第3部(26) トゥーイー追放をワイナンドに進言するドミニク

ドミニクは、ヨットの手すりにもたれて立っている。彼女が履いているかかとの低いミュールを通して、甲板の暖かさが感じられる。むき出しの脚に太陽を感じる。彼女の薄い白いドレスが風に翻っている。ワイナンドは甲板で寝そべっている。ドミニクは目の前のワイナンドの姿を眺めている。

再びヨット航海に出たワイナンドの中に生じた変化に、ドミニクは気づいていた。だから、彼女はそのことについて考えている。

この夏の航海の間中、ドミニクはずっとワイナンドを見つめてきた。甲板昇降口の階段を走り降りていくワイナンドを見たこともあった。そのときの彼の姿は、ドミニクの心の中に残るものだった。

長身の白い姿が、速度と確信を持った一条の流れとなって前方に投げ出されるように走って行った。片手で階段の手すりをつかみ、走り降りるにつれて新しい推進力を加えてどんどん早くなるようだった。突然停止しなければならなくなるときの危険をあえて冒しているようでもあった。

そのときのワイナンドは、大衆の帝国たる新聞、俗情と結託した大新聞の腐敗した発行人ではなかった。ヨットの上では、彼は貴族だった。ドミニクは、そのとき思った。このワイナンドの姿は、人が若いときに貴族とはこういうものだろうなと信じた姿のままの貴族だと。罪の意識などない陽気さをもつ輝かしい貴族だと。

甲板の椅子の上に腰掛けているワイナンドを、ドミニクは眺める。そして思う。弛緩(しかん)している状態、くつろいでいる状態というのは、そうした弛緩が不自然な状態であるような人々の中に見出してこそ魅力的なものだ。

ドミニクは思う。ゲイル・ワイナンドは尋常ならざる能力の持ち主だ。しかし、その能力は、新聞の一大チェーンを作り上げた野心ある冒険家の持つ力以上のものだ。この甲板でくつろぐワイナンドの中に、今ドミニクが見ているものの質は、まるで何かへの答えだ。太陽の下で伸び伸びと横たわっているこの存在は、もっと偉大なものなのだ。存在の第一の根拠となるものだ。宇宙的な原動力から生まれる能力だ。

「ゲイル」と、ドミニクは思わず唐突に呼びかける。

ワイナンドは目を開けて、ドミニクを見る。物憂げに言う。

「その声を録音できればよかったなあ。どんなふうに聞こえたか君もそれを知ったら、びっくりするよ。ここではなあ、もったいなかった。ベッドでも、さっきみたいな声を聞きたいものだね」

「お望みとあれば、ベッドでも再現しましょう」

「嬉しいね。だからといって、私はそれを誇張して解釈したり、あまりに多くのことを期待してあれこれ考えることはしないよ。それは約束する。君は私を愛してはいないからね。君は誰も愛したことがない」

「なぜ、そんなふうにお考えになるの?」

「君が男を愛するとすれば、サーカスみたいな派手な結婚披露宴をさせるとか、劇場で不快極まる夜を過ごさせるなんていう程度では、すまないだろうからね。君は愛する男を、とんでもない地獄につきおとすだろうから」

「ゲイル、どうして、それがおわかりになるの?」

「君は、なぜ私たちが会って以来、ずっと私をじろじろ見つめているのかねえ?なぜならば、私が、君が噂で聞いてきたゲイル・ワイナンドではないからだ。わかるね、私は君を愛している。愛するという行為は、例外を設けてしまう。もし君が誰かを愛するとしたら、君はその人物に打ちのめされ、踏み潰され、命令され、支配されたがるだろう。なぜならば、そんなことは不可能だからだ。君が他人との関係で、そうなることなど考えられないからだ。だからこそ、そうなることこそが、愛する男に君が提供したい贈り物になるわけだ。その大きな例外がね。しかし、そんなことは君には容易ではないだろうね」

「もし、それが本当だとしたら、それなら、あなたは・・・」

「それなら、私は、君の後ろで優しく慎ましく控えるようになるだけさ。君は非常に驚くだろうが・・・私は、最悪に卑劣な生き物なのでね」

「ゲイル、それは違います」

「違う?私は、もう君にとって最低最悪の人間の次に最悪な人間では、ないのかい?」

「もう、そうではありません」

「実際のところ、やはり私はそういう人間なのだよ」

「なぜ、そうお考えになりたいのかしら、あなたは?」

「そう考えたくなどないよ、私は。ただ、私は正直でいたいだけだ。それこそ、私の唯一の個人的贅沢だったからね、ずっと。私に対する見解を変えないでくれたまえ。私たちが出会う前に、君が私に関して考えていたように、これからもそう考えて欲しい」

