ロークとワイナンドはある丘の頂上に立っている。緩やかな長い曲線を描いて斜面を形成する広い土地を見渡している。
葉の落ちた木々が丘の頂上まで伸びている。その木々は丘の下にある湖の岸あたりにいたるまで広がっている。木々の枝は幾何学的な構成を持ち、大気を貫いている。空の色は、明晰でどこか繊細な青みがかった緑色だ。そのためにあたりの空気は、より一層ひんやりとして感じられる。
その冷気が大地の雑多な色合いを消している。大地の雑多な色合いは、ほんとうは色ではなくて、その色が生まれ出てくる土の要素だ。死んだような冬の茶色ではなく、豊かな茶色も見える。近い未来にやってくる春の色の緑もある。疲れたような紫色もある。しかし、すべてが、すぐにでも炎となって燃え出す準備をしている色合いだ。灰色もあるが、それは金色に変わる序曲のような色合いだ。大地全体が偉大な物語の輪郭のようだ。建物の鋼鉄の枠組みのようだ。満たされ完成されるためにある鋼鉄の枠組み。未来の輝きの全てが、その風景の持つむきだしの単純な簡素さの中に孕(はら)まれている。
「屋敷はどこに建てるべきだと君は思う?」と、ワイナンドが訊ねる。
「ここです」と、ロークが答える。
「君は、きっとそこを選ぶと思っていたよ」
ワイナンドは、マンハッタンから自分で自動車を運転し、ロークをここに連れて来た。ふたりは、ここにたどり着くまでに、ワイナンドが購入した地所の中を通る道を二時間もかけて歩いて来た。人里はなれた小道を抜け、森を抜け、湖のそばを通り、この丘の上まで歩いて来た。
眼下に広がるコネティカットの郊外地の広々とした自然の景観を見つめながら、ロークが立ちつくしている間、ワイナンドはじっと待っている。この男は、この景色のすべてを自らの手の中に収めるべく、どんな手綱(たづな)を手繰(たぐ)り引き寄せているのだろうかと、ワイナンドは考えている。
ロークが振り向いて自分を見たので、ワイナンドは訊ねる。
「もう話しかけてもいいか?」
「もちろんです」と、ロークは微笑む。このような敬意をワイナンドから払われることなど、彼は少しも必要としていなかったので、愉快な気分になる。
ワイナンドの声は、ふたりの頭上に広がる空のように澄んで、きびきびと聞こえる。氷のような緑色の発光と同じ質を持った響きだ。
「君は、この仕事をなぜ引き受けた?」
「僕は雇われなくては仕事ができない建築家ですよ」
「私が言わんとしていることが何か、君にはわかっているはずだ。何よりもまず、私にあの件について話してもらいたかったのではないのか、君は?」
「あの件とは?」
「ストッダード殿堂のことだ」
ロークは、また微笑した。
「昨日、あれから僕のことをお調べになったのですね?」
「うちの社の新聞記事の切抜きを読んだ」
ワイナンドはこう言ってロークの反応を見るが、ロークは何も言わない。
「全部の記事に目を通した。私の新聞が君に関して報道したありとあらゆる記事をね」
ワイナンドの声はかすれ、半ば挑戦的でもあるし、半ば懇願しているようでもある。ロークの顔の平静さに、ワイナンドは怒りさえ感じてしまう。ワイナンドは、発する言葉のひとつひとつにゆっくりと万感の思いをこめて話す。
「私の新聞は、君のことをこう呼んだ。無能な道化で、青二才で、大ぼら吹きで、ペテン師で、病的に自己中心的で・・・」
「ご自分を傷つけるのは、やめて下さい」
ロークに頬をぶたれたかのように、ワイナンドは目を閉じる。一瞬おいて、彼は言う。
「ロークさん、君はあまり私のことを知らない。私は人に謝ったりはしない。自分がした行為に関して謝罪したことなど一度もない」
「謝罪なんて、どうして、そんなことを考えたのですか?僕は、そんなことをしてくれと、あなたに頼んだことなどありません」
「君に関する記事のすべての記述を私は代表しているのだ。『バナー』に印刷されている全てのことは、私に責任がある」
