第3章(19) 駄作を名作として売りこむ詐欺師たち

売れっ子作家のロイス・クックの邸宅にトゥーイーと彼の子分たちが集まって、朗読会をしている。

「チャックの台詞。だから、どうしてビーバーで駄目なのか?人間は、なぜ自分がビーバーより優れていると判断できるのか?生命というものは、すべてのささやかな生き物の中にも木の中にも波打っている。永遠の悲しみを歌う生命が。古(いにしえ)からの悲しみだ。ありとあらゆる歌の中の歌だ。我々には理解できない・・・しかし、誰が理解することなど気にかけるというのか?我々だけが愛するのだ。愛の甘美なる神秘よ。そこにある全てのものは、愛をめざす。私に愛を与えてくれ。哲学者など全部まとめて煙突にでも押し込んでやれ。メアリーがその宿なしビーバーを連れてきたとき、彼女の心は破れ、そこに生命と愛が流れ込んできた。ビーバーはミンクに似た毛皮になる。しかし、そんなことは肝心なことではない。要は生命なのだ」

「ジェイクの台詞。急いでジェイクが入ってくる。やあ、みんな、ジョージ・ワシントンの絵の切手さあ、誰か持ってない? 幕。」

アイクは原稿を閉じて、大きく長い息を吸う。彼の声は二時間も自作の劇を大声で朗読したあとなので、かすれている。劇のクライマックスは一気に読んだ。その場にいる聴衆に彼は目をやる。彼の口は自嘲(じちょう)気味に微笑み、眉は横柄に上がっている。しかし、目は懇願している。

エルスワース・トゥーイーは床に座っていたが、椅子の脚にもたれて背骨を掻きながら、あくびをしている。

ガス・ウエッブは部屋の真ん中あたりで腹ばいになっていたが、今は体を回転させて仰向けになっている。

ランスロット・クロウキーは、外国に関する通信記者だが、ハイボールの入ったグラスに手を伸ばして飲み干したところだ。

ジュールズ・フォウグラーは、『バナー』の新しい劇評担当者だが、身じろぎもせずに座っている。この二時間のあいだ、彼は全く動かなかった。

ロイス・クックは、客をもてなす側にいたが、両の腕を挙げて、それをねじり、伸ばしてこう言う。

「あらあ、アイク、ひどい駄作ねえ」

ランスロット・クロウキーは物憂げにのんびりと言う。

「ロイス、ねええ、いい子だからさあ、どこにジンを隠してるうう?ケチらないでさあ。君って客のもてなし方に関しては最悪だよおおお、もおおお」

ガス・ウエッブが言う。

「僕は文学が理解できない。非生産的だ。時間の浪費だ。作家なんてものは、誰もかれも粛清(しゅくせい)されるべきだ」

アイクがかん高い声で笑う。彼は原稿を振り回す。

「ひどいしろもんでしょう?ええ?ほんと、超ひどいでしょう?僕が何のためにこれ書いたと思う?これ以上ひどい失敗作を書ける奴がいたらお目にかかりたいね。生涯で聞いた最悪の劇でしょう?」

これは、『アメリカ作家会議』の公式な会合ではなかった。ただ非公式に集まっただけだ。アイクが数人の友人に書きあがった劇を聞いてもらいたいと頼み込んだのだ。彼は、二六歳で、すでに十一の戯曲を書き上げていたが、まだ一度もそれらは上演されたことがなかった。

「アイク、劇は諦めた方がいいんじゃない?書くということは大変な仕事だからさあ、やってみたいなあなんて思ってやっても、風来坊のろくでなしには無理だって」

ランスロット・クロウキーが言う。クロウキーが初めて出版した本は、個人的な外国訪問記とか冒険談みたいなものだったが、ベストセラーリストにもう十週間も入っていた。

「そう?ランス、無理なことかな?そうかな?」と、トゥーイーが優しい口調でゆっくり言う。

「ひどい駄作だわ。完璧に駄作よ。あまりに駄作だから、素晴らしいのだわ」と、ロイス・クックは頭を左右にのらりくらりとだらしなく揺らしながら言う。

「くだらん!なんで、僕はここに来てしまったのか?」と、ガス・ウエッブが言う。

アイクは暖炉に向かって原稿を投げつける。それは、暖炉の鉄線のおおいにぶつかって床に落ちる。原稿は散らばり、劇が書かれている原稿の表側が床にべったりとついた。たいして厚くもない分量の原稿がつぶれている。アイクは言う。

