無人島の地面を歩くときでさえ、人は島の外に広がる世界と結びついているものだ。しかし、ワイナンドとドミニクのペントハウスは世界から孤絶していた。
電話線もはずされていた。ふたりとも、自分たちの下に五七階のホテルがあることなど感じられなかった。ホテルのビルの土台となる花崗岩の上に支柱となって立つ鋼鉄の柱を感じることもなかった。
ふたりにとって、ペントハウスは中空に碇(いかり)をおろしているように思えた。ペントハウスがひとつの島ではなく、惑星のような気がした。眼下に広がるマンハッタンは、見知った光景ではあるが、たとえば空のようなもので、コミュニケーションが可能なはずもない抽象的な何かに見える。賛美して眺める光景ではあっても、ふたりの生活には何の関係もないそんな光景。
結婚披露宴から二週間、ふたりがこのペントハウスから出ることは一度もなかった。ドミニクは、やろうと思えばエレべーターのボタンを押して、この隠遁者(いんとんしゃ)のような生活を破ることはできたのだったが、それを望まなかった。この隠遁に抵抗する気もなかった。不思議に思うこともなかった。ワイナンドに問いただす気もなかった。それは、魅せられたような、安らかな日々だった。
ワイナンドは、ドミニクが望むならば何時間でも、ドミニクに関する話をしながら座っていた。ドミニクがその方がいいのならば、黙って静かに座っているだけでもワイナンドには満足だった。彼の個人的美術館で陳列物を眺めるように、ドミニクを見つめているだけで満足だった。芸術作品を鑑賞するときの距離のある、何ものからも邪魔されることのないまなざしだ。
ドミニクが訊ねるどんな質問にもワイナンドは答えた。しかし、ワイナンドからは何も質問しない。自分がどう感じるかについても、ワイナンドは語らない。ドミニクがひとりになりたいときは、彼女に呼びかけることもしない。
二週間が過ぎてから、ワイナンドは仕事に戻った。『バナー』の執務室に戻った。
しかし、ふたりが世間から離れて過ごした感覚は、ふたりの暮らしに残っていた。宣言されたひとつの主題のように残っていた。また将来のふたりの日々に通底して保持される何かのように残っていた。
晩になるとワイナンドが帰宅する。そうなると、もう外部の世界は存在しなくなる。ニューヨークの街が消える。彼にはどこにせよ外出したいという欲望が消えていた。客も招待しなかった。
ワイナンドはそうとは言わなかったが、ドミニクにはわかっていた。ひとりにせよ、自分といっしょにせよ、彼女に外出させたくないとワイナンドが思っていることを。それは静かな強迫観念ともいうべきものだった。ワイナンド自身はドミニクに強制することなど思いもよらないことだったのだが。
帰宅すると、ワイナンドはドミニクに訊ねる。「出かけたかい?」と。決して「どこに行った?」とは訊かない。それは嫉妬とは違う。なぜならば、彼にとって、どこにドミニクがいたかは問題ではないからだ。
ドミニクが靴を買いたかったとき、ワイナンドは三つの靴店をペントハウスに呼んだ。ドミニクが選べるようにかなりの量の靴を運ばせた。そのためにドミニクは店に出かけることができなくなってしまった。映画が観たいと彼女が言ったときは、ワイナンドは屋根に映写室を設置させた。
最初の数ヶ月は、ドミニクは従順にしていた。しかし、この隠遁生活を自分が気に入っているとわかったとき、すぐに、あえて彼女はその生活を壊した。客を招待することを夫に認めさせ、多くの客を招いた。文句も言わず、ワイナンドは従った。
しかし、彼はドミニクが破ることのできない壁をひとつだけ、設けておいた。妻と新聞社とのあいだに打ち立てた壁である。ドミニクの名前が彼の新聞に出ることは全くない。ゲイル・ワイナンド夫人を公的生活に引き込むあらゆる試みを、彼は阻止した。たとえば、彼の夫人を各種委員会の長にしたり、慈善活動の後援者にしたり、各種改革運動の応援者にしたりという試みである。
彼は躊躇せずに妻に来る郵便も開封した。答えを送ることもなく、それらの試みを打ち砕くために、それを打ち砕いたことを妻に言うために開封した。ただし、それは公文書風レターヘッドのあるものに限ったが、だいたいその手紙の目的は公的なものとは言い難かった。ドミニクは肩をすくめるだけで、何も言わなかった。
