第3部(12) 妻をワイナンドに売るキーティング

ゲイル・ワイナンドは行きつけの美術品業者に電話した。スティーヴン・マロリーの作品を個人的に見ることができるように手配してくれと依頼した。マロリーに直接会うことは拒否した。彼は、自分が好む作品の作家に会うことはいっさいしない。

依頼を受けた美術品業者は大急ぎで任務を遂行した。ワイナンドは、彼が見ることのできた作品のうち五つを購入した。美術品仲買人が期待する以上の金額を支払った。仲買人はワイナンドに訊ねた。

「マロリー氏が知りたがると思うのですが、どういう経緯(いきさつ)で、彼の作品に関心をお持ちになりましたか?」

「彼の作品のうちのひとつを目にしたのでね」

「どんな作品ですか?」

「秘密だ」

トゥーイーは、ドミニクとの面談後、ワイナンドからの電話があるものと期待していた。ワイナンドは電話をかけてこなかった。しかし、数日後、地元ニュース編集室でトィーイーに偶然会ったとき、ワイナンドは大きな声で彼に訊ねた。

「トゥーイー君、実に多くの人間が君を殺そうと試みたのではないかね?君が彼らの名前を覚えていないという理由で」

トゥーイーは小さく笑って、答えた。

「確かに、実に多くの人間が私を殺したがっているでしょうね」

「ほう、君がそんな大物とは知らなかったよ」

ワイナンドは、そう言い捨て歩き去って行った。

ピーター・キーティングはレストランの贅沢なつくりを見つめている。そこは、マンハッタンでも最も客を選ぶ店である。最も値の張る店でもある。キーティングはご満悦(まんえつ)だ。ゲイル・ワイナンドの客として、自分がこんな贅沢な店にいるのだという誇らしい思いを噛みしめている。

キーティングは、テーブル越しに座っているワイナンドの礼儀しい優雅な姿をじっと見つめようとはしない。しかし、この夕食をこのような公的な場所に設定したワイナンドを、キーティングは祝福したい気分だ。

レストランにいる人々がワイナンドを目にして唖然(あぜん)としている。露骨ではなく控えめに、実際には驚きを隠しながらも唖然としている。人々の注意は、ワイナンドのテーブルについているふたりの客にも注がれている。

ドミニクは、ワイナンドとキーティングの間に座っている。首まで高い襟のついた白いシルクの長袖のドレスを身につけている。ほとんど修道女の格好である。しかし、その修道女のようなドレスは、イヴニング・ガウンとしては破廉恥なほど似つかわしくないことによって、イヴニング・ガウンとして素晴らしい効果を発揮している。この晩のドミニクは、宝石はいっさい身につけていなかった。ドミニクの金髪はフードのように見える。ゆったりとした白いシルクが、ドミニクの体が動くたびに鋭角的な動きを見せる。彼女の冷たい無垢な所作(しょさ)に応じて、からだの線が明らかになる。まるで公に提供された生け贄の体だ。その体をどこかに隠したり、欲望の対象にすることはできない。そのようなことを超越している体なのだから、そんなことはできないのだ。

キーティングは、その晩のドミニクを特に魅力的とは思わなかったが、ワイナンドはいたくその姿に感動している。そのことにキーティングは気づいていた。

離れた席から、誰かが彼らのテーブルの方向を絶えず凝視していた。長身で太った人物である。その図体のでかい人物が立ち上がった。それでキーティングは、「アメリカ建築家協会」会長のラルストン・ホルクウムが急ぎ足で彼らのテーブルに近づいてくるのに気がついた。

「ピーター、君に会えて実に嬉しいよ」

ホルクウムはとどろくような大声で言い、キーティングの手をとり握手した。それからドミニクには会釈をした。しかし、あからさまにワイナンドは無視している。

「いったい、君はどこに隠れていた?どうして僕たちは会えなかったのだろうねえ?」と、ホルクウムは言っている。たった三日前に昼食をともにしたばかりなのに。

ワイナンドは立ち上がる。少し体を前に傾け礼儀正しく挨拶する姿勢で立っている。キーティングはためらったが、それでもはっきりしぶしぶと、ホルクウムをワイナンドに紹介する。

