第4部(6) ロークとワイナンドの出会い

一九三六年十一月のある日の午後のことだった。ロークが、ロング・アイランドに建設中の邸宅の建築現場を見に行って事務所に戻ったときのことだった。雨に濡れたトレンチ・コートを振りながら、受付室にロークが入って行くと、秘書が彼を待ち構えていた。秘書は、何とか抑制しようと努力しても、どうしても興奮が顔に出るといった風情であった。彼女は、ロークの帰りを今か今かと待っていたのだ。秘書は言う。

「所長、これは多分、とても大きな仕事ですよ、きっと。明日の午後三時に、予約が入りました。あの方の執務室にお越しくださいとのことです」

「あの方って?」

「一時間前に電話がありました。ゲイル・ワイナンド氏から」

翌日、ロークは『バナー』の社屋に出かけた。

入り口には、その新聞社の社主の手になる字の複製で、こう描かれてあった。「ニューヨーク・バナー」と。

その文字は小さかった。わざわざ強調する必要などないほどの名声と力を誇示するその小さな書体。それは炎のようだった。この新聞社のむきだしの醜さを正当化するような嘲笑だ。この新聞社の社主の手になる文字の複製以外は、何の装飾でさえ軽蔑し嘲笑う工場のような社屋。

玄関ロビーは溶鉱炉の口のようだ。いくつかあるエレベーターは、人間という燃料の流れを吸い込み、かつ吐き出している。社員たちは決して急いで行動しているわけではなかったが、彼らの動きには抑制された性急さというものが漂っていた。目的に身体が突き動かされているといった空気があった。

だから、ロビーでウロウロしている社員など誰もいない。エレベーターの扉はバルブのようにカチッカチッと音をたてている。その音は、脈拍(みゃくはく)のようなリズムを持っている。赤と緑のライトが壁のボードで点滅している。そのボードは、この社屋の内部の中空を上下している各エレベーターの進行を表示している。

この社屋のあらゆるものが、全ての動きを掌握している権威者の手の中にあるコントロールパネルによって運営されているようだ。この社屋全体が、一定の方向に流れるエネルギーによって流れているかのように。そのエネルギーは、円滑に音もなく機能している。何者も破壊することができないひとつの機械のように。ほんのちょっとの間、ロビーで立ち止まっていた赤毛の男に関心を払う人間は、そこには誰もいない。

ハワード・ロークはタイル張りの丸天井を見上げる。彼は、今まで誰も憎んだことはない。この社屋のどこかに、この社屋の所有者がいる。ロークに憎しみに最も近い感情を抱かせた男が、そこにはいる。

ゲイル・ワイナンドは、執務室の机の上に置かれた小さな時計にちらりと目をやる。数分以内に、ある建築家と会う約束がはいっている。面談自体はさして厄介なことではないだろうと、彼は思う。

ワイナンドは、今まで随分と多くの人に会い、多くの面談を経験してきた。彼はただ話せばいいだけだ。彼は、自分が言いたいことがわかっていたし、承諾を意味する二、三の音以外に建築家に要求するものなど何もない。

ワイナンドは、時計から、机の上に広げられた何枚かの校正刷りに視線をもどす。セントラル・パークのリスに人々が餌を与えることについてアルヴァ・スカーレットが書いた論説を読む。ニューヨーク市衛生局の作業員によって開かれた絵画展の偉大なる功績に関して書かれたエルスワース・トゥーイーのコラムを読む。机のブザーが鳴る。秘書の声が「社主、ハワード・ローク様がおいでになりました」と告げる。

「わかった。通したまえ」と、ワイナンドは答える。ブザーのスイッチを切る。スイッチに伸ばした手をひっこめたとき、ワイナンドは机の端に並んでいるボタンの列に目を留める。それぞれに色分けされた明るい小さなつまみの列に目を留める。

それらのボタンは、この社屋の主な部署につながる電線の先端だ。その各電線は、各部署の幹部を統率し、それらの幹部は、彼の指令のもと彼の部下たちを統率する。部下たちは、またそれぞれに集団を形成し、何百万もの家庭のもとに届く新聞に印刷される言葉の最終的形を作るべく献身する。そうした彼らの作る新聞は何百万もの人間の頭脳に届く。

