ワイナンドとのヨット航海を終えて、ドミニクはマンハッタンの自宅に帰ってきた。夫のピーター・キーティングが噛み突くよう聞いてくる。
「どうなったんだ?僕はストーンリッジの仕事ができるのか?」
ドミニクは居間に入ってきたところだった。玄関ドアを開けて待っていたキーティングは、ドミニクの後をついてくる。エレベーター係がドミニクの荷物を運びに入り、出て行く。ドミニクは手袋をはずしながら言う。
「ピーター、ストーンリッジの件は、あなたのものよ。あとのことは、ワイナンドさんがあなたに直接にお話しするそうよ。今夜、会いたいそうよ。八時半に。あの方のご自宅で」
「いったい、なんで?」
「あの方がお話しになるでしょう」
ドミニクは、はずした手袋を手のひらにピシャリピシャリとたたきつけている。これですべて終わったという小さなジェスチャーである。ある文章の最後に打たれた終止符のような動作だ。ドミニクは、部屋を出て行こうとする。キーティングが彼女の行く道をふさいで立つ。彼は言う。
「僕は、もうどうでもいいんだぞ。全く構わないんだ。君のやり方で、僕だってできるんだぞ。君は立派だねえ、ええ?・・・君たちは、トラックの運転手みたいなことをするんだな。君とあのゲイル・ワイナンド氏とやらは。上品さなんかクソ食らえ、だな。人の気持ちなんかどうでもいいっていうんだな。ふん、僕だってできるんだ、そんなことぐらい。僕は、君たちを利用してやる。利用して絞れるだけ絞ってやる・・・俺が気にするのはそれだけだ。どうだい、君はさぞかし嬉しいだろうよ。虫だって傷をつけられるのを拒否するんだ。限度ってものがあるんだ。どうだ、お楽しみが減ったかい?」
「ピーター、今の態度の方が、今までよりずっといいわ。喜ばしいわ」
しかし、晩になってワイナンドの書斎に通されたときには、キーティングは、すでにこの態度を保持することができなくなっていた。
ゲイル・ワイナンドの自宅に招かれるという晴れがましい畏れ多さに、キーティングは圧倒されてしまっている。ワイナンドの書斎に入り、彼の机に面した椅子に座るまでに、キーティングはすっかり、重圧感以外の何も感じなくなっている。地に足がついていない気分になっている。自分の足がこの柔らかいカーペットにちゃんと足跡をつけているのだろうかと、いぶかしむ気持ちになるくらいに。もしくは、深海を歩く潜水夫の鉛のように、重い足取りの気分である。
「キーティングさん、決して口に出されたり、なされたりする必要がないとしても、私はあなたに申し上げておかねばなりません」
ワイナンドは丁寧な態度で話を切り出す。キーティングは、人間がこれほど意識的に抑制して言葉を選んで話すのを聞いたことがない。
キーティングは思う。なんだか奇妙だな。ワイナンドは、自分の放つ声の上に、自分のこぶしを置いて、話す言葉の音節のひとつひとつを監督し目配りを効かせているかのような話し方をしているぞ・・・
「私がこれからお話しすることは、何をお話しするにしても、あなたのお気に障(さわ)るでしょう。ですから、私は手短にお話しさせていただきます。私は、あなたの奥様と結婚いたします。奥様は、明日離婚の手続きのためにリノに向かいます。ここに、ストーンリッジの契約書があります。私は、すでに署名をすませました。ここに添付(てんぷ)されているのは、二五万ドルの小切手です。これは、契約上あなたの仕事に支払われるものとは別のものです。私といたしましては、この件についてあなたがいっさい何もおっしゃらないで下さるのならば、ありがたく思います。もっと少ない額でも、あなたのご同意はいただけるものと、私にはわかっておりますが、私は議論はしたくありません。この件に関して交換条件を云々するのは、耐え難いことでしょう。ですから、お願いいたします。この小切手を受け取っていただきたいのです。これでこの件に関しては片がついたということにしていただきたいのです」
ワイナンドは、机越しにキーティングに向かって契約書を広げる。契約書の初めのページに、薄い青色の長方形をした小切手がクリップで留められている。机のスタンドの光を受けて、そのクリップが銀色にきらめいている。
