物語は、1931年の11月の深夜に戻る。拳銃自殺を試みる前に自分の半生を振り返っている51歳のゲイル・ワイナンドに戻る。
今日一日は、彼にとっては特に何事も起きずに過ぎた。そして、さらに先へ進もうという欲望も失せてしまって、この夜を迎えたというわけだ。
ゲイル・ワイナンドはベッドの端に座り込んでいる。前かがみになり、両の肘を膝の上に置き、片方の手のひらには拳銃がにぎられている。
自分の人生を思い出しつつ、自分の人生をさらに深く検討したくはないという欲望をワイナンドは感じている。その欲望の根底には、恐怖という苦悶(くもん)があると感じている。だから、ワイナンドは、自分が死ぬのは今夜ではないだろうとわかる。まだ何かを怖がっているならば、生きる足場というものが彼にもある。たとえ、これ以上生き抜くことができそうもないことが予知できそうな災厄(さいやく)に、これから突き進むしかないにしても。生きることを考えることだけが、彼にか弱い武器を与える。恐怖という武器を。
彼は、銃の重みを測りながら手を動かす。微笑む。嘲りの薄笑いだ。違うぞ、これは俺自身に対する嘲笑ではないとワイナンドは思う。俺には、無意味に死にたくないという感覚がまだある。だから俺はまだ死ねない。まだだ。
彼は銃を軽く放り投げるようにしてベッドに置く。死に誘われるその瞬間は過ぎた。銃は、もう彼にとって危険なものではなくなった。
彼はベッドから身を起こし立ち上がる。やっと元気が出てきたというような感じなど全くない。感じるのは疲労だけだ。しかし、彼はいつもの習慣にもどる。問題はない。すみやかに今日という日を終わらせ、眠りにつけばいいだけだ。
彼は、寝酒をするために書斎に降りていく。書斎の電灯のスイッチをつけたとき、彼の目に入ったのはトゥーイーから贈られたものだった。やたら大きくて直立形をした梱包(こんぽう)物だ。それは机のそばに立っている。そういえば、夕方帰ってきたときにこの梱包物は目に入っていたのだが、「なんだ、これは?」と思っただけで、すっかり忘れてしまっていた。
自分で酒を用意し、立ちっぱなしでゆっくりと飲む。梱包物はあまりに大きいので彼の視野から消えてくれそうもない。飲みながら、何が入っているのか当ててみようと考える。
家具の類にしては丈が高すぎるし、細すぎる。ワイナンドには、トゥーイーが自分に贈りたいと思った物が、どんな形をとったものなのか想像もつかない。もっと実体のないようなものを予測していたのだ。たとえば、強迫まがいの手紙がはいった小さな封筒とか。今までも、実に数多くの人間が、彼に脅迫状を送ってきたが、無駄なことだった。トゥーイーという人間に、できることといえば、その程度のことだとワイナンドは思う。トゥーイーにそれ以上のことができるとは、彼は予想もしていなければ、期待もしていない。
飲み終わっても、結局この梱包物が何であるかもっともらしい説明は彼には思いつかない。なかなか解けない手ごわいクロスワード・パズルを解いているときのように、彼は苛々してきた。机のひきだしのどこかに何か道具セットみたいなものがあったはずだ。ワイナンドはそれを探し当てて、梱包物を切り裂く。
それは、スティーヴン・マロリーが制作したドミニク・フランコンの彫像だった。
ゲイル・ワイナンドは自分が手にしていたペンチを、まるで繊細なクリスタルであるかのように、そっと机に置く。それから顔を上げ、もう一度彫像を見つめる。一時間ほども見つめていたろうか。その間、彼はずっと立ちっぱなしである。
それから、やっと彼は受話器を取り上げ、トゥーイーの自宅の電話番号を回す。
「もしもし?」と、トゥーイーの声が答える。そのかすれた苛々したような声は、彼が深い眠りからたたき起こされたことを示していた。
「すぐ来るんだ」と、ワイナンドはそれだけ告げて、電話を切った。
トゥーイーは一時間後にやって来た。彼がワイナンドの自宅を訪問したのは、これが初めてだった。ワイナンド自身がドアのベルに答えて、トゥーイーを迎え入れた。シルクのパジャマを着たままである。彼は何も言わずに書斎へと歩く。その後をトゥーイーが従う。
高揚して頭をのけぞらせているその大理石の裸像は、ワイナンドの書斎を全く違ったものに見せている。地上に存在しなかったある場所のように見せている。あの「ホップトン・ストッダード人間精神の殿堂」のような場所に。
ワイナンドの目は、トゥーイーにじっと注がれている。期待に満ちているが、抑圧された怒りがこもった重いまなざしでもある。
「もちろん、この像のモデルの名前をお知りになりたいでしょうね?」
声に勝ち誇ったような響きをこめてトゥーイーは訊ねる。ワイナンドは即答する。
「いいや。彫刻家の名前が知りたい」
なにゆえか、トゥーイーは彫刻家の名を知りたいというワイナンドの問いを気に入っていないように見えた。トゥーイーの顔には単にがっかりしたという感情以上のものがあった。トゥーイーは答える。
「彫刻家ですか?待ってください・・・そうですねえ・・・スティーヴン・・・もしくはスタンレイ・・・スタンレイなにがしだったか・・・正直申し上げて、はっきり覚えておりません」
「君はこの像を買ったほどに、物の価値というものがわかっている。この像を購入する前に彫刻家の名前を訊ねるぐらいの見識が君にあるのは当然だったはずだが?製作者の名前を忘れるなんてことは絶対にないはずだが?」
「調べておきます、社主」
「どこで手に入れた?」
「どこかの美術品店で。2番街あたりにいっぱいある、ああいう店のひとつですよ」
