第3部(6) ゲイル・ワイナンドの奇妙なる人狩り

それは、長い経過をたどってワイナンドに現れてきた性癖だった。前駆的症状というようなものは確かにあったが、長年彼とつきあっているアルヴァ・スカーレットでさえ、ゲイル・ワイナンドが45歳になるまで、ある新しい傾向が彼の性格に出てきたことには気がつかなかった。

しかし、もう今や、多くの人間がワイナンドの変化に気づいている。ワイナンドは産業界や金融界の大物潰しには、すでに興味を失くしている。そのかわりに新しい獲物を見つけていた。

それは遊びか、スポーツみたいなものか、単なる偏執か、組織だった追及とでも言うべきものなのか、他人にはよくわからない。その行為は悪意に満ちているのだが、その行為の意図や要点はわからなかった。だからこそ恐ろしいと、みなは思う。

それは、ドワイト・カーソンの場合から始まった。ドワイト・カーソンは、才能ある若きライターだった。自らの信念に情熱的に献身する人物という非のうちどころのない評判を得ていた。カーソンは、大衆に抵抗する個人の大義について論陣を張っていた。発行部数は小さいにしても、高い見識と権威を誇る雑誌に、彼はよく寄稿していた。ワイナンドにとっては、脅威にもならないどうでもいいような雑誌である。

しかし、ワイナンドは、ドワイト・カーソンを、高収入を餌にしてスカウトした。ワイナンドは彼に『バナー』のコラムを書かせた。それも天才を凌駕する大衆の優越性を説き教えるような内容のコラムを無理に書かせた。それは、退屈で説得力のない、ろくでもないコラムになった。多くの読者はカーソンのコラムに怒った。まさに紙面と莫大な人件費の無駄使いであった。にもかかわらず、ワイナンドはそのコラムの継続を主張した。

アルヴァ・スカーレットでさえ、ドワイト・カーソンの変節には衝撃を受けた。「社主、私は、他の連中はいざしらず、あのカーソンだけは、そういうことはあるまいと思っていたんですがねえ」と言ったぐらいだ。

それを聞いて、ワイナンドは大声で笑った。その笑い声は、彼自身では止められないのだと言わんばかりに、あまりに長く続いた。その笑いには、若干ヒステリーの気味があった。スカーレットは眉をひそめた。スカーレットは、ワイナンドが感情を抑制できないでいるのを見るのは嫌いだ。そういう事態は、彼が知っているワイナンドという人物と矛盾する。そんなワイナンドを見ると、スカーレットは心配というか懸念というか、奇妙な感覚に捉えられる。強固な壁に小さな亀裂がはいっているのを見るような思いがする。その小さな亀裂は、いつかは壁を危機にさらすのではないか。

数ヶ月たってから、ワイナンドがあらたにスカウトしたのは、ある急進的な左翼系雑誌に書いている若いライターだった。誠実さで知られているライターだった。このライターには、例外的な才能の持ち主を賛美し、大衆を呪うシリーズものの記事を書かせた。その記事は、若いライターのそれまでの読者の多くを怒らせた。しかし、ワイナンドは続行させた。新聞の発行部数に微妙に影響が出てきても、ワイナンドはいっこう気にしていないようだった。

彼は、野球の試合の記事を書かせるために、繊細な感受性を誇る詩人を雇ったこともある。財政金融ニュースを書かせるために、芸術の専門家を雇ったこともある。工場所有者の弁護を、社会主義者のライターに書かせたこともある。労働者を支持する記事をゴリゴリの保守派のライターに書かせたこともある。宗教の栄光を無神論者のライターに書かせたこともある。科学的方法より神秘的な直感の方が優れていると言うような内容を、博学な科学者に書かせたこともある。交響曲の偉大な指揮者に、法外で莫大な年収を出しながら、いっさい仕事を与えなかったこともある。二度とオーケストラの指揮はしないという条件を出して、ワイナンドはその指揮者を雇ったのだ。

最初のうちは、ワイナンドの申し出を断った男たちもいた。しかし、その者たちの身辺には、数年以内にわけのわからない出来事が次々と起こった。挙句の果てには彼らは破産の憂き目を見た。

ワイナンドのこうした「人狩り」の獲物(えもの)たちには、有名人もいれば無名の人間もいた。ワイナンドが餌食(えじき)にする人間には共通してひとつの属性があった。それは、無謬(むびゅう)の高潔さというものだった。行動と信条が一致する人格の一貫性だった。まったく批判する余地などない通俗性のない立派な人物ばかりを、ワイナンドは狙った。

