ドミニクは窓側に座っている。床の下の列車の車輪の音に耳をすませている。夕暮れ近く、だんだんと薄れていく陽光の中に、次々と過ぎ去っていくオハイオ州の田園風景を車窓から眺めている。頭を座席の背もたれにあずけ、両の腕は脇にたれている。手は座席のシートに力なく置かれている。
ドミニクの乗っている車両に客は彼女ひとりだけだった。列車が前進するにつれて、座席のコンパートメントの窓枠や床や壁が前に運ばれる。それにつれて、ドミニクの体も前に運ばれる。
車両の隅はすでに闇を集めて暗くなりかけている。窓はまだ明るいままだが、すでに夕暮れの光が地平線から立ち上がっている。その光のかすかな輝きの中にドミニクは身を休めている。夕暮れの光は車両の中に入り、車両を満たす。そのあわい光を消すにはドミニクがコンパートメントの電灯のスイッチをいれればいいのだが、彼女はそうしない。
ドミニクは、自分がダラダラと弛緩して空虚だと感じる。痛みのない衰弱した気分の中で、自分が何者であるかという意識を失くしている。このまま消えてもいいのに。車窓から見えるあの特別な大地以外に定まったものなど何も残さずに、自分が消えたらいいのに。
車窓のガラスの向こうに、駅の建物のひさしの下の色あせた板に「クレイトン」という地名が見える。
そのとき、ドミニクは自分が期待して待っていたものが何かわかった。なぜ、自分がもっと早い列車ではなくて、この鈍行を選んだのかドミニクにはわかった。なぜ、自分がその鈍行列車の停車駅を時刻表で丹念に調べたのかわかった。
ドミニクは、スーツケースとコートと帽子をひっつかんで走る。コートや帽子を身つける時間がない。足の下の床がこの町から自分を遠く運び去ってしまうのではないかと恐れて走る。車両の狭い通路を走り抜け昇降口まで行く。駅のプラットフォームに飛び降りる。むきだしの喉に冬の寒気があたり驚く。
駅の建物を眺めドミニクは立ちつくす。さっきまで乗っていた列車が、背後でガタガタと音をたてて動き出すのが聞こえる。
それから、やっとドミニクはコートと帽子を身につける。プラットフォームを通り、待合室に入る。乾いたチューインガムの塊がこびりつく木の床を通り、鉄製のストーヴから発する重い波のような熱気を感じながら歩いていくと、駅前の広場に出た。
低い家並みの向こうの空に日没の黄色い光の帯が見える。煉瓦敷きの穴だらけの歩道が延びている。小さな家々は互いに互いを支え、もたれあっているようだ。ねじれた枝をつけた葉の落ちた木が一本見える。打ち捨てられたような車庫の扉のない入り口あたりには、雑草がほんの少しだけ茂っている。明かりのついていない店の玄関が見える。角にまだ開店している雑貨屋があるが、その窓の灯りは薄暗い。
ドミニクは、この町に来たことはない。しかし、この場所が自分に宣言しているのを感じる。お前は私のものだと。ドミニクは、この町が不吉な親密さで自分の周囲を閉じつつあるのを感じる。まるで、あらゆる闇の塊が宇宙に浮かぶ惑星の牽引力(けんいんりょく)であるように。闇がその吸引力を行使して、ドミニクの軌道を命令し用意しているかのように。
ドミニクは、片方の手を駅前の消火栓の上に置く。手袋をとおして肌に冷気が浸透してくる。これが、この街がドミニクを所有するやり方なのだ。彼女が身につけているものや、彼女の気持ちではとめることのできないほど直接に貫通してくるのだ。避けられないことを受け入れるべく待つという平安が、ドミニクの心にある。今は、もうその必然の要求するまま行動すればいい。それだけでいい。どう行動するかは単純なことだ。前もってわかっている。
ドミニクは、通りすがりの人に聞く。
「ジェイナーズ百貨店の工事現場はどちらでしょうか?」
暗くなった通りをドミニクは忍耐強く歩いていく。荒涼とした冬の芝生や傾きかけた玄関ポーチのある家々の前を通り過ぎる。ブリキの缶が転がる中、雑草が風に揺れて音をたてているだだっ広い空き地を過ぎる。店を閉めた食料品店や湯気を立てている洗濯屋の前を通り過ぎる。カーテンを閉めていない家もある。ワイシャツ姿の男が暖炉のそばで新聞を読みながら腰掛けているのが見える。角をいくつか回り、いくつかの通りを渡る。
