ストッダード殿堂は、エルスワース・トゥーイーによって選ばれた一群の建築家たちによって、新しい目的にそって改築された。ホップトン・ストッダードは、ロークから損害賠償として得た金に、さらに潤沢(じゅんたく)な額を加えたから。
その建築家たちとは、ピーター・キーティングに、ゴードン・L・プレスコットに、ジョン・エリク・スナイトと、ガス・ウエッブなる24歳の若者であった。この若者は、通りを歩く良家のご婦人方に猥褻な言葉を投げつけるのが好きだった。彼は、まだ自分の力で設計料を稼いだことすらない。これら4人の建築家のうち3人には社会的職業的立場というものがあったが、このガス・ウエッブには何もなかった。だからこそ、トゥーイーは、この人物を選んだ。
しかし、この4人の建築家の中で、このガス・ウエッブの声が一番大きい。自信も一番だ。このガス・ウエッブが言うには、自分には恐れるものなど何もないのだそうだ。彼は本気で言っていた。この4人は、全員が例の「アメリカ建設者会議」のメンバーだった。
この「アメリカ建設者会議」なる集団は、その頃かなり膨張していた。ストッダード公判のあと、多くの真摯な議論が「アメリカ建築家協会」のクラブ室では、非公式ながらなされていた。エルスワース・トゥーイーに対するアメリカ建築家協会の姿勢は、従来から決して好意的ではなかった。わけのわからない「アメリカ建設者会議」という組織をトゥーイーが結成してからは、特にそうだった。
それに加えて、例のストッダード公判事件だ。『バナー』に連載のトゥーイーのコラム「小さき声」が、あのストッダード告訴事件の引き金だった。そのことを「アメリカ建築家協会」の多くの会員は意識せざるをえなかった。つまり、彼らの顧客に建築家を告訴させるような人物は、注意して扱わなければならない。
だから「アメリカ建築家協会」の昼食会のおりなどに、講演者としてエルスワース・トゥーイーを招いた方がいいのではないかという提案が出た。ガイ・フランコンのようにその案に反対する者もいた。最も熱心に反対した会員は、まだ若い建築家だった。彼は雄弁に論じた。エルスワース・トゥーイーの社会的理想には常々同感するのではあるが、しかし、ある特定の人間が自分たちに力を行使しつつあると感じるのならば、やはり協会としては、そのような人間と戦うのが良識であり見識であると。
しかし、会員の大多数は、この若い会員の見解に反対した。だから、エルスワース・トゥーイーは昼食会に招待され講演することになった。出席者はかなりの数になり、トゥーイーは、当意即妙の見事な演説をした。
こういう経緯があり、「アメリカ建築家協会」に属する多くの会員が、「アメリカ建設者会議」にも入会した。ジョン・エリク・スナイトは、その第一号だった。
ストッダード殿堂改築を任された4人の建築家が、キーティングの事務所に集まった。4人が囲むテーブルの上には、殿堂の青写真が何枚も広げられている。ロークの描いた設計図の写真も何枚かある。これは、殿堂の建築請負業者から入手したものである。それらを参考にしてキーティングが作成させた殿堂の粘土模型も置かれている。
4人は、大不況のことや、不況が建築産業に与える災厄的影響などについて、とりとめなくしゃべる。女の話も出る。ゴードン・L・プレスコットは、下ネタ系の冗談なども口にする。
そのとき、ガス・ウエッブがこぶしを振り上げ、キーティングが作らせた粘土模型の屋根の上にズブリとこぶしを落とした。粘土はまだ十分に乾いていなかったので、模型はペシャンコにつぶれてしまった。
「諸君、仕事にとりかかろうではないですか!」と、ガス・ウエッブが言う。
「ガス、何てことするんだ!これだって金がかかっているんだぜ!」と、キーティングが怒る。
「そんなこと、どうでもいい!そんなものに金なんて払うことはない!」と、ガス・ウエッブは応酬する。
4人めいめいが、隅にハワード・ロークと署名された設計図の写真を一式持っている。彼らは、幾晩も、何週間も、このオリジナルな設計図に自分たちの案を描きこんだ。彼らは、必要以上に時間をかけていた。必要以上に変更を加えていた。彼らはそうすることに喜びを見出していたようだ。
結局は4つの変更案ができあがった。彼らはこれらをシャッフルして、4人の顔を互いに立てあった折衷案を作り、最終案とした。
ストッダード殿堂であった建物は、寮と教室と診療所と台所と洗濯室の五層に分割された。玄関ホールには、色のついた大理石が敷きつめられた。階段にはアルミニウムの手すりがつけられた。シャワー室はガラスで囲いがされた。娯楽室の壁の一部には張り出したコリントス様式の柱形が設けられた。そこには金箔(きんぱく)が張られた。巨大な窓はもとのままだったが、その大窓は、各階の床で横断された。