キーティングの手はその小切手に伸びない。彼は言う。言葉を出すのに、彼のあごがぎこちなく動く。
「それは必要ありません。あなたは何も提供しなくても、僕の同意は得られます」
キーティングは、ワイナンドの顔に驚きの表情が浮かぶのを見る・・・それは、ほとんど優しさといってもいいような表情だ。
「必要ないのですか?ストーンリッジの方も必要ありませんか?」
「ストーンリッジは欲しいんだよ!」
キーティングの手が上がり、小切手をひっつかむ。
「全部欲しいんだよ!なんでそんな馬鹿なことが言えるんだ?俺が、そんなこと気にするものか!」
ワイナンドは立ち上がる。声に安堵と、そして後悔を漂わせながら、彼は言う。
「結構です、キーティングさん。ほんの一瞬、あなたは御自分の結婚を正当なものになさってしまった。そう、今までのあなた方の結婚のままにしておけばいいのです。ご足労(そくろう)、ありがとうございました。おやすみなさい」
キーティングは、その夜は自宅に帰らなかった。彼の新しく雇った設計技師で親友のニール・デュモンのアパートに歩いて行った。
ニール・デュモンは、ひょろりと背の高い、貧血症気味の社交界の花形の青年である。あまりに多くの有名な祖先がいるという重荷に肩をすぼめているような青年である。彼は設計技師として優秀ではなかった。しかし、多くの人脈を持っていた。仕事場ではニール・デュモンはキーティングに対して卑屈だった。仕事が終わったあとでは、キーティングの方が彼に媚(こび)へつらっていた。
デュモンは在宅していた。ふたりは、ゴードン・プレスコットとヴィンセント・ノウルトンを呼び出した。その夜は乱痴気騒ぎをして過ごすことに決めて街にくり出した。
しかし、キーティングはあまり飲めなかった。でもすべての支払いを彼は請け負った。必要もないのに、彼は支払った。自分が支払えるものは何でも支払おうとやっきになっているように見えた。法外なチップを出しまくっていた。やたら、こう訊ねまくるのだった。
「俺たち、友だちだよな・・・な、俺たち友だちだよな?・・・な、そうだろう?」
キーティングは、自分の周囲に乱立するグラスを眺める。グラスに注がれた酒の中で踊る光を見つめる。いっしょにいる男たち三人の目を見つめる。その男たちの目は焦点がぼやけて曇っている。しかし、時折、満足げにその目はキーティングに向けられる。その目は、柔らかく心地よい。
その晩、ドミニクは荷物を整理して部屋に置いたままにして、スティーヴン・マロリーに会いに行った。
ドミニクは、この二十ヶ月全くロークには会っていない。しかし、たまにマロリーのところには立ち寄っていた。
この訪問は、ドミニクにとっては、彼女が語ろうとしない戦いの小休止なのだ。マロリーには、それがわかる。ドミニクはここに来たいわけではない。たまに自分と夜の時間を過ごすことは、ドミニクにとっては、彼女の生活から切り離されたひとときを持つことを意味する。マロリーには、それもよくわかる。
ドミニクとマロリーは静かに話す。歳月を経た夫婦のように話す。同志のような調子で話す。マロリーはかつてはドミニクの体を所有していたが、今ではその驚きも当の昔に消耗し、今は何の葛藤も問題もない親密さのみが、ふたりの間に残っている・・・そんな調子で、ふたりは話す。
もちろんマロリーはドミニクに触れたことはない。しかし、ドミニクの彫像を作ったという、ある種のより深い所有者として、彼はドミニクを所有していた。あの彫像の制作という経験が与えたお互いに対するある特別な感情を、ドミニクもマロリーも失うことがなかった。
マロリーは、玄関のドアを開ける。そこにドミニクを見て、微笑む。
「やあ、ドミニク」
「こんばんは、スティーヴ。お邪魔かしら?」
「ううん、お入りよ」
マロリーは古いビルに、間のぬけたようにだだっ広い一部屋を持っていた。ドミニクは最後にマロリーの部屋を訪れて以来、この部屋に起きた変化に気がついている。部屋には笑っているような雰囲気がある。あまりに長く留められていた息が吐き出されたかのような解放感が漂っている。