「ゲイル、それはあなたが望んでいることではないはずです」

「私が何を望もうが、どうでもいいことだよ。私は何も望んでいない。君を所有すること以外には。君から何の応答がなくてもね。君から答えがない、というのが必要なのだよ。君が、あまりに私に近づきすぎて観察すると、君は君の全く好まないものを見るはめになる」

「どんなことを見るはめになるのかしら?」

「ドミニク、君はほんとうに美しい。外見も内面もこれほどに一致する人間が存在するなんて、これは神様のうっかり犯した素敵な事故だね」

「ゲイル、私がどんなことを見るはめになるとおっしゃるの?」

「君は、自分がほんとうにはいったい何に恋しているかわかっているかい?高潔さだ。清浄で、首尾一貫して、合理的で、自己に忠実で、芸術作品のようにひとつのスタイルで貫徹している何か、だ。そういうものが発見できる分野はひとつだけある。芸術だ。しかし、君はそれを生身の人間の中に求めている。君はそれに恋している。君にはわかっているだろう?私は、そのような高潔さというものを持ったことがない」

「ゲイル、そんなことが、どうしてあなたは、おわかりになるの?」

「君は『バナー』のことを忘れたのかい?」

「『バナー』なんて糞食らえ」

「いいだろう、『バナー』なんて糞食らえだ。君がそういう言い方をするのは素敵だねえ。しかし、『バナー』自体は、大した症状ではないよ。私が、かつてどんな類のものにせよ、高潔さというものを行使したことがないということ自体はさして重要なことではない。重要なのは、私が高潔さというものを欲したことがないということなのだ。私は、そういう概念でさえ憎んでいる。高潔さという概念のおこがましさを憎んでいる」

「ドワイト・カーソンね・・・」と、ドミニクは言う。彼女の声に、いかにも嫌悪するような響きがこめられているのを、ワイナンドは感じる。彼は大きな声で笑う。

「そう、ドワイト・カーソン。私が買った男だ。衆愚の賛美者になった個人主義者さ。挙句(あげく)の果てには、今じゃアルコール中毒だ。私がそうさせた。これは、『バナー』のような新聞を出しているよりも、ひどい行為だろう?あの男の例など思い出させられるのは好まないだろう、君は?」

「ええ、好みません」

「しかし、私がした行為に泣き叫ぶ声なら、何回も君は聞いたはずだ。私が破滅させた魂を持った男たちの叫び声をね。私がその行為をどれほど楽しんだか、誰にもわからないと思う。あれは一種の欲情だな。私は、エルスワース・トゥーイーとか、わが友アルヴァのような、ナメクジみたいな連中には全く関心がない。ああいう連中は喜んで安らかにさせておく。ほっておける。しかし、わずかでも高い次元にいる人間に関しては・・・そういう人間から、エルスワース・トゥーイーみたいなものを抽出しないと、私は気がすまない。そうしないと駄目なのだ。どうにも我慢できない性的欲望みたいにね」

「なぜ?」

「わからない」

「ついでながら申し上げますけど、あなたはエルスワース・トゥーイーを誤解していらっしゃる」

「それはありえるね。しかし、あんなかたつむりの殻を壊すのに頭を使うなどという浪費を、君は私に期待するのかい?」

「あなたは、矛盾していらっしゃる」

「どこが?」

「なぜ、私を破滅させようとはなさらないの?」

「ドミニク、例外なんだよ。私は君を愛しているから例外を設けた。私は君を愛する必要があるのだ。しかし、君が男だったら、君も危なかったね」

「ゲイル、なぜ?」

「私が、なぜああいうことをしたかということかい?」

「はい」

「権力だよ、ドミニク。私がかつて欲しかった唯一のものさ。私が強制して何かをさせることのできない人間など、この世にいないということを知ることだよ。私が選択するものが何であろうが、それを無理にでもさせることさ。私が打ちのめすことができない男だけが、私を破滅させる。しかし、何年も何年も費やしてきたけれども、私は安全だとわかっただけだったね。世間は、私には名誉という意識がないと言う。確かに、それは私が喪失して、もはや見出せないものだ。名誉というものがあればいいと思うよ。しかし、私はほんとうに、自分に名誉というものが欠落していることを無念に思っているのだろうか?そんなもの、名誉というものなど、この世に存在しないのに」

