第3部(22) ゲイル・ワイナンドとドミニクの華燭の典

 ドミニクが、ニューヨークに到着した汽車から降りたとき、そこにはワイナンドが出迎えていた。ドミニクはリノに滞在中、ワイナンドに手紙を書かなかった。彼から連絡もなかった。

しかし、グランド・セントラル駅のプラットフォームにワイナンドは立っていた。静かに立っていた。やっとここまで来た、これが最後の段階だというような雰囲気を漂わせて立っていた。

ドミニクは、それで知った。ワイナンドはドミニクの離婚訴訟の弁護士と連絡を取り合い、離婚手続きのあらゆる段階を見守り、判決が下りた日も知っていたということを。ドミニクが帰ってくるときに乗る汽車と座席の番号まで確かめていたということを。

ワイナンドはドミニクを見たときも、自分から彼女の方に歩いてはこなかった。ワイナンドに向かって歩いていったのはドミニクだった。ドミニクは、自分が歩く姿をワイナンドは見たいのだとわかっていた。たとえふたりのあいだの距離が短いものであろうと。

ドミニクは微笑まない。ただ、ごく自然になめらかに微笑みに移行するであろうような美しい静けさが彼女の顔に漂っている。

「こんにちは、ゲイル」

「こんにちは、ドミニク」

ドミニクは、ワイナンドと離れていたときに、彼のことを切実に考えることはなかった。彼の存在を生々しく個人的に感じながら思い出すということはなかった。しかし、今、ドミニクは、ある感覚を味わっている。自分がよく知っていて、必要としている人間と再会を果たしたという感覚を。

ワイナンドは言う。

「荷物の受取証はどこだい。あとで運ばせるから。外で車を待たせてある」

ドミニクはワイナンドに受取証を渡す。彼はそれをポケットに滑り込ませる。ふたりは、今、出口に向かってプラットフォームを歩かなければいけないと知りつつも、ふたりがそうするつもりであった行動を同時にやめ、互いを見つめながらプラットフォームに立っている。

この予期せぬ事態を是正しようと最初に努めたのは、ワイナンドの方だった。彼は軽く笑う。

「君がこんなふうに普通に登場するなんて。劇的なところが全くないね」

ドミニクは声をたてて笑う。

「ゲイル、私たちは、あまりに気楽な態度でいすぎるのかしら。さ、話したいことを何でも話しましょう」

「愛している」

ワイナンドが声の調子も変えずに言う。その言葉には、体のどこかの痛みについて述べているようであり、ドミニクに向かって言われたことではないような遠い響きがこめられている。

「ゲイル、こうして戻って、あなたとごいっしょできて嬉しいです。自分がこのように感じるとは予想しておりませんでしたけど、ほんとうに今は嬉しいです」

「どんなふうに嬉しい?」

「わかりません。あなたから伝染したのかしら。やっとここまで来たという感覚と安心感かしら」

それからふたりは、自分たちの会話が、混雑する駅のプラットフォームでかわされていることに今更ながらに気がつく。プラットフォームには、ひっきりなしに乗客や荷物を運ぶラックが行きかっていた。

ふたりは駅の外に出る。待たせてあった自動車に乗り込む。どこに向かうのかドミニクは訊ねない。また気にもしない。黙ってワイナンドの隣に座っている。

ドミニクは自分の気持ちが引き裂かれているのを感じる。抵抗したくないというという感情が圧倒的部分をしめているが、このままでいいのだろうかという気持ちも少しは残されている。ワイナンドに自分をどこへとなりと運んでもらいたい。これは確信だった。相手に関するあれこれの価値判断を下さないでいいのだ、この相手は確実なのだから、という確信だ。決して幸福な確信ではない。しかし、確信には違いない。

しばらくしてから、ドミニクは自分の手がワイナンドの手に重ねられているのに気がつく。彼女がはめている手袋の指の長さが、ワイナンドの指の長さに添えられている。彼女の手首の肌だけが、ワイナンドの肌に押しつけられている。ワイナンドが自分の手をとったことに、ドミニクは気がついていなかった。それはあまりに自然な行為であったから。それは、ドミニクがワイナンドに再会したときから、彼女が望んでいた行為でもあった。しかし、その行為を望むことを、ドミニクが自分に許すことはなかったのだが。