ドミニクは中古の家具に目をとめる。めったにない織り方の、感覚を喜ばせるような鮮やかな色彩のオリエンタルな絨毯(じゅうたん)を見る。翡翠(ひすい)でできた灰皿と、どこかの古い遺跡から掘り出された彫刻のいくつかの断片も見る。みな、マロリーが欲しがっていたものばかりだ。ワイナンドというパトロンが急についたので、獲得できたものばかりだ。
これらの物が陽気によせ集まっている部屋の上方にある壁は奇妙にむき出しに見える。なぜならば、マロリーは絵画などを壁に飾ることがないからである。ただ、一枚のスケッチだけが彼の部屋の壁にかかっている。あのストッダード殿堂の完成予想図の原画だ。
ドミニクは、ゆっくりと部屋を見回す。あらゆるものに目を留めて、それがそこにある理由に気がつく。マロリーはふたつの椅子を暖炉のそばまで足で蹴(け)りながら運んで来る。ふたりは、そこに腰掛ける。暖炉の火をはさんで向かいあう。
マロリーが、あっさりと言う。
「オハイオのクレイトン」
「仕事は?」
「ジェイナーズ百貨店ビル。五階建て。大通り沿いに建てるんだ」
「もうどれぐらい、そこにいるのかしら」
「一ヶ月くらいかな」
ドミニクがやって来たときにはいつでも、ドミニクが訊ねなくても、マロリーはロークの近況について答える。聞かれなくても答える。マロリーの単純明快な気安さのおかげで、ドミニクはいちいち釈明する必要もなかったし、何かのふりをしないでいられた。マロリーの態度のおかげで、いちいち申し立てなどしないですんだ。
「スティーヴ、明日、私は旅に出るの」
「長いの?」
「六週間。リノに行くの」
「いいじゃない」
「戻って来たら私が何をするかは、今は言わないでおくわ。あなたは喜んではくれそうにないから」
「喜ぶようにするよ・・・もし、あんたがそうしたいのなら、そうすればいいじゃない」
「それは、私がしたいことなの」
暖炉には、一本の長い丸太が、炭の山の上で、まだ丸太の形のままにある。炭の山は小さな四角形の市松模様になっている。炎も出さずに炭は燃えている。灯りのついた窓が一続きあるような形で燃えている。マロリーは炭の中に丸太を新たに放り込む。その丸太は、灯りのついた窓の一続きのような墨の山をふたつに割り、火花を送る。その火花は暖炉の中の、すすで汚れた煉瓦にぶつかってはじける。
マロリーは自分の仕事について話す。ドミニクはじっと聞いている。ほんの短い間ながら、故郷の言葉に耳をすませる移民のように、じっと耳をすませている。
しばらくして、ドミニクは訊ねる。
「スティーヴ、あの人は元気?」
「いつもと同じだよ。あの人は変わらない。わかるだろう?」
マロリーは暖炉の中の丸太を蹴る。炭が数個ばかり転げ落ちる。マロリーは、落ちた炭を足を使って暖炉の中にもどす。それからこう言う。
「俺さ、よく思うんだ。永遠というか不滅ってものに到達したのは、あの人だけなんじゃないかって。名前が残るっていう意味じゃないよ。あの人が死なないっていう意味じゃない。でも、あの人は不滅ってものを生きている。不滅という概念がほんとうに意味するものなんだ、あの人は。俺はそう思う。世間の連中は永遠でいたいと憧れるよね。だけど、そういう連中は刻々と過ぎる毎日ごとに死ぬ。そういう連中に会うと、もう前に会ったときとは違っている。それぞれに与えられた時間の中で、連中は自分たちの一部を殺していく。彼らは変節する。彼らは否定する。彼らは矛盾する・・・連中は、それを成長と呼ぶ。最後になると、残っているものが何もなくなる。変節されず、裏切られていないものなど残っていない。まるで、もともとひとつの実在なんかなかったみたいだ。そもそも、ほんの一瞬たりとも、連中が持ったことのない変わらなさ、不滅ってものを、連中が持てると期待するほうがおかしいんだけどさ。でも、ハワードは・・・あの人は永遠に存在している。俺にはそれが想像できる」
ドミニクは、じっと暖炉の火を見つめている。その火は、ドミニクの顔に生命ではないけれども、生命に似た何かを投げかけている。しばらくしてから、マロリーが問う。
「俺が最近ここに買い込んだものだけど、どう思う?」
「好きだわ、こういうの。あなたの手に入ってよかったわ」