「ゲイル・ワイナンドさんです。こちら、ホルクウムさんです。『アメリカ建築家協会』の会長を務めておいでです」

「まさか、あのゲイル・ワイナンドさんですかな?」

「ホルクウムさん、もしあなたが咳止めドロップのスミス兄弟社のひとりを実物で見かけることがありましたなら、すぐ、ああ、あれは、とおわかりになるのではないでしょうか?私の顔写真は、まことに大っぴらにあちこちで見かけますよ」

ホルクウムは、二、三の好意的な一般的なことを話し、さっさと退散した。ワイナンドは、愛情深く微笑む。

「キーティングさん、ホルクウム氏が建築家だからといって、あの方を私に紹介するのを怖がる必要はありません」

「怖がるって、僕が?」

「必要のないことです。もう決まっていることなのですから。奥様から、私がストーンリッジ開発はあなたに任せたということはお聞きになりませんでしたか?」

「僕は・・・いえ、妻は言いませんでした・・・知りませんでした・・・僕は、全く期待していなかったので・・・こんなに早くとは・・・あの・・・あなたは、いつもこうやって人を驚かすのですか?・・・こんなふうに?」

「可能なときはいつでもね」

「僕は、この名誉に値するために最善を尽くします。あなたのご期待に沿うように努力いたします、ワイナンドさん」

「それは信じております、キーティングさん」

ワイナンドは、今夜はドミニクにほとんど何も語りかけていない。彼の注意は、もっぱらキーティングに集中している。

「ワイナンドさん、私が過去にしてまいりました仕事は好評を得てきました。ストーンリッジ開発の仕事を僕の最高作にいたします」

「キーティングさん、あなたの今までなさってきたお仕事の素晴らしいリストを思えば、それは確かなことでしょう」

「僕がしてきた仕事が、あなたの御関心を引くほど十分に重要なものとは、夢にも思っておりませんでした」

「しかし、私はあなたのお仕事については、よく存じ上げております。あのコスモ=スロトニック・ビル。あれなどは全くミケランジェロですな」

キーティングの顔に信じがたいような喜びが広がる。彼は、ワイナンドが芸術に関してもなかなかの権威であり、このような比較を軽々とするような人物ではないことを知っていたからだ。

「あのプルデンシャル銀行ビルなどは、イタリアルネサンスの建築家パラディオそのものですよ。スロットターン百貨店ビルは、あの寺院建築で知られる英国の建築家クリストファー・レンのぱくりだ」

キーティングの顔色が変わっている。

「私はひとりの建築家を雇って、古今東西の輝かしい芸術家の一団をも手に入れることになるわけだ!全く、これほどの儲けものはありません。」

キーティングは何とか微笑は絶やさないでいるが、顔は強張(こわば)っている。彼はやっと言う。

「ワイナンドさん、かねがねお噂に聞いておりました。あなたの素晴らしいユーモアのセンスについては」

「私の表現方法についても、噂で聞いたことがおありになりますか?」

「どういうことでしょうか?」

ワイナンドは、椅子を半分ほど回し、ドミニクを見つめる。まるで、生きていない対象物か静物か何かを吟味しているかのように。

「あなたの奥様は、実に見事なお体をしておられますね、キーティングさん。奥様の肩はあまりにほっそりとしておられる。しかし、それが奥様のお体の他の部分と実に素晴らしく釣り合いがとれている。奥様の脚は長すぎるが、上等なヨットに見出せるような優雅な線を奥様に与えている。奥様の胸も素晴らしく美しい。そうお思いになりませんか、あなたも?」

「ワイナンドさん、建築家というものは無粋(ぶすい)な商売でして・・・あなたのような、きわめて高度に洗練された方のお話にはついていけません」

「キーティングさん、私の申し上げることがおわかりになりませんか?」

「あなたは、完璧な紳士でらっしゃる。あなたが僕をからかうはずなどありませんよね」

「それこそ、私が決してする気のないことです。からかうなどということは」

「ワイナンドさん、僕たちがここで妻について話しあわなければならないなどと思うほど、僕は自惚れが強くありません」

「そんなことはないでしょう、キーティングさん。人間が所有している物、もしくは、いずれ所有することになる物について、たとえ共有物にせよ、それについて話し合うことに不都合なことはありません」

