エルスワース・トゥーイーがやってくる。
キーティングは、いそいそと彼の訪問を迎える準備をしている。マッチ一本とかタバコの吸殻がひとつくらいしかない灰皿を空にする。そのへんに置いてあった新聞を集める。必要もないのに暖炉の火に薪(まき)をくべる。部屋の照明器具でついてないもののスイッチをつける。映画音楽の一節を口笛で吹いたりしながら。
玄関のベルが鳴ったとき、彼は走って行ってドアを開けた。トゥーイーは居間に招かれながら、言う。
「なんて素晴らしいことでしょうねえ。温かい火があって、君たち二人だけ。こんばんは、ドミニク。お邪魔じゃありませんか」
「こんばんは、エルスワース」
キーティングは、暖炉の火に向かって椅子を押しながら、言う。
「あなたが邪魔だなんて、ありえないことです。あなたにお会いできてどんなに嬉しいか言葉では言えないくらいですよ。どうぞ、どうぞ、おかけください、エルスワース。何をお飲みになります?電話であなたの声を聞いたときには、僕は飛び上がって、嬉しくて子犬みたいにキャンキャン声をたてたくなりましたよ」
「喜んでくださって、まことに嬉しいですが、しっぽまで振らないで下さいよ。飲み物は結構です、お構いなく。ドミニク、いかがお過ごしでしたかな?」
「一年前と同じです」
「でも、二年前とは違うでしょう?」
「ええ、違います」
「二年前の今頃って、僕たち何をしていたのかな?」
キーティングがのんびりと訊ねる。トゥーイーが答える。
「結婚していませんでしたね、君たちは。有史以前の頃ですね。ええと・・・あの頃何が起きていたか?そう、ストッダード殿堂が完成しかけていましたね」
「ああ、あれか」と、キーティング。
「君の友人のハワード・ロークに関して何か耳にしましたか・・・ピーター?」
「いいえ。一年かそこらも、もたなかったんじゃないですか、さすがの彼も今度はおしまいですよ」
「そうですね、私もそう思います・・・ところで、ピーター、君は何をしていたのですか?」
「特に何も・・・ああ、ちょうど例の『胆力ある胆石』を読み終えたばかりです」
「よかったですか?」
「はい!実に重要な作品だと思いますよ、あれは。だって、自由意志なんてものはないってことは本当ですからねえ。我々は、今の我々自身をどうすることもできないし、我々がすることも変えることもできません。我々のせいではないですよ。誰も責めたり非難したりはできませんよ。欠点というものは、我々の背景というか、環境というか・・・生物学的な条件から生じるのですから。たとえば、自分がどれほど優れていようと、それは自分の業績でも何でもないです・・・たまたま生物学的に幸運だったというだけのことですよ。誰かが腐敗しきっていても、誰もその人間を罰することなどできません・・・そいつは運が悪かったにすぎないのだから」
キーティングは、なにかに反抗するように話している。小説に関する議論にはそぐわない激しさで話している。今の彼は、トゥーイーを見ているわけでもないし、ドミニクを見ているわけでもなく、部屋のどこかに向かって話している。その部屋の中にはいない誰かに向かって話している。
「ピーター、君は全く実に正しいです。論理的に言えば、堕落し腐敗している人々を罰すると言うこと自体、我々は考えるべきではないのです。彼らは、ただ不運で能力に恵まれなかっただけですからね。自分自身に責任のない落ち度に苦しんだのですからね。なんらかの補償が彼らには必要ですよ・・・もっと、こう報酬のような補償がね」
「そう、ほんとうに、そうですね!それこそ理にかなっていますね!」
「そして、まさに・・・」と、トゥーイーが言いかけたとき、ドミニクが口を挟(さしはさ)んだ。
「エルスワース、『バナー』をお望みのままにしていらっしゃいますね?」
「何のことですか?」
「『胆力ある胆石』のことです」
「ああ。いや、まだそうできているとは言えませんが。まだまだです。いつでも、その・・・想定外のことが起きますからね」
キーティングが不思議そうに言う。
「ふたりとも、何の話をしているの?」
「個人的な噂話ですよ」