ドミニクはワイナンドに訊ねる。

「どこに向かっていますの?」。

「許可証を取ろうと思う。それから判事の家に行けばいい。結婚のために」

ドミニクは、ゆっくり座りなおし、ワイナンドに向き合う。彼の手に重ねられた自分の手を引き抜くことはしなかったが、彼女の指は固くなり意志的に力がこめられたので、彼の手の中から抜けてしまった。

「いいえ、ゲイル、私はほんとうの結婚式や披露宴をしたいです。ニューヨークで一番贅沢なこれ見よがしのホテルで華々しく。ちゃんと浮き彫り印刷された招待状を出して、招待客は野次馬みたいな客でも有名人でもいっぱいに呼んで、たくさんの花に囲まれて、カメラのフラッシュを浴びて、ニュース映画に取り上げられて。世間がゲイル・ワイナンドに期待するような類の結婚式や披露宴を、私はしたいのです」

ワイナンドは、特に残念そうでもなく、あっさりとドミニクの指を離す。彼は、一瞬の間だが、放心したような表情を浮かべる。あまりに難しくはないような程度の算数の問題を計算しているような顔つきでもある。

おもむろにワイナンドは言う。

「わかった。手配するのに一週間はかかる。結婚式や披露宴そのものは、今夜にでもやろうと思えばできるが、正式の浮き彫り印刷の招待状となると、少なくとも招待客からすれば結婚式の日までに一週間の猶予(ゆうよ)がないといけない。そうでないと異例のことに見えるからね。君はゲイル・ワイナンドの結婚式と披露宴としてあたりまえのものを望んでいるわけだから。今日のところは、まず君をホテルに送るよ。そこで一週間暮らしてくれ。予定外のことだったから予約をしていない。君はどこに泊まりたい?」

「あなたのペントハウス」

「駄目だ」

「ならば、ノードランド・ホテル」

ワイナンドは、運転席の方に身を乗り出して行き先を告げる。

「ジョン、ノードランド・ホテルに行ってくれたまえ」

ホテルのロビーで、ワイナンドはドミニクに言う。

「今日から一週間したら会おう。火曜日にノイエス=ベルモント・ホテルで。午後の四時だ。招待状は、君のお父上の名前で送らないといけないな。お父上には私がお会いしたい旨をお知らせしておくよ。他の事はみな私が手配しておく」

ワイナンドは立ち居振る舞いを変えずに、会釈する。急な事態になっても、彼の平静さはふたつのことから成っている同一の特殊な性質を保持している。自分の能力に確信を持っているがゆえに、急な結婚式や披露宴なども何気ないものとして処理する男のもつ成熟した自己管理能力と、出来事を受け入れるときの子どものような単純さである。まるで、どんな出来事が起きようと何の変化も起きないかのように受けいれる、そんな単純さである。

その週の間、ドミニクはワイナンドと会わなかった。ドミニクは意識した。イライラと待っている自分を。ワイナンドに会うことを待っている自分を。

ドミニクが再びワイナンドと会ったのは、ノイエス=ベルモント・ホテルの光にあふれた舞踏会用広間の、六百人の招待客を前に結婚式の司式をする判事の前で、彼と並んで立ったときだった。

彼女が望んだ結婚式や披露宴の道具立てはあまりに完璧に整備されていた。あまりに完璧ゆえに、それは、結婚式や披露宴自体の戯画だった。それも、ある特定の社交界の結婚披露宴ではなく、ふんだんに金を使った、その意味では申し分なく手の込んだ下品さの非個人的原型ともいうべきものだった。

ワイナンドはドミニクの願いを理解した。だからそれを几帳面に実行した。私事を誇張して見せびらかすことをしない行為を彼自身は内心は望んでいたのだが、自らそれを拒否した。その催しを粗野に下品に舞台化することはしなかったが、新聞王でありメディア王であるゲイル・ワイナンドが人前で結婚式をあげるならば、いかにもそうするであろうやり方を正確に実行し、その催しを華麗なものにした。ゲイル・ワイナンド自身は、衆目監視の場で結婚したくはなかったのであるが。