しかし、こうした感慨を楽しむ時間など、今のワイナンドにはない。もう彼の執務室のドアが開きかけている。彼は、ボタンの列に触れていた手を戻す。

ワイナンドは、そのとき一瞬見逃(みのが)したのかと思った。礼儀どおりにすぐに自分が立ち上がらずに、執務室に入ってきた男を見ても座ったままでいたのではないか。多分、ワイナンドは立ち上がったのだが、なぜか自分が立ち上がるまでに長い時間が過ぎたように彼には感じられた。

ロークはといえば、彼のほうもワイナンドの執務室に入ったとき自分が立ち止まったのかどうかはっきり意識できなかった。ちゃんと前進しないで、机の向こうに座っている男を見つめて突っ立っていたのではないか。多分、ロークが歩みを止めることはなかったのだが、彼は自分が立ち止まってしまったような気がしたのだ。

ともあれ、ワイナンドとロークには、そのとき、直接的な現実感を忘れる瞬間があった。その瞬間、ワイナンドにとっても、ロークにとっても、自分の目前にいる男を確認することだけが彼らの意識を占めていた。

その瞬間、ワイナンドは、この男を召喚した目的を忘れていた。その同じ瞬間、ロークはこの男がドミニクの夫であることを忘れていた。その瞬間、ワイナンドの執務室のドアも机も広々と敷きつめられた絨毯の存在も消えうせていた。執務室の真ん中で、ワイナンドとロークの感慨が交差する。「こいつがゲイル・ワイナンドか」という思いと、「こいつがハワード・ロークか」という思いが。

そうこうしてから、ワイナンドは立ち上がり、執務机のそばにある椅子に客を簡単なしぐさで招く。ロークは、椅子に近づき腰を下ろす。まだ互いに挨拶もかわしていないのに、そうする。しかし、そのことに、ふたりとも気がついていない。

ワイナンドは微笑み、全く言うつもりもなかったことを口に出していた。彼は、実にあっさりと言った。

「君が私の役に立ちたくないと思っているとは、私は考えていない」

「僕は、あなたのお役に立ちたいと思っています」と、ロークは答えていた。ほんとうは、ロークはワイナンドの申し出など拒否するつもりでいたのに。

「ワイナンドさん、あなたは、僕が手がけた建物をごらんになったことがありますか?」

「ある」

しかし、ワイナンドは微笑んで付け加える。

「今回は別でね。仕事関係のものではなく、私個人のためのものでね」

「今までにご自分のために何かを建てたことがないのですか?」

「ないね。ビルのてっぺんに建てた籠みたいな家と、この印刷工場を勘定に入れなければね。君は、なぜ私が自分自身のために何かを建てさせなかったかわかるかい?私には、望めば、ひとつの都市だって作ることができるだけのものはあるのに。その理由は私にはわからない。ならば、君にわかるはずもないか」

ワイナンドは、自分が雇った人間たちに、自分自身の個人的な内面を詮索(せんさく)させるような無礼(ぶれい)さを、許したことは決してなかった。なのに、今ワイナンドは、そのことを忘れてしまっている。

ロークは言った。

「あなたがご自身のために何も建てたことがなかったとしたら、それはあなたが不幸だったからです」

ロークは、その言葉を、きわめてあっさりと言った。その言い方には、横柄さも傲慢さも全くなかった。完璧な正直さ以外にできることは、今ここにいるロークにはいっさいないかのように。

この会話は、互いに初めて会った人間が交わすものではなかった。ずっと前にはじまった何かの継続のような、何かを話し合っている最中のような会話だった。ワイナンドは言う。

「説明してくれたまえ」

「ご自分でもおわかりになっていらっしゃると思いますが」

「君の説明を聞きたい」

「ほとんどの人々は、自分が生きているように何かを建てます。決まりきった、意味のない偶然の出来事のような物として。しかし、少数の人間だけですが、それらの人々にはわかっているのです。建物とは象徴であるということが。我々は頭脳において生きています。存在とは、その生命を物質的現実で表現する試みです。生命を行動と形式で提示する試みです。このことを理解している人間にとっては、彼が所有する家は、彼の人生の表現そのものです。手段はあるのに、その人間が自分の家を建てないとしたら、それは彼の人生が彼の望むものではないからです」

「よりにもよって、この私にそういうことを言うとは、実に法外でとんでもないことだとは君は思わないわけだ」

「思いません」

「私も思わない」

このワイナンドの答えを聞いて、ロークは微笑む。ワイナンドは言う。

「しかし、君と私のふたりぐらいだろうな、こう答えるのは。私が私のために何かを建てたことがない理由は、ふたつのうち、どちらかというわけか。私が望むものを手に入れていなかったから、私は家を建てなかった。もしくは、あらゆる類の偉大なる象徴とやらを理解することが期待される少数の人間のひとりだから、私は家を建てなかった。このどちらか、というわけだ。で、君はどちらの答えにせよ、その診断を撤回するつもりはないわけだ」

