第3部(1) メディア王ゲイル・ワイナンドの自殺願望

 ゲイル・ワイナンドは、こめかみに銃をあてる。肌に銃口の金属の輪の圧力を感じる。他には何も感じない。ひょっとしたら、手に持っているのは、鉛のパイプか、宝石なのかもしれない。肌に感じるのは、単なる小さな円でしかない。重要でも何でもないただの円。

「俺は、死ぬぞ」と、彼は大声で言ってみる。それから、大きくあくびをする。でも、ホッと安堵することもない。絶望を感じることもない。恐怖を感じることもない。人生の最後の瞬間が彼に来たとしても、深刻さという威厳さえ、彼は享受することはないだろう。最後の瞬間など、数分前にそうであったように、どうでもいいような曖昧な瞬間でしかないのだ。

ゲイル・ワイナンドは、銃を持っている手に、さきほどは歯ブラシを持っていた。歯ブラシを持つのと同じように、さりげなく無造作に今は銃を持っている。

ゲイル・ワイナンドは思う。人間ってやつは、こんなふうには死ぬものではない。死ぬときには、大きな喜びか、健康的な恐怖を感じなければならないはずだ。人間は、自分自身の最後というものには敬意を込めた挨拶をするべきだろう。だから、俺に恐怖の痙攣(けいれん)を感じさせてくれないか。そうしたら、俺は銃の引き金を引く。しかし、彼は何も感じない。

ゲイル・ワイナンドは肩をすくめ、銃をおろす。左の手のひらに銃をピタピタとあてながら、ワイナンドは立っている。黒死病とか赤死病とかよく言うけれども、俺の場合は、灰色の死、灰死病とでもなるのか?と彼は思う。これこそ究極の恐怖だと、なぜ誰も言わなかったのだろうか?叫びもしないし、懇願したいこともない。痙攣もない。何がしかの大きな災厄の火に浄化され消毒された清潔な空虚のような無関心さすらない。

ゲイル・ワイナンドは、寝室の壁まで歩いていく。彼の住居であるペントハウスは、マンハッタン中央に位置する57階建ての大きな居住用ホテルの上にある。このホテルは彼の所有物でもある。

眼下に、ニューヨークの街全体が見下ろせる。寝室は、ペントハウスの最上階のガラス張りの鳥籠のような部屋だ。壁と天井は巨大なガラス・シートでできている。四方のガラスの壁をおおうカーテンは、ほこりっぽい青いスエードだ。ワイナンドがそうしたいときは、部屋全体をそのカーテンで包むことができる。しかし、天井を覆うものは何もない。

この寝室のベッドに横たわれば、頭上に光る星を観察できる。雷の稲妻を見ることもできる。雨は頭上の空中で、目には見えないガラスの天井にぶつかる花火のように見える。すさまじくキラキラと輝く日輪の花火だ。

ゲイル・ワイナンドは、その雨の花火をじっと見つめるのは好きだ。女とベッドをともにしているとき、彼は灯りを全部消して、カーテンも全部開け放すのも好きだ。「俺たちは6百万人の人間が見ているところで姦淫しているわけだ」と、ワイナンドは、よく女に言ったものだ。

しかし、今のワイナンドは独りだ。カーテンは全部開けられている。ニューヨークの街を見おろしながら、彼は立っている。もう深夜である。眼下に広がる街の光の狂乱も、だんだん弱まりつつある。

彼は思う。ここ何年もの間、この街の眺めを気にとめることもなかったなと。もう、ふたたびこの光景を見ることもないのだ。しかし、それも、もう彼にはどうでもいい。

ワイナンドは壁にもたれる。薄い黒っぽい色のシルクのパジャマを通して、冷たいガラスを感じる。パジャマの胸ポケットに、GWと、彼のイニシャルが刺繍されている。この刺繍された字は、彼自身の署名の字の複製だ。彼が、一気に王者の風格で自分のイニシャルを書くときの字そのままだ。

噂によれば、ゲイル・ワイナンドにまつわる欺瞞(ぎまん)はおびただしくあるが、中でも一番ひどい欺瞞は、彼の容姿である。彼は、いかにも類い稀なる良家の古い家柄の末裔(まつえい)らしく見える。退廃的で完璧にすぎるような、その実例に見える。しかし、実際はどん底の貧民街出身だった。これは周知の事実だ。