ドミニクは、履いているパンプスの薄い皮底を通して砂利石を感じる。めったに出会うことはなかったが、行きかう人間がドミニクを見て驚く。その界隈では場違いな優雅さに驚く。ドミニクは、彼らが驚いていることに気がつく。その驚きに対して、ドミニクもまた驚く。
彼女は彼らに言えるものなら言ってやりたい。あなたたちは、わからないの?・・・私ほどこの町に属している人間もいないのよと。ときどき、ドミニクは立ち止まり、目を閉じる。息をするのも苦しくなっているのに気がつく。
工事現場があるはずの大通りにやっとたどり着く。だから、さきほどまでよりはゆっくり歩く。灯りがいくつか見える。道が折れ曲がっているあたりに、数台の自動車が、対角線の形で駐車されている。映画館が一軒ある。台所用品と並んでピンク色の下着が陳列されているショー・ウインドウが見える。ドミニクは前方を見つめながら、ぎこちなく歩いていく。
古いビルの側面に煌々(こうこう)と輝く光が見えた。黄色い煉瓦でできた窓のない壁あたりに光が見えた。その光は、倒壊させられた隣接したビルか何かの煤(すす)で汚れた床をあらわにしていた。基礎工事用や地下室用に地面を大きく深く掘り出した穴から、その光は発していた。ここが工事現場だとドミニクにはわかる。
しかし、そうでなければいいのにと彼女は思う。まだ作業員たちが働いているのだから、ならばロークもまだ働いているだろう。今夜はロークに会いたくなかった。ただ、工事現場と建設中のビルを見たいから来た。それ以上のことは、ドミニクには心の準備ができていない。ロークには明日会いたかった。しかし、もう今更やめるわけにもいかない。
ドミニクは、地面が大きく掘り出されている場所まで歩いていく。その大きな穴は、角のところの通りに面したところに、柵にも囲まれずに開いている。鉄が滑るガタガタという大きな音が聞こえる。起重機の腕が見える。掘り出されたばかりの土が斜めに積み上げられ形成している山の両側には、作業員の影が見える。灯りに照らされ、その人影は黄色く見える。その穴からは、歩道まで上がるために階段となる厚板は見えなかったが、ドミニクの耳には、その厚板の階段を上がってくる誰かの足音が聞こえる。
ロークが通りに出てくるのをドミニクは見る。ロークは帽子をかぶらず、コートを着ていたが、肩ではおるようにしてボタンはとめていない。
ロークは立ち止まる。ドミニクを見る。ドミニクは、自分がまっすぐ立っていると思っていた。単純に普通に立っていると思っていた。ドミニクは、いつも自分が見ていたのと同じ灰色の瞳とオレンジ色の髪を眺めていた。
だから、そのとき、ロークが急いで自分の方に歩いてきて、自分の肘を強すぎる力をこめて掴み、「どこかに腰掛けたほうがいいよ」と言ったとき、驚いた。それで、ドミニクも、自分がロークに肘をつかまれていないと立っていられないほど疲れているのに気がついた。
ロークはドミニクが手にしていたスーツケースを自分の手に持った。彼女を暗い脇道に連れていき、空き家の玄関ポーチの階段に座らせた。その空き家の閉じたドアに、ドミニクはもたれる。ロークもドミニクの隣に腰を下ろす。彼は、まだドミニクの肘をしっかりつかんでいる。それは愛撫というような個人的な行為ではなく、自分とドミニクのどちらをも抑制しておくための行為だった。
しばらくしてから、ロークはやっと彼女の肘から手を離す。ドミニクは、もう自分が大丈夫だと思う。それでやっと口をきくことができた。
「あれが、今度の新しいビル?」
「うん。駅から歩いて来た?」
「ええ」
「遠いのに」
「遠かったわ、ほんとうに」