「ありません」

「君の年齢は?」

「三六歳です」

「私が三十六のときは、現在、私が所有している新聞社のほとんどを手に入れていた。これは、君に対して個人的に批評するつもりで、言ったわけではない。なぜ、私は、こんなことを口にしたのかな。ただ、ふと思っただけだ」

「あなたは、僕に何をお望みでしょうか。あなたのために僕が建てるものとは、何でしょうか」

「私の住居だ」

ワイナンドは、自分の答えが何らかの衝撃をロークに与えたと感じた。その答えが伝える通常の意味とは関係のない衝撃を。ワイナンドは、理由がわからないままに、そのことを感じ取った。だから、ほんとうは質問したかった。「どうかしたのか?」と。

しかし、ワイナンドには、それができなかった。なぜならば、ロークは実際のところは、何の感情も見せたわけではなかったのだから。ワイナンドが勝手に感じただけのことを、質問などできない。ワイナンドは語る。

「君の診断は正しい。今の私は、私自身の住居を建てたいと思っている。自分の人生を目に見える形にすることを、今の私は恐れていない。その答えをはっきり聞きたいかい。君がはっきり言い切ったように。つまり、今の私は幸福なのだ」

「どんな種類の家がご希望でしょうか」

「カントリーハウスだ。土地はもう購入してある。コネティカットに買ってある。六七万坪はある。どんな種類の家かだって?それは、君が決めるんだ」

「奥様が、私に設計を任せるようにおっしゃったのでしょうか?」

「いいや。この件について妻は何も知らない。マンハッタンから引っ越したいと思ったのは私なのだ。妻も同意してくれた。建築家を選んでくれと私は妻に頼んだのだが・・・妻は、結婚前はドミニク・フランコンといってね、建築について書いていたことがあったから。しかし、妻はその選択を私に任せると言った。君は、なぜ私が君を選んだかわかるかい?決心するには、随分時間をかけたよ。始めのうちは途方にくれたがね。君のことは聞いたこともなかったし、私はだいたい建築家のことなど何も知らない。文字通り知らない。それに、不動産開発業に費やした年月を私は忘れていない。私が建てさせた家や、その家を設計した馬鹿どものことも忘れてはいない。これは、ストーンリッジ開発のことを言っているのではないが。で、いろいろあって、私はモナドノック渓谷保養地を目にした。君の名前を思い出した最初のきっかけは、あそこだった。しかし、私は、それでもいろいろ慎重に調べたのだよ。アメリカ中を見て回ったかな。いろいろな邸宅とかホテルとか、あらゆる建物をね。気に入った建物を目にするたびに、その建物の設計者は誰かと訊ねてみた。答えはいつも同じだった。ハワード・ロークさ。だから、ここに君を呼んだというわけだ」

ここまで言って、ワイナンドは駄目押しするように、さらに言う。

「私がどれだけ君の仕事に心酔しているか、聞きたいかい?」

「ありがとうございます」

ロークはそう答えながら、一瞬だが目を閉じる。

「ところが、私は君に会いたくなかった」

「なぜでしょうか」

「君は私が所有しているギャラリーのことを耳にしたことがあるかい?」

「はい」

「私は、私が愛する芸術作品の作者に会ったことがない。彼らの仕事だけで、私にとっては十分だ。作者に会って、作品への思いが台無しになるようなはめになるのは御免だ。作者なんてものは、会えばがっかりさせられる。作者の持っている才能と比較すれば、作者の人格など実につまらないものだ。しかし、君は違う。君には話してもいいな。私は生身の生きている人間にはほとんど敬意を感じない。しかし、私のギャラリーにある作品や、君の建てたものや、そういう仕事を生み出す人間の能力には大いに敬意を払うよ。そういうものへの敬意だけだろうな、私が今までに持った信仰と言えば」

ワイナンドは、ここまで言って肩をすくめる。

「私は、この世に存在しているありとあらゆるものを破壊してきたし、歪めてきたし、腐敗(ふはい)させてきたと思う。しかし、私がそれらのものに実際に手を触れて手を下したことは一度もなかった。なぜ、君はそのような目で、私を見ている?」

