第3部(9) キーティングとドミニクのつかの間の相互理解

キーティングは暖炉の火から顔を背け抑揚のない声で妻のドミニクに訪ねる。

「今夜は、客はないの?」

「ありません。ピーター、ひとりにしてさしあげましょうか?」

「駄目だ!もちろん、そんなことすることないよ!」

キーティングは大きな声で言いながら、なんで僕はこんな絶望的な調子で答えているのかと思う。この問題を何とか解決しなくてはいけないと彼に告げるかすかな直観のようなものを、彼は感じている。ふたりでいっしょにいる時間を耐えることができるものにすることを学ばなくてはいけない。そこから逃げないようにしないといけない。彼女自身のためというよりは、僕自身のために。

「ドミニク、今夜は何をしたい?」

「あなたがお望みのことなら何でも」

「映画に行きたくないかい?」

「映画にいらっしゃりたい?」

「さあ、どうかなあ。時間潰しにはなるけれど」

「いいですね。時間を潰しましょう」

「やめておこう。なんで僕たちがそんなことを?馬鹿みたいじゃないか」

「そうかしら?」

「なんで、わざわざ自分の家から逃げなければならない?ここにいようよ」

「そうね、ピーター」

「トランプでもやりたくないかい?」

「トランプをなさりたい?」

「ああ、だって時間潰しには・・・」

キーティングは言いかけてやめる。ドミニクが微笑んでいる。キーティングは、ドミニクを見つめながら言う。

「ドミニク、君はほんとうに美しい。君はいつも、ほんとうに全く美しい。僕が君の美しさについてはどう感じているか、いつだって君に言いたいくらいだ。」

「ピーター、私もあなたがどう感じていらっしゃるのか、お聞きしたいわ」

「僕は、君を見ているのが好きだよ。ゴードン・プレスコットが前に言ったことを、僕はいつも思い出すんだ。あいつは、こう言ったんだ。君は、構造数学的に神が行使した完璧な例だって。ヴィンセント・ノウルトンは、君は春の朝みたいだって言っていた。それから、エルスワースは・・・彼が言うには、君はこの地上のあらゆる女の形態に対する非難なんだってさ」

「で、ラルストン・ホルクウムは何と言ったの?」

「ああ、あんな奴の言うことはどうでもいいよ」

キーティングは言い捨てて、暖炉の火に顔を向ける。僕はこの沈黙になぜ耐えられなくなるのか、その理由を知っているとキーティングは思う。僕が何を話そうが黙っていようが、ドミニクにとってはどうでもいいからだ。彼女にとって僕は存在していない。存在したこともなかったのかもしれない。僕が死んでしまっているほうが、彼女は僕のことをまだ意識するだろう。それぐらい、僕は彼女にとってはどうでもいい存在なのだ。彼女にとっては、僕は生まれてもいない人間だ。どこにもいない人間なのだ・・・

キーティングは、自分でもしかとわからぬ欲望にとらえられた。切迫した、どうにも制御しがたいような欲望にとらえられた。ドミニクから、ほんとうに生きている人間として自分を見てもらいたいという欲望に。キーティングは、思いつめたように訊ねる。

「ドミニク、僕がずっと、何を考えてきたかわかる?」

「いいえ。何をずっと考えてきたの?」

「まだ誰にも言ったことがないんだ。誰かに薦められたわけではないよ。僕自身の考えなんだ」

「あら、それは素敵だわ。どんな考えかしら?」

「田舎に引っ越して、僕たちの屋敷を建てたいと考えている。君はどう思う?」

「とてもいいことだわ。あなたがそうなさりたいのならば、私もそうしたいでわ。ご自分で設計なさりたいの?」

「まさか、いやだよ。ベネットがやるさ。あいつは、カントリー・ハウスとか別荘なら随分と手がけてきているから。その分野なら彼はすごいよ」

「あなたは、長距離通勤なさりたいの?」

「いや、それは田舎に屋敷など構えれば、かなり面倒なことにはなると思うよ。だけど、最近じゃあ、ちょっと名のある連中は郊外に邸宅を構えてマンハッタンに通勤してくるじゃないか。マンハッタンに住んでいると人に言うとさ、そこらあたりの勤め人みたいじゃないか」