トゥーイーは、そう答えながら、両手を暖炉の火にかざし、指をもて遊ぶように曲げたり伸ばしたりしている。
「ところで、ピーター、例のストーンリッジ開発の件には対処していますか?」
「対処なんてできないですよ、もう!」
「どうかしましたか?」
「どうかしたなんてもんじゃありませんよ。ワイナンドに関してはあなたの方が詳しいでしょう。今のご時世に、あんなプロジェクトを立ち上げるなんて。まるで砂漠に降りた天恵でしょう。誰だって我も我もと、あのいまいましいワイナンド詣(もう)でをしますよ!」
「ワイナンド氏がどうかしましたか?」
「エルスワース、とぼけないで下さいよ!言うまでもなく、もし他の誰かならば、とうの昔に僕はいつものように設計料を稼いでいますよ。いつも客の方から頼みに来ていましたからね。僕は自分から売り込む必要はいっさいなかった。なのに、ワイナンドときたら!特に僕のような建築家が、わざわざ自分にへつらってきたのに。うちの事務所とよそをちゃんと比較してみればいいのに。あのゲイル・ワイナンドときたら僕と会おうともしない!建築家に会えばアレルギーが出るとでも思っているのですかねえ!あいつは、どの建築家にも会おうとしませんよ」
「じゃあ、君は試みてはみたのですね?」
「ああ、もう言わないで下さいよ。思い出すだけでも気分が悪くなります。300ドルは使いましたよ、ワイナンドに会わせてくれるって言うありとあらゆる類の下らない連中のご機嫌をとるために。もう、食わせたり飲ませたり。結局、いつも二日酔いになるだけに終わりました。バチカンの法王に会う方が、よほど簡単なんじゃないですかね」
「君は、ストーンリッジ開発の仕事をしたいわけですね?」
「僕をからかっているんですか、エルスワース?右腕だってくれてやりますよ、あの仕事ができるならば」
「右腕はくれてやらないほうがいいです。設計ができなくなるでしょう?もしくは設計するふりすらできなくなるでしょう?もっとこう、形のないものを差し出す方が好ましいでしょうねえ」
「僕の魂を差し出してもいいですよ。」
「ピーター、そうなの?」と、ドミニクが訊ねる。
ドミニクの問いには答えず、キーティングが声に怒気(どき)を含ませてトゥーイーに訊ねる。
「何を考えているのですか、エルスワース?」
「ピーター、単なる実際的な提案なのですが。過去において君のセールスマンとして最も有能だったのは誰でしたか?君に、最高に高い設計料を稼がせてくれたのは誰でした?」
「それは・・・ドミニクだと思うけど」
「そのとおり。君がワイナンドに近寄ることができなくて、君がやってみてもうまくいかないのならば、ドミニクこそワイナンド説得が可能な人物だと思いませんか?」
キーティングは、トゥーイーをじっと見つめる。ドミニクの方は、体を前に傾けている。関心を引かれたようだ。彼女は言う。
「私が噂で聞いた範囲では、ゲイル・ワイナンドは女性のために便宜をはかるということはないそうですわ、その女性が美しくなければ。もし美しい場合でも、単なる厚意として便宜を図ることはないようです」
トゥーイーはドミニクを黙って見つめる。彼女の言ったことを、自分はあえて否定するつもりはない暗に言っているのだ。
「馬鹿馬鹿しい。どうやったらドミニクがワイナンドに会えるっていうんですか?」
「ワイナンドの仕事場に電話して会う約束をとりつければいいのですよ」 「あいつがドミニクに会ってもいいと承諾しますかねえ?」
「彼は会ってもいいと言いました」
「いつ?」
「昨晩遅くにね。いや、正確に言えば今朝早くかな」
「エルスワース!信じられないですよ!」
ドミニクはトゥーイーに微笑みかけながら言う。
「私は信じます。確かなことでなければ、エルスワースがこの話題を持ちかけて下さることは、なかったはずです。で、ワイナンドは、私と会うと約束したのですね、あなたに?」
「そうです」
「どうしたら、そんなにうまくいきましたの?」
「ああ、ある説得力ある議論を彼に提供しただけです。しかし、彼に会うのは遅らせない方がよろしいかと思いますよ。早速、明日の朝にワイナンドに電話するべきです・・・君がワイナンドに会うことを望むのならばね」