ドミニクは、ふたりが久しぶりに会ったのに互いに挨拶もしないが、それでいいのだと思う。これは再会ではないから。決して中断されたことのない何かの中のひとつの瞬間でしかないのだから。もし、ロークに「こんにちは、お久しぶり」とか言うとすれば、かえってどれだけ奇妙だろうかとドミニクは思う。人は、いつもいっしょにいる人間と毎朝挨拶を交わしたりはしない。
ドミニクはロークに訊ねる。
「今日は、何時に起きたの?」
「七時」
「私は、その頃まだニューヨークにいたわ。グランド・セントラル駅に向かうタクシーの中にいたわ。どこで朝食はとったの?」
「そのへんのダイナー」
「自動車を改造した食堂?一晩中開いているようなところ?」
「そう。客は、だいたいトラック運転手ばかりかな」
「よく、そこへは行くの?」
「コーヒーが飲みたくなったら、いつでもね」
「カウンターに座るの?周りに、あなたを見ている人がいっぱいいるでしょう?」
「時間があるときはカウンターに座る。いつも店は客でいっぱいだよ。誰も僕のことを見ていないと思うけど」
「それからどうするの?歩いて仕事場まで戻るの?」
「うん」
「毎日歩くの?この町のあちこちの道を?この町の人が住んでいる家の窓のそばを通り過ぎるの?誰かが窓辺に来て窓を開けるんじゃないの?」
「ここの人は、窓から外を覗いてじっと見るなんて習慣はないよ」
ふたりが腰掛けている空き家の玄関ポーチは高い。だから、そこから通りをへだてたところにある建設現場の穴や地面や作業員が見える。むきだしの電灯の放つ荒い光のぎらつく中に立ち上がる鋼鉄の柱も見える。
舗道や砂利の真ん中で、掘り出されたばかりの土を見るのは奇妙なことだと、ドミニクは感じる。まるでこの町の衣服の一部が裂かれ、むきだしの肌があらわになっているようだ。ドミニクは言う。
「あなたは、この二年の間、カントリー・ハウスをふたつ設計したでしょう」
「うん。ペンシルヴァニアとボストンの近くにね」
「大したカントリー・ハウスではなかったのでしょう」
「君が言う意味では、豪壮なものではないよ。だけど、面白い仕事だったよ」
「ここには、まだどれぐらい滞在するの?」
「あと一ヶ月くらいかな」
「どうして夜も仕事するの?」
「急ぎの仕事だから」
通りの向こうでは起重機が移動している。空中に渡された長い梁のバランスを支えている。ロークがその動きをじっと見つめていることに、ドミニクは気がつく。ロークは起重機の動きを気にしているのではない。建物に関する本能的な反応というものが、彼の目にはあらわれてしまう。建築とは、彼にとって肉体的に個人的な何かだ。自分が手がけている建物に関してなされる行為に対する親密な感情が彼にはある。ドミニクはそれをよく知っている。
「ローク・・・」
ふたりは、互いの名前を口に出していなかった。ドミニクはその名前を口に出したい気持ちを我慢してきた。やっとその思いに屈して、ロークに、その名前で呼びかけることには深い悦びがあった・・・ロークと発音し、その呼びかけをロークに聞いてもらうことには、深い悦びがあった。
「ローク、また採石場に逆戻りね」
ロークは小さく笑う。
「君がそう思いたいのならば、それでもいいけど、ただそれだけではないよ」
「あのエンライト・ハウスを作ったのに?コード・ビルを建てたのに?」
「僕は、そういうふうには考えない」
「では、どう考えるの?」
「僕は建築の仕事が好きだから。どんな建物も人間みたいだ。ただひとつで、かけがえがない。ひとつとして同じものはない」
ロークは通りの向こうを見つめている。彼は全く変わっていなかった。彼の中には、昔と変わらぬ軽やかさがあった。身のこなしの中にも、行動の中にも、そして考え方の中にも。
「ずっとこのまま五階建てのビルを建て続けるのかしら・・・」
「必要とあればね。でも、そうはならないと思う」
「あなたは何を待っているの?」
「何も待っていないよ」
ドミニクは目を閉じる。彼女の感情は口元に表れてしまっている。苦渋と怒りと苦痛に彼女の口元が歪む。
「ローク、あなたがニューヨークにいるのならば、私は会いになど来なかったわ」
