一九三五年の春である。
陽光を浴びて震えながら、葉が何枚も何枚も流れていく。それらの葉の色はもはや緑ではない。しかし、急流のあちらこちらに浮かび流れていく葉のうち、数枚は瑞々しい綺麗な緑色である。それぞれの葉は緑のしずくとなり、目にも鮮やかだ。
それが、かえってその若者の目には切なく映る。他の葉には色がなく、かわりに光となっている。金属の表面に残る炎の実質のような光だ。天然に発生した激しさのない火花だ。
だから、森は、この緑色を、小さな泡(あぶく)となって浮かんでくるこの緑色を生成するために、ゆっくりと沸き立つ光の広がりのように見える。その緑色には、春の季節が凝縮されている。その緑色は春のエキスだ。
木々の頂(いただき)は道路の上空で出会い重なる。その木々の枝がそよぐにつれて、地面に落ちる木漏れ陽も移動する。まるで入念な愛撫のように。
その若者は、自分が死ぬ必要などなければいいのにと、思う。大地がこのように見えるのなら、死ぬことはないのだと若者は思う。空しいだけの言葉のかわりに、このような葉っぱや木々の幹や岩とともに、声のような希望や約束だけを聞いていることができるのならば、死ぬことはないのだと若者は思う。
しかし、彼はわかっている。このように大地が見えるのは、ここ何時間も人間の姿を見ていないからにすぎないということが。彼はひとりだ。自転車に乗って、ペンシルヴァニアのいくつもの丘を越えて、忘れられたような誰も通らない道をここまで来た。すでにニュー・ハンプシャーに来ているのだろうか。
ここには一度も来たことがない。ここで、若者は人間の手がいまだ触れていない世界の新鮮な脅威を、感じることができた。
彼は、まだ本当に若い。大学を卒業したばかりだ。この若者は、人生が生きるに値するものかどうか、決めたいと思っている。しかし、彼は、これが自分の心にある課題だとは明確に自覚していない。死ぬことなど、本気で考えているわけではない。ただ、人生の中に喜びと道理と意味を見出したいと思っているだけだ。
しかし、いまだ誰もその答えを彼に示してくれなかった。そのような人間には、どこに行っても出会ったことがなかった。
大学で教えられたことは好きになれなかった。随分と教えられたものだ。社会的責任について。人々に奉仕し自らを犠牲にする人生の価値について。誰もが、そうした生き方こそ美しいと教えていた。そういう生き方こそ人間を奮い立たせるものだと教えていた。彼だけは、そういう考えに全く心を動かされなかった。何も感じることができなかった。
その若者は、自分が人生に望んでいるものを名づけることができない。しかし、ここ、この自然の中で彼はそれを感じていた。孤独の中で彼はそれを感じていた。
しかし、健康な動物が感じるような喜びを持って、この自然に顔を向け、受け容れることはできない。彼は、この自然を適切で最終的な環境として受け容れることなどできない。この若者は、健康な人間の喜びを感じながら、この自然に対峙している。そう、挑戦すべき対象として、道具として、手段として、素材として、この自然に対峙している。
だからこそ、彼は憤りを感じた。この原野の中にしか、このような高揚した思いを見出せないことに怒りを感じた。人間が生きる社会の中では、そのような高揚を感じることができないことに怒りと寂しさを感じた。
この希望に満ちた大きな感覚は、世間一般の人間の営みの中に戻れば、失われてしまう。そんなことは正しいことじゃない、と彼は思う。人間の営みというものは、もっと高い段階にあるべきだ。自然を向上させるようなものであるべきだ。その若者は人間を軽蔑したくはない。人間を愛し賛美したい。
しかし、ここまで来る途中で最初に目にした家や玉突き場や映画のポスターなどは、彼の気持を暗澹(あんたん)とさせた。
この若者は、作曲したいという思いをいつも持っていた。自分が求めていることとして、他の行為など考えられなかった。彼は独り言を言う。僕が何を求めているのか君が知りたいのならば、チャイコフスキーの協奏曲一番を聴きたまえ。もしくはラフマニノフの協奏曲二番の最終楽章を聴きたまえ。僕が求めているものを表現する言葉を、行為を、思想を、人間はまだ見つけることができないでいる。しかし、それらを音楽は発見した。
若者は、心の中で叫ぶ。この地上で、人間の行為で、僕が求めているものが実践されている様を見せてくれ。それが実現されている様を見せてくれ。あの音楽が約束するものに匹敵するものを僕に見せてくれ。
他人に仕える人々でも他人に仕えられる人々でもなく、祭壇でもなく生贄でもない。究極的で、充足した、苦痛から解放された何かを見せてくれ。僕を手助けすることなどしなくていい。僕に奉仕などしなくていい。一度だけ見せてくれ。僕にはそれが必要なのだ。
我が同胞たちよ、僕の幸福のためになど尽くしてくれなくていい。君の幸福を僕に見せてくれ。幸福が可能なのだということを示してくれ。君が成し遂げたことを見せてくれ。そうすれば、それを知りさえすれば、僕は僕自身の人生に、僕自身の幸福に、僕自身が成し遂げるべきことに挑む勇気が持てる。