「あの件に関するあなたの新聞の姿勢を否定し撤回してくれと、いつ僕があなたに頼みましたか?」
「君が何を考えているか、私にはわかる。昨日の面談で、君は私があのストッダード殿堂について何も知らなかったことを知った。あの事件に関係していた建築家の名前を私は忘れていたのだからな。君を弾劾(だんがい)するあのキャンペーンを始めたのは私ではなかったのだと君は知った。そうだ、君は正しい。あれを始めたのは私ではない。あの時、私は旅をしていた。しかし、君はわかっていない。あの弾劾キャンペーンこそ、『バナー』に真にふさわしい精神にかなっていたということを。あの事件の責任は、私以外の誰のものでもない。アルヴァ・スカーレットは、私があいつに教えたとおりのことだけをしたに過ぎない。私がもしニューヨークにいたとしても、同じ事をしただろう」
「あなたには、あなたのお好きなようになさる権利があります」
「私があの時ニューヨークにいたら、ああいうことにはならなかったろうと、君は信じているな」
「はい」
「お世辞を言ってくれと君に頼んだ覚えはないぞ。憐れんでくれとも頼んでない」
「今、あなたが僕に頼んでいることを僕はできません」
「何を私が頼んでいるって?」
「あなたの顔をぶつことです。」
「ぶてばいいじゃないか」
「僕は、感じてもいない怒りを演じることなどできません。憐れみではありません。憐れむなんてことは、僕ができる行為の中で最も残酷なことだ。残酷であるためだけに他人を憐れむなんてことは、僕はできません。あなたは、実際にはどういう人間があの事件に関与し策動(さくどう)したかについては、よくおわかりになっていない。ともあれ、あなたは、僕があなたを赦すことを望んでいる。もしくは、補償の支払いを僕があなたに要求すればいいのにと思っている。このふたつは同じことです。あなたは、そうすれば記録を封じ込めることができると信じておられる。しかし、わかっていただきたいのですが、僕はあの件には何も関与していなかったのです。あの件で様々な茶番劇が展開されたわけですが、僕が舞台に上がって何か演じたことはないのです。あの事件に関して、今の僕が何をしようが、何を感じようが、あなたにとってはどうでもいいはずです。あなたは、僕のことを考えているのではないのです。あなたにとって僕など問題ではない。だから、僕はあなたのお役には立てません。あなたが恐れているのは僕ではないのだから」
「では、私は誰を恐れているんだ?」
「あなたご自身を」
「そんなことまで言う権利が君にあるのか?そこまで不躾(ぶしつけ)でいいのか?」
「あなたご自身が僕に言わしめたのです」
「どういうことだね?」
「僕に全部言わせたいのですか?」
「説明してくれたまえ」
「僕はこう考えます。あなたが僕を、間接的ではあれ、かつて苦しめたといいう事実を知って、あなたは傷ついたのです。あなたは、あなたご自身は僕を苦しめなかったのだと思いたい。しかし、あなたをもっと震撼(しんかん)させることがある。つまり、僕は全く苦しまなかったし、今も苦しんでいない。その事実を認識することは、あなたをさらに苦しめるのです」
「それで?」
「つまり、僕は心優しくも寛大な人間でもなく、ただ無関心なだけだということを認識すると、あなたはぞっとするのです。なぜならば、ストッダード殿堂のような事例は支払いを要求しますから。あのように矢面(やおもて)に立たされた人間は、ひどい傷を負うという報いを受けねばならない。ところが、僕は全く傷ついていない。それが、あなたにはわかる。僕はあなたからの設計の仕事を引き受けました。あなたは、そのことに驚いている。私があなたの申し出を受け入れるのに勇気が必要だったと、あなたは想像したかもしれません。しかし、実はあなたの方が、はるかに勇気が必要だったのですよ、僕を雇うには。ともあれ、僕にとっては、ストッダード殿堂の問題とは、その程度のことでしかありません。もう過ぎたことです。しかし、あなたにとってはそうではない」