「周囲に木やお庭や地面とかごらんになっていたいのね」

「まさか、そんなこと無意味だよ。そんなこと悠長にしている暇はないよ。木は木でしかない。ニュース映画で春の森を見れば充分だよ」

「じゃあ、お庭仕事がなさりたいの?土をいじるって楽しいそうよ」

「冗談じゃないよ!地面なんかいじくってどうするんだい?庭師を雇えるだろう?それもいい庭師をさ・・・そうすれば、近所の連中が感心するような庭になるよ」

「何かスポーツでもなさりたいの?」

「うん。それもいいね」

「どんなスポーツ?」

「ゴルフなんていいなあと思うよ。自分が住んでいる地域の指導的な市民だって思えるようなカントリー・クラブに所属すれば、今のような週末の過ごし方とは違ってくるだろうね。会う人も違ってくるし。もっと上流階級の人たちになるね。それから、僕は乗馬を覚える」

「私、乗馬は好きです。あなたも?」

「僕は、乗馬をする時間がなかったから。ほら、乗馬って体の中をやたら揺らすだろう。内臓が震えるよ。なのにゴードン・プレスコットときたら、自分のことを最高の男だと思っているらしくて、受付のところに乗馬姿の自分の写真を飾っているんだぜ。なんだ、あれは?」

「じゃあ、ご自分だけの静かな場所や時間が欲しいと思ってらっしゃるのかしら?」

「う~ん、人里離れた島に住みたいわけじゃあないよ。屋敷は、ちゃんと幹線道路から見えるところに建っていないと。通り過ぎる連中が、『あれがキーティング邸だ』とか指差せるところでないと。しかし、クロウド・ステンゲルって何様のつもりだ?僕が、まだ賃貸アパートに住んでいるというのに、あいつときたら自分のカントリー・ハウスを持っているんだぜ。僕と同じ頃に独立したくせに。僕と比べたら、自分がどの程度だかわかっているだろうに。全く、誰が聞いたって、あいつは運のいい奴だよ。なんであいつが、ウェチェスターに屋敷なんか構えられるんだ。それに・・・」

キーティングは、ここで話をやめる。ドミニクがじっと自分を見つめているのに気づく。静かな顔である。キーティングは思わず叫ぶ。

「なんだよ、まったく!田舎にひっこみたくないのなら、なんでそう言わないんだ?」

「ピーター、私はあなたがしたいことならば何でも、したいと思っています。あなたが、ご自分で考えたことならば、どんなことでも、おっしゃるとおりにします」

キーティングは長いあいだ何も言わなかった。が、ふいに思わず口に出した。

「明日の晩の予定は?」

「明日の晩は、パルマーご夫妻と会食です」

「なんてこった!とんでもなく退屈な連中じゃないか、あの夫婦ときたら。なんであんなのを招待しなければならない?」

「パルマー御夫妻は、お招きしなくてはなりません。新しい商業ビルの設計料を得るためです。土曜日の夕食にお招きしてエディングトン御夫妻を歓待するためには、パルマー御夫妻の支払う設計料が必要です。エディングトン御夫妻は設計料を下さるわけではありませんが、あの方々は紳士録に掲載されていますからね。確かにパルマー御夫妻は退屈です。エディングトン御夫妻は人を鼻であしらう類の方々です。それでも、あなたは、あの方々にお世辞を言わなくてはいけません。あなたが軽蔑している方々に。あなたを軽蔑している方々に」

「どうして君は、そんな言い方をするんだ?そんなこと誰もがやっていることだよ。誰もが生きるためにやっていることだ」

「そうです、ピーター。ほとんど誰もがやっていることです」

「それが気に入らないならば、なんで君は、はっきりとそのことを言わない?」

「気に入らないなんて、私が言ったことありますかしら?」

「いいや、いや、君がそう口に出したことはないけれど・・・でも、それは君のいつものやり口だからな」

「私は、もっと直接的に言ったほうがいいのかしら?ヴィンセント・ノウルトンについて私が批判したような言い方で?」

「僕は、むしろ・・・君が、ちゃんと自分の意見を言ってくれたらいいのにと思っているだけだよ!一度でいいからさ!」

「ピーター、私が誰の意見を言えば、あなたのお気に召すのかしら?ゴードン・プレスコット?ラルストン・ホルクウム?エルスワース・トゥーイーの意見かしら?」

キーティングは、ドミニクの方に体を向ける。掛けている椅子の肘掛けにもたれながら、半ば立ち上がりかけ、突然身を固くする。彼とドミニクの間にあったものが、彼とドミニクを隔てる物が、今このとき、形を成しつつあった。それを名づける言葉を、それが何であるのかを、彼は初めて理解できるような気がした。ほんの少しではあるが。彼は、静かに、きちんと理詰めで話そうとする。