「ワイナンドさん、僕には・・・僕にはわかりかねますが」

「もっとはっきり申し上げましょうか?」

「いや、僕は・・・」

「必要ないですか?では、ストーンリッジ開発の件は、なかったものといたしましょうか?」

「いえ、ストーンリッジ開発のことは話しましょう!僕は・・・」

「キーティングさん、だからその件について我々は話し合っているのです」

キーティングは、自分たちの周囲の光景を眺める。このような場所で、妻を与えることを交換に仕事の受注を勝ち取るということが、こうもあからさまにむきだしに話されていいはずはない。贅をつくした最高級レストランの細心の注意を払った豪華な雰囲気が、ワイナンドの残酷なほどに率直な言動をことさら怪物的なものにしている。

「ワイナンドさん、ご冗談をおっしゃっておられますね」

「キーティングさん、今度は私が感心する番ですよ、あなたのユーモアのセンスには」

「こんなことは・・・このようなことが行われるものではないです・・・」

「キーティングさん、あなたは、こう言いたいわけです。こういうことはいつでも行われている。しかし、口に出してはいけないのだと」

「僕は、そんなこと考えていなかったので・・・」

「あなたは、ここにいらっしゃる前に、そのことについては考えたでしょう。あなたは、そのことについて全く構わないはずだ。私があなたにとって非常に不愉快にふるまっていることは、大いに認めます。今の私は、人に施(ほどこ)しをする際のルールをみな破っています。正直であるということは実に残酷なものです」

「お願いです、ワイナンドさん。この件はこれで・・・話すのをやめましょう。僕にはわかりかねますので、その・・・どうふるまうべきかが」

「簡単なことですよ。あなたは私をひっぱたくべきだったのです」

ワイナンドの言葉を聞いて、キーティングはクスクス笑う。

「キーティングさん、何分も前に、あなたは私を殴るべきだったのです。仕事を発注してやるから、お前の妻を貸せと言うような男はね」

キーティングは、自分の手のひらがじっとり汗ばんでいるのに気がつく。自分が、膝の上に広げたナプキンにしがみついていることで体重を支えようとしていることに気がつく。

ワイナンドとドミニクは食事をしている。ゆっくりと優雅に。まるでキーティングとは別のテーブルについているかのように。

キーティングは、ふたりとも人間の肉体をしていないと思う。何かが消滅していた。レストランのクリスタルの什器(じゅうき)の光がエックス線の輝きに変わっていた。その光は、そこにいる人間たちを貫いて食いつくし、骨までどころか、もっと深く浸透したらしい。だから、ワイナンドとドミニクは魂だけとなって、夕食のテーブルについている。晩餐会の正装の中に留められた魂は、媒介的な肉の形がないので、魂の形がむきだしに露になっている。だから、ぎょっとさせられるのだ。そう、ぎょっとさせられるのだ。

なぜならば、ワイナンドとドミニクの魂に他人を痛めつけ苦しめる拷問者を見ることを予期していたのに、キーティングがワイナンドとドミニクの魂の中に見たのは、偉大なる無垢だったのだから。悪意など、邪気など、彼らの魂には、みじんもなかったのだから。

キーティングは思う。彼らからは僕の魂はどう見えるのだろうか。僕の物質的形態がそぎ落とされてしまったら、僕のこの衣服の中に何が残るのだろうか。それは、このふたりにはどう見えるのだろうか。

「おいやですか?キーティングさん、あなたは御自分の奥様を私に売るようなことはなさりたくない?もちろん、そんなことなさる必要はありません。そんなことはしたくないと、おっしゃってくださればいいのです。私は構いません。あそこにラルストン・ホルクウムさんがおられます。あなたと同じくらいうまく、ストーンリッジ開発の仕事ができますよ、あの方は」

「ワイナンドさん、あなたのおっしゃっていることの意味がわかりません」キーティングは小さな声で言う。彼の目は、サラダ皿に乗っているトマトを使った肉汁ゼリーに注がれている。そのゼリーは柔らかくプルプル震えている。彼の気分が悪くなる。

キーティングは、何とか何か話さなければならないと思うが、言葉が出ない。サラダが目前にある限りは言葉が出ない。この恐怖は、このサラダの皿から生じているのであって、テーブル越しに座っているこの豪勢な華麗なる怪物から発するものではないのだ。このテーブル以外のこのレストランは、どこもかしこも暖かく安全じゃないか。キーティングは、前のめりによろめいた。テーブルからサラダ皿が払われ、床に落ちた。