彼は、長身で、肉体的美しさを云々(うんぬん)するには、あまりに痩身である。まるで、肉という肉、筋肉という筋肉が成長するにつれてそぎ落とされたかのようだった。硬質な印象を与えようと、あえてまっすぐに立つ必要など彼にはない。高価な鋼鉄のように彼は身体を曲げる。前かがみになる。彼のそうした動作を見る者は、彼の前かがみの姿勢の背後に、前かがみになった彼の体の奥深くに、いつでも彼の姿勢を直立にもどそうとする凶暴なバネが密かに存在していると感じる。

こうした印象こそ、ゲイル・ワイナンドが必要とするものだ。彼は、まっすぐに立つことなどほとんどしない。彼はぶらぶらと歩く。彼が何を身につけていようと、彼が与える印象のために、彼の立ち居振る舞いには、あふれるような優雅さが漂う。

ゲイル・ワイナンドの顔は、現代の文明に属していない。古代ローマの顔だ。永遠なる貴族の顔だ。灰色の筋がまじった彼の髪は、高い額から後方になめらかに流れている。肌は、鋭角的な骨格にそって引き締まっている。口は大きく、唇は薄い。勾配(こうばい)のある眉の下の目は薄い青色だ。だから彼の目は、写真にとれば、ふたつの冷笑的な白い長円形のように見える。

ある画家が、かつてワイナンドに、ゲーテの『ファウスト』に登場する地獄の大公メフィストフェレスの絵を描きたいから、モデルになってくれないかと依頼したことがあった。ワイナンドは大笑いしながら断ったが、その笑顔を悲しそうに画家は見つめたものだった。なんとなれば、笑ったワイナンドの顔は、まさにその画家が望むメフィストフェレスとして完璧だったから。

寝室のガラスの壁にもたれ、ワイナンドはかがみこむ。手のひらに、銃の重みを感じる。彼はふと思う。今日か。今日はどんな日だったか?今の俺を救い、この瞬間に意味を与えてくれるような何かが起きただろうか?

今日は、今までの日々と同じだった。とりたてて目立った特徴などない毎日と同じような今日だった。彼は51歳。今日は、1931年の11月中旬だ。このことだけは確かだ。さて、あとは何があったかとなると、思い出すのに努力がいる。

今朝は6時に目が覚めて、着替えた。大人になってから、毎晩4時間以上は眠ったことがない。階下の食堂に行って、そこで朝食を給仕された。彼が住むペントハウスは、小規模ではあるが、庭園として造形された広大な屋上の端に建てられていた。各部屋は、それぞれが最高級の芸術作品の趣があった。これが、あの『バナー』の経営者の住居であることは皮肉だ。アメリカで最も粗野で下品な新聞の社主の家であるとは皮肉だ。

朝食をとったあと、ゲイル・ワイナンドは書斎に行った。机には、アメリカ中の主要新聞が山と積み上げられている。国中から送られてきた雑誌や書籍も積み上げられている。3時間、彼はひとりで仕事をした。郵便物を読み、大きな青鉛筆で印刷されたページに短いメモを書きつける。その字は解読しがたい。ワイナンドが書斎から出て行ったときに、入れ替わりに書斎に入ってきた乾いた感じの中年の女性秘書以外には、誰も彼のメモの字は読めない。

ここ5年の間、彼はこの秘書の声を聞いたことがない。しかし、彼と秘書の間で意志の疎通などというものは必要がなかった。夕方、彼が書斎にもどってくると、秘書と机の上に積み上げられていた書類の山は消えている。机の上には、午前中に彼が記録しておきたいと思った事柄がきれいにタイプされた書類が置かれている。

午前10時にゲイル・ワイナンドは『バナー』の社屋に到着する。マンハッタンの南にあるぱっとしない界隈の飾り気のない陰鬱なビルだ。このビルの狭い廊下を彼が歩いていくと、社員が彼に朝の挨拶をする。社主の彼も、適切に丁寧に返事をする。しかし彼が通過すると、死の光線がふりまかれたようになる。生きている組織のモーターを止めるような死の光線。