「イプセンに劇が書けたのに、なぜ僕が書けない?イプセンはいい。僕はひどい。しかし、そんなことは十分な理由ではない」

「宇宙的な意味ではそうではないが、しかし、やはり君はひどい」と、ランスロット・クロウキー。

「君が言うことはない。僕が僕自身で先にそう言ったじゃないか」と、アイク。

「これは、偉大な劇です」と、誰かの声がする。

その声は、ゆっくりとして鼻にかかり退屈そうである。その声の持ち主は、その晩、初めて口をきいた。みんなはジュールズ・フォウグラーの方を見る。ある漫画家が彼を描いた似顔絵はよく知られている。その絵は、大きな円と小さな円のふたつの弛緩した円で構成されていた。大きな円は彼の腹部をさし、小さな円は彼の下唇だった。彼は、贅沢に仕立てられたスーツを着ている。彼は、いつもどんなときでも手袋をして、杖をついている。彼は高名なる劇評家である。

ジュールズ・フォウグラーは杖を伸ばし、フック状になった杖の取っ手を使い、アイクが投げ捨てた原稿をとらえて引っ張り、自分の足元に寄せる。だが原稿を拾い上げることはせずに、それを眺めながらこう言う。

「これは偉大な劇です」と。

「なんでえ?」とランスロット・クロウキー。

「なぜならば、私がそう言うからです」と、ジュールズ・フォウグラー。

「ジュールズ、冗談いいっこなし」と、ロイス・クック。

「私は冗談など決して言わない。下品だ」と、ジュールズ・フォウグラー。

「じゃあ、それの上演初日の切符二枚を送ってよ」と、ランスロット・クロウキーはせせら笑いながら、言う。

「初日の切符二枚だと八八ドルします。今シーズン最大のヒットになります、この劇は」と、ジュールズ・フォウグラーは言う。

ジュールズ・フォウグラーはトゥーイーの方を見る。彼はフォウグラーを眺めている。トゥーイーは微笑む。その微笑は軽いものでもなければ不注意なものでもない。その微笑みは、トゥーイーが実に真面目なこととして考えている何かを是認する論評のようなものだ。フォウグラーのまなざしは、トゥーイー以外のここにいるメンバーに向けられるときは侮蔑的であるが、トゥーイーに視線がおかれるときは、和らぐ。一瞬の間に、ふたりの間に理解が成立したという趣である。

「ジュールズ、あなたはなぜ『アメリカ作家会議』に入会しないのですか?」と、トゥーイーが訊ねる。

「私は個人主義者なのです。組織というものを信じていない。それに、そんなものが必要ですか?」と、フォウグラーが言う。

「いいえ。必ずしも必要ではありません。ジュールズ、あなたにとっては必要ではありません。あなたには、何も教える必要がありませんよ、私は」と、トゥーイーは言葉を選びながら言う。