「ドミニク、それだ。やっとわかった。いつも何かが問題だとはわかっていたけど」

「何が問題ですって?」

「待って。これはすごく大事なことだから。ドミニク、君は一度も言ったことがないね。ただの一度も。君が考えていることを。何につけてもじゃあない。君は自分がしたいことを一度もはっきり表現したことがない」

「それのどこが悪いのかしら?」

「だって、それでは・・・それでは死んでいるのと同じじゃないか。それでは、君はほんとうに生きているとは言えない。単に肉体があるだけじゃないか。今、君の体は動いている・・・だけど、ただそれだけだよ。他のものは、つまり君の心の中にあるものは、君の・・・いや、誤解しないで。僕は宗教のことを言っているのではないんだ。それをあらわすのに他の言葉がないから、だから僕はそう言うしかないのだけれども、君の魂は・・・君の魂は存在していないのと同じじゃないか。意志もなければ意味もない。ほんとうの君が存在していないじゃないか」

「ほんとうの私とは、何かしら?」

初めてドミニクはキーティングのいう言葉に注意深く本気で耳を傾けているように見える。キーティングは、ドミニクのその姿勢に励まされたように言葉を重ねる。

「ほんとうの自分が何かだって?それは単なる肉体じゃあないよ。それは・・・それは魂だよ」

「魂とは何かしら?」

「それこそ・・・君さ。君の心の中のものさ」

「思考し、価値判断をし、何事かを決定するものかしら?」

「そうだよ!そう!それだよ!そして何かを感じるもの。君は・・・君は、それを捨ててしまっている」

「人間が捨てられないもの、諦められないものがふたつあります。思考と欲望です」

「そうだよ!君はわかっているじゃないか!ならば、わかるだろう?君は周囲の人々に対して死体みたいなんだ。一種の生きている死体だ。どんな犯罪よりも、それは悪いことだよ。それは・・・」

「自己否定?」

「そうだよ。空虚な否定だ。それでは、君は存在していないのと同じことになる。ここに来てから、君はここに存在したことがなかったんだ。たとえば、もし君がここのカーテンが嫌いだとか、気持ちが悪いから気に食わないとか言って、カーテンを破って、新しい君の好きなものに取り替えるとするならば、君の中の何かは、ここでも、この部屋の中でも、存在していることになる。生きていることになる。しかし、君はそういうこともしたことがない。君は、コックに夕食後のデザートの希望さえ言わない。ドミニク、君はここでは、いないのと同じだ。君は生きていないのと同じだ。君の自分ってものは、どこにあるんだ?」

「ピーター、では、あなたの自分というものはどこにあるのかしら?」

ドミニクは静かに訊ねる。キーティングは、目を見開いてじっと座っている。この瞬間、彼の思考が、目に見える認識のように明晰で直接的になっていることが、ドミニクにはわかる。今のキーティングの考えるという行為は、彼が今までの人生で過ごしてきた月日の経過を眺めることでもあった。

「まさか。そんな、まさか」

「何がまさか、なのかしら?」

「君が言ったこと」

「私は何も言いませんでした。あなたに質問しただけです」

キーティングの目は、ドミニクに話してくれと、さっき言ったことを否定してくれと乞うている。ドミニクは立ち上がる。キーティングの目前で立ち上がる。彼女の体の、すらりとした引き締まったその立ち姿は、生きている人間の姿勢だ。目的を持って人生を積極的に生きている人間の質を感じさせる姿勢だ。しかし、それは判断し裁く質のものでもある。

「ピーター、やっとあなたにもわかりかけてきたようね?もっと、はっきりさせてさしあげましょうか?あなたは、私がほんとうの私自身でいることなど、一度たりとも望んだことはなかったでしょう。他の誰に対しても、そんなことは望んだことがないはずです。あなたが欲しいのは、あなたの行為を手助けする行為だけでしょう。真実をねじれさせ歪ませ飾る行為だけでしょう。口先だけの言葉でしょう。すべて口先だけ。私が、ヴィンセント・ノウルトンに関して言ったことは、あなたのお気に召さなかった。同じことでも、美徳にあふれた感傷的な言葉で飾って言えばいいのよね。私の本当の魂ですって? ピーター、魂とは、独立した自分独自のものであるときだけが、ほんとうの魂だわ。カーテンやデザートを選ぶときでも、魂はあるでしょう。それを選ぶ魂は、ほんものの魂でしょう。魂が、カーテンにデザートに宗教に何を選ぶか決めるのでしょう。ねえ、ピーター、建築の形もそうですわね。でも、あなたは、一度たりともそんなこと望んだことはないでしょう。私は、自分の判断の空虚さを隠すために、どこかの新聞に載っている書評を適当に拝借したりはしません。私は、自分の創造力のなさを隠すために、人の設計を借りたりはしません。あなたと結婚してから、私はただ何も創造しなかっただけ。誰もが同じ平等が気高い概念だとか、誰もが同じに統一されることこそが人類の主たる目標だとか、私は言わなかっただけ。私は誰の意見にも賛成しただけのことです。ピーター、あなたはそれを死だと言うの?その種の死ならば・・・確かに私は、あなたに課しました。私の周囲にいる誰に対しても、その種の死を押しつけました。でも、あなたは・・・あなたは、それさえもしない。世間の人々は、みな、あなたが好きです。なぜならば、あなたが、あなたの言う空虚なる死というものから、人々を助けてさしあげるから。そういう死をあなたが自分から引き受けてくれるから。そういう死をあなたは自分に押しつけているのですもの。何につけても反対しないし、自分の意見や立場がない人とつきあうのは、とてもラクですからね」