ワイナンドの手のひらは上を向いている。指がみな力なく広げられている。両の肩は少し落ちている。弛緩(しかん)している。ワイナンドはあっさり認める。
「そうだ。それはほんとうのことだ。そのとおりだ」
それから、ワイナンドはまっすぐに立つ。一種の静かな諦念といったものがその立ち姿には漂っている。まるで彼の身体が意識的に傷を受けるかのように。あえて攻撃にさらされ易くなるかのように。
「君は、君なりに僕に一撃(いちげき)を食らわせたな。君には、その自覚があるだろうね。そうであることを私は期待するが」
「わかっています。あなたは、その僕の一撃をすべて受け入れた。だから、あなたが望んだものを、あなたは達成なさったのです。これで、我々は対等になったと言ってもさしつかえありません。ストッダード殿堂のことは忘れましょう」
「今まで、私は、こうもむきだしに素直に自分の気持ちをさらけ出したことはなかった。誰も、そんなことを私にさせることはなかった」
「もう一度、あなたがお望みのことを、僕がしてさしあげましょうか?」
「僕が他に何を望んでいると言うのかね?」
「僕からのあなたに対する個人的敬意です。あなたは僕を認めて下さった。今度は僕の番ではありませんか?」
「君は、ぎょっとするほど正直だな」
「そうであってはいけませんか?あなたは、僕を苦しめたと考えていらしたでしょうが、それは事実に反しています。そうではなくて、あなたは僕に喜びを与えてくださった。それは事実ですから、僕は認めます。だから、これでいいのです。あなたが僕に好意を持って下さって、僕は嬉しい。他人からの攻撃などいっさい跳ねつけるのが常であるあなたが、僕の一撃を受け止めてくださった。そのことと同じくらいに、僕が他人から受ける好意を嬉しく思うのは、例外的なことなのです。あなたならばわかって下さると思うのですが、僕は、自分が好かれようが嫌われようが、いつもは全く気にしません。しかし、今回は気になりました。僕があなたのことを好きだということに、あなたは気がついておられる。どうして、わかりましたか?」
「その理由は、もう言う必要はないだろう。君は、よくわかっているはずだ」
ワイナンドは切り株の木の幹に腰を下ろす。何も言わないが、彼の行動は、ロークにも同じことをしろと促しているし、要求している。ロークも、ワイナンドの腰かけている木の幹の傍にある切り株に腰を下ろす。
ロークの顔は真面目で静かだったが、微笑の跡が残っている。愉快に感じてもいるようであり、かつ注意深く自分とワイナンドのことを考えているようでもある。ロークがワイナンドから聞いた言葉の一字一句は打ち明け話ではなく、互いに対する確認であり承認だったかのようだ。
それからワイナンドが質問してくる。
「君は無一文の境遇から這い上がってきたのだろう?君は貧しい家庭出身だったのだろう?」
「そうです。どうしてご存知ですか」
「君に何かを与えるという考えは、たとえば世辞でも思想でも財産でも何でもいいのだが、それは、はなはだ僭越(せんえつ)なことのような気がしたからね。だから、そう思ったのだ。私も、底辺から来た人間だ。君のお父上は何をしていらした?」
「鋼鉄の錬鉄作業員でした」
「私の父は港湾労働者だった。波止場人足だった。君は子どもの頃、ありとあらゆる下らない仕事をしただろう?」
「ありとあらゆることをしました。ほとんどは、建築作業現場の仕事でした」
「私は、もっと後ろ暗いことをしていたよ。もう何でもしたなあ。君はどの仕事が一番好きだった?」
「建設現場で鋼鉄の枠組みに乗っかって、リベットを受け取ることですね」