ただし、ワイナンドは、ドミニクがいだく彼の新聞に対する侮蔑までは共有しようとはしなかった。『バナー』についてあれこれ言うことを、彼はドミニクに禁じた。ワイナンドが自分の新聞について何を考えているのか、またどう思っているのか、ドミニクには皆目わからない。一度、ドミニクが不快な論説について批判したとき、ワイナンドは冷たく言った。
「私は、『バナー』の言い訳はしたことがない。これからも、する気はない」
「でも、ゲイル、これはほんとうにひどい」
「君は『バナー』社主としての私と結婚したのではなかったのかね?『バナー』を変えるとか、犠牲にするとか、そういうことを期待しないでくれ。この世の誰のためにせよ、私はそんなことはしない」
『バナー』の社屋にある執務室で、ワイナンドはエネルギーも新たに大いに仕事をする。彼が最も野心に燃えていた時代を知る人々でさえ驚くような、一種の高揚した凶暴なほどの活力で、彼は仕事をこなした。必要とあれば一晩中でも執務室にいた。こういうことは、長い期間、なかったことだった。
彼の仕事の方法と方針に変化はなかった。アルヴァ・スカーレットは大いに満足げに、ワイナンドを見つめた。スカーレットは、いつもいっしょのエルスワース・トゥーイーに言ったものだ。
「エルスワース、俺たちは間違っていたよ。あれは、昔どおりのゲイルだ。よかったなあ。前よりもずっと良くなった」
「アルヴァ、いいですか、あなたが考えるような単純なことは何もないですよ。またあなたが考えるほど、性急に結果など出ないものです」
「しかし、ゲイルは幸せなんだよ。彼が幸せなことは君にもわかるだろう?」
「幸せであるということほど、あの人物に起きてきたことで危険なことはないでしょう。幸福というのは彼のためにはならないでしょうねえ」
サリー・ブレントは自分の上司であるワイナンドを出し抜こうと決めた。サリー・ブレントは、『バナー』が最も誇るべき売れっ子記者のひとりである。がっしりした体つきの中年の女である。二一世紀のファッション・ショーに登場するような格好をして、女中のように書く。つまり、女中たちが雇い主たちの噂話に興じるような具合に、ゴシップめいたものばかり書く。彼女は、『バナー』の読者の間では圧倒的な人気を獲得している。そのために、彼女は過剰な自信の持ち主でもある。
サリー・ブレントは、ゲイル・ワイナンド夫人に関する記事をものにしようと決めた。その種の話題が彼女得意のものであり、その得意のネタが忘れられたまま、そこにあったからである。
サリー・ブレントは、何とかワイナンドのペントハウスに入り込む許可を得た。人が入り込むのは好まれない場所に入り込む許可を得ることはお手の物だった。よく訓練をされたワイナンドの社員として教えられた戦術を彼女は駆使した。
いつものごとく、サリー・ブレントは取材先の社主の住居に大仰(おおぎょう)に入り込んだ。肩に新鮮なひまわりの花をつけた黒いドレスを着ている。彼女はいつもひまわりの花飾りを身につけているのだが、これは彼女の個人的商標でもある。サリー・ブレントは息を詰まらせながら、ドミニクに言う。
「奥様!私、奥様のご主人様を騙すために参りましたのよ!」
さらに、自分の行儀の悪さにかまわず、くどくどとした説明をサリー・ブレントは始める。
「私どもが敬愛してやまないワイナンド社主は、あなた様に公平ではないと思います。奥様のしかるべき名声を奪っておしまいになって。その理由は、とんと私には理解できません。でも、奥様と私がいれば、社主の間違いを正すことができます。私ども女が一致協力したら、殿方に何ができるかしら?奥様が、どれだけ売れる見出しになるか、おわかりになっていないだけです、社主は。ですから、奥様、お話をお聞かせくださいませんか?私書かせていただきます。その記事はとても面白いものになります。確実に面白いですわよ。そうなると社主も、新聞に載せないなんてできなくなります」
ドミニクは、そのときたまたま自宅でひとりだったのだが、彼女は不思議な微笑を浮かべた。サリー・ブレントが今まで見たことがないような微笑なので、それを表現する適切な形容詞は、いつも観察の鋭いサリーの頭にも浮かばなかった。