ワイナンドは、いつもと変わらぬ調子の声で話している。しかし、彼は急に気がつく。ひとつの音節も聞き逃してはいけないささやき声を聴き取るような集中力で、ドミニクが自分の話に耳を傾けていることに。

「ドミニク、どうかしたのかい?君は何を考えている?」

「ゲイル、私はあなたに、耳をすませているの」

ドミニクは、ワイナンドの言葉に耳をすませているとは言わなかった。その言葉の背後にある理に、耳をすませているとも言わなかった。その発見は、ドミニクにとって、突然なほどくっきりと明瞭なものだった。だから、その発見は、ワイナンドが発した文章につけ加えられたひとつの条項として、ドミニクには聞こえた。ワイナンドには、そのとき自分が何を告白していたかについて自覚はなかったのではあるが。

さらにワイナンドは語りだす。

「不正直な人々の一番悪い点は、彼らが自分のことを正直だと考えているということだ。たった三日間でも、ひとつの確信を持ち続けることのできない女性を私は知っている。あなたには首尾一貫した高潔さというものがないと、私はその婦人に言ったことがある。そのとき、彼女は唇を固く結び、彼女の高潔さの概念というのは、私のそれとは違うのだと言ったよ。金を盗んだことはありませんというような、次元の違うことを言う調子で、そう言ったよ。まあ、ああいう婦人は、何にせよ私にとっては危険でも何でもない。だから、私はあの婦人を憎まない。私が憎むのは、ドミニク、君がそれほどにも情熱的に愛している実現不可能な概念なのだ」

「ほんとに憎んでいらっしゃる?」

「だって、私はそれが不可能だってこと、この世の中には存在しないということを証明するのに、随分と楽しい経験をしてきたからね」

ドミニクは、ワイナンドの傍まで歩いていく。彼の座っている椅子のそばの甲板の上に座り込む。甲板に引いてある厚板の表面はなめらかで、陽光にさらされて熱い。ドミニクはむきだしの肢(あし)の下でそれを感じる。ワイナンドは、ドミニクがなぜそんなに優しい目で自分を見るのかわからない。彼はいぶかしんで眉をしかめる。ドミニクには、自分がワイナンドの心の奥底にあるものを理解したことを示唆する何かが自分の瞳に残っていることはわかっている。だから彼から瞳をそらす。

「ゲイル、なぜ、そんなことみんな私にお話になるの?そのようにあなたのことを私が考えるのは、それこそあなたが望まないことでしょう?」

「そうだよ。私は望まないよ、確かに。じゃあ、なぜさっき私は君に語ったのかなあ?真実が欲しかったからかな?なぜならば、それは語られねばならなかったからだ。なぜならば、私は君には正直でいたかったからだ。君と私自身に対してだけはね。しかし、他の場所だったらば、私も君に言う勇気はなかっただろうね。ニューヨークの家ではできない。海の上のここだけだ・・・ここは、なにか非現実的な感じがするじゃないか。そうだろう?」

「ええ」

「ここなら、さっきのような私をも君は受け入れてくれるだろうと、私は期待したのだろうな。そう思うよ・・・さっき私が録音しておきたかったと思うような調子の声で、君は私を呼んでくれた。あのときの君の気持にあったような私として、私のことを考えてくれるのではないかと、私は期待したのかな」

ドミニクは、ワイナンドが座っている椅子に頭をあずける。彼の膝の上に顔を伏せる。両の手は甲板の陽光に照らされてぎらぎら光っている厚板の上に落ちている。指は半分折り曲げられている。

今日、ワイナンドが彼自身について語ったことから、自分がほんとうに聞いたこと、ほんとうに聴き取ったことを、ドミニクはワイナンドに見せたくない。だから、ドミニクは、ワイナンドの膝の上に顔を伏せる。