「エルスワース、私があなたについて好ましいと思う点というのは、あなたには私のことを説明する必要がいっさいないということです」

「冗談。ここで何の説明がいるんだよ?俺たちは同じ仲間の六人さ」と、ガアス・ウエッブが口を挟む。

「五人です。私は、ガス・ウエッブは嫌いです」

「なぜだよ?」とガスが訊ねる。別に気分を害しているようでもない。

「なぜならば、彼は耳を洗いません」と、フォウグラーが答えたが、まるでガスではない第三者の質問に対するような答え方だ。

「あ、そう」と、ガスが言う。

アイクはさっきから立ち上がっている。フォウグラーをじっと見つめている。呼吸をすべきかどうか、はっきりわからないみたいな様子である。

「フォウグラー先生、僕の劇を気に入ってくださいましたか?」と、アイクはやっと言う。声が小さくなっている。

「気に入ったとは私は言いませんでした。臭い劇だと思います。それだからこそ偉大なのです」と、フォウグラーは冷たく答える。

アイクは大声で笑う。彼は、安堵したようである。彼の視線は、部屋にいる他の面々の顔を一巡している。ずるそうな、こそこそした勝利のまなざしである。

ジュールズ・フォウグラーは、杖の先端で、自分の足元に転がっているアイクの原稿をめくる。

「アイク、君のタイプは言語道断(ごんごどうだん)残虐(ざんぎゃく)非道(ひどう)です」とフォウグラー。

「僕はタイピストじゃないですから。僕は創造的芸術家ですから」

「この劇が上演されたら、君ね、原稿のタイプを打ちなおしてくれる秘書を雇うことも、できるようになりますよ」

「わかったよ、ジュールズ。しかし、あんなクソみたいなもののどこを褒めるつもりですかねえ?」と、ランスロット・クロウキー。

「なぜならば・・・君のご指摘のとおり・・・これが、クソだからです」

「いい劇を書いて、それが賞賛される。そんなことしかたないよ。どうでもいいことだ。誰でもできることだよ、そんなの。才能がある人間ならば誰でも・・・だって才能なんて生物学的な遺伝的な偶然でしかないんだから。でもクソみたいな劇を書いて、それが賞賛される・・・どうだい、それこそ妥当適切なことじゃないか」と、アイクが弁じる。

「アイクの勝ちですね」と、トゥーイー。

「ランス、アイクは君よりも、はるかに物事を理解しています。アイクは真の思想家であることを、彼自身にまさに証明しました・・・さきほどのささやかな弁論において。ついでに言っておきますが、さきほどのアイクの弁は、彼の劇よりも、はるかにいいです」と、ジュールズ・フォウグラーが言う。

「今度は、この問題に関する劇を書こう」と、アイク。

フォウグラーはさらに話し続ける。

「そもそも良い演劇を賞賛するという行為において、劇評家にとってどんな功績がありえるでしょうか?何にしても、全くありません。その場合、劇評家は作家と観客の間を取り持つ名誉あるメッセンジャーでしかありません。私にとって、そうあることの意味などありますか?単なるメッセンジャーでいることには、私はうんざりしています。私には私自身の個性を大衆に刻印する権利があります。でなければ、私は欲求不満になるでしょう。私はアイクの劇をヒットさせてさしあげますよ・・・君の劇はなんと言う題名ですか?」

「てめえのケツの皮なぞ知ったことか」とアイクが答える。

「何ですって?」

「あの、それが題名なんです」

「ああ、なるほど。では、ヒットさせてさしあげましょう。その『てめえのケツの皮なぞ知ったことか』をね」

ロイス・クックがゲラゲラ笑った。フォウグラーは、さらに話し続ける。

「ランス、お望みならば君自身の場合について考えてみましょう。世界中の出来事を報告する通信員であることに、何の意味があるでしょうか?大衆は、あらゆる類の国際的危機について読みます。読者が君の署名入りの記事を読めば、君はまあ嬉しいでしょうね。しかし、君は、将軍や提督や大使と比べて優れているということはない。君には、君自身を読者に意識させる権利があるわけです。だからこそ、君はあの懸命なる行為をしたわけです。君は、あの素晴らしい大量のたわごとを書いたでしょう・・・ええ、たわごとですよ、あれは・・・しかし、道徳的には正当化されるのです。利口な本です。君自身の底意地の悪い卑小な人格のための背景として使用される世界的破滅。ランスロット・クロウキーが、国際会議の最中にどれほど飲みまくるか。侵略が始まっているときに、どんな美女がランスロット・クロウキーと寝るのか。飢饉に苦しむ土地で、ランスロット・クロウキーがどういういきさつで赤痢にかかるのか。まったく、ランス、このたわごとのどこが悪いでしょうか?君のたわごとは、好評を博しましたねえ?エルスワースが、そうなるように計らってくれたのでしょう?」

