エルスワース・トゥーイーは、『バナー』紙の社屋の編集主幹アルヴァ・スカーレットのオフィスにいる。くだけた姿勢で立っている。最近のトゥーイーは、スカーレットの仕事部屋によく立ち寄るようになっていた。スカーレットは何事もトゥーイーに頼るようになっていた。
「で、話の要点は何ですか?」
エルスワース・トゥーイーはスカーレットに訊ねるが、スカーレットはといえばため息をついている。机の脇においてある手紙でいっぱいになった駕籠(かご)を見おろしながら座っている。
「何千だよ。エルスワース、何千もの投書だ。この手紙がワイナンドのことを何と呼んでいるか、君にも知ってもらいたいよ。なんで、彼は自分の結婚に関して聞こえのいい話を新聞に書かせなかったかねえ?隠さなければならないことがあるのか?なぜ、まともな人間らしく教会で式をあげなかったんだ?どういう成り行きで離婚した女と結婚できたのかねえ?読者が投書でそういう質問をしてくるんだ。何千もね。ワイナンドときたら、投書など見向きもしない。あのゲイル・ワイナンドが。読者の意見には地震計みたいに反応すると言われる男が」
「確かに。あの種の男がねえ」と、トゥーイーは答える。
「ためしに読んでみようか?」と、スカーレットは机の上から一通の手紙を取り上げて大声で読み上げる。
「『私は、敬意を払われてしかるべき立場の婦人であり、かつ五人の子どもを持つ母親でございます。このたび、貴紙の購読をしつつ子どもたちを育てることはしたくないと考えるに至りました。十四年間、貴紙を購読してまいりましたが、あなた様は以下のような事実を私どもに見せつけたのでございます。ご自分が上品さに欠け、堕落した人妻と姦通を犯し、かつその堕落した婦人を妻になさることにより、結婚という神聖なる制度を軽蔑なさっておられるということを。あろうことか、その婦人は、華燭(かしょく)の典に黒いドレスを嬉々(きき)として身につけていたというではありませんか。私はこれ以上、貴紙を読み続けることは不可能だと判断いたしました。なんとなれば、あなたのような方は、子どもたちにふさわしくありませんし、また私自身もあなたには深い幻滅を感じたからでございます。敬具、トーマス・パーカー夫人』僕は、この手紙をワイナンドに読んでやったがね、彼は大笑いしただけだったよ」
「そうですか」と、トゥーイー。
「ワイナンドの中に何が入り込んだのかねえ?」
「アルヴァ、彼の中に何かが入り込んだのではないのです。とうとう表面に出てきたのですよ、彼の内部にあったものが」
「ところで、他社の新聞が、例のストッダード殿堂に置いてあったドミニクの裸体像のことをほじくり出したんだ。で、それをネタにしてふたりの結婚に関して適当に話をでっちあげて載せまくってさ。君は知っているか?全く、あの連中ときたら!あいつら、ゲイルに一泡ふかせて、さぞ嬉しいだろう!あのシラミ野郎どもが。しかし、あの彫像のことなんか、誰があいつらに思い出させたのかなあ?それが不思議でね」
「私にもわかりませんねえ」
「まあ、もちろん、そんなことはティー・カップの中の嵐みたいなものだ。数週間もすれば忘れられてしまうだろうがね。さほどの損害にはならんとは思うのだが」
「大丈夫。この出来事だけなら大丈夫。これだけならばね」
「へええ。何か他の事が起きそうなのか?君は予言でもしているのか?」
「アルヴァ、これらの投書は予言しています。このような投書の形はとらなくともね。ワイナンドが投書を読まないということも予言しています」
「あんまり馬鹿みたいに、いちいち反応するのも、意味がないとは思うのだが。ゲイルは、いつでも物事の限度ってものをわきまえているからね。どのあたりで、いつごろ手を引いたほうがいいかわかっている奴だから。だから、まあ小さいことで大騒ぎはしないほうがいいんだが・・・」
スカーレットは、そう言いながら、立っているトゥーイーをちらりと見上げる。声の調子をがらりとかえて彼は言う。