ドミニクは彼女に新婚生活について話した。サリーが勝手に夢見て想像しているとおりの話をしてやった。
「はい、もちろん朝食は私が用意いたします。ハムと卵が主人の好物ですの。ただの普通のハムと卵ですわ。ええ、私とても幸せです。朝、目が覚めますと、いつも独り言を言ってしまいますのよ、私。こんなこと、本当のはずがないわ、世界中から美女を選(よ)り取りみどりの、あの偉大なゲイル・ワイナンドの妻が、貧しいちっぽけな私であるはずがないわって。そうです、私、もうずっと長い間、彼には憧れておりました。私にとって、主人はずっと夢でしかありませんでした。そう、美しい見果てぬ夢。今や、その夢が実現したのです・・・ブレントさん、アメリカ中の女性に私の言葉をお伝え下さい。耐えて待てば、必ず報われます。ロマンスはすぐそこであなたを待っています。そういう思いは美しいですわね。そういう思いが私を支えてくれたように、他の女性の方々の支えにもなってくれると、私は信じます・・・ええ、はい、私が人生に望むことはゲイルの幸福だけです。主人の喜びも悲しみも共有したいと思っております。よき妻であり良き母でありたいと願っておりますの、私」
編集主幹のアルヴァ・スカーレットはサリー・ブレントの書いた記事を読み、いたく気にいったので、すっかり無用心になってしまった。
「アルヴァ、早く印刷に回して。ゲラを社主の机の上に置いておけばいいのよ。承知するわよ、社主も」
しかし、その晩、サリー・ブレントは『バナー』を解雇された。彼女と『バナー』との高い年収を約束した雇用契約はまだあと三年も残っていたので、彼女は残り三年分の年収を支払われて追い出された。何が目的にせよ、彼女は、今後いっさい『バナー』の社屋に足を踏み入れるのはまかりならぬと、命じられた。
スカーレットは動転して、ワイナンドに抗議した。
「社主、サリーをクビにしては駄目ですよ!サリーは駄目だ!」
「俺が俺の新聞で、俺がクビにしたい人間をクビにできないのなら、こんな新聞社つぶして、このビル全部ダイナマイトで吹き飛ばす方がましだね」
「しかし、彼女の読者が!うちは彼女の読者を失くすことになりますよ!」
「あいつの読者なんて、糞食らえだ!」
その夜、夕食のとき、ワイナンドはポケットから皺くちゃに丸められた紙の束を取り出した。何も言わずにそれをテーブル越しに座っているドミニクめがけて投げつけた。例のサリー・ブレントの書いた記事のゲラである。それはドミニクの頬にあたり、床に落ちた。ドミニクはそれを拾い上げ、丸まった紙を広げて一読し、大きな声で笑った。
サリー・ブレントは、ゲイル・ワイナンドの愛の生活に関する記事を書いていた。陽気で知的な物言いの、社会学用語を散りばめた記事だが、どんな低俗な安雑誌でも掲載しそうもないような下らない内容の記事だった。後日、その記事は、『新しき辺境』に発表された。
ワイナンドは、ドミニクのために特別に注文しデザインさせたネックレスを購入した。そのネックレスは、目にはっきりとわかるようなはめ込み台のないダイアモンドでできていた。顕微鏡のもとで制作されたような、かろうじて目に見えるぐらいの繊細なプラチナの鎖が各ダイアモンドをつなげている。ダイアモンドは不規則な形で間隔を広く取ってつながれている。だから、そのネックレスは、手のひらいっぱいのダイアモンドが偶然散らばってしまったかのような形をしている。
ワイナンドがドミニクの首にそのネックレスをかけると、ダイアモンドがあちこちに落ちた水滴のように見える。ドミニクは、鏡の前に立つ。着ていた部屋着を両肩からすべり落とす。すると、ドミニクの肌の上で、雨の露のようにダイアモンドが煌(きらめ)く。彼女は言う。
「ゲイル、『バナー』に載っていた夫の若い愛人を殺害したブロンクスの主婦の人生の軌跡を書いた記事は、随分と下劣でした。でも、あれよりも、もっと汚らしいものもあります。つまり、ああいう好奇心に迎合する類の人々の好奇心ね。新聞に載った写真では、あの主婦ってピアノの脚みたいな太い脚をして、ずんぐり太い首をしていましたけれども、このネックレスを可能にしたのは、まさにあの主婦ですね。ああいう主婦の記事で、『バナー』は発行部数を伸ばすのですもの。ほんと、美しいネックレス。私、これを身につけることができるのを誇りに思います」