ピーター・キーティングは、正面玄関にそびえ立つ真っ白い大理石のドーリス様式風の吹き放ちの柱廊と、ヴェネチア風バルコニーを設計した。このバルコニーのために、新しくつけるはずのドアは省略された。
ジョン・エリク・スナイトは、十字架をいただく小さな半ゴシック風の尖塔を設計した。様式化されたアカンサス葉飾りの帯も考案し、それらは壁の石灰岩の中に刻まれた。
ゴードン・L・プレスコットが考案したのは、ルネサンス様式風の玄関ドア最上部のコーニスと、3階の床から突き出すガラス張りのテラスだ。
ガス・ウエッブは、もとの窓の枠につけるキュービズム風の装飾と、屋根につける最新式のネオン・サインを考案した。そのネオン・サインには、「恵まれない子どもたちのためのホップトン・ストッダード・ホーム」とあるのだった。
「革命だね、これは。アメリカ中の子どもたちが、こんな家を持つことになるよ」と、ガス・ウエッブは、完成した建物を見上げて言った。
この建物のもとの形は、まだかろうじて残ってはいた。それは死体のようなものであった。各断片がめった切りにされ、破片となった各部分が、再び組み合わされたといった具合の死体だった。
9月になって、このホームの入居者たちが移ってきた。ホームを運営する少数精鋭のスタッフもトゥーイーによって選ばれていた。年齢が3歳から15歳にいたる65人の子どもたちは、これら社会改良の意欲に満ちた女性スタッフたちに選ばれた。彼女たちは、訓練しだいでは健常者になれるような治療可能な子どもたちをあえて入居者に選ばなかった。かわりに治療方法が見つかっていない子どもたちを入居者として選んだ。彼女たちは、善意と憐憫に満ち溢れていたので、もっとも可能性に恵まれない子どもたちを選んだ。
暖かい晩になど、近所のスラムに住む子どもたちが、このストッダード・ホームの公園に忍び込んでくる。彼らは、大きな窓の向こうに見える遊戯室や体育室や台所を、まじまじと見つめる。このスラムの子どもたちは、不潔な衣服を身につけ、顔も汚れている。小さな体つきではあるが彼らは機敏に動く。生意気なニタニタ笑いを浮かべているが、目は生き生きとしている。活力に満ちた知力をその目は物語っている。
ホームの運営に従事する女性たちは、金切り声を上げながら、スラムの子どもたちをホームの敷地から追い出す。真に支援されるべきは、貧しいという理由だけで適切な教育を受けることができない健常者の彼らのほうではないのか?という疑問が彼女たちの頭に浮かぶことはいっさいなかった。
月に一度、このホームの支援者の代表団が、このホームを訪問する。多くの排他的な組織やクラブに名前が登録されているような名家の出身ではあるが、個人的には何の業績もない類の特権的な人々の集団である。ミンクのコートにダイアモンドのブローチを身に着けた人々の集団である。ときどきは、この集団の中に、高価な葉巻を吹かし、英国で購入した山高帽をかぶった紳士なども混じることがある。
エルスワース・トゥーイーは、いつでもこの類の人々にホームの中を案内する用意ができていた。こうしたホーム視察は、ミンクのコートをさらに暖かいものにしたし、ミンクのコートを身につける人々のミンクのコートを着る権利というものを、議論の余地のない明々白々なものにしてくれた。
なぜならば、この視察は、彼女や彼らの優越性と利他的美徳を確かなものにしたから。このような視察のときに、エルスワース・トゥーイーは、彼がしている素晴らしい仕事を褒め称える世辞や追従(ついしょう)を浴びせられる。トゥーイーは、こうして難なく、この追従者たちから寄付金の小切手をせしめた。
その寄付金は、彼が従事している他の博愛的活動、たとえば出版や講義やラジオでのフォーラムや、「社会問題研究所」と名づけられた彼が主宰するニューヨークの学校運営に利用された。
トゥーイーの姪のキャサリン・ハルスィーは、ホームの子どもたちの作業療法の責任者になった。永続的な住み込み職員として、このホームに引っ越してきた。彼女は、火のような熱心さで、自分の仕事にとりかかった。話を聴いてくれる人間になら誰にでも、彼女は自分の仕事について延々と話すのだった。
キャサリンの声は乾いた響きをしていて気まぐれである。話していれば、彼女の口が絶えず動くので、最近になって彼女の口元に出現した皺の線が隠された。鼻腔からあごまでにいたるふたつの線が隠された。
眼鏡をしたままでいるときのキャサリンの方が人々は好きだ。眼鏡をはずした彼女の目には、なぜか正視できないものがある。彼女は、自分の仕事について喧嘩腰に語る。慈善ではなく、「人間的改良」として、自らの仕事を語る。