ワイナンド系列のすべての企業の従業員に課せられる多くの厳しい規則のうち、もっとも厳しい規則は、社主のワイナンドが入ってきても、仕事の手を決して休めないことだった。社主が入ってきたことを気に留めないことだった。

どの部署に、いつ社主がやって来るか、誰にも予測がつかない。ビルのどこにでも、どの部署にでも、この社主は出現する。ワイナンドがそこにいても、何か言うわけでもなく控えめに立っているだけなのだが、それは感電と同じくらいの衝撃があった。従業員は、この社主に黙って10分間観察されるくらいならば、3時間の残業をした方がマシだと感じている。

今朝、ワイナンドは執務室で『バナー』の日曜版の論説の校正刷りに目を通した。削除したい部分に青鉛筆で大きく斜線を引いた。彼は自分のイニシャルを、そこに書く必要などない。誰もが、社主のワイナンドだけがこの種の青い斜線を引くことができることを知っている。その斜線は、その記事を書いた人間の存在を消すことができるような、そんな線である。

彼は全ての校正刷りに目を通し、カンサス州スプリングヴィルのワイナンド系列の『ヘラルド』紙の編集主任に電話をつなぐよう指示する。ゲイル・ワイナンドがアメリカ各地の部下に電話するとき、彼の名前が、その犠牲者に前もって伝えられることはない。彼の声は聞けばわかる。彼の声は、彼の帝国において主要な役割をしている部下たちの誰もが知っている。

「おはよう、カミングズ」と、『ヘラルド』紙の編集主任が電話に出たとき、ワイナンドは言う。

「えっ!まさか・・・」と、編集主任は息を呑む。

「そのまさかだ。いいか、カミングズ。昨日の『夏の最後の薔薇』で書いたみたいな下らない御託(ごたく)をまた書くつもりならば、高校の教師にもどれ」

「申し訳ありませんでした、社主」

ワイナンドは電話を切る。今度は、ワシントンの有名な上院議員に電話をつなぐよう指示する。

2分以内にその上院議員が電話に出ると、ワイナンドは言う。

「おはようございます、上院議員。わざわざ電話口においでいただき恐縮です。痛み入ります。議員のお時間はとりません。ただ、どうしてもお礼を申し上げたかったのですよ。ハイエス=ラングストン条例が議会で可決された件ではご尽力いただきまして、ありがとうございました。それだけを是非申し上げたくてお電話を差し上げた次第です」

「しかし・・・君、ワイナンドさん、ご丁寧なご挨拶をいただきましたが、しかし・・・あの条例はまだ議会を通過していないので・・・」

上院議員の声は、モグモグと歯切れが悪く煮え切らない。

「ああ、そうでしたね。私の思い違いでした。どのみち明日には可決されるでしょうがね」

株式会社ワイナンド・エンタープライズの重役会の総会は、11時半に予定されていた。ワイナンド・エンタープライズは、22の新聞と7つの雑誌と3つのニュース配信会社と二つのニュース映画製作会社で構成されている。株の75パーセントはワイナンドが所有している。重役たちは、自分たちの役割や目的が何なのか、判然としない気持ちである。ワイナンドは、自分が出席しようが欠席しようが、重役会がいつも定刻どおりに始められるよう命じていた。

今日は、12時25分に会議室に彼が入って来た。ちょうど、重鎮の老重役が何か弁じたてているところだった。重役たちは、ワイナンドが入って来たことで話を止めたり、彼に気を留めたりすることは許されていない。彼は、会議室の長いマホガニー製の会議用テーブルの上座にある誰も座っていない椅子に腰掛ける。重役の誰も彼の方を見ない。その席は、あえて彼らが存在を認めようとしない幽霊に占拠されているかのようだ。ワイナンドは、15分間ほど会議の発言に耳を傾けていたが、発言者が発言している最中に立ち上がり、会議室に入って来たときと同じ態度で、そこから出て行った。