キーティングは何も言わなかった。彼の目前で立っていたドミニクは、彼から離れ、またいつもの自分の椅子に腰掛けた。そして彼の答えを待っていた。

キーティングは立ち上がる。ドミニクの方へ数歩進む。「ドミニク・・・」と、彼は言い、ドミニクの前に膝まずき、彼女を抱きしめる。彼の頭はドミニクの脚の上に埋まっている。

「ドミニク、それはほんとうのことじゃない・・・君がほんとうの君自身でいることなど、一度たりとも僕が望んだことがないなんて嘘だ。他人に見せつけて見せびらかすためにだけ君と結婚したなんてことない。そんなためではないよ。それだけのためではないよ・・・僕はほんとうに君を愛しているんだ。ふたりいたんだ・・・君ともうひとり。いつも僕に同じ思いをさせてきた奴がもうひとりいる・・・どんな思いかっていうと、恐怖とは違う。正確には恐怖じゃない。壁のように感じるんだ。登っていかなければならない険しい壁のような・・・登っていけと言う命令のような・・・どこに登って行くのかはわからない・・・しかし、登って越えなければならないという感情をいつも僕に感じさせた奴がいた・・・僕は、いつもあの男を憎んできた。でも、君は違う。僕は、君のことは欲しかったんだ・・・いつだって、ずっと・・・だから、僕は君と結婚したんじゃないか・・・君が僕を軽蔑していると僕は知っていた。だから、君は結婚しようなんて僕に言うべきではなかったのに・・・君はこんな形で僕に復讐するべきではなかったのに・・・こんな形ではいけないよ、ドミニク・・・ドミニク、僕は君にやり返すなんてことできないんだから、僕は・・・」

「ピーター、あなたが憎んでいた人って誰?」

「どうでもいいじゃないか、そんなこと」

「誰なの?」

「誰でもないよ、僕は・・・」

「その人の名前を言って」

「ハワード・ローク」

ドミニクは、長い間、無言のままでいた。それから、彼女はキーティングの髪に手をやった。そのしぐさは優しい。

「ピーター、私はあなたに復讐したいなんて思ったことはないのよ」

「じゃあ、なぜ?」

「私は、私自身の理由で、あなたと結婚したの。私は、世間が人間に行動すべしと要求するように行動したの。ただ、私は中途半端には何事もできないの。中途半端にできる人もいるけれども。自分の中に分裂や不一致があっても構わない人々ね。ほとんどの人は、そうね。そういう人々は自分に嘘をつくことができる・・・嘘をついていると知らずにね。私は、自分自身に嘘をついたことはないの。だから、世間の人間みながふつうにしていることを、私は努力してしなければならなかった・・・ただ止まることなく、それも完璧に。ピーター、私は、あなたを破滅させてしまったのかしら。私はあなたに謝らなければならないのかもしれない。あなたを追い詰めるのが私の目的ではなかったのに」

「ドミニク、僕は君を愛している。ただ、僕は怖い。君が僕の中の何かを変えてしまったから。今の僕は、君を失うようなことがあっても、もう前の僕には戻れない・・・君は、僕が持っていた何かを取り上げてしまった・・・」

「いいえ。あなたが持ったことのないものを取り上げることなど、私にはできません。私が取り上げることができないということの方が、もっと悪いことだわ」

「どういうこと?」

「人間が、人間に対してできる最悪のことは、他人の自尊心を殺すことだそうです。でも、それはほんとうのことではありません。自尊心は、殺すことなどできないものです。ほんとうの自尊心を他人が奪うことなどできない。最悪なことは、自尊心があるというふりをすることだわ」