「まずいぞ、そうだよ、エルスワース、君が正しい。ゲイルは確かに変わった。俺たち、どうしたらいい?」
「何もできないです。何もね。まだ今のところは何も。といっても、もうすぐです。そう長く待つ必要はないでしょう」
トゥーイーは、スカーレットの机の縁に腰をおろしながら、机の脇に置かれてある駕籠の中につまっている手紙の封筒を靴先でまさぐり、つつき、かき回す。
唐突にスカーレットが訊ねる。
「エルスワース、ところで君は『バナー』に忠誠心を持っているのか?」
「アルヴァ、そんな昔の業界用語など使わないでくれませんか。いまどき、そんな昔気質(むかしかたぎ)の人間はいないです」
「俺は本気で訊いている。俺の言いたいことは君には先刻承知のはずだ」
「謀反(むほん)心(しん)なんてこれっぽっちもありません。自分のメシの種に反旗を翻(ひるがえ)すような人間がいますかね?」
「うん、それはそうだ。しかしだ、エルスワース、わかるだろう、ただ、俺にはわからないときがある。君が俺と同じ意味でしゃべっているのか、それとも君は俺にはわからない別の意味で話しているのか、どちらなのかわからなくなる」
「人の心理をあれこれ憶測(おくそく)するようなことはやめた方がいいです。頭がこんぐらかって、わけがわからなくなります。アルヴァ、何が言いたいのですか?」
「なぜ、君はいまだにあの『新しき辺境』に書いている?」
「金のためです」
「よく言うね。あそこの原稿料などスズメの涙だっていうぜ」
「まあ、あれは評価の高い雑誌ですから。なぜ、あそこに書いてはいけないですか?『バナー』が私の占有権を持っているというわけではないでしょう?」
「それはそうだ。俺は、君が片手間にどこに書こうが構わんよ。しかし『新しき辺境』は最近変な動きをしていないか?」
「何に関して?」
「ゲイル・ワイナンドに関して」
「アルヴァ、またそんな馬鹿なことを!」
「いや、これは馬鹿なことじゃないぞ。君はまだ気づいていないんだ。十分気をつけて、あの雑誌を読んでいないのではないか?しかし、俺はこの種のことには嗅覚(きゅうかく)が働く。ただ小賢(こざか)しいだけの青臭いチンピラが無責任に大物を中傷しているだけならば、どうということはない。それも雑誌の商売だからな」
「アルヴァ、気にしすぎですよ。大げさだな。『新しき辺境』はリベラルな雑誌だから、いつだってゲイル・ワイナンドたたきはやってきたでしょう。ああいう連中には、彼は人気があるとは言えないです。あたりまえじゃないですか。ワイナンドには痛くも痒くもなかったことでしょう、ずっと」
「今度は違う。どうも裏に何かあるようで気に入らない。一種特別な意図があるぞ、今度は。一見全く何の邪気もないような小さな罠がいっぱい張り巡らしてあって、それがすぐに小さな流れとなり、全ての伏線(ふくせん)がぴたりと合わさって、ついに・・・」
「アルヴァ、被害妄想というか迫害妄想というか」
「気に入らないんだ、俺は。連中がワイナンドのヨットのことや、女やニューヨーク市の幹部との癒着(ゆちゃく)のスキャンダルを言い立てるのは構わない。そんなもんは、証拠も出っこないから、どうでもいい。だけど俺は気に入らないんだ。最近のワイナンドたたきは、新しいインテリ用語を使っている。最近、やたら、あの連中はあの種の用語を使いたがる。搾取者ゲイル・ワイナンドだの、資本主義の海賊ゲイル・ワイナンドだの、時代の病ゲイル・ワイナンドだの。今はまだ、たわごとにすぎんよ。しかし、エルスワース、この種のたわごとには、ダイナマイトが仕掛けられている」
「昔ながらの同じことを今風に言っているだけでしょう。それ以上のものではありませんよ。それに、私は、雑誌の方針に責任を持てる立場ではないですから。単に、ときたま寄稿するだけですから」
「それは俺が聞いた話とは違うな」
「何を聞いたのですか?」
「君はあの雑誌に出資しているそうじゃないか」
「誰が?私が?何に出資しているって?」