ワイナンドは、高潔さという実現不可能な概念を憎むと言った。どんな下劣で卑怯な行為も、どんな腐敗した人々も憎むほどの関心を持ってこなかった男が、高潔さという概念を憎むと言った。人間はどうでもいいものなど憎まない。ゲイル・ワイナンドという男は、心の奥底で、彼も意識できないほどに、高潔さを希求し憧れているのだ。高潔さを具現した人間に出会うことを望んできたのだ、ほんとうは。ドミニクには、それがわかる。この屈強な偉大な男に対して、ドミニクは痛々しさを感じている。この男の孤独に触れた思いがドミニクの心を常になく柔らかなものにしている。

晩秋のある夜、ワイナンドとドミニクは、自宅のペントハウスの屋上庭園の手すりのところに立っている。マンハッタンの夜景を眺めている。

灯りのともった窓という窓が長い柱を作っているありさまは、黒い夜空を割って地上に注ぐ流れのようだ。その流れは、地上のおびたただしい照明が集合して形成する大きな炎のプールに落下する。

「ドミニク、あそこにあるだろう・・・大きなビルがたくさん。高層ビルだ。君はおぼえているかい?あれが、私と君をつないだ最初の輪だったね。私たちは、あの高層建築に恋している。君と私は」

「ええ。私はあの高層建築が好きです」

ドミニクは、垂直に伸びた光の糸を見つめる。それはコード・ビルの夜景だ。手すりから指をはずし、遠い空に浮かぶコード・ビルの、夜には見えない形をなぞるために、ドミニクは指を掲げる。今、こうしてワイナンドとともにいる自分を責める言葉が、ハワード・ロークが設計したそのビルからは聞こえない。

ワイナンドは語りだす。

「私は、超高層ビルの足元に立つ人間を見るのが好きだ。人間の大きさなど、そのビルからすれば蟻と大差はない。こう言うのは、そういう場合の決まり文句だ。けれども、ほんとうはそうではない。そんな陳腐な決まり文句は全く馬鹿げている。そのビルを作ったのは人間だ。信じられないような量の石と鉄鋼で作ったのは、そのちっぽけな人間なのだ。そのとてつもなく大きな高層ビルは人間を矮小にしたりはしない。反対に、そのビルは、そのビルよりも、人間を大きな存在にする。そのビルは、人間のほんとうの大きさというものを、世界中に示すことになる。ドミニク、私があの高層ビルをなぜ愛するかといえば、それらが、人間の中の英雄的なるもの、創造的能力というものを感じさせてくれるからなのだ」

「ゲイル、あなたは人間の中の英雄的なるものを愛していらっしゃるの?」

「それがあると考えるのは好きだよ。それがほんとうに存在するとは信じられないけれどね」

ドミニクは手すりにもたれ、はるか遠くの眼下に長い直線となって伸びる緑色の灯りをじっと見つめている。ドミニクは言う。

「私、あなたを理解できれば、いいのですけれども」

「私は充分にあからさまだと思うが。わかりやすいじゃないか。君の前では、何ひとつ隠し事はしていない」

ワイナンドは、黒い河の向こうで規則正しく点滅する電気信号を見つめている。それから、はるか南の方向にあるぼやけたひとつの灯りを、ワイナンドは指差す。わずかに青色を反射させる光だ。

「あれは、『バナー』の社屋だ。見えるかい?あの向こうだ・・・あの青い光。私は今までいろいろなことを手がけてきたが、ひとつだけしていないことがある。最も重要なことなのだが、まだしていない。ニューヨークにはワイナンド・ビルというものがない。いつの日か、私は『バナー』のために新しいビルを建てる。その新しいビルは、この街の最高の建物となるだろう。そのビルは、私の名前を冠することになる。私は、みじめな境遇から這い上がってきた。『バナー』だって、最初は『ガゼット』と呼ばれていた。私は、非常にいかがわしい連中の使いっぱしりでしかなかったこともある。でも、それでも、あの頃から私は考えていた。将来、この街にそびえ立つワイナンド・ビルのことを。あの日以来、ずっと私は考えている、そのビルのことを」

「なぜ、これまでにお建てにならなかったの?」

「そうする気持ちの用意ができていなかった」

「そうかしら?」

「今でも、まだ私には用意ができていない。なぜだかわからないのだが。そのビルの建設が私にとって非常に重要であるということだけは、わかっている。それは、私の究極の象徴となるだろう。時期が来たら、ビルを建てるべき適切なときがきたら、私にはわかるはずだ」

