第4部(5) 万国博覧会の設計を断るローク

一九三六年の春のことだ。中西部のある都市が、翌年開催される予定の国際見本市、「諸世紀の行進」として知られる万国博覧会の開催を計画した。

その都市の名士たちから成る企画委員会は、この国際見本市を設計できるアメリカ最高の建築家たちの協議会のメンバーとなる建築家を選んだ。その都市の名士たちは、異彩を放つほど派手に進歩的でありたかった。だから、彼らが選んだ八人の建築家の中には、ハワード・ロークが含まれていた

ロークは、その招待状を受け取ると、委員会の前に姿を現し、自分は国際見本市を設計できれば非常に嬉しく思う、ただしひとりで設計したいのだと説明した。

その委員会の議長は重々しく述べた。

「ロークさん、私どもといたしましては、得られる限り最高の人材を必要としております。つまり、ふたりのほうが、ひとりより良く、八人いれば・・・その、ご理解いただけますね・・・申し上げなくても、おわかりになるでしょう。アメリカの最高の才能の持ち主、最高に輝かしい名声を持つ方々・・・つまり、友愛に満ちた合議、協力、合作といいますか・・・偉大な業績を成し遂げるものが何であるか、あなたもご存知でしょう」

「知っています」

「ならば、御理解いただけるものと・・・」

「あなた方が僕を必要とするのならば、この仕事は完全に僕ひとりに任せていただかなければなりません。僕は、協議会とはいっしょに仕事をしません」

「あなたは、このような、またとない機会を拒否なさりたいと、おっしゃるのですか?歴史に残る仕事ですよ。世界的名声も夢ではない貴重な機会ですよ。実際、これは、不滅の名声を獲得する機会ですよ」

「僕は集団で設計しません。僕は誰かと相談しながら設計はしません。僕は協力して設計しません」

建築家業界には、ロークのこの拒否に関する轟々(ごうごう)たる非難の声が沸きあがった。彼らは噂した。「うぬぼれの強いろくでもない奴だ!」と。この建築家という職業集団で交わされるゴシップとしては、こうした怒りの声はあまりに激しく、めったにないほどのものであった。

それぞれの建築家が、ロークの主張を個人的侮辱と受けとった。この地上に生きる誰の設計でも、自分ならばそれを修正し、助言し、さらに向上させることができる資格があると、それぞれの建築家が感じていたからである。

エルスワース・トゥーイーはこうコラムに書いた。

「この出来事は、完璧なまでに例証している。ハワード・ローク氏なる人物の自己中心性の反社会的性質を。彼が常に体現してきた抑制のきかない個人主義の傲慢さを」

「諸世紀の行進」を設計すべく選ばれた八人の建築家の中には、ピーター・キーティングがいた。ゴードン・L・プレスコットもラルストン・ホルクウムも入っていた。ピーター・キーティングは、委員会に選ばれた八人の建築家のリストを見たとき、断言した。

「僕は、ハワード・ロークとはいっしょに仕事しません。選んでいただかなくては、いけません。彼を採るか僕を採るか」

そこで、彼は、ロークが辞退したと知らされた。キーティングは、この八人の建築家の協議会のリーダーとなった。この国際見本市の建設の進行を報道するマスコミは、この協議会を「ピーター・キーティングと仲間たち」と、呼んだ。

キーティングは、ここ数年のうちに、手に負えないような剣呑(けんのん)な態度を身につけてしまっていた。部下に何かを命じるときも、きつい口調であった。実にささいな厄介ごとに対してでさえも短気に癇癪(かんしゃく)を起こした。いったん癇癪をおこすと、金切り声を出して怒るのだった。そんなときに相手に発する侮辱の言葉は辛らつで陰険だった。彼の顔は陰鬱になっていた。

一九三六年の秋、ロークは仕事場を移転した。新しい事務所をコード・ビルの最上階に構えた。このビルを設計したとき、彼は思ったものだった。いつの日か、自分の事務所を、必ずここに構えるのだと。新しい事務所の玄関ドアには、「ハワード・ローク、建築家」と記されていた。

その文字を眺めて、ロークは一瞬の間ではあるが、立ち止まる。それから、おもむろに事務所に入る。長い二室が続いている事務所の一番奥に彼の仕事部屋がある。そこは壁の四方のうち三面がガラス張りだ。だから、その部屋からニューヨークの街を睥睨(へいげい)できる。

ロークは、仕事場の部屋の真ん中で立ち止まる。壁の三面を覆う大きなガラスの向こうに、ファーゴ・ストアが見える。エンライト・ハウスが見える。ホテル・アクイタニアが見える。自分が設計した建物が見える。

ロークは、南を向いた窓に向かって歩く。はるか遠く、マンハッタンの南端にはヘンリー・キャメロンが設計したディナ・ビルが見える。

(第4部5 超訳おわり)

(訳者コメント)

このセクションで言及される中西部の街(おそらくシカゴ)で開催される万国博覧会というのは、この小説では1937年開催予定ということになっている。

現実のシカゴの万国博覧会は1933年に開催された。

シカゴでは、19世紀にも、万博が開催されている。

ニューヨークやシアトルとかの主要都市で万博は開催されてきた。

パリ万博も有名だ。

万博というのは、国際見本市、つまり各国の国力と生産力の成果を見せ合いっこするイヴェントなのだ。

この小説において、ヘンリー・キャメロンが開拓した高層ビル建築は、19世紀末にシカゴで開かれた万国博覧会をきっかけに、挫折したという設定になっている。

この博覧会において古いヨーロッパの建築様式がもてはやされて、アメリカ人の建築の趣味が先祖返りしてしまったというのが理由になっていた。

キャメロンを挫折させたとされるシカゴの万博は、現実には1893年に開催された。

私は万博というものに行ったことがないので、よくわからないが、こういう博覧会は1つのテーマに収斂されて統一が取れているというわけではないらしい。

ロークも、他の建築家との共同作業では、自分のアイデアや原則で博覧会を統括できないという理由で、博覧会の建物を設計することを拒否している。

「三人寄れば文殊の知恵」と言われるが、そうでない事例も多いのだろう。

凡人が何人集まっても何も創造できない。

というのも真理なのだろう。

ともかく、ハワード・ロークは、苦難の末に、万国博覧会の建築物を担当するアメリカにおけるBig 8 に入る建築家として目されるまで来たのだ。

自分が設計した高層ビルの最上階に自分の事務所を構えるまで来たのだ。

ロークのオフィスは、壁の3面がガラス張りだ。

そこからマンハッタンが一望できる。

そのガラスの向こうに、自分が設計した百貨店ビルと、大集合住宅ビルと、高級大ホテルと、師匠のヘンリー・キャメロン設計のビルが見える。

実にカッコいい。

Absolutely coolだ。

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