ワイナンドは、その催しの道具立てに自分をあわせた。自らなど取引の一部であるかのように、人と同じ様式に従っている。ワイナンドが披露宴会場に入って来たとき、彼が群衆のような客たちを眺めるのを、ドミニクは見つめる。

このような客たちは、大オペラの初日や、どこやらの王室が主催するチャリティ・オークションあたりに群がるにはふさわしいのであって、ゲイル・ワイナンドの人生の絶頂にはふさわしくないと彼自身では思っている。しかし、そんなことはおくびにも出さないワイナンドを、ドミニクは見つめる。

ワイナンドは、この場に実に適切にふるまっているように見える。比類がないほど気品がある。

それから、ドミニクはワイナンドとともに立つ。群がる客たちは重い沈黙に包まれる。ワイナンドの後姿を穴があくほど凝視している。客たちも、新郎新婦とともに判事に向かって立っている。ドミニクは、長い黒いドレスを身につけている。手首には、ワイナンドからの贈り物である摘み取られたばかりのジャスミンの花束が黒いバンドで留められている。後光のような黒いレースの中にあるドミニクの顔は、判事を見上げている。判事はゆっくり話し、空中に彼の発する言葉の一語一語がぶらさがるままにしている。

ドミニクはワイナンドを一瞥する。ワイナンドはドミニクを見てもいないし、判事も見ていない。そのとき、この会場で彼はひとりぼっちなのだと、ドミニクにはわかる。

ワイナンドは、このひとときをとらえ、そこから、このぎらつくような派手なひとときから、この粗野で下品な催しから、彼自身の無言の高みを作り上げている。ワイナンドは、宗教的な儀式は望まなかった。そういうものに敬意を払う気は彼にはない。かといって、今、ワイナンドの目前で慣習的な決まり文句を並べる国の役人に敬意を払う気など、もっとないはずだ。にもかかわらずワイナンドは、自らの高踏的な無関心な姿勢により、この結婚の公的認可の過程を純粋な宗教的行為へと変えたのである。

ドミニクは思う。このような道具立てで、私がロークと結婚式をあげるのならば、きっとロークも私の隣にこのように立つに違いない、と。

そのあと、延々と続いた嘲笑のような怪物じみた披露宴には、いっさいワイナンドは心動かされていなかった。マスコミのカメラの砲列の前にドミニクと並び、群衆のような客の中でも格別に騒がしい誰よりも騒がしい連中である記者たちの質問にも優雅に応じた。招待客を迎える列にドミニクと並びながら、ワイナンドは何時間も、彼の前を過ぎていく流れ作業のベルトのように、次から次へと差し出される手と握手した。

ワイナンドは、あふれる照明にも、山のような白ユリにも、弦楽器のオーケストラの音にも、絶えず行きかい流れるおびただしい客たちや、その客たちの流れの速度がシャンペンを手に入れるために早くなる様子にも、何も感じていないように見えた。退屈しのぎにやって来た客にも、羨望交じりの憎悪からやって来た客にも、ゲイル・ワイナンドという危険な名前が刻印されている招待状にしぶしぶ従ってやって来た客にも、スキャンダルに飢えた好奇心でやって来た客にも、誰に対しても動じることがなかった。

ワイナンドは、以下のことにもいっさい無関心であるように見えた。この客たちが、ワイナンドがこうして人前で生贄(いけにえ)のようにさらされているのは、彼らが当然受け取ってしかるべきものと考えていることも。また、この客たちは、自分たちがその場にいることを、この出来事を祝う聖餐の必要不可欠な封印であると考えていることも。

この会場にいる何百人もの人間の中で、ワイナンドとドミニクだけにとってのみ、この会場で繰り広げられていることは恐ろしくもおぞましいものだった。その事実すらも、ワイナンドにとっては、どうでもいいことなのだ。

ドミニクは、ワイナンドに神経を集中させ、彼を見守っている。たとえ、たった一瞬でもいいから、ドミニクはワイナンドにこの馬鹿馬鹿しい騒ぎを面白がってほしい。たった一度でいいから、ニューヨーク『バナー』の精神というものを、そのいかにも『バナー』らしい俗悪な精神のエッセンスを、ワイナンドをして認めさせたい。そこに加わらせたい。