「わかってる」
「だけど、今のあなたは・・・別の土地で・・・このような小さな町の名もない穴のような場所で。だから、私はそれを自分の目で見なければならなかった。あなたのいる場所を実際に見なければ気がすまなかったの」
「君、いつ帰るの?」
「私がここにあなたと残るつもりで来たのではないって、わかるの?」
「うん」
「どうして?」
「まだ君は自動車を改造した食堂とか、窓からの人の目とか怖がっているから」
「私はニューヨークには戻らないの。すぐには戻らないの」
「そうなの?」
「ローク、あなたは何も私に訊ねないのね。質問は、私が駅から歩いてきたかどうかだけなのね」
「君は僕に何を訊ねてもらいたいの?」
「私ね、駅の名前を見て列車を降りてしまったわ。ここに来るつもりはなかったの。私はリノに行く途中なの」
「そのあとどうするの?」
「また結婚する」
「僕の知っている人?」
「あなたも名前は聞いたことはあると思う。ゲイル・ワイナンド」
ドミニクはロークの目を見た。ここでは大きな声で笑うべきなのだと、ドミニクは思う。ロークに初めて衝撃を与えることができたのだ。まさかこれほど驚かせることができるとは予想もしていなかった。しかし、ドミニクは笑わなかった。
そのとき、ロークは、ヘンリー・キャメロンのことを思い出していた。キャメロンが語った言葉を思い出していた。
「俺には、あの連中に与えるべき答えがないよ、ハワード。俺は、あいつらとの対決はお前に任せる。お前はあいつらに答えることができる。とりわけ、ワイナンド系列の新聞と、あの新聞を作っているものと、その背後にあるものに対して」
黙っているロークにドミニクが問う。
「ローク?」
ロークは答えない。
「ね、ピーター・キーティングよりも悪いでしょう?」
「はるかに悪い」
「私を止めたいと思う?」
「思わない」
さきほどドミニクの肘を離して以来、ロークは彼女に全く触れていない。あ
の行為は危急のときだったから触れたにすぎなかったのだ。
ドミニクは片手を動かし、ロークの片方の手に自分の手を重ねる。ロークは
指をひっこめたりはしないし、無関心なそっけない態度を演じることもない。ドミニクは、ロークの手をつかんではいるが、その手を彼の膝から上げることはしない。ドミニクは身を屈めて、その手にキスをする。ロークは、ドミニクの唇が何度も何度も自分の手に触れるのを感じる。これに答えて、彼の指はドミニクの指とからみあう。しかし、それは応答でしかなく、それ以上の行為をロークは返さない。
ドミニクは頭を上げて、通りを見つめる。離れたところに、灯りのついた窓が見える。冬の木々の葉の落ちたむきだしの枝が格子模様を作っている。その光景の向こうに、その窓は見える。小さな家々が連なっている。その家並みは闇の奥まで伸びている。幅の狭いわき道に沿って木々が並んでいる。
ドミニクは、腰掛けている玄関ポーチの階段の下方に自分の帽子が、いつのまにか落ちているのに気がつく。身を屈め、それを拾う。階段の上に手袋をしていない片方の手をついて、体重を手にかける。階段の石は古い。踏みつけられてきたので磨耗してなめらかだ。氷のように冷たい。その石に触れてドミニクは安らぎを感じる。手のひらを石に押しつけるために、ほんの少しの間だけ身をかがめて座る。この石の階段を感じるために・・・たとえどれだけの人間の足がその石を踏みつけてこようが、駅前の消火栓に触れたとき感じたように、その石を感じるために。
「ローク、どこに住んでいるの?」
「下宿屋」
「どんな部屋にいるの?」
「単なる部屋だよ」
「中に何が置いてあるの?どんな壁?」
「壁紙が貼ってある。色あせているけど」
「家具は何があるの?」
「テーブルに椅子にベッド」
「駄目よ。ちゃんと詳しく話して」
「衣類用のクローゼットがあって、それからひきだしのついたチェストがあって、窓辺の隅にベッドがある。片方の隅には大きなテーブルがある」
「壁のそば?」