「一般大衆というのは、人間的関心事を高く評価するものだよ」と、ランスロット・クロウキーは怒ったような顔をしてグラスの中を覗き込んで言う。

ロイス・クックが叫ぶ。

「あらあ、ランス、馬鹿言っちゃって!あんた、よく、そんなにすかしていられるわねえ。あんなもん人間的関心事なんてものじゃないわよ。単にエルスワース・トゥーイーのおかげじゃないの」

八ヶ月前、ランスロット・クロウキーは、エルスワース・トゥーイーの前に原稿を手にして立っていた。今アイクがフォウグラーの前に立っているように。トゥーイーがこの本はベストセラー・リストのトップになるだろうと言ったとき、ランスロット・クロウキーは、その言葉を信じなかった。

しかし、その本が二十万部売れてしまうと、クロウキーはもう自分の本がそれだけ好評を博し売れているのは実はなぜなのか、という事実認識ができなくなってしまった。

ロイス・クックは穏やかに言う。

「そう、エルスワースは『胆力あり胆石』も、そうしてくれたわ。あれほどの下らないゴミは、今まで活字にされたことがないわよ。私はちゃんとそのことはわかっているの。でも、エルスワースはやってくれたわ」

トゥーイーの周りには座り心地のいい椅子がたくさんあるが、彼は床に座っているのが好きだ。両肘で上半身を支えて腹ばいになって床に転がっている。片肘で体重を支えて寝転がっていたりもする。絨毯にフォークのように脚を広げたりもする。だらだらと緊張のない状態を、彼は楽しんでいるようだ。彼は、おもむろに言う。

「来月、私は小さな町の歯医者の自伝を大々的に宣伝します。実に立派な人物でしてね・・・なぜならば、彼の人生にはひとつも素晴らしいことがないから。本の中にも素晴らしいところは一文もありません。ロイス、君はその本を気に入りますよ。まるで神の啓示のように、魂をあらわにする陳腐な決まり文句ばかりの本って想像できますかねえ、君は?」

「ささやかな人々かあ。ささやかな人々って好きだなあ、僕は。この世のささやかな人々は愛さなくてはいけない」と、アイクが優しい口調で言う。

「それは次の劇のテーマとして、とっておきたまえ」と、トゥーイーが言う。

「できませんよ。もうこの劇の中に出してしまいましたから」と、アイク。

「エルスワース、大きな理想って何です?」とクロウキーが鋭い口調で問う。

「ああ、それは単純なものなのですよ、ランス。人間とは、食べたり眠ったり、近所の人間とペチャクチャしゃべったりすること以上の大したことは何もしない全くの非存在である、という事実が誇るべき価値のある事実となればね。それが世界に宣言してふさわしい事実となり、何百万人もの読者によって熱心に研究されてふさわしい事実となればね・・・ある人間が大寺院を建設したという事実が記録されなくなり、ものの数に入らなくなればね。格差がなくなるのですね。一匹の蟻のまっとうな認識のなかに雷は含まれないことになるのです」

ロイス・クックが言う。

「とっても素晴らしいことだわ。エルスワース、あなたがあまりにうまくやっていること以外はね。あなたは、その気になれば、私を作家として抹殺(まっさつ)もできる。もし注目されたいと思うのならば、早く本当にいいものを書かなければならなくなるわね、私も」

「ロイス、今世紀中には無理ですよ。多分、来世紀中も無理だな。君が考えるよりも時間がかかりますよ」と、トゥーイー。

「エルスワース、まだ言ってくれてないですよ・・・!」とアイクが突然叫ぶ。何やら心配そうである。

「私が、まだ何を言っていないって?」

「誰が僕の劇を作ってくれるのか、まだ言ってくれてないです!」

「それは、私に任せなさい」と、ジュールズ・フォウグラーが言う。

アイクが重々しく言う。

「エルスワース、お礼を言います。ありがとうございます。お粗末な劇はいっぱいあるのに、あなたは僕の劇を拾ってくれた。あなたとフォウグラー先生は」

「アイク、君のお粗末さは大いに実用的でしてね。大いに使えます」

「そうですか?すごいなあ、それは」

「なかなかのものです」

「どういうふうに実用的ですか・・・たとえば?」

「エルスワース、あまりしゃべらない方が。今日のあなたは、どこかが破れちゃっているみたいだ」と、ガス・ウエッブが、また口をさし挟む。

「君、うるさいですよ、キューピー人形みたいな顔して。私はしゃべりたいのです。アイク、たとえば、ですねえ、そうねえ、たとえば、私がイプセンを好まないと仮定してみると・・・」