ワイナンドは体の向きを変え、西の方角を望む。薄暗い灯りがあちこちについている一角を見つめ、それを指差す。

「あそこが、私の生まれたところだ。ヘルズキッチンだ」

ドミニクは注意深く彼の話す言葉に耳を傾けている。このように夫が、自分の出生のことを語ることはめったにない。

「今夜みたいに、屋根の上に立ってこの街を眺めたのは、私が十六才のときだった。そのとき私は決心した。将来自分が何をするかを」

ワイナンドの声の質は、今このとき、この瞬間の下に下線を引くように求めている。「気をつけて、ここが大事なところだ」と、言っている。ワイナンドの方を見つめず、ドミニクは自分の思いにふける。今、このときこそ私が待っていたものだわ。これは私に鍵を与えてくれる。この人を理解する鍵を提供してくれる。

まだワイナンドと結婚する前のことだ。何年も前のことだ。ドミニクはゲイル・ワイナンドについて考えをめぐらしたことがある。あのとき、彼女は、彼のような人間はどうやって自分の送って来た人生や、してきた仕事に面と向かうことができるのだろうかと疑問に思った。ドミニクの予想では、ワイナンドが選び取るであろう姿勢として考えられるのは、大いばりに自慢して恥辱(ちじょく)の意識を隠すことか、もしくは不遜にも罪をこれ見よがしに誇示することだった。

今、ドミニクはワイナンドを見つめている。彼は頭を上げ、目前の空と同じ高さに瞳を凝らしている。かつてドミニクが予想したような態度は、そこにみじんも見られない。

ワイナンドが、そのとき発散していたものは、彼の経歴や仕事からは考えられないような質のものだ。それは、男らしい勇敢さというものだ。ドミニクは、それこそ、この男を理解する鍵だと思う。しかし、謎は深まるばかりだった。しかし、ドミニクの内部にある何かが理解していた。この男を理解する鍵を使用すべきだとわかっていた。その思いが、ドミニクにこう言わせていた。

「ゲイル、エルスワース・トゥーイーをクビにして」

ワイナンドはドミニクを振り返る。当惑している。

「どうして?」

「あなた、お願い、聴いていただきたいの」

ドミニクの声には切羽詰ったような思いつめた響きがある。ワイナンドに話しかけるとき、彼女がこんな声を出したのは初めてだった。

「私は、今までトゥーイーを阻止しようと望んだことはありませんでした。あの人の片棒さえかついだぐらいでした。私は、あの人はこの世界の水準にふさわしいものだと考えておりましたから。この世界には、あの程度の人間でちょうどいいのだと思っていました。だから、何であれ、あの男から何かを救い出そうとさえしませんでした・・・もしくは、誰かを救おうとすることもしませんでした。でも、それが『バナー』とは思ってもいなかった・・・確かに『バナー』ほど、あの男にぴったりのものはないのに・・・私があの男から救い出したいのは『バナー』なのです」

「君は、いったい何を言っている?」

「ゲイル、私はあなたと結婚したとき、こんな気持を、このような種類の忠誠心を私があなたに感じるようになるとは思ってもおりませんでした。これは、私が今までしてきたことと矛盾します。あまりに矛盾するので、どう説明したらいいのか、わからないぐらいです。これは、私にとっては一種の破滅です。ひとつの転機かもしれない。なぜだかお訊ねにならないで。多分、私にさえ、その理由がわかるのに何年もかかることでしょうから。ただこれだけは私にもわかります。これは私の義務です。あなたのために私がしなくてはならないことです。エルスワース・トゥーイーを解雇して下さい。手遅れになる前に、あの男をあなたの新聞社から追放して下さい。あなたは、今まであの男よりもはるかに邪悪でない人たちを、たくさん破滅させてきた。はるかに危険ではない人たちをいっぱい破滅させてきた。ならば、トゥーイーを解雇しなければなりません。あの男を追い詰めて、あの男の最後の欠片まで破壊しつくすまで、手を休めてはいけません」

