関心など何もないかのように、こう告げる。

「それが君のやり方かい。例のストッダード殿堂のときのような。『証拠提出辞退』か。あの公判のとき法廷にいあわせて、その言葉を聞きたかったものだ・・・君は、また再び、あの公判を私に投げつけたわけだね?」

「そう呼びたければ」

「しかし、今度は君の勝訴だな。君が勝っても私は嬉しくはないが」

「あなたが嬉しくはないということは、わかります」

「今までならば、私が、こんなに簡単に負けることはなかったろう。これは、ほんの事の始まりかもしれないな。私は、自分がさらにこれからも君に挑むだろうとわかっている。が、私は、そうしたいとは思わない。その理由は、君が多分最後まで持ちこたえるからではない。そうではなくて、私自身が最後まで持ちこたえることができないからだ。いや、私は嬉しいわけではない。このことで君に感謝しているわけではない・・・ただ、もうそんなことはどうでもいいことで・・・」

「ゲイル、あなたはどれだけ自分自身に嘘をつくことができるのですか?」

「私は嘘などついていない。私が君に言ったこと、あらゆることが真実だ」

「あなたが僕に言ったあらゆること・・・そうですね、それは真実でした。それは真実だということについては、僕は思い至っていませんでした」

「君は、君自身が考えることについては間違うのだな。君がここにいることも間違っている」

「あなたは僕をここから放り出したいのですか?」

「私にそれができないことは君も承知しているだろう」

ワイナンドの視線が、ロークから執務机の上に表面を下にして置かれたままの彼の邸宅の完成予想図に移る。一瞬の間だが、ワイナンドは何も描かれていない厚紙の裏を見つめながら、躊躇する。それから、厚紙を裏返しにし、完成予想図が描かれている面を表に向ける。それから静かに彼は言う。

「これについて私が考えていることを君に話そうか?」

「すでに、あなたは話してくださったでしょう」

「ハワード、君は前に、私の人生を表現するものとしての住居について話したことがあったな。君は、私の人生がこのような表現に値すると考えるのか?」

「はい」

「これは、君の正直な表現なのか?」

「僕の正直な表現ですよ、ゲイル。僕が心をこめて真摯に設計したものです。僕にとっては、これ以上のものはできないといっていいほどの表現です。将来、あなたと僕の間に何が起ころうとも、そんなことは問題ではない」

ワイナンドは完成予想図を執務机の上に置き、ロークが描いた何枚かの図面をじっと長い間見つめながら何事かを考えている。彼が頭を上げたとき、彼の表情は静かで落ち着いたものになっていた。

「君は、なぜ長い間、顔を見せなかった?なぜ来なかった?」

「あなたが私立探偵のことで忙しかったからですよ」

ワイナンドは大声で笑う。

「ああ、そのことか。その件については、昔からの癖がやめられなかっただけのことだ。興味津々(きょうみしんしん)だっただけのことだ。今じゃあ、私は君のことならば何でも知っているぞ。ただし女に関してはわからなかったが。それは、君が非常に慎み深かったか、あまり多くの女とは関わってこなかったか、どちらかだな。どこで調べても、その件に関しては情報を得ることができなかったよ」

「確かに、多くの女性は知りません」

「君に会えなかったので、私は寂しかったのだろうな。一種の代理行為だったわけだ、君の過去をあれこれ調べ上げたのは。君は、なぜ私のところに寄りつかなかったのかね?」

「そうしろと言ったじゃありませんか、あなたが」

「君は、他人から命令されたら、いつもそんなふうに素直に従うのか?」

「その命令が参考になると思えば、そうします」

「そうか、じゃあ命令を出すか。今夜、私の家に来て夕食をいっしょにしないか。この図面を妻に見せたい。今までのところ、このことは妻には何も言っていないのだ」

「奥様に、まだ話していらっしゃらないのですか?」

「ああ。だから、妻にこれを見せたい。君にも妻に会ってもらいたい。過去において、妻は君に対して、あまり親切とはいえなかったということは、私も知っている。妻がかつて君に関して書いたものを私も読んだからな。しかし、それも過ぎたことだ。もうそんなことは、どうでもいいことだと思うのだが」

「ええ。どうでもいいことです」

「じゃあ、来てくれるか?」

「はい」

(第4部9 超訳おわり)

(訳者コメント)

ここに挙げている画像は、映画版のシーンだ。

作者のアイン・ランドは、ローク役をゲーリー・クーパーが演じることを喜んだらしいが、私はこの男優が嫌いなんで残念だ。

どう見ても、この俳優さんは頭が悪そうに見えるが……

それはさておき、ゲイルワイナンドはハワード・ロークという人間に出会って、ロークに自分が負けていると、ほんとわかっている。

アメリカのメディア王であり不動産王であり、上院議員も電話一本で動かせるワイナンドは、素直に負けてはいられない。

だから、金と地位を餌にロークを脅す。

自分の専属建築家にならなければ、建築家として生きてはいけなくなるだろうと脅す。

今まで、いかに高潔に見えても、ワイナンドが提供する条件に抵抗できた人間は存在しなかったからだ。

しかし、ロークは、そんな卑劣なことをワイナンドがするはずがないと言って、ワイナンドの高潔さを信頼していると言って、ワイナンドの脅迫をかわす。

ワイナンドは、やっと自分の負けを認めるしかない。

まあ、甘い展開といえば甘い展開だ。

ゲイル・ワイナンドのような男なら、ロークを徹底的に潰すのがリアルなのだから。

しかし、ロークが指摘したように、そのような権力欲にまみれた俗物になり切れないのがゲイル・ワイナンドなのだ。

心の底で高潔さに憧れている「権力志向の俗物」という矛盾を生きているゲイル・ワイナンドという人間像は、非常に危うい。

いつか、その矛盾した生き方が破綻するような予感を読者は感じる。

ゲイル・ワイナンドは、ほんとうはロークやドミニクやマイク・ドニガンや彫刻家のスティーブン・マロリーたちの側の人間だ。

しかし、ロークたちとは正反対の世界に君臨できるまでに、ワイナンドは世俗的成功を獲得してしまった。

ここに彼の悲劇性がある。

映画版のThe Fountainhead (邦題『摩天楼』)で、ワイナンドを演じた俳優は、原作のワイナンドを演じるには線が細すぎるし、かつ陰影に欠ける。

いわば最初から完成形の十字架にかけられないイエス・キリストみたいなハワード・ロークよりも、矛盾を生きているという点において、はるかに陰影に富み複雑な人間がゲイル・ワイナンドだ。

この意味で、映画版は、ロークもワイナンドもダメだ。

なーんも原作を理解していない。

なんで、こんな浅薄な映画を作っちゃったんだろう、キング・ヴィダーは。

ともかく、この小説は、丁寧に何段階も経て、ワイナンドがロークへの本質的敗北を認めて受け入れ、ロークに「帰依」していくプロセスを描いている。

そのプロセスが冗長に思えるかもしれないが、これぐらいのプロセスがないと、王者ワイナンドのロークへの帰依、転向が説得力を持たない。

しかし、なんですね。

ワイナンドとロークの会話は、まるで恋人どうしの心理の探り合いみたいだ。

私は、この小説を読んだときに、「ゲイの恋愛物語」みたいだなと思った。

男たちがみなロークに恋しているからだ。

そう思いませんか?

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