「私は、ハドソン河を渡るフェリーでの靴磨きだな。あの仕事が大嫌いでも当然だったのだが、なぜか私は好きだった。そこで出会った人々のことは全く覚えていないがね。覚えているのは、ニューヨークの街のことだ。フェリーから見えるマンハッタンの風景だ。マンハッタンは、いつもそこに見えていた。私を待っているかのように、そこにあった。私は、まるで自分がマンハッタンにゴムの帯でつながれているみたいな気がしたものだ。そのゴムの帯は伸びて、私を対岸のニュージャージーまで運ぶ。しかし、いつだって、そのゴムは私をマンハッタンの方に引っ張り連れ戻すんだ。だから、私はここから、つまりニューヨークの街から決して逃げることはないのだと思っていた。そう、確かに、ニューヨークの街と私の間には切れない絆があるのだろう」
ロークは知っていた。ワイナンドという男は、めったに子ども時代の話などしないということを。それも自分自身の言葉で語ることなどめったにしないということを。ワイナンドの言葉は、明るくためらいがちだ。人々からさんざん使い古されてきたような汚れのついていない言葉だ。おびただしい数の人々の手をまだ通過していない新しい硬貨のような言葉だ。
「君は、ほんとうに家も失くし、飢えたという経験をしたことはあるか?」
「二、三度あります」
「そのとき、苦しかったか?」
「いいえ」
「私は苦にならなかった。他の事のほうが、よほど気になった。君は子どもの頃に叫び出したくなることがなかったか?君の周囲には、とてつもなく馬鹿げたこと以外は何も目に入らない連中ばかりだと知ったときとか。どれだけ多くのことができるか、またされてきたか、君にはちゃんとわかっているのに、それを実行できる力が自分にないと知ったときとか。思わず大声をあげそうにならなかったか?自分の周囲にいる空っぽの頭蓋骨みたいな連中を吹き飛ばすだけの力がないのは辛いものだ。しかも、そういう連中の命令を聞かなければならないとなると、なおさらだ。それだけでさえ十分ひどいことなのに、自分より愚劣卑劣な連中の命令に従わねばならないなんてことは、まったくもって、ほんとうに辛いよな!君は、そういう思いをしたことがあるか?」
「あります」
「君は、その怒りを自分の心の奥に無理に押し戻し、それを溜め込み、必要なときが来たら、自分自身をバラバラに引き裂けるぐらいに怒りを爆発させてやろうと決心しなかったか?自分に命令したあの愚劣な連中を支配し、いつの日か、君の周りの人間全てを、物事全てを自分の支配下に置いてやるのだと、心に決めたことはないか?」
「ないです」
「ない?君はその怒りを忘れたというのか?」
「そうではありません。僕は無能さを憎みます。僕が憎む唯一のものとは、おそらく無能さだと思います。だからといって、他人を支配したいとは思いません。何にせよ、人々に教え諭(さと)したいとか僕は思いません。怒りといいますか、無能さへの憎しみがあるからこそ、僕自身のやり方で僕自身の仕事をしたい。そうすることによって、必要な時が来たら、自分自身をバラバラに引き裂くぐらいに、その怒りを爆発させたいと思うのです」
「君は、そうしたことがあるのか?」
「いいえ。そうするに値するだけの事態にまだ会っていません」
「君は、過去を振り返ることはしないのか?何事につけても?」
「はい」
「私は、振り返ることがある。ある晩のことだった。しこたまぶちのめされて、ある店の戸口まで這(は)って行ったことがあった。あのときの歩道は、今でもおぼえている。鼻先にあったからなあ。まだ、あの歩道が目の先にあるのが見えるようだ。歩道に敷き詰められている石にも、石の脈というものがある。白い斑点もある。あのときは、その歩道が動いていると思わざるをえなかった。自分が這って動いているのかそうでないのか、感じることすらできなかったからなあ。だけど、歩道を見て、自分が這っているのだとわかったよ。石の脈や斑点が変わっていったから、ああ自分が移動しているのだなと、わかったわけだ。だから、私は、歩道の石の次の模様、二十センチぐらい離れた先にある石のひび割れまで、行こう、そこまで進もうと思って、じりじり前進した。たった二十センチしか離れていないのに、そこまで移動するのに時間がかかった。随分と長い時間がかかった。それから私は気がついた。石の模様と思っていたものが自分の腹から出た血の跡だってことに・・・・」