ゲイル・ワイナンドの執務室の大きなテーブルの上には、ストーンリッジの地図が広げられている。彼が不動産業を新しく展開しようとしている土地だ。彼はロング・アイランドに広大な土地を購入してあるのだが、ストーンリッジ開発と称して、その土地に小さな分譲住宅でできた新しいコミュニティを作るつもりである。その新興住宅街の歩道の縁石という縁石、通りという通り、住宅という住宅すべてをゲイル・ワイナンドは手がけるつもりである。

彼の不動産開発について知る人々はごく少数ではあったが、その人々は、彼のことを気が狂っているのではないかと噂した。建設だの建築だのそんなこと誰も考えないような、そんな大不況期である。しかし、ゲイル・ワイナンドという男は、狂っていると言われるような決定を繰り返して、巨万の富を築いてきた。

ストーンリッジの設計をする建築家はまだ決定されていなかった。この大開発計画のニュースは、仕事に飢えている建築家たちの間をかけめぐっていた。ここ何週間ものあいだ、ワイナンドはアメリカの最高の建築家たちや、その友人たちからの手紙を読んだり、電話を受けたりするのを断ってきた。この開発に関する会議が終わったときにも、「アメリカ建築家協会」会長のラルストン・ホルクウムが至急の用件で、2分間だけ電話に出てもらえないかと言っていると秘書が伝えてきたが、やはり断った。

ストーンリッジ開発担当の部下たちが退室したあと、ワイナンドは執務机のボタンを押し、『バナー』紙の編集主任のアルヴァ・スカーレットを呼んだ。嬉しそうに微笑みながら、スカーレットが入ってくる。彼は、ワイナンドの呼ぶブザーに、いかにも社主に声かけられるのが光栄で嬉しくてたまらないといった態度で答えるのが常である。

「アルヴァ、いったいなんだ?『胆力ある胆石』というのは」

「ああ、あれですか?小説の題名ですよ。ロイス・クックの」

「どんな小説だ?」

「ああ、いっぱいのたわごとですよ。一種の散文的詩ということになっていますけど。自分が独立した実体、一種の無骨(ぶこつ)な個人主義者である胆嚢(たんのう)だと考える胆石に関する話ですよ。その小説の登場人物がひまし油をいっぱい飲みまして、胆石は便といっしょに体外に流されるわけでして、その結果が図解的に描写されるんです。それが胆力ある胆石の最後になるわけです。自由意志のようなものはないと証明している小説、ということになっています」

「何部売れている?」

「知りません。知識人の間では、かなりの評判になっています。最近、売り上げを伸ばしているそうですが・・・」

「アルヴァ、いったいここで何が起きている?」

「何がって、その・・・」

「ここ数週間、『バナー』にくまなく目を通していて、俺は気がついた。かなりうまいやり方だ。それが偶然のことではないと、俺が気づくのにこんなに時間がかかったからな」

「どういう意味でしょうか?」

「なんで、こうも続けていつもある特定の題名ばかりが紙面に登場する?それも、その題名が登場するには最も妥当ではない箇所ばかりに。ある日は、『胆力ある胆石のように勇敢に死んだ』殺人者の死刑執行に関する警察物の記事の中に出てきた。それから2日後には州議会報告の中に出てきた。『ヘイズルトン上院議員は、自分を独立した実体だと考えている。しかし、結局自分は単なる胆力ある胆石でしかありえないと悟る日が来るかもしれない』とあったぞ。それから、死亡記事の中にもあった。昨日は婦人欄で見た。今日は漫画の中だ。スヌーキーは自分の金持ちの大家(おおや)のことを、胆力ある胆石と呼んでいた」

「はあ。何か変でしょうか?」

「変だ。俺は始めはそう思った。しかし、今はそう思っていない」

「そんなこと、どうでもいいことではないですか。うちの二番手あたりの記者連中が記事の中に書き込んでしまったことですよ。どうということもないことです」

「まず問題は、それが一点だ。もうひとつの問題は、『胆力ある胆石』とかいう小説が必ずしも有名なベスト・セラーじゃないってことだ。もしよく売れているのならば、その小説の題名が思わず連中の頭に浮かぶってことも理解できる。が、そうじゃない。ということは、誰かがうちの新聞紙上にこの小説の題名が、あちこち顔を出すように仕組んでいるということになる」