しかし、ワイナンドの表情からは、その苦渋に満ちるはずの認識をドミニクは見て取ることができない。しかし、ほんの時折は、苦痛らしきものが彼の顔に浮かんでいた。しかし、その苦痛さえも、彼の心の奥底に完全には届いていない。

ドミニクは思い出す。心の奥のある一定の地点までしか届かない苦しみについて自分に語った男のことを。ワイナンドではない別のただひとりの男のことを。ハワード・ロークのことを。

おびただしい数の招待客の列も最後のあたりになった。彼らの祝福を受ければ、もう新郎と新婦はこういう場の慣習により、いつでも退室が自由になる。

しかし、ワイナンドは去ろうとはしない。ドミニクは、彼が彼女の決定を待っているのだと、わかっている。ドミニクは、ワイナンドから離れ、客たちの流れの中に入っていく。手にシャンペングラスを持ちながら、微笑み、会釈し、気分を害するような無意味なおしゃべりに耳を傾ける。

ドミニクは、自分の父親の姿を人々の中に見つける。父は誇らしげでもあり、物思いに沈んでいるようでもある。父は娘からワイナンドとの再婚を知らされたとき、静かに受け止め、こう言った。

「ドミニク、私はお前に幸せになってもらいたい。ほんとうに幸せになってもらいたい。彼こそ、ぴったりの人物であることを期待するよ」

しかし、そう言ったときの父の声には確信の響きがなかった。

ドミニクは、人々の中に、エルスワース・トゥーイーの姿も見かけた。トゥーイーはドミニクが自分を見つめているのに気がついたが、彼の方からすばやく向きを変えてその場から離れて行った。ドミニクは、トゥーイーに対して大きな声で笑ってやりたかった。しかし、油断してドミニクの視線に捕まったエルスワース・トゥーイーについては、笑ってやるほどの重要性は、今はない。

アルヴァ・スカーレットがドミニクの方に、人混みをかきわけやってきた。この場にふさわしい表情をしようと勤めてはいるが、うまくいかない。彼の顔は傷つけられたようで、かつ拗(す)ねているようでもある。結婚を祝福する言葉をモグモグと早口で言ったあと、彼はきっぱりと明らかに怒って言った。

「しかし、なぜだい?ドミニク、なんでだ?」

この質問が意味するような無礼な態度を、アルヴァ・スカーレットが彼自身に許したとは、ドミニクには全く信じられなかった。彼女は冷静に訊ねる。

「アルヴァ、何をおっしゃっているの?」

「拒否権行使のことだよ、もちろん」

「何の拒否権ですか?」

「何の拒否権か君にはよくわかっているだろう。だから僕は君に訊ねているんだ。ニューヨーク中の新聞が、もうありとあらゆる新聞が、最低のタブロイド新聞も、どこの通信社も君たちの結婚について書きたてている。『バナー』以外はどこもかしこも!ワイナンド系列新聞以外は、どこの新聞も書いている!僕は読者に何をどう言えばいい?これが、君が元同僚にやることなのかねえ?」

「アルヴァ、どういうことですの?」

「じゃあ、君は知らなかったっていうの?ゲイルはうちの新聞の記者に、いっさい許可しなかったってことを。明日の新聞も、うちはこの結婚に関しては詳しいことはいっさい書かない。一面いっぱい使うこともなければ、写真も一枚だって出さない。十八ページ目に数行載せるだけだ」

「まさか。知りませんでしたわ」

アルヴァ・スカーレットは、ドミニクが踵(きびす)を返して、彼から離れていくときの彼女の突然の激しい動きに驚く。彼女は視界に最初にはいった男にシャンペングラスを手渡す。客を給仕と間違えるくらいに、ドミニクは狼狽(ろうばい)していた。披露宴客の人混みをつっきって、ワイナンドのもとへ戻る。

「行きましょう、ゲイル」

「そうしよう」

ドミニクは、信じられない思いで、ワイナンドのペントハウスの客間の真ん中に立っている。ここが今や自分の住居かと思いながら。またこの住居が、いかに自分にぴったりなことかと感じ入りながら。