キーティングは、何やら謝るような言葉を発した。レストランの給仕らしき誰かの影がさっとテーブルに近寄ってきた。丁寧にわびる声がして、カーペットに落ちたサラダと皿は、すみやかに片付けられた。

「ワイナンドさん、なぜ、こんなことをなさるんですか?」

「ピーター、ワイナンドさんはあなたを苦しめようとして、こうなさっているのではないわ。この方は、私のために、こうなさっているのです。私がどれくらい受け止めることができるか確かめるために」

「奥様、確かにそうなのです。部分的には正しいのです。しかし、大方は、私自身を正当化するためなのです」

「誰の目から見て、でしょうか?」

「あなたの目から見て、です。そして私自身の目から見て、でしょう」

「そんな必要がありまして、あなたに?」

「時々はね。『バナー』は軽蔑すべき新聞でしょう?他人の中で名誉というものがどのように機能するのかを観察することによって大いに面白がることができる立場を保持するという特権を獲得するために、私はちゃんと支払いをしてきました。私の名誉を汚すことで、支払ってきたのです」

キーティングは思う。僕の衣服の中にはもう何もない。なぜならば、このふたりはもう僕のことなど気にもとめていないし、目にもはいっていないから。だから、僕はもう安全だ。このテーブルの僕の席にはもう誰もすわっていない。僕はここにはいない。

しかし、キーティングはなぜだろうかと考える。遠く離れた、もうどうでもいいと思えるような距離からワイナンドとドミニクを眺めると、このふたりはお互いを静かに見つめあっている。敵同士ではなく、ともにひとりの人間を苦しめた者どうしではなく、まるで同胞のように仲間のように見つめあっている。なぜ?と、キーティングは思う。

(第3部12 超訳おわり)

(訳者コメント)

キーティングは、お体裁ばかりの上品ぶった徹底的に不正直な類の上流階級の人々を顧客として建築家をしてきた。

あくまでも事実や真実ではなく、顧客が言って欲しい事を言って仕事を受注してきた。

顧客は教養があり趣味も素晴らしいようなフリをしているが、顧客たちが求めるのは仲間内に贅沢で金がかかっていると認められるような類の屋敷が欲しいだけのことで、キーティングに依頼する。

キーティングは、適当に先人のデザインをパクって、それらしく見せればいいのだ。

顧客も顧客の友人知人も、有名建築家のピーター・キーティングに設計されたということだけで満足し、設計された建築物そのものの質と機能性を検証できる見識はないから、それでいい。

しかし、まれにゲイル・ワイナンドのような目のある人物もいる。

どの建築家もろくでもないし、先人のデザインをパクっているだけであり、耳を傾注すべきようなことなど一言も話せないとわかっている人物が。

このような人物に対してはキーティングは手も足も出ない。

自分の心では直視せずに曖昧に誤魔化していたこと=妻のドミニクをゲイル・ワイナンドに与えて、その交換に大規模住宅開発の設計建築担当の仕事を受注することを、ワイナンドはむき出しにあからさまに口に出す。

キーティングはドミニクを本当に愛しているわけではない。

ドミニクは彼の虚栄心を満たす装飾品である。

それも本気で大事にしている装飾品でもない。

だから、大不況期の仕事がない時期に、ドミニクをワイナンドに使用させることと交換に仕事を得ることに抵抗など感じない。

キーティングは、自分の行為のとんでもなさを自覚していない。

キーティングにとっては他人は便利に使える道具であればいい。

しかし、そのことをキーティング自身は自覚していない。

自己把握力ゼロ。

ただ、こういうことが他人に知られるのは体裁が悪いということはわかっている。

でも、こういうことは世間ではよくあることで、どういうことはないと思っている。

しかし、それが明確な言葉でそのままにワイナンドによって表現されると、キーティングはギョッとする。

あからさまに事実を指摘せずに、糖衣錠の言葉で飾り立てて誤魔化す生き方しかしてこなかったので。

そもそも、トゥーイーが話を持って来た時点で怒り拒否するべきことであるのに、実に鈍感なクズである、キーティングは。

しかし、このような人物は決して少なくないのではないか?

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