「まさか、社主!誰が、そんなことわざわざしたいと思いますか?うちの新聞が、なんでそんなことを?政治的問題ならばいざしらず・・・」

「すると、誰かがこの小説の題名を記事に使いたいとか何とか、君に相談したわけではないということか?」

「まさか。この件に関して何か裏があるなんてことはありませんよ。単なる自然発生的なものです」

「その小説の題名を最初に記事で使ったのは、誰だ?」

「ええと・・・そうです、あれはエルスワース・トゥーイーでした」

「やめさせろ。その小説を宣伝させるな。トゥーイーに必ず伝えておけ」

「わかりました。社主がそうおっしゃるのならば。しかし、ほんとうに何でもないことではないですか」

「俺が雇っている記者が、俺の新聞に勝手な記事を書き散らすのは気に入らん」

「ごもっともです、社主」

社外での仕事もいくつかすませ、午後も遅くなってから、ワイナンドが執務室を出ようとしたときだった。秘書がエルスワース・トゥーイーがお目にかかりたいと言っていると伝えてきた。

トゥーイーが入って来た。用心深そうに半分だけの笑いを顔に浮かべている。トゥーイーは、社主のワイナンドは自分になど会いたくもないということを、ちゃんと知っている。

ワイナンドは無表情にトゥーイーを迎えた。

「トゥーイー君、座りたまえ。さて、俺が君のためにできることは何だ?」

「私は、社主にお願いに参ったのではありません。社主に私から良き案を提供させていただきたいと思いまして」

「どの案件に関してだ?」

「ストーンリッジ開発の件です」

「新聞のコラムニストがストーンリッジ開発の何の役に立つ?」

「新聞のコラムニスト・・・社主、私は、建築の専門家なのですが・・・?」

トゥーイーのまなざしは、ワイナンドにこう告げていた。あなたが、ストーンリッジ開発を担当する建築家を推薦してくる連中にどれくらい悩まされてきたか、また、あなたがその連中から逃げるのにいかほど苦労しているのかも、私はわかっているのですよ、と。私は、あなたが予想もしていなかったような目的で、こうして面談しに来たわけであり、その点においてだけでも私は、あなたの裏をかいたといえるのではないですか、と。この男のこの無礼さを、ワイナンドは面白いと思った。

「わかった。で、君は誰を売りつけたい?」

「ピーター・キーティングです」

「で?」

「とおっしゃいますと?」

「だから、そいつを俺に売りこめよ。売り込みの口上は?」

「もちろん、社主がご存知のように、私はキーティング氏と何らかの関係があるわけではありません。ただ彼の友人として、ふるまっているだけです」

トゥーイーが話しやすいように合いの手を入れるようなことを、ワイナンドがするはずがない。トゥーイーはやりにくいが、話し続ける。

「私は、あなたに、私の意見を申し上げるのが私の義務だと感じました。あなたが何をなさるにつけても、最善を要求する方であることは承知しております。あなたが心に抱いていらっしゃる大きな計画にとって、ピーター・キーティングに匹敵するような建築家は他におりません。その能力といい、趣味の良さといい、創造性といい、想像力の豊かさといい。社主、これが私の意見です」

「君のその言葉を信じるよ」

「ほんとうですか?」

「もちろん、ほんとうだ。しかしだ、なぜ、俺が君の意見を考慮しなければならない?」

「だって、それは、私があなたの建築の専門家だからですよ!」

トゥーイーの声から、思わず怒りがにじみ出てしまう。

「おやおや、トゥーイー君、俺と俺の新聞の読者を混同しないでくれ」

一瞬の間のあと、トゥーイーは後ろにのけぞり、両手を大きく広げて大きな声で笑う。これはまいったな、というポーズである。

「率直に申しまして、私の意見など、あなたにとって何の重みもないことはわかっております。だから、私はピーター・キーティングをあなたに売りつけようとはしなかったわけです」

「ほう。じゃあ、どうしたいわけだ?」

「私などよりはるかに巧妙に、ピーター・キーティングの才能についてあなたが信じるように、あなたを説得できる人物がおります。その人物に会っていただきたいのです。30分でいいですからお時間をいただけないかとお願いしたいわけです」