「まあ、正確に言えば、君自身が出資したわけではないな。しかし『新しき辺境』が死にかけていたときに、あの飲んだ暮れの御曹司ロニー・ピッカーリングが十万ドルも出資してあの雑誌を救ったらしい。あの御曹司を、あの雑誌に紹介したのは君だそうじゃないか」
「ああ、あれは彼を救出するためにしただけのことですよ。あの坊や、下らない連中のところに行きかけていたのでね。私は、もっと高い人生の目的ってやつを彼に提供したのです。あの十万ドルも、坊やから何とかして金を巻き上げようとしていた連中にくれてやるより、もっといい使い方ができるように、と思いましてね」
「そうか、しかし君はその十万ドルの贈り物に、ちょっと紐をつけることはできたんじゃないか?たとえば、ゲイルとか他の誰かをねらった方がいいと編集人に言うとか」
「アルヴァ、『新しき辺境』は『バナー』ではありません。ちゃんと原理原則のある雑誌です。あそこの編集に紐などつけられません。ああしろ、こうしろと命じることもできません」
「エルスワース、このゲームでは、誰を騙(だま)すつもりだい?」
「では、あなたがまだ耳にしていないことを教えてさしあげましょう。その方があなたのご気分が休まるようですからね。まだ誰にも知らせていないのですが・・・たくさんの代理人を通してことを進めましてね。『バナー』の大株主としてミッチェル・レイトンを迎えることになりました。ご存知でしたか?」
「まさか!」
「ほんとうです」
「すごいぞ、エルスワース、それはすごい!ミッチェル・レイトンだって?あんな金持ちを、うちの社がねえ、あれは使えるぞ!待てよ、ミッチェル・レイトン?」
「そうですよ、ミッチェル・レイトンに何か差し障りでもありますか?」
「祖父さんの遺産を使いきれなかったっていう、あの坊やのことだよな?」
「お祖父さんが莫大な遺産を彼に残したのは、事実です」
「そうだな、しかし、あれは変人じゃないか。ヨガの修行者だったこともあれば、菜食主義者だったこともあるし、三位一体を否定するユニタリアンだったこともあるし、裸体主義者だったときもあるし・・今は、プロレタリアートというか、労働者のための宮殿を建設にモスクワに行っているのだろう?」
「それがどうかしましたか?」
「変だろう!我が新聞社の株主のひとりがアカというのは!」
「ミッチェルはアカではありません。二億五千万ドルの金を持っている人間がなぜアカになります?あれは、単なる青白いバラです。いや、黄ばみかけているバラかな。しかし、気立てはいい子でしてね」
「しかし・・・『バナー』にかい!」
「アルヴァ、わかりませんか?私は、善良なる強固な保守的新聞に対して、ミッチェル・レイトンに出資させたのですよ。彼のアカがかった考えもこれで治るでしょう。正しい方向に彼も向かうことができます。それに、彼がどんな害を及ぼすというのですか?あなたの親愛なる大事なゲイルが、ワイナンド系新聞を支配していくことに変わりはありません」
「ゲイルはこのことを知っているのか?」
「いいえ。ここ五年ほどのゲイルは、前ほど新聞に注意を払っていません。アルヴァ、彼には言わない方がいいと思います。ゲイルのやり口は、よくご存知でしょう。彼だって、少しは圧力というか抑えというものが必要ですよ。そして、あなたには金が必要でしょう。ミッチェル・レイトンとは、うまくやって下さい。彼はなにかと重宝します」
「それはそうだな」
「そうなのです。わかるでしょう?私の心は、ちゃんと正しい位置にあるわけです。そりゃ、ああいう『新しき辺境』みたいな、ささやかな小さいリベラルな雑誌の手助けをしてきましたよ、私は。しかし同時に私は、もっとはるかに実質的なものを、莫大な現金を、ニューヨークの『バナー』のような大保守の牙城(がじょう)にもたらしてもいるのです」
「確かにそうだ。君自身は政治的には急進的であることを考えると、君が『バナー』に貢献してきたということは、考えてみれば、忌々しいほど実に立派な行為だな」
「さて、私の忠誠心について何かこれ以上、おっしゃりたいことがあおりですかな?」