「申し訳ありませんが、あなたがお望みの家についてお話していただけませんか」

「宮殿にしてもらいたい・・・宮殿というものが贅沢なものだとは、私は考えていない。宮殿とは、ただ単に非常に大きくて、むやみやたらなほどに公的な建物でしかない。小さな家こそが真に贅沢なものだよ。設計してもらいたいのは、ふたりだけの人間のための住居、妻と私のための住居だ。一家族が住むだけのものは必要ない。妻も私も、子どもを持つ気はない。客を招く気もない。客をもてなす気もない。といっても、ゲスト・ルームは一応ひとつ設けておいてくれたまえ。万が一必要なときに備えて・・・それ以上は無用だ。居間と、食堂と、図書室に、書斎がふたつと寝室がひとつだ。召使のための部屋がいくつかと、あとは車庫だな。だいたい、そんなところか。追って、詳細は知らせるよ。費用は、君が必要なだけ、いくらかかってもいい。外装は・・・」

ここまで言ってワイナンドは、肩をすくめながら、微笑む。

「そうだな、私は君の建てたものを見たことがある。家がどういう外観を持つべきかなど、君に説明したがる奴は、その家を君よりももっとうまく設計できる奴だな。そうでなければ、無駄口はたたくな、ってことだ。ただ、これだけは言っておこう。私は、私の住居がローク的性質を持つことを望む」

「それは、どういうことでしょうか?」

「答えはわかっていると思うがね」

「ローク的性質に関するあなたのご説明をお聞かせ下さい」

「私が思うに、建物には安っぽくこれ見よがしの外観しかないものもある。使われている煉瓦のひとつひとつで自分の存在を謝罪しているような臆病な建物もある。永遠に不釣合いで、無様(ぶざま)につぎはぎだらけで、悪意に満ち、まがいものの建築物もある。君の建てたものには、何よりもひとつの意味がある。喜びの感覚とでも言うものがある。静かな喜びではないがね。気難しくて、要求の多い類の喜びだが。それを経験することこそ、ひとつの偉業であるかのように人をして感じさせる種類のね。人は君の建物を見て、こう考える。もし、それを感じることができれば、俺はもっといい人間になれるってね」

ロークは、ゆっくりと言う。それは、ワイナンドの言葉に答えるような調子ではない。

「やはり、そうですか」

「何が?」

「あなたには、ちゃんとそう見えるのですね」

「なぜ君はそう言うのかな。まるで、私にそれが見えるのが残念なようじゃないか」

「残念だなどとは思っていません、僕は」

「僕を非難するつもりなら、やめたまえ。僕が今までに建てさせたあれこれのものに関して」

「そんなつもりは、ありません」

「君に僕の住居を設計してもらうことを可能にしたものこそ、あのストーンリッジ開発であり、ノイエス=ベルモント・ホテルであり、ワイナンド系列の新聞なのだから。あんなものは達成に値する贅沢ではない。あんな程度のものが、まったく重要ではない。あんなものは、全て手段でしかない。目的は、君なのだ」

「僕に対して、わざわざご自分を正当化なさることはありません」

「私は、正当化など・・・うん、そうだな、それこそ私がしようとしていたことかな」

「そんなことをなさる必要はありません。あなたが今までに何を建てさせてきたかと言うことを、僕は考えていたわけではありません」

「じゃあ、君は何を考えていた?」

「私が建てたものの中に、あなたが見たようなものを見ることができる人間に対して、僕は抵抗できないと考えていました」

「僕に抵抗できるような助けが欲しいと、君が感じていたということかい?」

「そうではありません。ただ、通常は、僕はそういう気持ちにはならないものですから」

「私も、通常は自分を正当化しようなどという気持になることはないのだがね。ともあれ・・・ならば、これでいいわけだね?」

「はい」

「私が望む家がどんなものであるか、君にもっと話さなければならないな。建築家というのは、告解を聴くカトリック神父みたいなものだと思う。つまり、建築家は、彼が設計する家に住む人間のことならば何でも知っておかなければならない。なんとなれば、建築家が顧客に提供するものは、顧客の衣服や食べ物より、はるかに個人的なものだからな。こうした考え方から、君が建てるものを考慮してもらいたい。こんなふうに人にものを頼むことは、私の不得手とするところだ。まあ勘弁してくれたまえ。だいたいが、私は自分の気持ちを告白などしたことがないのでね。つまり、その、私は、妻をどうしようもないほど愛しているので、自分の邸宅が欲しい・・・どうしたんだ?こんなことを言うのは、不適切だと思うか、君は?」