「誰だ、そいつは?」

「ピーター・キーティング夫人です」

「なんで俺が、ストーンリッジ開発について、ピーター・キーティング夫人と話し合いたいなんて思わなければならない?」

「なぜならば、夫人は類い稀なる美女で、かつ実に気難しい女性だからです」

ワイナンドは、頭をのけぞらせて大声で笑った。

「おいおい、俺はそれほど露骨か?いやあ、トゥーイー君、俺は君に謝らないといけない。俺の趣味がそれほどにも、よく知られているんで、君がつい下品になってしまったというのならば、それは俺の落ち度だな。しかし、君は博愛的な活動をいろいろしているが、その活動の中には女衒(ぜげん)まで含まれていたとはねえ」

トゥーイーは椅子から立ち上がった。

「がっかりさせて悪いが、俺は何にしても、そのピーター・キーティング夫人とやらに会いたいという欲望は持ち合わせていない」

「社主、あなたが、そういう欲望をお持ちになるだろうとは、私も考えませんでした。私の何の下心(したごころ)もない提案についても、あなたは関心をお持ちにはならないだろうということも、わかっておりました。ですから、私といたしましては、この件について社主と話し合う機会をもう一度、私自身に与えることになるようなことを勝手にさせていただきました。あなたに、ある贈り物を勝手に送らせていただきました。今夜、社主がご自宅にお帰りになりましたら、私からの贈り物が届いております。そのとき、私が、あなたと話し合えるのではないかと十分期待してもいいようなお気持ちに、あなたがなられたのならば、お電話を下さい。そうしましたらば、私はすぐはせ参じますので。ピーター・キーティング夫人にお会いになりたいとあなたが思うにせよ、そうは思わないにせよ、どちらにしてもご意見をお聞かせ下さいませんか」

「トゥーイー、これは信じがたいことだが、しかし、君が俺に賄賂を提供しているのだということは信じるしかないな」

「はい。賄賂を贈ったのです、私は」

「わかっているのか、今のうちならば、俺はその話は聞かなかったことにしてもいい。それぐらいの度胸ある離れ業(わざ)だぞ、君がしていることは。事の次第によっては、君は職を失うはめになる」

「今夜、私からの贈り物を、とくとご覧くださいとしか、今は言えません」

「そうか。よし、君の贈り物とやらを拝見するよ」

トゥーイーは会釈して、退室するために踵(きびす)を返す。ドアに着いたあたりで、ワイナンドが付け加えるように、トゥーイーこう告げる。

「トゥーイー、いずれ近いうちに、俺は君に飽き飽きすることになるだろうな」

「そうならないように努力邁進(まいしん)いたします。いずれ時期が来るまで」

トゥーイーはもう一度会釈して、彼はワイナンドの執務室から出て行った。

しかし、ワイナンドが自宅に帰った頃には、エルスワース・トゥーイーのことなどすっかり忘れてしまっていた。

その晩、彼は自宅のペントハウスで、ひとりの女と夕食をとった。肌の色が極めて白い、柔らかな褐色の髪をした女だ。彼女は三百年もさかのぼることができる旧家(きゅうか)出身である。世が世ならば、ゲイル・ワイナンドがこの女とさんざんしてきたようなことを、ほんの少しでも匂わせるような男がいたら、彼女の一族の男たちにたちまち殺されたにちがいない。

クリスタルのゴブレット一杯の水を口元にもっていくとき、この女の腕は、類い稀なる才能に恵まれた職人の手で作られた銀の枝付き燭台のような完璧な線をかたち作る。ワイナンドは、贅(ぜい)と技術を凝らした燭(しょく)台(だい)を鑑賞するように、彼女の腕を鑑賞する。蝋燭(ろうそく)のあかりにチラチラと照らされた女の顔は実に美しい。あまりに美しいので、この女が生きていなければいいのにと、ワイナンドは秘(ひそ)かに思う。そうすれば、ただ何も言わず、その顔を見ていることができるのに。その美しさを鑑賞しながら、好きなことを考えていられるのに。