「なぜだい?どうして、今、あんな奴のことを君が思い出さなければならない?」

「なぜならば、私にはあの男が求めているものがわかるからです」

「あいつが、何を求めているって?」

「ワイナンド系列の新聞すべてを自分の傘下(さんか)におくこと」

ワイナンドは大声で笑う。錯乱したわけではない。怒りのあまりの笑いでもない。馬鹿馬鹿しい冗談のつぼがわかって大笑いするような、純粋に陽気な笑いだ。

「ゲイル・・・」と、ドミニクは困惑する。

「ドミニク、頼むよ!勘弁してくれよ!そりゃ、海の上では私はいつでも君の判断に敬意を払ってきたがね」

「あなたは、トゥーイーのことをわかっていらっしゃらない。今までだって、そうだった」

「あんな奴をわかろうとして、どうする。どうでもいいよ、私には。私が、エルスワース・トゥーイーに立ち向かうなんて、そんな馬鹿馬鹿しい事態など想像もつかん。まさか。南京虫を駆除(くじょ)するのに戦車が必要か?なぜ、エルスィーをクビにしなければならない?あいつは、私のために金を稼いでくる奴だ。そういう程度の男だ。あいつの書くたわごとを好んで読みたがる連中は多いからな。新聞社というところは、ああいう性能のいい仕掛け爆弾みたいな連中を解雇したりはしない。私にとっては、トゥーイーは実に価値がある。ハエみたいな読者をつかんではなさないハエ取り紙だ」

「だから危険なのです。他にも危険な人たちはいます」

「ああ、トゥーイーの取り巻き連中の記者のことか?うちの社は、もっと大物で、かつもっと良質なお涙頂戴の馬鹿馬鹿しい記事ばかり書く記者たちをかかえていたことがあるよ。そいつらの中の数人ではあるが、追い出さなければならなかったこともあった。それで、そいつらは一巻の終わりだった。連中も、『バナー』を辞めれば、その人気とやらも終わる。花形記者がいくら辞めても、吠えても、『バナー』は進む」

「私は、トゥーイーの人気のことを問題にしているのではありません。あの男の特殊な性質のことを言っているのです。あなたは、あの男の基準で戦うことはできない方です。あなたは、単なる戦車にすぎない。とても清潔で無垢な武器でしかありません。そういう正々堂々とした武器は、最前線に先頭切って進み、あらゆるものをなぎ倒し、どんな逆襲も組み伏せてしまう。一方、トゥーイーは毒ガスです。肺の中まで食い尽くす類の腐ったガスです。邪悪さの核心を解く秘密は、そこにこそあります。あの男はそれを持っている。私には、それが何であるのか、わかりません。私にわかることは、あの男はそれを駆使し、利用しているという事実です。それと、あの男の求めているもの、だけです」

「ワイナンド系列の新聞すべてを自分の傘下におくこと、かい?」

「ワイナンド系列の新聞すべてを自分の傘下におくこと・・・ある目的の手段のひとつとして」

「どんな目的だ?」

「世界を支配すること」

ワイナンドは、うんざりするように、しかし忍耐強く言う。

「ドミニク、それは何だ?どういう種類の冗談だい?何のために、そんな途方もないことを?」

「ゲイル、私は真剣です。ほんとうに真面目にお話しています」

「世界の支配ねえ。そういうことは、私のような男たちの世界に属するのだ。この世では、トゥーイーのような連中は、そんなことを夢見る方法も知らない」

「説明させていただけるかしら。説明するのはとても難しいのですが。一番説明し難いことは、誰もが直視しないように決めてしまった、あまりに露骨な明々白々な証拠というものです。でも、もしあなたが聞いてくださるのならば・・・」

「聞く気はないよ。もう勘弁してくれよ。エルスワース・トゥーイーを私に対する脅威だとする見解について議論するのは滑稽だ。そんなことを真剣に議論するなど不快だし、私に対して無礼(ぶれい)なことだ」

「ゲイル、私は・・・」

「いいよ、もう。君が『バナー』についてほんとうに理解しているとは、思えない。君に理解してもらいたいとも思っていない。どんな形にせよ、私の新聞に関与してもらいたいとも思わない。『バナー』のことは私に任せておきなさい」

「ゲイル、それは命令かしら?」

「最後通牒だ」

「わかりました」

「忘れたまえ。エルスワース・トゥーイーのような大物さんに関して恐ろしいややこしい妄想をめぐらすことなど、やめたまえ。君らしくない」

「わかりましたわ、あなた。もう家の中に入りましょう。あなたは、コートも着ないでここにいるのですもの、寒すぎますわ」

ワイナンドは、静かにほくそえむ・・・それは、ドミニクが以前の彼には見せたことがないような、彼に対する関心だったからだ。彼は、ドミニクの手を取り、手のひらにキスをして、それを自分の顔にあて、そのままでいる。