「ドミニク、僕は・・・僕はもう話したくない。」

ドミニクは自分の膝に顔を埋めているキーティングを見おろす。キーティングは、ドミニクの瞳に憐れみを見る。一瞬の間だが、ほんとうの憐憫(れんびん)というものが、いかにぞっとするものか、彼は思い知る。

しかし、キーティングはその意識を自分の心にとどめておくことはしなかった。きちんと認識して心に刻むことを拒否した。ドミニクが自分に告げた言葉が自分の心に入り込む前に、彼は自らの心の扉をしっかりと閉じてしまった。自分がドミニクから受けたほんとうの憐憫の恐ろしさを直視しないことにした。

ドミニクはキーティングの額にキスをする。それは、ドミニクが彼女自身から夫に与えた初めてのキスだ。

「ピーター、私はあなたに苦しんでほしくないの。今の、このキスはほんとうのものよ・・・それはほんとうの私自身からのもの・・・この言葉も私自身の言葉です・・・私は、あなたに苦しんで欲しくはないの・・・」

キーティングは、唇をドミニクの手に押しつけている。キーティングが、頭を上げてドミニクを見上げたとき、彼女は一瞬、キーティングが自分の夫であるかのようにキーティングを見つめた。そして言った。

「ピーター、あなたが今のままでいてくださるのならば・・・今のあなたのようなままで・・・」

「ドミニク、愛しているんだ、君を」

ふたりは、ながい間、黙って座っていた。いつものふたりの沈黙のときに感じさせられる緊張感をキーティングは、このとき感じないですんだ。

電話が鳴った。ふたりが歩み寄ったひとときをぶち壊す音だった。キーティングが飛び上がって受話器を取ろうと走り出すような、そんな切迫した電話の音だった。

電話のある部屋に通じるドアが開いたままだったので、応対するキーティングの声がドミニクに聞こえる。ほっとして喜んでいるのがあからさまな声だ。そのあからさまな喜びようが、猥褻でさえある声だ。

「もしもし・・・ああ、こんばんは、エルスワース!・・・ううん、全然、これっぽっちも・・・ものすごく暇ですよ・・・もちろん、どうぞ、どうぞ来てくださいよ、すぐ来てください!・・・わかりました!」

キーティングは居間にもどってきた。先ほどとは、うって変わって彼は陽気になっている。いつもの軽薄なピーター・キーティングに戻っている。彼は、横柄(おうへい)な響きさえ漂わせながら言う。

「エルスワースからだった。ちょっと寄りたいんだってさ」

ドミニクは何も言わない。

(第3部9 超訳おわり)

(訳者コメント)

画像は、このセクションのリアルタイムである1931年のマンハッタンの風景である。クイーンズ地区から眺めた風景であろう。

すでにエンパイヤーステートビルは竣工されていた。クライスラービルは1930年に竣工されていた。

キーティングが珍しくも正気に正直になり、ドミニクと対したときに、かかってきたトゥーイーからの電話。

トゥーイーは疫病神というか生霊というか。

キーティングは、客がいる夜の方が、妻のドミニクと2人きりで過ごすより好きだ。

社交している方が、ひとりで過ごすより好きだ。

ドミニクのことを自己主張しないと批判するくせに、自分自身は自己主張などしないことを自覚していないキーティング。

気まぐれにチンケなワガママは言い募っても、自分の見解も趣味も思想も方針もないキーティング。

ペラペラと口は回るが、嘘しか出てこない口。

繰り出す言葉はchattering curtainおしゃべりなカーテン。

正直、率直、微塵もない。

しかし、そのchattering curtainを開いても、そこには何もない。

こういう男性像は、日本では珍しくないが、アメリカにも多いらしい。

この小説を初めて読んだ時に、「アメリカでもこういうタイプは多いんだ!?」と私は非常に驚いた。

ドミニクにしてみれば、普通に正直に自分自身でいてくれるキーティングならば、いかに凡庸でも、夫して受け容れることは可能だ。

が、ひたすら虚栄と社交の中に逃げるキーティングに対して、自分からかける言葉などはドミニクにはない。

キーティングはドミニクと対峙して自分の真実に直面したくない。

そこに、トゥーイーから訪問したいという電話。

キーティングはホッとする。

キーティングが苦手なのは、「孤独」と「自分自身を直視すること」だ。

ドミニクと2人きりになると、ドミニクが自分には関心がないことがわかるだけの感受性はある。

しかし、社交生活の中に自分の孤独や鬱屈を忘れることができる程度には鈍感である。

キーティングがクズぶりを発揮するのは、実はこれからである。

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