「違う。僕がテーブルを移動させて窓辺に置いた・・・そこで仕事するから。それから背もたれがまっすぐの椅子があって、肘掛け椅子もある。フロアスタンドがあるし、僕は使ってないけどマガジン・ラックもある。それだけかな」
「敷物はないの?カーテンは?」
「窓辺あたりに何かあったかな。一種の絨毯かな。床は綺麗に磨かれている。古い木で美しいよ」
「私、あなたの部屋について考えたいわ、今夜・・・列車の中でね」
ロークは通りの向こうを眺めている。ドミニクは言う。
「ローク、今夜あなたのところに泊めて」
「駄目だよ」
ドミニクは、ロークがこの玄関ポーチからは下方に見える粉砕機の動きを目で追っているのに気がつく。彼の目の動きに自分のまなざしもあわせる。しばらくしてから、ドミニクは訊ねる。
「どういういきさつで、このビルを設計することになったの?」
「デパートのオーナーがニューヨークで僕が作ったビル見て、気に入ったんだ」
作業着のオーヴァーオールを着た男がひとり、ロークが出てきた地下に通じる開口部から出てきて、闇をすかし、呼びかけてきた。
「ボス、そこにいますかねえ?」
「いるよ」
「ちょっとだけ、来てもらえますか?」
ロークは、通りを横切り、その男の方へ歩いていく。ドミニクには、ふたりが何を話しているかはわからないが、ロークが陽気に「そんなの簡単なことだよ」と言っているのだけは聞こえた。
ロークと男は、厚板でできたはしごのような階段を使って開口部の底まで降りていく。男が話しながら上を指差している。何らかの問題を説明している。ロークは頭をのけぞらせ、立ち上がっている鋼鉄の枠をちらりと見上げている。照明が直接的にロークの顔にあたっている。
ドミニクは、ロークが集中するときのまなざしを見る。彼は微笑んではいない。しかし、彼の表情には、能力を発揮している喜びの感情と、行動の中にある規律ある理性というものがある。ドミニクは、それを感じる。
ロークは身を屈めて、地面に落ちていた一枚の板を取り上げ、ポケットから鉛筆を取り出す。厚板の山に片足を乗せ、膝の上に先ほど拾い上げた板を置き、その板の上に何かを素早く書き込む。そうしながら、男に何やら説明している。男はうなずきながら、嬉しそうである。
ドミニクには、ふたりの会話は聞こえない。それでも、ロークとその男の関係の質はわかる。ロークとこの工事現場で働くすべての男たちとの関係の質はわかる。それは信頼できる上司への忠誠心と、同胞愛のような仲間意識がまざりあった奇妙な関係だ。ドミニクも、こうした言葉で表現されるのは、ついぞ聞いたことのないような種類の関係である。
ロークが説明をし終わった。何かを描きつけていた板を男に渡している。ロークと男は何事かに大笑いしている。それから、ロークはもどってきて、ドミニクの隣にまた腰掛ける。
「ローク、私はあなたとここに残りたい。残ることができるかぎりの年月を過ごしたい」
ロークはドミニクを、じっと見つめている。注意深く、ドミニクが更に言う言葉を待っている。
「ここに住みたいのよ、私」
ドミニクの声には、強固なダムに抗うような響きがある。無駄ながらもダムの流れに自分を押しつけようとするような響きがある。
「あなたが生きているようなやり方で、私も生きたい。私のお金には手をつけずに・・・私の財産なんか誰かにくれてやるわ。あなたが望むならばスティーヴン・マロリーでもいいし、トゥーイーの組織の何かにでもいいし、どこでも構わないわ。ここで家を構えるの・・・こんな風な家の一軒を・・・あなたのために私はその家を整えておく・・・笑わないでよ、私だってできるわ・・・料理もするし洗濯もする。床も磨く。で、あなたは建築を諦めるの」
ロークは笑わない。ドミニクが見たのは、ただ彼女の言うことに注意深く耳を傾けてはいるが、全く心を動かされることのない男の姿勢だ。