ワイナンドの声に自己憐憫(れんびん)の調子はない。その声はごくあっさりとしている。自分のことを話しているような調子ではない。過去の自分を思い出しているのだが、他人の身に起きた出来事に感心しているかのような響きがかすかにある。
ロークは言う。
「できるならば、あなたの助けになりたいです」
ワイナンドはゆっくりと微笑んだ。決して明るい陽気な微笑ではない。
「君なら、それができると私は信じるよ。それが当然の妥当なことだとさえ私は信じている。二日前の私ならば、私のことを助ける対象などと考える人間がいたら、そいつが誰にせよ殺しかねなかったがね・・・君にはわかるね、もちろん、あの晩のことは、私が過去の中で憎んでいる出来事などではないことは。あんなことは、振り返り思い出すのも怖いというようなものではない。あんな程度のことは、話すのが一番楽なぐらいのことでしかない。他にもいろいろなことがあった。語ることができないようなことだって何度もあったからな」
「わかります。僕は、そのあなたが語ることができないことについて、あなたの助けになりたいと言ったのです」
「たとえば、どういうことを?言ってみたまえ」
「たとえば、ストッダード殿堂」
「あの件で君は私を助けたいというのか?」
「はい」
「君は馬鹿か。わかっていないのか、君は・・・」
「私がすでにあなたを助けているということを、あなたは認識していらっしゃらないのですか?」
「どうやって?」
「あなたが住む家を建てることによって」
ロークは、ワイナンドの額に斜めに走る畝(うね)のような皺を見る。ワイナンドの目は、いつもより白っぽく見える。瞳の青色が瞳から消えてしまったかのようだ。彼の顔にはふたつの白い楕円形の形をした目があるだけのようだ。彼は言う。
「そのためにたっぷりの額の設計料をせしめることによってか」
ワイナンドは、そのときロークが微笑するのを見る。笑いがはっきり顔に浮かぶ前になんとか抑えたといったような微笑である。ロークの微笑みはこう告げている。ワイナンドの、この自分、ハワード・ロークに対する侮辱は降伏声明だと。自信に満ちた言葉なぞよりも、はるかに雄弁な降伏の言葉だと。そして、ロークの笑いの抑止は、こう告げてもいる。今のこの時点から、いっさい彼はワイナンドを助けるなんてことはしないと。ワイナンドという男には、他人の助けなど必要ないのだ。
「そうです、もちろんそういうことです」と、ロークは静かに答える。
ワイナンドは、腰を下ろしていた木の切り株から立ち上がる。
「さ、行こう。時間の浪費だ。私にはもっと重要な仕事がある」
マンハッタンへの帰路、ふたりは一言も話さない。ワイナンドは、時速150キロもの速度で自動車を走らせている。その速度のために、道路の両側には、ぼんやりと動くふたつの硬い壁があるかのように感じられる。長い閉ざされた沈黙の通路。その中をロークとワイナンドは飛んでいるかのようだ。
ロークの事務所があるコード・ビルの玄関先でワイナンドは自動車を止め、ロークを降ろす。それからワイナンドはこう言う。
「君が望むならば、好きなだけ自由にあの地所に行ってくれたまえ、ロークさん。私が同行する必要はないだろう。私の執務室に連絡してくれれば、必要な調査資料も情報も手に入るようにしておくから。必要な時が来るまで、私のところに顔を出すのは控えて欲しい。非常に忙しいのでね。最初の図面ができたら、知らせてくれたまえ」
(第4部8 超訳おわり)