彼女の一日の中で最も重要な時間は、「創造的時間」と呼ばれる子どもたちの芸術活動に割り当てられる。この活動のために特別な部屋が用意されていた。遠くまでニューヨークの街の景観が見渡せる大きな窓のある部屋だ。ここで、地上に生まれる子どもたちの誕生を統括(とうかつ)する天使のようなキャサリンの守護と指導のもとに、子どもたちは、好きに何かを創造するよう奨励(しょうれい)され、材料を与えられる。
ホームの子どもたちのひとりであるジャッキーが、ある作品を作り上げた日、キャサリンは得意満面だった。ジャッキーは、こぶしいっぱいに、いろいろな色のフエルトくずをつかみ、糊の容器を取り上げて、部屋の隅まで運んでいった。その部屋の隅の壁は突き出して棚状になっていた。その棚状の部分は勾配(こうばい)があり斜面を形成していた。そこには、漆喰が塗られた上に緑色のペンキが塗られていた。その壁から突き出した棚は、日没になったとき部屋に入る光が後退するのを計算して設けられたもので、ロークが最初に殿堂内部を作ったときのままに残されたものだった。
その壁にできている棚状の斜面いっぱいに、一匹の犬とわかる形が、ジャッキーによって張り付けられたフエルトくずで描かれていた。青い斑点と5本の脚のある犬だ。ジャッキーは得意そうな表情を浮かべていた。キャサリンは、同僚たちに語る。
「すごいでしょう?ごらんになりましたか?素晴らしいことじゃありませんか?感動的じゃありませんか?適切な励ましがあれば、恵まれない子どもたちでも、どこまで伸びるか予測がつきません。自己表現の機会をあの子たちに与えることこそが重要です!ねえ、ジャッキーの顔、ごらんになりました?」
スティーヴン・マロリーが制作した例のドミニクの裸像は売却された。誰が購入したのか、ほとんど誰も知らなかった。それは、エルスワース・トゥーイーが買ったのだった。
(第2部54 超訳おわり)
(訳者コメント)
ストッダード殿堂は、5階建ての建物に改装され、知的障害を持つ子どもたちの施設になった。
4人の建築家がテキトーに自案を持ち寄って、誰の案も活かせるように作った建物だ。統一性もなく、機能的でもないが、いいのだ。
トゥーイーにしてみれば、自分で資金を調達せずに寄付で施設を作ることができればそれでいい。4人の建築家は自分のメンツが立てられればそれでいい。
画像は、こんな風にされたのかなあと私が想像したものに近い写真を使わせていただいた。すみません。まあ、この画像の建物ほどにも一貫性はないであろうが。
このセクションの原文は、今の時代的にはなかなか問題含みである。
誤解されかねないセクションでもある。
作者のアイン・ランドは総じて恵まれない人々の福祉施設とかに関心がない。慈善活動に関心がない。
弱者救済は不可能とアイン・ランドは考えている。
それは弱者救済施設が必要ではないという意味ではない。
救済施設は必要ではある。それは死者を埋葬する墓地が文明化された社会には必要であるのと同じ意味で必要なのだ。
救済できないが救済されているというふるまいが文明社会には必要だ。
それは必要な偽善である。
そのような偽善があってこそ、人間社会である。
それとこれとは別として、弱者救済は不可能とランドは考えている。
このセクションを読むと、訓練と養育次第で、知社会生活が送れて労働もある程度できるようになれる知的障害者ではなく、まったくその可能性のない重度の知的障害児の施設をトゥーイーと彼が選んだスタッフたちが運営することを冷たく眺める作者の目を感じる。
向上の可能性のあるスラムの子どもたちに寄付がなされるべきであって、自立の可能性のない児童に時間とエネルギーがより費やされることに作者は冷笑的でさえある。
キャサリンが、重度の知的障害児のお遊びに過度に意味を持たせて感動している様を、アイン・ランドは風刺的に描く。
信頼していたキーティングに裏切られて心が死んだキャサリンが、創造的人生を送る可能性が絶対的にない重度知的障害児養育のお遊びの中に芸術的な創造性を幻視する様子は、痛ましい。
自分では何もできない重度知的障害児のケアに使命感を燃やすキャサリンは、彼女のテリトリーから絶対に飛び立つことはない存在を得ることで、偽りの心の安定を得ているようだ。
自分の外部ではなく内部に神を見出した人間のための殿堂が、意識の闇の中で生きる人々の保護施設に改築された。
皮肉な展開である。
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