「どうして、今、電話してはいけないんですか?ああ、もう遅いか。じゃあ、ドミニク、明日の朝に電話してくれるね?」
そう言うキーティングをドミニクは黙って見つめる。その様子を眺めながら、トゥーイーは言う。
「ドミニク、君がピーターの仕事の成功に関して並々ならぬ関心を持ってから、もう長いですねえ。こんな責任重大な仕事を引き受けてもいいのですね、君は・・・ピーターのためならばねえ?」
「ピーターが私に望むならば」
キーティングは大きな声をあげる。
「僕が君に望むならば、だって?ふたりとも、頭がおかしいんじゃないの?これは人生に一度あるかないかのチャンスだよ、あの・・・」
言いかけてキーティングは、ドミニクとトゥーイーが自分のことをしげしげと見つめているのに気がつき、はき捨てるように言う。
「まったく、馬鹿馬鹿しい!ふたりとも、例の馬鹿らしい噂話に躊躇(ちゅうちょ)しているんだろう?ワイナンドの女癖が悪いとか何とか・・・自分にひざまずいてくる建築家の女房をどうこうするとか・・・」
トゥーイーは言う。
「他の建築家の奥方は、ワイナンドに会うという機会を与えられることはありません。他の建築家は、ドミニクのような奥方を持ってはいませんからね。ピーター、君はドミニクのような女性を妻にできたことに関して、さぞかし誇りにしてきたでしょうね」
「ドミニクは、どんな状況でも自分で何とかできますから、大丈夫ですよ・・・」
「それは、まちがいないです」
「結構ですわ、エルスワース。明日の朝、私はゲイル・ワイナンドに電話して面会の予約をします」
「エルスワース、あなたは素晴らしい!」と、キーティングは言う。ドミニクの方は見ない。
「さあ何か飲みたくなしましたねえ。お祝いの乾杯でもいたしましょうか」と、トゥーイーが提案する。
キーティングが台所に急いで行ったあと、トゥーイーとドミニクは互いの顔を見つめる。トゥーイーは微笑む。キーティングが通って行ったドアをちらりと見やって、それからドミニクにかすかにうなずく。面白がっている。
「エルスワース、あなたは、ピーターが同意することを予想していらしたでしょう」
「もちろんです」
「エルスワース、ほんとうの目的は何かしら?」
「やれやれ、私は、君がピーターのためにストーンリッジ開発の仕事を手に入れることができるように、お役に立ちたいだけですよ」
「なぜ、そんなにも熱心に、私をワイナンドと寝させたいのかしら?」
「そうなれば、関係者すべてにとって、面白い事態になると思いませんか?」
「エルスワース、あなたは、私の結婚がこうなっているのにご満足ではないのね」
「全く満足しているとは言えません・・・50パーセントがたは満足ですがね。まあ、この世界では何事も完璧とはいきません。人間というものは、自分ができることを予測もできれば、さらに先を進みたくもなるのですよ」
「あなたは、やたらピーターを私と結婚させたがっていらしたわ。結果がこうなると、あなたにはわかっていらしたでしょう。私やピーターよりもはるかに的確に」
「ピーターは、全くわかっていなかったでしょう」
「なるほど、50パーセントは、あなたの思い通りになったわけね。ピーター・キーティングを、あなたが望む立場になさったわけね・・・アメリカをリードする建築家、今や、あなたの靴にこびりつく泥」
「私は、君の言葉の表現スタイルを好んだことはありませんが、しかし君の表現はいつも正確ですね。私ならば、こう表現するでしょう。今や、尻尾を振る魂とね。君の表現の方が、まだしも優しいですね」
「でも、残りの50パーセントは失敗だったと?」
「およそ全体的にはね。私の計算間違いでした。君を破滅させるためには、夫の役割として男ができることを、もっと私はわきまえておくべきでした。ピーター・キーティングのような人物には、そこまでは期待できなかったのですねえ」
「あら、非常に忌憚のないお言葉ですこと。ピーター・キーティングでは私を破滅できなかったと。で、あなたは、ゲイル・ワイナンドならば、私を破滅させるという仕事が完了できるとお思いなのね?」