ある晩、今夜は、ワイナンドは私に話があるのではないかしらと、ドミニクは察していた。彼女は鏡台の前に腰掛けていた。

ワイナンドが入ってきて、彼女のそばの壁にもたれた。彼はドミニクの両手を見て、次に彼女のむき出しの肩を見つめた。しかし、彼女は感じる。ワイナンドは彼女のことなどほんとうは見ていないようだと。ワイナンドは、ドミニクの体より、もっと偉大なものを見つめている。彼女に対する自分の愛よりも偉大なものを見つめている。ワイナンドは彼自身を見つめている・・・ドミニクには、わかっていた。この行為は、比類のないほど、比較もできないほどの賛辞なのだと。

「僕は、僕自身の必要から呼吸している。僕の体に酸素を送るために。僕が生き抜くために、僕は呼吸している。僕は君に与えた。僕の犠牲ではなく、僕の憐れみではなく、僕の自我と僕のむきだしの欲望を君に与えた」

ドミニクはロークの言葉を聞いていた。ゲイル・ワイナンドの代わりに、ロークの声がそう話すのを耳にしていた。他の男の愛の言葉を聞きながら、ロークが自分に告げた愛の言葉を考えていることが、ロークへの裏切りになるという感覚は、ドミニクは持てない。

ドミニクは優しくワイナンドに言う。

「ゲイル、いつの日か、私は、私があなたと結婚したことを、あなたに謝らなくてはならなくなるでしょう。そのことで、あなたの赦しを乞うことになると思います」

ワイナンドは、微笑みながらゆっくりと頭をふる。ドミニクはさらに言う。

「私は、あなたに、私をこの世界につなぎとめる鎖になって欲しかったの。かわりに、あなたは私をこの世界から守る壁となって下さった。そうなって下さったので、私の結婚は不正直なものになりました」

「それは違う。私は君に言ったはずだ。君が選択するどんな答えも私は受け入れるだろうと」

「でも、あなたは私のために、ありとあらゆることをお変えになった。それとも変えたのは、私だったのかしら?わかりません。私たち、お互いに奇妙なことをしてしまいましたわね。私が失いたかったものを、あなたは私に下さった。あの生きるという特別な感覚を。私は、この結婚によって、その生きているという実感を破壊しつくされるだろうと予想していましたのに。何かに憧れて心が高揚するような、そんな生きる感覚を、あなたは私に下さった。あなたは・・・あなたは、全てのことを経験していらしたのね。私が経験するであろうようなことは、今までに全て。私たちは本当に似たものどうしです。ご存知でした?」

「最初から、それはわかっていたよ」

「でも、こんなこと不可能であるべきでした。ゲイル、今の私はあなたとずっといっしょにいたいと思っています。もうひとつの理由のために。その理由とは、答えを待つことです。あなたがどんな方なのか理解することを学んだとき、私も自分が何者なのか理解できると思います。答えが出るはずです、そのとき。私たちが共通して持っているものの名前があるはずです。今は、まだ、それが何かわかりませんが。でも、それはとても重要なことだということだけは、私にもわかります」

「多分ね。私もそれを理解したいと思うべきなのだろうけれども。しかし、私はわかりたいとは思わないよ。今は、あらゆることが、どうでもいい。恐れることすらできないよ、今の私には」