ワイナンドは小さく笑う。
「それもひとつの見解だけど、別の見解もありえるよ。私はこう考えたい。私は人間精神の最低のゴミの部分、つまり例の殺人女房とか、殺人女房に関する記事を読みたがる連中の頭を取り、それを加工して君の肩に光っているネックレスを作ったのだとね。私は、実に偉大な浄化作業を遂行する錬金術師というわけだ」
ワイナンドがドミニクを見つめているとき、その顔には申し訳ないといった謝罪の表情もなければ、後悔も恨みがましい表情もなかった。そこには奇妙なまなざしがあるだけだ。
ワイナンドのその種のまなざしなら、前にもドミニクは見たことがある。ドミニクを単純に礼拝するまなざしだ。ドミニクは認識する。礼拝者自身を畏敬の対象とするような段階の礼拝というものがある。その対象を崇拝する真摯さゆえに、その崇拝者自身が高められているような、そういう崇拝がある。
翌日の夜、ワイナンドがドミニクの化粧室に入って行ったとき、彼女は鏡の前に座っていた。彼は身をかがめ、ドミニクの首の後ろに唇を押しあてた。そこで、彼は鏡台の角に四角い紙が貼り付けられているのを目にした。
それは、『バナー』でのドミニクのキャリアを終わらせた例の電報だった。そこには、「その馬鹿女をクビにしろ。GW」とあった。
ワイナンドはかがみこんでいた肩を上げ、ドミニクの背後にまっすぐ立つ。彼は訊ねる。
「どこでこんなもの手に入れた?」
「エルスワース・トゥーイーが私に渡してくれたのです。私は、これは保管しておく価値があると思いましたの。もちろん、保管しておいたことが、これほど適切になろうとは思ってもおりませんでしたけれど」
ワイナンドは厳粛な様子で頭を傾げ、その紙片に記された電報の差出人の名前を確認する。何も言わない。
ドミニクは、翌朝にはその電報が鏡から消えているだろうと予想していたのだが、しかしワイナンドはそうしなかった。触れもしなかった。ドミニクもそれを取ろうとはしなかった。
その電報の紙は、ずっとドミニクの鏡の隅に張られたままだった。ワイナンドがドミニクを抱きしめるとき、彼の視線がその四角い紙にあてられるのをドミニクは目にした。そんなとき、夫が何を考えているのか、彼女には全くわからなかった。
(第3部24 超訳おわり)
(訳者コメント)
ワイナンドは、絶世の美貌のお姫様をお城に閉じ込めておく王様のようだ。
嫉妬や独占欲からではない。
お姫様の完璧な清浄さを、世の中の汚濁に晒すのが絶対に許せないからだ。
地上を睥睨する高層ビルの最上階ペントハウスに閉じこもるドミニクとワイナンド。
ただ、ワイナンドがドミニクに対して許さないのは、『バナー』紙への批判だ。
ワイナンドは、俗悪大衆新聞『バナー』を恥じていない。
自分が選んだ道について、言い訳しない。
そもそも、ドミニクは、ワイナンドが『バナー』のような低俗新聞の社主だから結婚したのではないか。
ドミニクはドミニク自身への軽蔑から、下劣な人間と結婚する道を選んだのだ。
最初はキーティングと。次はワイナンドと。
ワイナンドは、堂々と俗悪新聞出版王でいていいのだ。
これからも、ワイナンドとドミニクの結婚生活が緊張を孕むときは、必ず『バナー』関連になる。
ところで、アメリカ人の夢の住まいは大牧場か、高層ビルの最上階ペントハウスらしい。
ペントハウスの写真集はアメリカでは人気がある。
ネットでも、いろいろなペントハウスの画像を見つけることができる。
実は私も大好きだ。
住んでみたい場所があるとしたら、 マンハッタンの高層ビルの最上階ペントハウスだ。
借りるにしろ、購入するにせよ、最も高価な最上階の住居ペントハウスは、1920年代に生まれた。
高層ビルの集合住宅の最上階の最も豪勢な部屋に住んで、マンハッタンの摩天楼を睥睨する。
これが狂乱の好景気1920年代の富裕層に流行した。
ワイナンドとドミニクのペントハウスを想像してみるのは楽しい。
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