そのとき、若者の前方に青い穴が見えた。彼が進んできた道路が、峰のいただきのところで終わっているのだ。その青い色は木々の緑色の枝で縁取りされた枠の中で伸びている水の膜のように、涼やかで清潔に見える。
若者は思う。もし、僕がこの道の先端まで行ったとして、そこに青色の空間しか見ることができなかったら面白いだろうな。上にも下にも青い空しかなかったとしたら面白いだろうな。
若者は目を閉じる。そのまま前方に歩いていく。一瞬だけだが、道路の先端から墜落するかもしれないと思う。しかし、そうなることを夢みてさえいる。つまり、道路の先端まで行って、目を開けたら、そこには、きっと空も大地もなくただ青い輝きだけが見えるのではないか・・・そんなことを数瞬間ぐらい、若者は想像した。
若者は動きを止める。足先に地面と、地面でない空間の境界を感じたから。立ち止まって目を開ける。そこで彼はじっと立ちつくしてしまった。
若者の眼下はるかに、広々とした谷間いっぱいに、ひとつの町が在った。早朝に最初に届く陽光を浴びて、ひとつの町が在った。
その町は単なる町ではなかった。通常、町というものは、こういうものではない。若者は、しばらくの間よりももっと長く、こんなことがありえるのかと疑念にかられていなければならなかった。誰かに問いたい気持ちもなく、誰かに説明してもらいたい気持ちもなく、若者はただただ目を凝らしてその町を見ていた。
若者の目前にある丘の斜面は棚状の段々になっている。その段々は丘のふもとまで流れるように続いている。そこに小さな家々が建てられている。その棚状の段々は自然にできたものであって人工的に造成してできたものではない。そのことが若者にはわかる。
その段々を作っている丘の斜面は計画的に生み出されたのではない。この町は、その斜面の自然な美しさをそのまま保ち、建設されている。これらの自然が形成してきた丘の段々状の斜面に、こうした家々が建つのは必然であると思わせるようなやり方でそれらの家々を建てる方法を、何かの力が熟知していたのか。だから、この丘を見る者にとっては、これらの家々がなかったら、こうまでこの丘が美しいとは感じられないに違いない。
偉大な盲目的な自然の力が苦闘してこれらの丘の斜面を作り上げてきたのであるが、その何世紀もの時間や、様々な偶然の連続は、この最終的な表現を待っていたのだ。この丘が通過してきた長い時間とその変化は、あるひとつの目標をめざした道程にしか過ぎなかった。その最終的な表現、目標とは、まさにこれらの建物だった。これらの建物群は、丘の一部となり、丘から形成され、しかも自らが建てられることによって、その丘に意味を与え、かつその行為によって丘を支配している。
家々は、普通の自然石でできている。それらは緑の丘の斜面から突き出した岩のようだ。家々は、ガラスからもできている。あたかも、その家の構造を完璧にするために太陽が招かれたかのような大きなガラス板でできている。だから、陽光がその石造建築の一部であるかのように見える。
家々はたくさん建てられていたが、大きな家屋はひとつもなく、みな小さい。しかし、それぞれが違うデザインで建てられている。ひとつとして同じものはない。なのに、それらの家々には、ひとつの同じテーマの変奏曲であるかのような、全体的な統一性がある。まるで尽きぬ想像力から生み出された交響曲だ。
その光景を見る人々は、それらの光景の上に流れ横溢(おういつ)する力が発する笑いを聴き取ることができるかもしれない。その力は疾走する。拘束を受けることなく、その力自身が消耗されることに挑戦する。しかし、この力は限界に達して力尽きることがない。
若者は思う。これは音楽だと思う。自分がかつて祈り願ったものだ。一級の音楽が約束する何かだ。その何かがここに実現されている。僕はそれを感じている。
若者の目の前に、それは現前している。彼の目にそれが見えるわけではない。彼はそれを聴き取っている。和音の形で聴き取っている。若者は、考えることにせよ、見たり聴いたりするものにせよ、それらに共通する言語というものがあると考えてきた。では、これは何だろうか?これは数学だろうか?理性の規律なのだろうか?音楽は数学だ。では、建築は石の中で奏でられる音楽なのか。
若者は自分がめまいを感じていることに気づく。なぜならば、彼の眼下に広がる光景が、もはや現実のものとは感じられなかったから。
若者は、眼下の町の、石で区切られ階段状になっている丘の斜面をらせん状に上昇している木々や芝生や散歩道を見る。噴水がある。プールがある。テニス・コートがある。しかし、人影というものは皆無だった。この町には、まだ誰も住んでいない。
そのこと自体は、その若者を驚かせなかった。最初にこの町を見たときの驚きに比べれば、どうということはなかった。ある観点からすれば、誰も住んでいないらしきこの町の風景は、実に適切なものに思える。
なんとなれば、このような町など、この地上にあってはならないものに思えたから。存在物の一部であってはならないものに思えたから。その瞬間、この若者は、もうこの町がいったいどういうものであるのか知りたいという欲望さえ失くしていた。魅せられたまま、ただただ谷間の町を見つめていた。