女は、物憂げに微笑みながら、言う。

「ゲイル、もうひと月かふた月もしたら、ほんとうに寒くて嫌な季節になるでしょう。『我は為(な)す』号でどこかに航海に行きましょうよ。太陽のさんさんと降り注ぐところへまっすぐに行きましょうよ。去年の冬みたいに」

この『我は為す』号とは、ワイナンド所有のヨットの名前である。彼は、誰にもこのヨットの名前のいわれを説明したことがない。今までも多くの女たちが訊ねたし、今いっしょに食事をしているこの女も質問してきたことがある。ワイナンドが黙ったままなので、女は前に訊いたことを、また訊く

「ねえ、あなた、ところで、ほんとうはどういう意味なの?あのとっても素敵なオンボロ船の名前のことよ」

「それは、俺が答えないことになっている質問でね。俺が答える気のない質問は数多いが、そのひとつだな」

「そう・・・ねえ、今度のクルーズ用に、私は何を着ようかしら?」

「緑色が君には一番似合う。海の上で映えるぞ。俺は、その緑色が君の髪や君の腕にどれだけ似合うか、じっと見つめていたいよ。緑色のシルクを背景にした君のむきだしの腕を見ることができないのは残念だ。なぜならば、今夜が、俺たちの最後の夜だからだ」

女の指が、ゴブレットの柄を持ったまま止まる。今夜が、ふたりの最後になるなどという気配(けはい)を、彼女は全く察知できないでいた。しかし、女にはわかる。ワイナンドが情事を終わらせるために必要とする言葉は、それだけなのだということが。ワイナンドと関係してきた女たちは、みなわかっていた。このような終わり方しか自分たちには許されないし、話し合いの余地など全くないということも。しばらくたってから、女は低い声で訊ねる。

「理由は何なの、ゲイル」

「理由などわかりきっているじゃないか」

ワイナンドは、ポケットに手を伸ばし、ダイアモンドのブレスレットを取り出す。蝋燭の光に照らされて、ダイアモンドが冷たい火のような輝きを放つ。そのずっしりと重そうな輪は、ワイナンドの指の間でぶらさがっている。箱もなければ包装紙もない。彼は、テーブル越しにそのブレスレットを女に向かって軽く投げてから、こう言った。

「記念だ。これは、これが記念するものよりも、はるかに価値がある」

そのブレスレットは、ゴブレットにあたった。そのためにクリスタルが音を立てて鳴った。小さいが鋭い叫び声のような音。まるで、ゴブレットのクリスタル・ガラスが女のために悲鳴をあげたかのようだ。女は何の声もたてない。

ワイナンドは、この事態が、この女にとっていかほどに恐ろしいものか重々承知している。なんとなれば、この女はこのような事態で、このような扱いを受けたことがあるような種類の女ではなかったから。今までつきあってきた女も、他人にこのような扱いを誰からも受けたことのない気位の高い家柄もよい女たちだった。しかし、結局、この女もこの別れの記念品を拒絶することはない。今までの女たちと同じように、やはりダイアモンドの腕輪を受け取る。

女が去ったあと、彼は玄関ホールに立ちつくす。女の苦しみについて考える。彼女の苦しみは本物だったと考える。しかし、しばらくすれば、彼女にとっては、あのダイアモンドのブレスレット以外に真実であるものなど、なくなっているだろう。

ワイナンドは書斎に向かう。腰かけて数時間ほど読書をした。それから読むのをやめた。わけもなく、重要な文章の途中で彼は読むのを中断した。読み続けたいわけではなかった。しかし、他の何かをしたいわけでもない。

何も、ワイナンドにとっては起きていない。肯定的にこれは本物だと感じさせるようなことは何事も起きていなかった。だから、どんな現実も、彼を救いようのない気持にさせることがない。この感覚は、とてつもなく否定的なものだ。まるで、あらゆることが拭(ぬぐ)い去られ、無意味な空虚しか残っていないようだ。

何も去ったわけではない。欲望だけが去っていた。いや、欲望以上のものだ。欲望の根にあるものだけが欠落している。欲望する欲望とでも言うべきものが欠落している。視力を失った人間でも、物を見るという概念が残ると、ワイナンドは思う。しかし、彼は、もっと恐ろしい盲目状態というものを聞いたことがある。視力を管轄する脳の領(りょう)野(や)が破壊されると、見るという知覚そのものさえも喪失してしまうらしい。