「イプセンはいいです」と、アイク。

「そうです、イプセンはいい。しかし、私がイプセンを好まないと仮定してみて下さい。イプセンの劇を人々が見るのをやめさせたいと、私が思っていると仮定しましょう。しかし、人々にイプセンを見せまいとして、何を言おうが無駄なことですよ。しかし、君がイプセンと同じくらいに偉大だという見解を世間に売りつければ・・・すぐに、世間というのは、君の作品とイプセンの作品の区別などつけられなくなります」

「すごい、そんなことできるのですか?」

「アイク、これは単なる例えです」

「でも、そんなふうになったら、素晴らしいなあ!」

「そうです。素晴らしいでしょうねえ。そうなれば、世間の人間が何を見に行こうが、どうでもよくなるのです。そうなれば、どうでもいいような作品でも、どうでもよくはなくなるのです・・・作家が誰にせよ、作家が誰のために書いているにせよね」

「エルスワース、それってどういうふうに?」

「いいかい、アイク。イプセンも君も、ふたりのどちらも入れる余地というのは、演劇界にはないのですよ。宝も糞もいっしょに入れる余地は劇場にはありません。君は、ちゃんとわかっていますかねえ、このことが?」

「ある意味では・・・はい」

「で、君は君の入る余地を私に作ってもらいたいわけでしょう?」

そのとき、ロイス・クックの執事が部屋に入って来た。彼は堂々とした年配の男性である。きちんと夜用の正装をしている。彼は、ピーター・キーティングの来訪を告げる。

「ピート?あらまあ、通していいわよ。すぐ通しなさいよ」と、ロイス・クックは陽気に答える。

キーティングが通されて来たが、集まりの面々を見てびっくりして入り口で立ち止まる。

「あの・・・やあ、みなさん。ロイス、こんなにいっぱいお仲間が来ていらしたとは知らなかったものですから」と、彼は陰気くさく言う。

「お仲間じゃないわよ。入ってよ、ピート。座って、好きに飲んでよ。みんなのことは知っているでしょう」

「こんにちは、エルスワース」とキーティングの目がトゥーイーに助けを求めるように注がれる。

トゥーイーは片手をキーティングに向かって振る。足をもつれさせながら、そばの肘掛け椅子に座り、両脚を優雅に組む。部屋にいた誰もが、自動的にトゥーイーの動きにあわせる。背筋をまっすぐにして座りなおしたり、膝をそろえたり、緩んだ口元を引き締めたりする。突然に制御装置が働いたかのようだ。ガス・ウエッブだけがあいかわらず床に寝そべっている。

キーティングは涼やかで端整に見える。窓を閉め切って空気のよどんでいた部屋に、寒い街路を歩いてきたキーティングの体にまといついていた新鮮な大気が運ばれたかのようだ。しかし、彼の顔色は悪い。動きはのろのろとして疲れているようである。キーティングは言う。