「どういう経緯(いきさつ)で、そんな店にこの像が行く羽目になった?」
「存じません。訊ねもしませんでした。モデルになった女性を知っていたので買ったのですよ」
「嘘だな。君がこの彫像の中に見ているものがそれだけだとしたら、君はこんな夜遅く呼び出されるようなことには乗ってこなかったろう。俺が誰も自分の美術館に入れないことは知っているな。俺の美術館に貢献するような差し出がましいことを、俺が君に許すと思ったのか?この種の贈り物を俺にするような大胆不敵な奴は、今までいなかったよ。この彫像がいかに素晴らしい芸術品か君がわかっていなかったとしたら、君はこんな危険なことはあえてしなかったろう。君には、俺がこの像を一目見たら気に入るという確信があった。俺にひと泡吹かせてやれると信じて疑わなかったわけだ。そして、俺は実際にそうなった」
「そのお答えをお聞きして嬉しく存じます、社主」
「君も喜んでくれるのならば、ならば言わせてもらう。実は俺はこの像が君から贈られたということが気に食わない。君が、この像の素晴らしさを鑑賞できたということが気に食わない。どうも俺は、君に関して判断を明らかに間違えていたらしい。君は、芸術作品に関して、俺が思っていた以上の目利きだな」
「過分なるお言葉、ありがたく頂戴いたします。恐縮に存じます、社主」
「さて、君が欲しかったものは何だったかな?俺が、ピーター・キーティング夫人とやらに面談しないとするならば、君はこの像を俺にくれてやるつもりはないと、君は俺に理解させたわけだが?」
「違いますよ、社主。これは純然たる贈り物です。この像こそピーター・キーティング夫人なんっです。そのことを社主にわかっていただきたかっただけなのです」
ワイナンドは思わず像を見る。それから視線をトゥーイーに移して、静かに彼は言う。
「トゥーイー、なんて奴だ、君は!じゃあ、君はこの像を、売春宿の窓についた赤ランプとして使ったわけだな?」
こう言ったワイナンドは、なぜかほっとしているように見える。もうトゥーイーのまなざしをしっかり受け止めて答える必要などないとわかったからだ。
「トゥーイー、やはり、その方が似合っている。ずっといい。俺は、一瞬、君が意外と賢い奴かもしれないと思ったのだが、やはりそうではなかったか」
「しかし、社主、何が・・・?」
「俺が、そのピーター・キーティング夫人とやらに感じるかもしれん欲望を殺すのに、これほど確かな方法はないと君は思わなかったのか?」
「社主は、まだ夫人にお会いになっていないですよ」
「そりゃ、その夫人とやらは美しいのだろう。この像より美人かもしれん。しかし、この像の作者がモデルである夫人に与えたもの以上のものは、夫人は手に入れることはできない。同じ顔を見るにしても、意味のないものだ。実物はこの彫像の死せるカリカチュアでしかない。この像があるからこそ、この像を見てしまったからこそ、実物の夫人を憎んでしまうということがありえると、君は思ってもみなかったのか?」
「社主は、まだ夫人にお会いになっていません」
「わかった、わかった。じゃあ、その夫人に会ってみよう。俺はそのキーティング夫人とやらと寝るとは約束しないからな。ただ会うだけだ」
「それだけで結構です、社主」
「夫人に俺の執務室まで電話するように伝えてくれ。面会の予約をするように言ってくれ」
「ありがとうございます、社主」
「それと、君はこれを作った彫刻家が誰か知らないと言ったが、それも嘘だな。君にその名前を言わせるのは、かなり厄介みたいだな。キーティング夫人に訊ねるしかないな」
「確実にキーティング夫人がお話になるでしょう。しかし、なぜ私がそのことで嘘をつかねばなりませんか?」
「さあね。ところで、もし君が才能のない彫刻家の作品なんぞ俺に贈っていたら、君は確実にクビだったな」
「しかし、社主、契約というものがありますから」
「そういう問題は労働組合にでもまかせておけ、エルスィー!さ、そろそろ君が帰ってくれないかと俺は思っている」
「はあ・・・では、これで失礼いたします。おやすみなさい」
「トゥーイー、君は商売人としては駄目だな。俺には、君がなぜそうもキーティング夫人と俺を会わせたいのかわからん。君と仲良しのキーティングとかいう建築家のために設計料をとってやろうとする君の意図がどこにあるのかもわからん。しかし、それが何にせよ、交換にこのような素晴らしいものを俺に喜んで進呈するとは呆れるよ。この像と交換するほどの価値あるものなど存在しないぞ」
(第3部7 超訳おわり)
(訳者コメント)
やっと、物語内現在の1931年に戻った。昭和6年である。
不況に入って3年目のアメリカだ。
画像は、1931年当時のマンハッタンだ。
1925年時点より一層に高層ビルが立ち並んでいるのが、わかる。
ゲイル・ワイナンドは、トゥーイーからスティーヴン・マロリーが製作したドミニク像を贈呈されて、驚く。
ワイナンドは、ストッダード殿堂騒ぎの頃にニューヨークにいなかった。
ヨットで航海していた。
シェフもスタッフもいる豪華ヨットの旅だ。
インターネットのない時代なので、自分の所有する新聞の記事など読んでいない。
だから、ストッダード殿堂に飾られていたドミニクがモデルの裸像のことなど知らなかった。
ついでに、社員のことなど興味がないので、今ではキーティング夫人のドミニクが自分の社員だったことすら、知らない。
このゲイル・ワイナンドは、ハワード・ロークに会う前に、ドミニクに会うことになる。
嵐の予感。
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