「ないと思うよ。君は今後も、昔ながらの『バナー』の側に立ち続けるだろうさ」
「もちろん、そうです。私は、『バナー』を愛しています。『バナー』のためならば何でもします。ニューヨーク『バナー』のためならば、命さえ投げ出しますよ、私は」
(第3部23 超訳おわり)
(訳者コメント)
このセクションで話題になっている『新しき辺境』New Frontierというのは、おそらく2つの雑誌がモデルである。
1926年に創刊され1948年に廃刊されたNew Masses(新しい大衆)という共産党系雑誌と、1934年に創刊され2003年に廃刊されたPartisan Reviewという左翼雑誌である。
トゥーイーは、『バナー』の社員として毎日コラムを執筆し、その他にも「新社会研究所」という高等教育機関に寄付したり、そこで教えたりしているが、これもアメリカ人ならば、ニューヨークのNew School for Social Reseachがモデルだとすぐにわかる。
ここは、1919年に創設されたリベラルな急進的実験教育で知られた教育機関である。要するに、共産党系列の学校だ。
今では、New Schoolと呼ばれるリベラル系私立大学になっているが、第二次大戦前は、はっきりと左翼系教育機関であった。
アメリカというのは面白いところで、新聞社にしても、雑誌にしても、高等教育機関にしても、政治的に中立なフリなどしない。政治的にどちらの系列か、旗色が鮮明である。
もとが神学校のハーバード大学なら民主党系だし、富豪の遺産で創立されたスタンフォード大学なら共和党系だ。
ただし、公立の州立大学は、もともとが私立大学しかないアメリカにおける貧困層の高等教育機関として設立されたので、伝統的にリベラル系で民主党だ。
たとえば、ニューヨーク市立大学は、アメリカの左翼の牙城であった。
The Partisan Reviewの編集者や寄稿者は、この大学出身者が多い。
エルスワース・トゥーイーは、保守の牙城の『バナー』の社員であるが、アメリカ人が読めばはっきりわかるのだが、あからさまに共産党系雑誌に寄稿したり、左翼系教育機関で教えたりしている。
トゥーイーが次に狙っているのは、『バナー』である。
保守的伝統的な大衆新聞『バナー』を手に入れることができれば、それをプロパガンダの装置に使い、世論を形成し、大衆を操作できる。
そのために、超富裕層の御曹司を劇評担当者として『バナー』に引き入れたり、懇意のこれもまた超富裕層の友人に『バナー』の株を大量に買わせた。
『バナー』の1番の株主はゲイル・ワイナンドであるが、次の大株主に自分の仲間を据えた。
矛盾しているよう思えるが、アメリカの左翼に寄付してきたのは、貧しい労働者ではなく、超富裕層だ。
正確に言うと、超富裕層や財閥の後継者たちだ。
ロックフェラー家が民主党の金主であり続けてきたことは、有名な話であるように。
それは、罪の意識からきているのか?
陰謀論的には、左翼思想は人間の独立独歩の精神を潰し、政府に依存する人々を増やすので支配がしやすくなるから、財閥は左翼思想を広める手助けをしたということになっている。
社会が政府から食わせてもらう人間ばかりの「人類牧場」になれば、超支配層にとっては都合がいいから、超富裕層は左翼系政党に寄付するという説がある。
ロシアの共産革命も、資金はロックフェラーが出したという説もある。
アイン・ランドはヨーロッパのロスチャイルド系のユダヤ人なので、アメリカのロックフェラーの陰謀を知っていたから、小説の形で、ロックフェラーの陰謀を読者に知らしめた、というのは、副島隆彦氏の説である。
私にはわからない。
ただ、少なくとも、アイン・ランドは、アメリカにおける左翼の台頭の背後には、不思議なことに、アメリカの財閥の御曹司たちが関与していたという立場に立っているのは確かである。
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