「ロイス、お邪魔して悪いですね。することもなくて、やたら寂しかったものだから、お邪魔したいなと思っちゃって」

彼は、「寂しい」という言葉を不明瞭に発音した。自己弁解的な微笑を浮かべながら、その単語を放り投げるように口に出した。

「ニール・デュモンとか他の連中にはもう飽きちゃって。もっとこう自分を高められるような仲間が欲しくて・・・その、精神的糧っていうのかな?」

アイクが唐突に言う。

「僕は天才です。今度ブロードウエイで僕の劇が上演されます。僕とイプセン。エルスワースがそう言ってくれました」

「アイクが新作を私たちに読んでくれていたのですよ。素晴らしい作品でした」と、トゥーイーが言う。

「ピーター、君も気に入るよ。実に立派な劇でね」と、ランスロット・クロウキーが言う。

ジュールズ・フォウグラーも言う。

「傑作です。ピーター、君も君自身でその作品の価値を証明することになると、私は期待します。アイクの新作は劇場にやって来る観客の質に依存する種類の劇なのです。もし、君が世間にはびこる散文的な想像力のない頭の持ち主のひとりだと、乾いた魂と限られた想像力しか持ち合わせないと、あの劇は理解できません。しかし、大きな心の持ち主であり真の人間であるのならば、純粋な感情を味わえる能力を、子ども時代の堕落していない魂を保持しているのならば・・・あの劇は、忘れられない経験となるでしょう」

「幼子(おさなご)のごとくならずして、天国の門に入るなかれ」と、エルスワース・トゥーイーが言う。

「ありがとう、エルスワース。それを私の劇評の書き出しに使わせてもらいます」と、ジュールズ・フォウグラーが言う。

キーティングはアイクを見つめる。他の連中の顔も見つめる。目が熱っぽい。彼らみなが、自分から遠く離れて純粋に見える。彼らは深い認識に達しているために安定していて、自分よりもはるかな高みにいるように見える。それでいて彼らの顔は微笑しているような温かみを帯びている。その温かみは、高みではなく下方へもっとこの世的なものへと彼を誘っている。

この人たちは立派だ、偉大だという感興(かんきょう)にキーティングは浸る。ここに来るまでに求めていた精神的糧を、彼は飲み干す。彼らを通して自分が高められているのだと感じる。

トゥーイーと彼の仲間たちは、彼ら自身と彼女自身の偉大さがキーティングによって真実性を帯びるのを見つめている。彼らのいる部屋の中でひとつの回路が形成され、その回路によって作られた円が完結して閉じた。詐欺師たちの回路。彼らと彼女たちは、それを意識する。

ピーター・キーティングにだけはそのことがわからない。

(第3章19 超訳おわり)

(訳者コメント)

このセクションでは、作者のアイン・ランドは、メディアによる大衆操作の一例を見せている。

なんで、こんな程度の小説や劇作品がやたら賞賛されるのかな?

なんで、こんな程度の映画が受賞するのかな?

こーいうことが、最近ちょっと続き過ぎてる気がするなあ……

と、思ったことはないだろうか?

エルスワース・トゥーイーは、発行部数の多さを誇る大新聞のコラムニストとして、読者から圧倒的な信頼を得ている。

彼がある作品を褒めれば、その作品は大いに売れる。

ほとんどの人間は、高名な評論家や知識人が推薦する作品ならば、それは立派な質のいいものなのだろうと思い込む。

その作品の良さがわからないとしても、それは自分の鑑識眼が足りないからだろうと思う。

ならば、意図的にくだらない作品を賞賛し、人々の美意識や批評眼を混乱させることは可能だ。

そのうちに、何が良くて何がダメか、誰も決められなくなる。

価値観が崩れる。無規範anomyになる。

無規範がはびこると社会が劣化する。個人が劣化する。

人間が守るべき理想や倫理が顧みられなくなる。

トゥーイーと、彼の仲間たちの狙いはそこにある。

価値観を喪失し、無規範になり、連帯をなくして劣化して混乱した大衆を操作するのは容易だからだ。

アイン・ランドは1930年代のThe Red Decade赤の時代に、メディアが意図的に左翼的テーマの映画や小説が生産され賞賛されるのを目撃してきた。

ソ連的なるものを肯定し支持するプロパガンダがアメリカで実践されていることに苦々しい思いを持っていた。

私たちも注意していなければならない。

急にメディアが、あるひとつのことばかり報道し始めたら、その意味を考えるべきだ。

どんな作品がメディアや権威によって是認されやすいか観察するべきだ。

報道されないことは何か考えるべきだ。

現代日本にも、トゥーイーとその仲間たちは跋扈しているのだ。

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