ドミニクはワイナンドを見上げて、静かに言う。

「ゲイル、私は怖いのです」

「何が?」

「私が、あなたにしていることが」

「なぜ?」

「ゲイル、私はあなたを愛しておりません」

「そんなことすら、私にはどうでもいいよ」

ドミニクはうつむく。ワイナンドは、磨かれた金属のような青白い光を放つヘルメットのようなドミニクの金髪の髪を、じっと見下ろしている。

「ドミニク」

ドミニクは素直に顔を上げる。

「ドミニク、愛しているよ。私は君を愛しすぎてしまって、もう私にとってはあらゆることがどうでもいいのだ。君でさえも。わかるかなあ?私の愛だけが問題で・・・君の答えはもうどうでもいいのだ。君の私に対する無関心さでさえ、どうでもいい。私は、この世界から多くを奪い取ったことは決してなかった。私は決して多くのことは望まなかった。私にとって、ほんとうに欲しいものなどなかったから。完全に、絶対譲れないような気持で、欲しいものなどなかった。イエスかノーかどちらかしかないような最後通牒のような切羽詰った欲望にかられて、欲望したものなど、なかった。もし、それが手に入らないのならば、生きていてもしかたない、絶対にそんなことは受け入れられないといった気持になるほど、欲しいものはなかった。しかし、君は、私にとって、そういう欲望の対象なのだ。これほどに欲しいものに手が届いてしまうと、もう対象そのものは問題ではなくなる。問題なのは、自分の欲望だけになる。君ではなく、私が問題になる。そのように欲望してしまえる能力というものがある。それ以下のものなど、もう感じる必要も、恐れる必要もなくなる。こんなふうに感じたことなど、一度もなかったのに。ドミニク、どんなことにつけても、私は『私のもの』という言い方を知らなかった。『私のもの』という感覚は何につけても持ったことがなかった。君のことを『私のもの』と、今の私が感じる意味においてはね。私のもの。君は、この思いを、何かに憧れて心が高揚する状態としての生きるという感覚だと呼んだね?君は、そう言った。君ならばわかる。私は恐れることなどできないのだよ。ドミニク、私は君を愛している。愛しているよ」

ドミニクは、鏡の上のほうに手を伸ばして、隅に貼り付けてあった例の電報をひきはがした。ドミニクを解雇せよと伝えたワイナンドからの電報だ。ドミニクは、その紙をクシャクシャに丸める。指を使って手のひらの上で、粉々に砕くような動きをしながら、ゆっくりとねじる。ドミニクはかがみこみ、屑(くず)入れの上で一瞬の間だが手を静止させる。それから手のひらを開き、指をいっぱいに広げる。クシャクシャにされた電報紙が落ちる。

このようなとてつもなく正直で正々堂々とした男に対して、あてつけるような行為などをしてきた自分を矮小で愚かしいと、ドミニクは思う。

(第3部 超訳おわり)

(訳者コメント)

第3部の最終セクションである。

ドミニクは、ヨット航海に再び出て、ワイナンドの心の奥底にあるものに触れた気がした。

ワイナンドは、高潔とされる人間たちを金銭の力で破滅させてきた。彼らの魂を高みから引きずり下ろしてきた。

その自分の行為を、ワイナンド自身は権力欲だと言う。自分がいかほど他人の人生を変えることができるかを確かめる行為だと言う。

で、畢竟、高潔さも名誉もこの地上にはないとわかったのだと言う。

ドミニクには、わかる。

そんなことをしてきたのは、ワイナンドが心から高潔さを求めているからだ。

もともと人間の中の高潔さなど求めもしない人々は、そんなことをしない。

心から求め、信じたくて、裏切られてきたので、ワイナンドはすでに諦めかけていた。

しかし、ワイナンドはドミニクを得た。そういう人間を妻にして愛することができる自分自身に充足している。

ドミニクは、そういう男だからこそ、ワイナンドに敢えて正直に言う。私はあなたを愛してはいないと。

ワイナンドは、そんなことも気にしない。高潔さを具現した女を愛している自分自身の悦びに充足できるからだ。

ワイナンドという人間の本質は、彼が語る言葉に露わになっている。

「私は、超高層ビルの足元に立つ人間を見るのが好きだ。人間の大きさなど、そのビルからすれば蟻と大差はない。こう言うのは、そういう場合の決まり文句だ。けれども、ほんとうはそうではない。そんな陳腐な決まり文句は全く馬鹿げている。そのビルを作ったのは人間だ。信じられないような量の石と鉄鋼で作ったのは、そのちっぽけな人間なのだ。そのとてつもなく大きな高層ビルは人間を矮小にしたりはしない。反対に、そのビルは、そのビルよりも、人間を大きな存在にする。そのビルは、人間のほんとうの大きさというものを、世界中に示すことになる。ドミニク、私があの高層ビルをなぜ愛するかといえば、それらが、人間の中の英雄的なるもの、創造的能力というものを感じさせてくれるからなのだ」

ワイナンドは、人間の中の英雄的なるものがあるとは思えないと言っているくせに、ほんとうは、心の奥底で信じているのだ。

人間の中の英雄的なるもの、創造的能力を。

こんなことを言える人間が、いつまでも「俗悪大衆新聞の王」でいられるだろうか?

こんなことを言える人間が、ハワード・ロークに出会ったら、どうなるだろうか?

第4部は、いよいよ最終部だ。

ゲイル・ワイナンドとハワード・ロークが出会う。

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