「いいえ。どうぞお話を続けて下さい」

「私は、妻が他の人間たちの間にいるのが我慢できないの。嫉妬ではない。もっと、はるかに質の悪いものでね。妻がこのニューヨークの街を歩いているのを見るのさえ、私には我慢できない。私は、妻を何ものとも共有することができない。たとえ、街角の店や劇場やタクシーや歩道が相手でもね。私は、そういうものから、妻を引き離さないと駄目なのだ。誰の手も届かないところに、妻を置かなければ気がすまない。何ものも妻に触れることができない場所にね。あくまでも比喩的に言っているのであって、ほんとうに全ての事物が妻に触れるのには耐えられない、ということではないのだが。ともかく、私が望む家というのは、要塞(ようさい)でなければならない。私が依頼する建築家は、その要塞を守る軍隊でなければならない」

ロークは、ワイナンドをまっすぐに見つめながら座っている。ワイナンドの言葉に集中できるように、ロークは彼を凝視せざるをえない。

ワイナンドはといえば、ロークのそのまなざしに、ロークの努力を感じる。しかし、それをロークのせいいっぱいの努力とはわからず、それをロークの力強さとして認識する。ワイナンドは、ロークのまなざしに支援されていると感じる。だから、何を告白してもいいのだ、自分の思いを語りやすいのだと、ワイナンドは気づく。

「私が望む家は、牢獄であらねばいけない。いや、違う。本当はそうではない。実際に目にするには、あまりに貴重なものを守護する保管室でなければならない。しかし、それ以上のものでもなければならない。それは、この世界から隔離された別世界でなければならないから。捨て去ってきた世界を全く懐かしく思わなくてすむような、そんな美しい世界でなければならないから。その完璧さという力においては、牢獄となりかねない世界だな。鉄柵(てっさく)も塁壁(るいへき)もない牢獄だ・・・妻と私と、この世界の間を隔てる壁として、君の才能が立ちはだかるというわけだ。それが、私が君に望むことだ。そして、さらにもっと要求がある。君は、今まで寺院とか殿堂とかいうものを建てたことがあるかい?」

「・・・あります」

「じゃあ、私の依頼を、君が寺院を建てるときに考えるように考えてくれたまえ。私が望む家とは、ドミニク・ワイナンドの殿堂なのだ・・・設計する前に、君には妻に会っておいてもらいたい」

「何年か前に奥様にお会いしたことがあります」

「そうか。ならば、私の言うことに納得できるね」

「はい。納得できます」

ワイナンドは、ロークの手が執務机の端に置かれているのを目にする。彼の長い指が、その机の上に張られているガラスに押し付けられている。ワイナンドはふと思う。この手から作られたブロンズの文鎮(ぶんちん)があったらいいのに。そのブロンズの文鎮が机の上に置かれたら、どれほど美しいだろうか。

「さて、これで私が望むことが何であるか、君にもわかったわけだ。すぐに、取り掛かってくれたまえ。金は、君が望むだけのものを払う。夏までに家が欲しい。あ、申し訳ない。あまりに馬鹿な建築家とばかり関わってきたものだから、つい、まだ君がこの仕事をしたいかどうか私は尋ねもしていなかったな」

ロークの手がまず動く。彼は机に置いてあった手をひっこめる。ロークは答える。

「わかりました。お引き受けいたします」

「時間はどれくらいかかるかね?」

「来年七月までに完成するでしょう」

「もちろん、敷地を見る必要があるな。私自身が案内して、君に土地を見せたい。明日の朝、自動車で案内したいのだが、どうだい?」

「ご都合がよければ、それで構いません」

「では、明日の朝九時にここで会おう」

「わかりました」

「契約書を作成した方がいいかな?君がどんなふうに仕事をしたいか、私には見当がつかない。通常は、どんな件にせよ、誰かに仕事を依頼する場合、私はその相手が生まれてから、もしくは人生の初期段階からの経歴を一切(いっさい)合切(がっさい)調べることにしている。しかし、君の場合は、まだ何も調べていない。単に忘れていたのだが。しかし、まあその必要もなさそうだな」

「あなたが僕にお聞きになりたいことがあるのならば、何でもお答えいたします」

ワイナンドは微笑して、頭を振る。

「いや、私が君に訊ねたいことはない。この仕事の手配以外はね」

「僕は、引き受ける仕事に条件というものをつけません。ただひとつのこと以外には。僕の設計した案を受け容れくださるのならば、私の設計どおりに、そのままで建てさせていただきたいのです。どんな種類の変更も、僕はお引き受けできません」