「ローク、わかって。お願いだから、わかって。世間の人たちが、あなたにしていることに私は耐えられない。これから、あなたにするであろうことにも私は耐えられない。あまりにも立派すぎるのよ・・・あなたも、あなたの建物も、あなたが建築について考えていることも。あなたは、こんなこと長くは続けていられないわ。もつはずがない。世間の連中がそうさせておかない。何かひどい類の災難に向かっているのよ、あなたは。他の結果は考えられない。建築は諦めて。何か他の小さい仕事について・・・採石場のような。私たちはほとんど何も持たないことにするの。何も与えるものはないことにするの。そうすれば、私たちは私たちのままで生きていける。私たちがわかっていることのために生きていける」
ロークは大きな声で笑う。その笑いには自分への思いやりがこめられているのをドミニクは感じる。ロークは、何とかドミニクの訴えを笑わないようにしたのだけれども、笑わざるをえなかったようだ。
「ドミニク」と、ロークが彼女の名前を発する調子にはドミニクの心に寄り添う響きがあった。だから、後に続くロークの言葉に素直に耳をすませることが、ドミニクにはできた。
「今、君の言ったことだけれども、少なくとも一瞬の間くらいは、僕にとっては魅惑的だったと言いたいところだけれども、あおいにくさま。もし僕が残酷な人間ならば、君の言葉を受け入れるかもしれない。君が今度は早く建築にもどってくれと僕に懇願するさまを見たいがためにね」
「そうね・・・おそらく私はそうするわね・・・」
「ワイナンドと結婚しろよ。彼と結婚したままでいろよ。その方がましだ。今、君が君自身にしていることに比べたらね」
「構わないかしら・・・もう少しここにいて話していても・・・さっきみたいなこと話すのではなくて・・・ただおしゃべりするの、すべてがうまく行っているみたいに・・・何年も続いた戦争のあいまの三十分ほどの休戦状態みたいに・・・ここにいる間、毎日あなたがしてきたことを話して。あなたが思い出したことを全部話して」
それから、ふたりは話した。空き家の玄関ポーチの階段が、大地も空も見えない高い空を飛んでいる最中の航空機であるかのように。ロークは、もう通りの向こうの工事現場に目をやることはなかった。
そうこうしてしばらく経ったあと、ロークは腕時計に視線を走らせて言った。
「あと一時間もしたら西部方面の汽車が出るよ。駅まで送るよ」
「駅までいっしょに歩いても、いいの?」
「いいさ」
ドミニクは立ち上がる。訊ねる。
「いつまで・・・なの、ローク?」
ロークの手が通りの向こうのあちこちを指し示す。
「君が、ここにあるこういうもの全てを嫌うのをやめるまで。それを恐れるのを止めるまで。そんなこと気にも留めないことを学ぶまで」
ふたりは駅まで歩く。ドミニクは、人気のない通りを行く自分の足音とロークの足音に耳をすませながら歩く。そうしながら、次々に通り過ぎる家々の壁をずっと眺めている。すがりついて触るように眺める。ドミニクは、この土地を好きになっていた。この土地のこの町やすべてのものを。
ふたりは、空き地を通り過ぎる。風がドミニクの脚に古い新聞を吹き寄せる。その新聞は彼女の脚にしつこくからみつく。まるで新聞に意識があるかのように。猫が飼い主に有無を言わせない感じでじゃれついてくるように。
ドミニクは思う。この町の何もかもが私には親密なものだわと。ドミニクはかがみこみ、その新聞を拾い上げる。取っておこうと、それを折りたたみ始める。
「何しているんだよ?」
「汽車の中で読もうと思って・・・」
ロークはドミニクから新聞をひったくり、クシャクシャに丸めて、雑草の向こうに放り投げる。ドミニクは何も言わない。ふたりは、さらに歩いていく。
電球がひとつだけ、誰もいない駅のプラットフォームの上でぶらさがっている。ふたりは待つ。ロークは、線路の向こうを見ながら立っている。そこから汽車が姿を現すはずだ。