ワイナンドはドミニクを見つめている。ドミニクに話しかけたいとか、触れたいというようなそぶりは見せない。彼は、ただここで、自分の住居でドミニクを観察したいだけだ。ここに連れてこられたドミニクを、じっと見つめていたいだけだ。ニューヨークを睥睨(へいげい)する高みに持ち上げられたドミニクを、見つめていたいだけだ。この瞬間の重要性は誰とも共有できないかのように、ドミニクとさえ、この喜びは共有できないかのように、彼は妻となったドミニクを見つめている。

ドミニクは、ゆっくり部屋を歩き、帽子を取り、テーブルの端にもたれる。ほとんど口をききたくないといういつもの気分が、心にあることは閉じておきたいという気持ちが、ワイナンドの前ではなぜ消えてしまうのかと、ドミニクは不思議に思う。ワイナンドの前では、他の誰にも示したことがない単純で率直な態度をとらざるをえないのは、なぜなのかとドミニクは考える。

「ゲイル、結局、あなたはあなたのやり方を通したわけですね。あなたがそうしたいと思っていたように結婚をしたわけですね」

「そうだね。そう思う」

「あなたを苦しめようと思っても、無駄なことですわね」

「ほんとうは、そうだね。非常に苦になったということはなかったよ」

「そう?」

「そうさ。僕が苦しむことが君の望むことならば、それは僕との約束を守ることでしかないし。君はこの世界への復讐のために軽蔑すべき男と結婚したのだから、それでいい」

「でも、ゲイル、あの結婚式や披露宴みたいなものは、あなたはいやだったでしょう」

「全くいやだね。しかし、だから何?最初は、かなわないと思ったよ。君が車の中で言ったときはね。あとになってから、むしろ嬉しくなった」

ワイナンドは、ドミニクの率直さに合わせて静かに言う。ワイナンドはドミニクの選択に任せるつもりなのだ。ドミニクのやり方に従うつもりなのだ。彼は沈黙を続け、ドミニクが認められたいと願うことを何でも認めるつもりなのだ。ドミニクにはそれがわかる。

「なぜ嬉しくなったのかしら?」

「君は自分のミスに気がつかなかったのかい?もし、君が私に全く関心がないのならば、君は僕を苦しめようとは望まなかったろうからね」

「ミスではありません」

「ドミニク、それは負け惜しみだよ」

「多分、あなたから伝染したのです。私、あなたにお礼を申し上げなければならないことがあります」

「何?」

「ワイナンド系列の新聞に、私たちの結婚を書くことを禁じてくださったことです」

ワイナンドはドミニクを見つめる。一瞬の間だが、彼の目にはある特別な警戒の色が浮かぶ。それから彼は微笑む。

「君らしくないね・・・そんなことで礼を言うなんて」

「新聞に書くのを禁じたことこそ、あなたらしくありません」

「私にはそうする必要があったから。しかし、それを知ったら、私は君が怒るだろうと思っていたが」

「怒るべきでした。でもそれを知ったとき、私は怒りを感じませんでした。今でも感じておりません。ゲイル、ありがとうございました」

「感謝されたことに感謝ってできるのかな。表現するのはいささか難しいが、ドミニク、私が感じていることは、それであるとしか言えないよ」

ドミニクは、周囲の壁の柔らかな光を眺める。部屋の一部が照明になっている。それは四方の壁に、その壁の材質や色以上の特別な肌合いを帯びさせている。この壁の向こうに、今や彼女のものでもあるが、まだ見たことのない部屋がいくつかあるのだとドミニクは思う。彼女はそれらの部屋を自分のものにしたい。そう自分が思っているということをドミニクは意識する。

「ゲイル、私はまだお聞きしていませんでした。これからどうしますか?どこかに行きます?新婚旅行とかしますの?私そういうこと全然考えていませんでした。結婚式とかのことは考えていたのですが、それ以上先のことは全然。まるでそこでストップして、あなたが去っていくような気持ちでいました。ゲイル、これも私らしくありませんわね」

「今度の君らしくない点は、いただけない。受身の姿勢というのは良い兆候ではないよ。君にとってはね」

「そうかもしれません・・・それが嬉しいと私が感じても」

「そうだよ。でも、まあそれも長くは続かないだろうがね。私たちは、新婚旅行はしない。君がそうしたくないのならば、だが」

「したくありません」

「じゃあ、ここにいる。もうひとつの特殊な例外だね。私たちにとっては、どこか遠くへいくというのは、走るようなもので習慣的なものだった。だから、今度は例外的に走らないことにする」