「それで結構だ。もっともなことだよ。そういう条件でなければ、君が設計しないということは、噂に聞いたことがある。しかし、家が完成しても、私はいっさい公表するつもりはない。設計者の名前を言うつもりもないのだが、それでも君は構わないか?私の邸宅を設計したとなれば、君のキャリアには大いに箔がつくと言うことは私にはわかっている。しかし、私は、この家に関しては、新聞に報道されるのも拒否したい」

「それは構いません」

「写真や予想図などもいっさい公表しないと約束できるかい」

「約束します」

「ありがたい。埋め合わせはさせてもらうよ。今後、うちのワイナンド系列の新聞を、君の個人的宣伝機関として考えてくれていい。今後、君が手がける仕事に関して、君が望むだけの宣伝をするつもりだ」

「何の宣伝もしてくださらなくていいです」

ワイナンドは大声で笑う。

「君は何を言っている?よりにもよって、どこで言っている?他の建築家の連中ならば、このような面談でどう振舞うかねえ。君にだって、それぐらいはわかるだろう?君は、今、ゲイル・ワイナンドと話しているのだ。どうも君はそのことを実感していないのではないか」

「わかっています、ちゃんと」

「これが、君に感謝する私なりのやり方なんだ。私は、自分がゲイル・ワイナンドであることが、いつも嫌でね」

「わかります」

「さっきは、君に個人的な質問をする必要はないと言ったが、考えを変えるよ。君は、さっき聞かれたことには何でも答えると言ったな」

「お答えします」

「君は、自分がハワード・ロークであることが、いつも好きかい?」

ロークは微笑する。この微笑みは、面白がっているようでもあり、びっくりしているようでもある。ワイナンドの質問に、思わずうっかり軽蔑を見せてしまったという趣もある。

「君の笑い方で、答えはわかったよ」と、ワイナンドは言う。

おもむろに、ワイナンドは椅子から立ち上がり、握手するために手を広げ、こう言った。

「では明日の朝、九時に」と。

ロークが退室した後、ワイナンドは執務机についたままでいた。顔には、さっきからずっと微笑が浮かんでいる。机の端に並んでいるボタンのひとつに彼は手を伸ばす。そして、その手を止める。そうだ、話し方を変えなければならないな、とワイナンドは気づく。さきほどまでの、ロークと話していた三十分間のようではない話し方に戻らなければならない。いつもの自分の話し方に、戻らなければならない。

さきほどのロークとの面談でいつもと違っていたことが何なのか、そのときワイナンドは理解した。彼は、生まれて初めて、気が乗らないのに、いやいやながら人と話すときのあの気持を味あわずに人と話しができた。世間の人間と話すとき、ワイナンドがいつも経験してきた、あの抑圧感がなかった。自分を偽るあの感覚を、ロークと話していたときには、感じないですんだ。ロークとのやりとりの中では、緊張というものをいっさい感じなかった。緊張しなければならない必要性を全く感じなかった。まるで、自分自身と話すように、全く無理なく話すことができた。

ワイナンドはボタンを押し、秘書に命じる。

「ハワード・ロークに関して保管してある資料を全部持ってくるように、資料室に伝えてくれ」

(第4部6 超訳おわり)

(訳者コメント)

このセクションはハイライトだ。

ロークとキャメロンの出会い以上のハイライトだ。

この小説を最初に読んだときに、私は、建築家としてせっかく認められてきたロークが、ワイナンドに出会ったことで、また迫害を受けるのだろうと予想した。

これ以上にロークを虐めるのはやめて〜〜〜と思った。

が、小説の展開は予想外だった。

ワイナンドはロークを気に入った!

ロークの天才を理解していた!

ワイナンドには珍しく心を開いてロークに接していた。

妻のドミニクへの思いも赤裸々にロークに語った。

ロークとドミニクが恋人同士であったことなど夢にも思わず。

ワイナンドは、ストッダード殿堂事件の時はニューヨークにいなかったので、2人に接点があることを知らなかった。

ワイナンドから、かつての(今でも)恋人のドミニクを守る要塞のような宮殿のような邸宅の設計を依頼され、拒否しなかったローク。

ドミニクのための要塞のような美しい家は自分しか設計できないと思ったからか。

自分の仕事の質を理解できるワイナンドへの想定外の共感と敬意のためか。

アイン・ランドはstory-tellingについては、ほんとに、すごい。

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