すると、線路が揺れながら音をたてた。遠くから白い球形のヘッドライトが闇の中からほとばしるように現れる。こちらに接近してくるのではなくて、空中にじっととどまっているように見える。そうかと思えば、そのヘッドライトの球形がどんどん大きくなり、汽車が激しい速度で近づいてくる。
ロークはドミニクの方を向いていない。近づいてくる汽車に視線をあてている。汽車のヘッドライトの光線がロークにあたり、彼の影をプラットフォームに落とす。その影はプラットフォームの床の厚板に浮かび、すぐ消える。
一瞬の間だが、ヘッドライトのぎらいついた光を背景にしたロークの体の長身のまっすぐした線を、ドミニクは見る。列車の先頭にある機関車がふたりを通り過ぎ、あとに続く車両がガタガタ鳴りながら、速度を落としていく。
次から次へと回るように過ぎていく車窓をロークは見つめている。ドミニクにはロークの顔が見えない。ただ彼の頬(ほお)骨(ぼね)の輪郭が見えるだけだ。
列車が完全に駅に停止する。ロークはドミニクの方に向き直る。ふたりは握手もしない。言葉をかわすこともしない。直立して、一瞬の間だけ互いに対面するだけだ。まるで「気をつけ!」の号令をかけられたかのように。兵士の敬礼のような、ふたりの別れの挨拶。
ドミニクはスーツケースを取り上げ、列車に乗る。一分後、汽車は動き始めた。
(第3部18 超訳おわり)
(訳者コメント)
このセクションについては、もう読んでいただければ、アイン・ランドの作家としての非凡さがわかると思う。
田舎町の百貨店のビルの設計の仕事をしているローク。
マンハッタンの一流の建物を設計していたロークが、オハイオ州のクレイトンという小さな町の5階建てのビルを作っている。
ドミニクには、それが惨めに思えるが、ロークはそんな発想をするドミニクがわからない。
ロークは、どんな仕事にも全身全霊をかけるし、その合理的で誠実な仕事ぶりで、工事現場の作業員たちからも尊敬と信頼を得ている。
ロークは淡々と仕事をしつつ、ドミニクが真に強靭になる日を待っている。
田舎町だの世間だの、そんなことを気にしているドミニクが解放され自由な魂を獲得するのを。
20ヶ月ぶりに会ったのに、ロークはドミニクを、サッサと彼女の新たな闘争へと送り出す。
とてつもなく硬派な恋人たちの、つかの間の再会と別れ。
兵士が分かれるように、無言で、別々の道を行くロークとドミニク。
情景が生き生きと眼に浮かぶセクションである。
ちなみに、このオハイオ州クレイトンは、作者アイン・ランドの夫のフランク・オコーナーの生まれ故郷である。
1930年代のクレイトンは、上の画像のような町であった。
私が、このセクションを訳していたのは2002年の8月だった。
夏期休暇中であったので、Studio(ワンルーム)を、マンハッタンのイーストサイドの49丁目 のアパートメントハウスに3週間か4週間借りた。
当時は、まだそんなことができるくらいに、大学の仕事は多くなかった。
そのアパートの近くには国連ビルがあった。トランプタワーのコンドミニアムがあった。まさか、その高級タワーマンションのオーナーが、2017年にアメリカ大統領になるとは夢にも思っていなかった。
スーパーマーケットも近くにあるので、自炊しながら過ごして、この小説の翻訳作業と、秋の学会の発表準備をしていた。
あの頃のニューヨークは日本に比較すると涼しくて、避暑に来ている感覚だった。
あとで知って驚いたが、そのアパートメントハウスは、奇しくもアイン・ランドがニューヨークで夫とともに一時期住んでいた所だった。
まだThe Fountainheadを発表する前の時期だ。
部屋はどこだったのか、わからない。ひょっとしたら、私が借りた部屋だったかもしれない。
私は、マンハッタンの喧騒や、パトカーのサイレンの音を遠くに聴きながら、パソコンにせっせと訳文を入力していた。
このセクションを泣きながら翻訳していた。
49歳の夏だった。私にとっては至福の夏だった。
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