それから長い時間が経ったあと、やっとこの若者は眼下の光景から目を放し、自分の周囲を見渡した。
そのとき、そこにいたのが自分だけではないことに、若者はやっと気がついた。彼から数歩離れたところに、ひとりの男が大きな岩の上に腰を掛け、谷間を見おろしていた。
その男は、眼下の光景にうっとりしているようだった。若者が近寄ってくるのも耳に入らないようだった。男は長身で痩せている。髪がオレンジ色だった。
若者はまっすぐその男の方に歩いていった。男は、やっと若者に目を向けた。男の目は灰色で静かだ。若者は突然知る。自分たちが同じことを感じていたということを。だから、若者は、見知らぬ他人に話しかけるような調子ではない親しげな話し方で、その男に訊ねることができた。
若者は谷間を指差しながら言う。
「こんなの本当にありえるんですね?」
見知らぬ男が答える。
「ああ、そうですね、確かに。でも現に、今ここにあるよ」
「映画のセットとか、なんかそんなものではないですよね?」
「違うよ。夏の保養地だよ。完成したばかりなんだ。数週間もすれば公開される」
「誰の設計ですか?」
「僕が設計しました」
「あなたのお名前は?」
「ハワード・ロークです」
「ありがとうございます」
若者にはわかった。自分をじっと見つめているこのしっかりとしたまなざしの持ち主は理解してくれている。自分が発した言葉の背後にどんな思いがこめられているか、ちゃんと理解してくれている。
ハワード・ロークは、謝意を込めて、頭を傾ける。
自転車を引いて歩きながら、若者は狭い道を下っていく。丘の斜面を降り、谷間へと向かう。さきほどまで自分が我を忘れて眺めていた町へと、家々へと向かう。
ロークは、若者を見送る。その若者に会うのは初めてだった。ふたたびその若者に会うことはないだろう。
ロークは知らなかった。自分がその若者に、見知らぬ誰かに、生きる勇気を与えたということを。人生に直面する勇気を与えたということを。
(第4部1 超訳おわり)
(訳者コメント)
私は、この第4部冒頭を読むたびに泣けてくる。
生きる目的が見つけられない若者が、Mount Monadonockの麓にある。
モナドノックというのは、この土地に住んでいた先住民(アメリカ・インディアン)の言葉で「高き山」という意味だそうだ。
渓谷に広がる景色を見て息を呑む。
その峡谷に広がっていたのは、まだ住民のいない完成したばかりの町並みだった。
こんなことが可能かと思えるような美しい町が、家々が、そこにできあがっていた。
それは、ハワード・ロークが設計した夏の保養地だった。
贅沢な別荘を持てる資産階級の人々のためではない、もっと慎ましい暮らしをする人々が夏の涼と休息を求めて借りることができる別荘地だった。
人間の卑小さばかり教えられ、見せつけられてきた若者は、その保養地を見ることで、信じることができた。
人間は偉大なんだ。自然の条件を生かしつつ、このような保養地を設計し具現化できる人物が現に存在している。
ならば、僕にも何ものかを、この地上につけ加えることはできるのではないか。
そうできるように努力し、挑戦し続けることはできる。それは生きることそのものだ。
そのように生きることができれば、それは僕の栄光になる。
勇気を出して、生きるんだ。ちゃんとモデルに会えたじゃないか。人間の素晴らしさを証明する仕事をこの目で見たじゃないか。
だから、若者は、何も説明せずに、ロークに言ったのだ。
「ありがとうございます」と。
ロークは礼を言われたことの意味を理解した。
しかし、自分が、絶望して旅をしていた若者の心に火をつけたことまでは気がついていない。
美しいシーンだ。
美しい出会いだ。
この若者とロークは、もう二度と出会うことはないだろう。しかし、ロークの仕事とロークに出会ったことは、この若者の魂に永遠に刻み込まれたのだ。
ところで、ここで描かれるモナドノック山Mount Monadonockは、現存する。
日本の富士山に次いで、登山者が多い山である。ほんと。
霊山である富士山に登山者を許して、霊山を汚しているから、日本に災害が多くなっているのだと私は思っている。
まあ、アメリカの山に精霊はいても、神々はいなさそうだから、登ってもいいのか。
若者は、この山の頂上から、ロークの設計した保養地を一望したという設定なのだろうか。
この山は約1000メートルくらいの山である。
自転車で行くには高過ぎるのだろうか。
この渓谷に実際に保養地が構築されているのかどうかはわからないが、アメリカの東海岸に住む人々にとっては、馴染みのハイキングコースであり、気楽な別荘地であるのが、このモナドノック地区である。
古くは、ボストン郊外のコンコードの住人のエマソンやソローが好んで出かけた美しい場所である。
アイン・ランドが、この場所をどういう経緯で知ったのかはわからない。
ただ、夏の別荘や保養地は、働く中産階級の人々が、しばし不快な暑さから解放されるための、気軽に利用できる施設であってほしいと思っていたことは事実だと思う。
コメントを残す