(訳者コメント)
ワイナンドはロークを自分のカントリーハウス(別荘というより別宅。英米の富裕層は都市部の高級住宅街に自宅を構え、郊外の避暑地や避寒地にも週末用の別宅を構える。それをcountry houseと呼ぶ。イギリスの貴族の習慣をアメリカ人富裕層も真似た)の設計をロークに依頼した。
次は、設計者に敷地を見せる。
マンハッタンから自動車で90分から2時間ぐらいのところにあるコネティカット州の田園地帯に、ワイナンドは広大な地所を購入した。
その森を徒歩で2時間歩いてたどり着ける丘の頂上に、ロークはドミニクとワイナンドのカントリーハウスを建てる仕事を引き受けた。
丘の頂上まで行く私道も建設するわけだ。
以下はコネティカット州の別荘などが立つエリアの写真である。
実に美しい。
私は英米文学を専攻したのだが、英米文学を読んでいて困ったことは、小説によく登場するupper middle class以上の、特に上層階級の登場人物の暮らしが想像できないということだった。
hallは広間ではなく、玄関ドアを開けたところにある広間だ。
dining roomはわかるけれども、drawing roomに、living roomに、tea roomに、sun roomに……
食後に寛ぐ部屋も何種類もある。
dinnerのときは、ちゃんとみな着替えて綺麗にしていただく。
libraryは、ほんとに皮で装丁された本が並ぶ書棚が壁いっぱいで、その辺の日本の学校の図書室なみの蔵書数だ。
書斎というのは、そういうlibraryがあってこそ、study roomなのだ。
けっこう真面目な英文学研究者だった私は、私費でイギリスやアメリカに行っては、富裕層や貴族の邸宅が博物館や美術館となっているところを見物したりしたものだ。
もしくは、ニューヨークのメトロポリタン美術館に陳列されている王族貴族の部屋や調度品をマジマジと見つめたものだった。
実物の片鱗にでも直接触れないと、外国の小説なんて理解できない。
まあ、結局、外国の小説なんてほんとには理解できないね〜〜諦めたわけですが。
というわけで、極東の離れ小島の庶民階級で育った人間には、ロークが設計しようとするワイナンドのカントリーハウスや、ドミニクが住んでいたマンハッタンのペントハウスも、本当はよくわからない。
このセクションでは、ロークとワイナンドが、忌憚なく話し合っている。
ロークとワイナンドは、ふたりとも孤児で叩き上げて、独立独歩の人間という共通点はあるけれども、決定的な違いがある。
このセクションでの対話にすでに現れている。
ワイナンドは幼い頃から食べていくために、愚劣な人々の中を生き抜かねばならなかった。
ワイナンドは、その怒りをエネルギーにして、いつかは、そいつらを支配してみせると思ってきた。
ロークも、同じような境遇であったけれども、彼は、怒りをエネルギーにして生きてきたわけではない。
そんなことは、ロークにとってはどうでもいいことだった。
ロークは傷つかない。
つまらない他人に興味がないから。
ワイナンドは、傷つかないようでいて、深く傷つく。
愚劣な人間たちが存在しているということに傷ついてきた。
ワイナンドは恐れを知らない不敵な人物に見えるし、本人もそう思っているが、世界に対する恐怖がある。
ワイナンドは理解しやすい。
一方、ロークには、世界に対する恐怖がない。
ひとりでこの世の外に出ちゃって、外部からこの世を眺めつつ、かつ同時にこの世で生きているような姿勢だ。
ここらあたりが、ハワード・ロークという人物の理解し難さだ。
なんで、まだ30代だったアイン・ランドは、こんな人間を想像できたのだろうか。
ワイナンドは、生まれて初めて、本質的に彼では歯の立たない他人に出会った。
しかし、どんな点で自分がロークには歯が立たないのか、ワイナンドは考察できない。
コメントを残す