いったん、獲物たちが屈して変節すれば、惜しむことなく、ワイナンドは彼らに報酬を与え続ける。しかし、そうなると彼らへの関心は消えうせ、顔さえ見たくなくなる。

あわれ、ドワイト・カーソンはアルコール中毒になった。ふたりは薬物中毒になり、ひとりは自殺した。自殺者が出たときは、さすがのアルヴァ・スカーレットもワイナンドに詰問(きつもん)した。

「社主、やり過ぎじゃありませんか?これでは実質的な殺人ですよ」

「そんなことは全くない。俺は単に外部の環境であったにすぎん。原因は奴の内部にあったのさ。稲妻が腐った木に落ちて、その木が崩れ落ちたとしても、それは稲妻が悪いわけではない」

「しかし、社主、どういうのを健康な木って言うのですかねえ。雷に直撃されれば、どんな木も折れますよ」

「つまり、存在しないってことだ。健康な木というものは存在しないってことだ」

アルヴァ・スカーレットはワイナンドが始めたこの種の人狩りについて、その理由を彼に問い質(ただ)すことはなかった。あるぼんやりとした直観のようなもので、スカーレットはワイナンドの行動の裏にある理由に関して少々は推測していた。部分的にだけは理解していた。

一方、エルスワース・トゥーイーはワイナンドを完全に把握していた。ゲイル・ワイナンドは、清廉な高潔さを憎み、かつ実は恐れ憧れているのだと。

なんとなれば、この世に真に清廉で高潔な人間が存在したら、そのような人間が存在するということは、彼自身の悪に満ちた半生が否定されることになるからだ。かつて、『ガゼット』の記者時代に、彼は正義を捨てた。ミリガンという誠実な警官を確信犯的に虚偽を書き散らすことによって破滅させた。それは、ワイナンドがこの世に正義などないと納得し信じたからだ。悪が支配するこの世のありようを受け容れたからだ。

しかし、もし、この世に清廉で高潔な人間が存在するとしたら、ワイナンドがしてきたことは、ただの彼の弱さと愚かさの証拠となる。彼は、今までの自分の決断と選択を肯定できなくなる。自分の人生そのものを肯定できなくなる。だからこそ、ワイナンドは自分を肯定するために、高潔だと評判の高い人物を堕落させることを繰り返してきた。

ワイナンドは自覚していない。自分の心の奥底に生きている正義や高潔さへの希求を。人間は、どうでもいいものを激しく憎んだりしないし恐れたりもしない。ワイナンドにとっては、正義や高潔さが大きな問題であるからこそ、彼はそれを憎み恐れてきたのだ。

エルスワース・トゥーイーは、悪の権化のように振舞うワイナンドの心の底にある正義や高潔さへの希求を見抜いていた。だからこそ、何よりもワイナンドと喧嘩状態になるのは避けたいとは思っていた。高潔な人間として定評ある自分を、ワイナンドは破滅させたがるだろうと大いに危惧していた。

しかし、ワイナンドはトゥーイーを、狩りの獲物には選ばなかった。あろうことか、ワイナンドはトゥーイーの存在を気に留めることさえ、ほとんどしなかった。トゥーイーは、どんな結果になるにせよ、ワイナンドが自分を堕落させようと試しにかかることを望んでさえいたのに。

ワイナンドからすれば、エルスワース・トゥーイーなどお見通しであった。トゥーイーなど、凡庸で通俗なる読者の神経に触らない程度の毒にも薬にもならない偽善を書き散らすコラムニストにしか過ぎなかった。トゥーイーは、ワイナンドの心の底にあるものを見抜くことはできても、真に卓越した人間からすれば自分自身がどう見えるかについては、おめでたくも鈍感なのであった。

(第3部6 超訳おわり)

(訳者コメント)

画像は、ワイナンドが45歳当時1925年当時のマンハッタン島の写真である。

1925年は大正14年である。

すでに、大正14年にして、マンハッタン島の南部は摩天楼がそびえ立っている。

45歳は中年の危機の年齢だ。

男女ともに第2の思春期だ。

この時期をいかに切り抜けるかで、後半生が決まる。

良きにつけ悪しきにつけ、40代半ばは、無我夢中で走って来た自分の人生をちょっと振り返る時期だ。

ゲイル・ワイナンドの心の奥に眠っていた若き日に持っていた正義や高潔さへの信頼や憧れが、中年期に奇妙に歪んだ形で表出するようになったのだ。

このようなゲイル・ワイナンドは、いずれハワード・ロークに出会う。

さて、どうなるか……^_^

 

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