「最後にあんたに会ってから、俺に何が起きたか言ってなかったよね。もうほんと信じられないんだけど、ゲイル・ワイナンドがさ・・・」
「ええ、そのことなら知っているわ」
「ほんと?よりにもよってワイナンドとはねえ・・・いったいどうやって俺のことを知ったのかなあ?」
「そのわけも知っているわ。戻ったら、話してあげる」
「あいつったら、すごく見る目があるんだ。あんな奴にしては驚くほどだよ。一番いいものを買ってくれたよ」
「ええ、あの人ならそうでしょうね」
それから、ドミニクは話題を変えるとも何とも言わずに、質問してくる。しかし、マロリーには、ドミニクがワイナンドのことを言っているのではないことが、わかっている。
「スティーヴ、あの人、私のこと何か訊ねた?」
「ううん」
「私がここに来ていることを、あなたはあの人に話した?」
「ううん」
「それは・・・私のため?」
「違う。あの人のため」
マロリーは、ドミニクが知りたいと思っていたことは、彼女に全て言った。自分が、ちゃんとそうしたことが、マロリーにはわかる。なんとなれば、ドミニクが立ち上がって、こう言ったから。
「お茶を入れましょう。お茶の葉とかいろいろ、どこに置いてあるのかしら?きちんと整理してあげる」
(第3部16 超訳おわり)
(訳者コメント)
アッサリと離婚が決まったキーティングとドミニク。
ワイナンドは、いくらなんでも、ここまで屈辱的な扱いを受けるキーティングが何かアクションを起こすかもしれないと思うので、非常に丁重にキーティングに接する。
あえて事務的にことを進めようとする。
不動産開発の分譲地の住宅設計の仕事の署名済み契約書と同時に、「慰謝料」とし小切手も渡す。
25万ドル(おそらく現在の日本円になおしたら5億円くらいか?)とは、法外な額だ。精一杯のワイナンドのキーティングへの誠意だ。
キーティングは、妻を差し出す謝礼金というか慰謝料を受け取ることは拒否するような姿勢をとった。
しかし、その後すぐに、やはり慰謝料小切手をつかんだ。
キーティングにとっては、ワイナンドの悪辣さに対抗できるぐらい自分も悪くなれるんだぞ!というデモンストレーションであった。
ほんとうは、そこで無茶苦茶に暴れてワイナンドを叩きのめすべきだったが。
たとえ、叩きのめされるのは自分であって、惨めさは倍増しても、それはオスとオスが、メスを奪って戦って片方が負けるだけのことなので、シンプルなことだ。
でも、キーティングは金を選んだ。金を選ぶという形式をとって、闘争の場から逃げた。
そうすることで、キーティングはドミニクとの結婚を、あらためて無意味にした。
小利口に小賢しく頭が回ると、計算ばかりで、素朴に行動することができなくなるらしい。
一方、ドミニクはキーティングの家での最後の晩に彫刻家のマロリーの住居を訪問する。
ここのドミニクとマロリーのシーンは素晴らしいと思う。
たまにマロリーの住居に行くドミニク。
ただロークの消息を知るためにのみ。
それを察して、ドミニクから訊ねられずとも、ロークがしている建築の仕事について語るマロリー。
ドミニクとマロリーの絆。
マロリーとロークの絆。
不在のロークの大きさ。
ドミニクもマロリーも心にあるのはロークのことだ。
ドミニクとマロリーふたりが共通して愛するロークという人間の不滅性。
マロリーの部屋には陽気な安堵の雰囲気が満ちている。
ゲイル・ワイナンドがマロリーの作品を購入してくれたので、マロリーは彫像制作に集中できる。
その幸福感が、初冬のニューヨークのマロリーの部屋の暖炉の火を一層に暖かなもののしている。
マロリーの幸福感を傷つけたくないドミニクは、離婚のことも、ワイナンドとの再婚のことも、マロリーに話さない。
冷淡に見えるドミニクの繊細な優しさ。
アイン・ランドは、このようなシーンを非常にうまく描く。
情感の豊かなシーンである。
私は外国の小説を読んでいて、それが外国の小説だと意識せずに読んだことは、このアイン・ランドのThe Fountainheadを読むまで、一度も経験しなかった。
それ以後も一度もない!
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