「できるかもしれませんよ。どう思いますか、君は?」
「今回も、私は単なる周辺的な問題にしか過ぎないのではないかしら?あなたには、ワイナンドに対して含むところがあおりになるのね。原因は何かしら?」
トゥーイーは大声で笑う。大きな笑い声をたてても、この質問は彼の予想外のものだったことを隠せない。ドミニクは、馬鹿にしたように言う。
「エルスワース、びっくり仰天なさっているところなど見せてはいけませんわ、あなたともあろう方が」
「わかりましたよ。私たちは、はっきりあけすけに話しましょう。私には、ゲイル・ワイナンド氏に特に含むところなどありません。ワイナンドが君に会うように、私は長い間いろいろ計画してきましてね。ささいなことまで知りたいのならば、お話しいたしましょうか。昨日の朝など、僕にとって実に迷惑なことまで、ワイナンドはしてくれましたよ。彼は、あまりに観察力がありすぎる。ですから、もう時期は来たと決断したわけです」
「で、そこにストーンリッジ開発があったと」
「そう、そこにストーンリッジ開発があったわけです。この話の一部は君の関心を大いに引くだろうと、私はわかっていましたからね。国を守るためや、魂を守るためや、愛する男の命を守るために自分を売ることは、君は絶対にしない人です。ドミニク、君はそういう凡庸なことはしない。代わりに、非常にくだらないことは、してのける人ですよ、君は。ピーター・キーティングのためになら自分を売る人ですよ。彼では獲得してもしかたのないような、彼自身にそれだけのものを獲得する値打ちがないような高額の設計料を彼に稼がせてやるためにならねえ。さあ、君の人生が、これからどうなるのか見物させていただきます。もしくは、ゲイル・ワイナンドの人生がどうなるか、かな。そっちのほうの見物にも、私は大いに興味があります」
「私に関しての判断は全く正しいですわ、エルスワース」
「全部が正しいですか?君が愛した男に関しての部分でさえも?そう言う男がいての話ですが?」
「ええ」
「君は、ロークのためにも君自身を売ることはしないでしょう?この名前が発音されるのを、君は好まないですね、もちろん」
ドミニクは抑揚をつけずに淡々と声に出す。
「ハワード・ローク」
「ドミニク、君は実に勇気のある人だ」
キーティングが台所から戻ってくる。彼が手にした盆にはカクテルが乗っている。両の目が熱を帯びている。じっとしていられないようで、やたらに体を動かしている。
トィーイーはカクテルのグラスを高く掲げて、こう言う。
「ゲイル・ワイナンドと『バナー』のために乾杯!」と。
(第3部9 超訳おわり)
(訳者コメント)
画像は1931年当時のニューヨークの建設工事現場の写真だ。
モノクロームの写真というものは、なにか魅力がありますね。
トゥーイーがドミニクをワイナンドに会わせたがるのには、理由がふたつあるらしい。
ひとつは、キーティングとの結婚ぐらいではビクともしないドミニクへの嫌がらせ。
アメリカのメディア王で悪の権化のようなゲイル・ワイナンドなら、ドミニクを潰すことができるだろうと期待している。
恋しても絶対に自分のものになるはずのない女への歪んだ固着。
自分が憎み嫉妬するハワード・ロークを愛する女への愛憎。
もうひとつは、ゲイル・ワイナンド王国とも呼ぶべきアメリカのメディア界を影から操作するための作業の一段階として、ワイナンドにドミニクをぶつけたい。
ドミニクをワイナンドを陥れるための手駒のひとつとして利用したいのだトゥーイーは。
どう利用するのか?
意外と、歴史を動かしてきた人々も、これぐらいの下世話な感情で動いてきたのかもしれないですねえ。
キーティングは、相変わらず軽薄なクズであります。
しかし、ほんとに作家というのはすごい。
こんな長編小説を構築できる妄想力。
人間存在への飽くなき関心。
すごい。
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