ワイナンドは本を置き、立ち上がる。その場にいたいという気がなくなった。しかし、そこからどこかに移動したいという欲望もない。俺は眠るべきだな、とワイナンドは思う。いつもの彼にとっては床に就くにはまだ早すぎる時間だった。今から眠れば、明日はもっと早く起床できるだろう。

彼は寝室へ行く。シャワーを浴びる。パジャマを着る。それから、化粧台の引き出しを開け、そこにいつもしまってある銃を見る。そのとき、彼がその銃を取り上げたのは、きわめて直接的に認識したことがあったからだ。突然、関心が引かれたことがあったからだった。それは、衝撃の欠如というものだった。自殺しようと思ったとき、自分は自殺するべきだと彼に思わせたのは、この衝撃の欠如というものだった。その思いはきわめて単純なものに思えた。

彼はベッドまで歩く。その上にすわりこむ。手には銃をぶら下げている。人は死ぬ間際の最後の瞬間に自分の全人生を見るという。ワイナンドは思う。今の俺には何も見えない。ならば、俺は無理にでも俺の全人生を俺自身に見させてやるか。力づくで、もう一度、俺の人生を振り返ってやろう。そうしてみよう。

そうすれば、このまま生き続けたいのか、今この人生を終わらせたいのか、俺自身にもわかるだろう。

(第3部1 超訳おわり)

(訳者コメント)

このセクションは長い。

今まで登場しなかったアメリカ屈指のメディア王のゲイル・ワイナンドの日常や外見を紹介するセクションなので、長くなる。

彼がスラムの浮浪児から成り上がる経緯は、次のセクションで描かれる。

ハワード・ロークもリアリティがない人物だし、ドミニク・フランコンもよくわからないキャラだが、ゲイル・ワイナンドも、リアリティがないと言えば、ない。

小説家というのは中産階級出身なので、ほんとうの上流階級の生活と意見は書けない。わからない。知らないことは書けない。

今でも、小説というジャンルにとって、上流階級というのは人跡未踏の地である。

だから、ゲイル・ワイナンドのように成金を描くということになるのかもしれない。

この小説において、富と名声と影響力という点では、ゲイル・ワイナンドは最も成功者と言えるが、最下層から這い上がってきたという設定なので、作家にとっても造形しやすいのだろう。

それでも、このセクションで描かれている、「古代ローマの貴族の彫像のような美貌高貴さを備えた、自殺願望を抱えたスラム出身の成金メディア王」としてのゲイル・ワイナンド像は、やはりリアリティがない。

漫画に出てくるような類型的な、おそろしく頭脳明晰なクールな暴君である。

スラム出身であるが、いっさいの劣等感など持たず、自分が支配者であることを疑わず、支配の道具として最も有効だと判断して新聞社を買い集め、アメリカのメディアを傘下に置いている暴君である。

でも、だんだん、物語が進むにつれて、1931年時点で51歳のゲイル・ワイナンドの人格や人となりにリアリティが出てくる。

我慢して読んでやってください。

アイン・ランドが描いていて非常に快感であったに違いないゲイル・ワイナンド像を楽しんでください。

私が、この小説を翻訳していたのは、48歳から50歳の間でしたので、私にとっては、自分の実年齢に近いゲイル・ワイナンドが最も理解しやすかった。

私は、この物語を最初に読んだとき、この第3部に来て、「あああああ、ロークはさんざん苦労してきたのに、今度の敵はトゥーイーなんてもんじゃないぞ〜〜もう、ロークが虐められるの見たくない〜〜」と思った。

ところが、意外なことに、この予想は裏切られたのでありました!!

ところで、画像は、ニューヨークのガラス張りのペントハウスだ。

高層ビルのアパートメントのてっぺんにある部屋をペントハウスと呼ぶ。

賃貸料が最も高いし、買うと現在の価格で日本円で3億円くらいはする。

ゲイル・ワイナンドの住居は、こんな感じであるのかなあと、想像して画像をパクりました。

すみません。

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