「そういたしましょう、ゲイル」

ワイナンドはドミニクを抱き、キスする。ドミニクは片手を曲げている。その腕はワイナンドの体と自分の体の間にあり、もう片方の手は自分の肩に置いている。手首に留めた、しおれたジャスミンの花束が頬に触れるのを感じる。花束の香りはまだ残っている。春の訪れをかすかに知らせる香りである。

ドミニクが寝室に入ったとき、そこは彼女がさんざん何度も雑誌などで見たことがある寝室とは違っていることに気がつく。壁面全部がガラスでできていたはずだが、それは取り壊されていた。窓のひとつもない丸天井の堅牢(けんろう)な部屋が、もとの寝室にすっぽり内臓されていた。その部屋には照明もエアコンもあったが、光も空気も外部からもたらされることはない構造となっていた。

ドミニクはベッドに横たわる。両の手のひらを、両腕を動かさないように、ワイナンドに触れることがないように、からだの両側のひんやりとなめらかなシーツに押しつけてみる。

しかし、ドミニクの頑ななそっけなさに、ワイナンドがどうしようもなく怒るなどということはない。彼は大きな声をたてて笑った。ドミニクは、ワイナンドが言うのが聞こえる。荒っぽい声で容赦なく、しかも愉快そうに、こう言うのが聞こえる。

「ドミニク、そんなことしても駄目だよ」

それで、自分が作ったつもりの障壁(しょうへき)など、ふたりの間では何の効果もないとドミニクは知る。自分には事態をとどめる力などないことも知る。ドミニクは、自分の肉体に自分自身の答えを感じる。受け入れるという答えを。悦びという答えを。ほんとうは心待ちにしながら、期待し求め飢えていた行為。

ドミニクは思う。それは欲望の問題ではない。性的行為の問題でもない。ただ、男は生命力であり、女はそれ以外の何かには応答できない。今、自分を抱いているこの男には生命の意志というものがあり、根源的な力がある。この行為は、その力の最も単純な提示にすぎない。私は、その行為に答えているのではなく、この男に答えている。この男の内部にある力に答えている。

(第3部22 超訳おわり)

(訳者コメント)

こーいうセクションがあるので、この小説は「ハーレクインロマンスに毛が生えたようなもの」と評される。

ハーレクインロマンスを私は読んだことがないので、なんとも言えないが、まあ、ドミニクもミーハー要素があるということでしょうか。

ドミニクが結婚式まで宿泊するホテルは、おそらくプラザホテルがモデルだろう。

ニューヨークで2番目に高級なホテルだ。

で、ドミニクがワイナンドと華燭の典を挙げるホテルが、ニューヨーク最高のホテルで、アメリカ最高のホテルである、ウォールドルフ・アストリアホテルだ。

 私は、どちらにも泊まったことない。

中産階級の人間としては、ヒルトン・ホテルぐらいでいいと思う。

アイン・ランドも泊まったことないと思う。

一度でも実際に宿泊すれば、描写が具体的になるので。

このセクションで気になるのはドミニクが身につける「黒いウエディングドレス」だ。

なんで黒い?

再婚は黒いウエディングドレスなのか?

実際のところは、婚礼衣装は白いドレスと決まっているわけではない。

お色直しのドレスではなく、正式の結婚の誓いをする時のドレスも、黒いのでも赤いのでもいいらしい。

結婚式の花嫁のドレスが白ろいうのが慣習になったのは、ヴィクトリア女王の婚礼の時からだそーだ。

それまでは、ドレスの色に決まりがあったわけではない。

ドミニクが黒いウエディングドレスにした理由について、小説中では説明も何もないが、確かに白いウエディングドレスよりも、黒の方がドミニクらしい。

黒いドレスは優雅である。

白無垢は、「あなたの好きな色で染めてください」を意味するらしいが、黒は、「もう、誰の色にも染まらないほど、あなたの色に染まっております」という意味合いもあるそーだ。

真っ黒がそうなのか……

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