第2部(53) トゥーイーの嫌味な祝福

最後の訪問客が帰ったのは、もう真夜中近い頃だった。キーティングとドミニクは、吸殻がいっぱいの灰皿と空っぽのグラスとともに残された。

ふたりは、居間の向かいあう席に座っている。今、このとき自分が何を考えるべきかを考える瞬間をキーティングは、先送りしようとする。

「ピーター、いいのよ。さ、事をすませましょう」

立ち上がりながら、ドミニクが言う。

ドミニクの傍らで、闇の中で身を横たえながら、すでに欲望は満たされたはずなのに、キーティングは、かつてないほどの飢えを感じていた。何の反応もせず、かといって嫌悪しているようでもなく、ただ身動きしないだけのドミニクの体によってもたらされた飢えだ。

ドミニクに課すことを欲していた自らの支配権を大いに行使したはずのひとときを過ごしたというのに、キーティングは敗北感しか感じていない。ドミニクとの初めての行為のあとで、キーティングが最初に小さな声ではあるが発した言葉といえば、「ちくしょう、何なんだ、君は!」だった。

ドミニクからは、何の答えも返ってこなかった。

それから、キーティングは自分の発見を思い出す。ドミニクは処女ではなかった。その発見は、欲望と情熱に浮かされていたので、忘れてしまっていたことだった。キーティングはドミニクに問う。

「君の最初の男は誰だったの?」

「ハワード・ロークよ」

「わかったよ!言いたくないのならば言わなければいいさ!」

キーティングは照明をつける。ドミニクが、全裸で仰向けに自分の傍らに身を横たえているのが見える。彼女の顔は穏かである。無垢で清潔である。天井に向かって優しい声でドミニクは言う。

「ピーター、もし私にできるのならば・・・私はどんなことでもできるから・・・」

「僕が、しょっちゅうこういうことで君を悩ませるんじゃないかと、君は心配しているの?それが君の考えていることならば・・・」

「お好きなようになさって。ピーター、こういうことは、いつもあってもいいし、めったになくてもいいの。どちらでもいいの」

翌朝、朝食をとりに食堂に入って、ドミニクは花束の入った箱を見つける。長くて白い箱だ。ドミニクの皿の近くに斜めに置かれている。

「これは、何かしら?」と、メイドに訊ねる。

「奥様、今しがた届きました。朝食の食卓に置いて下さいという注文がついていました」

その花の箱は、ピーター・キーティング夫人宛になっている。ドミニクは、箱を開ける。数本の白いライラックの花の枝が入れられている。今の寒い季節にライラックとは、蘭の花よりもはるかに贅沢で高価な贈り物だ。

花束には小さなカードがついていた。カードには、大きな文字で名前がつづられている。その大きな文字は、ついさきほど手がすばやく動いて書かれたような風情を漂わせている。カードの上で字が大きく笑っているようだ。そこには、「エルスワース・トゥーイー」とあった。キーティングが言う。

「なんて素敵な!昨日、どうして彼から連絡がないのか僕は不思議だったんだ」

「メアリー、お花をお水に入れておいてくださる?」

ドミニクは、花箱をメイドに手渡しながら言う。その日の午後、ドミニクはトゥーイーに電話して夕食に招待した。

数日後、夕食の席がもたれた。キーティングの母親は、あれこれ先約を口にして、その晩の夕食から逃げた。母親は、ただ自分は息子の結婚にまつわるもろもろの新しい事に慣れる時間を必要としているだけなのだわ、と自分に信じ込ませる。確かに食卓には3人分の席しかなかったし、クリスタルの燭(しょく)台(だい)のキャンドルも3本しかなかったし、青い花とガラスのしゃぼん玉の絵柄のテーブルセンターも3枚しかなかったのだし。

トゥーイーがやって来た。キーティングとドミニクに恭しくお辞儀をする。宮廷のパーティにふさわしいような態度である。ドミニクは、社交的な女主人に見える。いつでも社交的な女主人であったように見える。他のどんな立場も似つかわしくないほどに、ドミニクには女主人ぶりが似合っている。

キーティングは、廊下やあたりの空気やドミニクなど、あちこちを指差すような動作をしては、訊ねる。

「どうです、エルスワース、どうです?」

「ピーター、もう見え透いた挨拶は抜きにしましょう」と、トゥーイーは言う。

ドミニクは、トゥーイーを居間に案内する。ドミニクは正餐(せいさん)用のドレスを身に着けている。男物のシャツのように仕立てた白いサテンのブラウスに、黒い長いスカートをはいている。スカートは、彼女の髪の艶々した表面のように、まっすぐで飾り気がない。腰に巻かれたベルトの細い幅は、その腰をすっぽり囲むのにふたつの手があれば十分であることを見せつけている。ブラウスの袖は短かいので、彼女の腕はむきだしになっている。金のすっきりとしたデザインのブレスレットをしているのだが、彼女の細い手首には、それはあまりに大きく重いようだ。

ドミニクは倒錯的なほどに優雅だった。非常に若い少女のように見えることによって、聡明で危険な成熟さを達成しているような容姿である。

「エルスワース、素晴らしくありませんか?」

キーティングは言う。彼は、長々と数字が並んだ銀行口座を見つめるように、ドミニクを見つめている。トゥーイーは答える。

「期待していたとおりです。まさに期待どおりです」

食卓についていたとき、その場の会話のほとんどは、キーティングが引き受けた。何かにとり憑かれているかのように、彼はしゃべりにしゃべった。大好物をいっぱい与えられ、じゃれまくり転がる猫のようにペラペラとしゃべった。悦びに酔うあまり抑制を忘れてしまったかのように、言葉を繰り出すのだった。

「ほんとうはねえ、エルスワース、あなたを招待しようって言ったのは、ドミニクなんです。僕が彼女に頼んだわけじゃないのです。あなたは、僕らの正式な招待客第一号なんですよ。素晴らしいことだなあ。僕の妻に、僕の最高の友。僕は、いつも気にしていたんです。あなたとドミニクは、互いに嫌いあっているのじゃないかって。なんで、そんなふうに思ったのかなあ。だからこそ一層、今の僕は嬉しいんです。僕たち3人が、こうしていっしょにいるなんてね、ほんと素晴らしい」

3人がデザートを食べ終わりかけたとき、キーティングに電話がかかった。隣室で、キーティングが苛々とした声を上げているのが、ドミニクとトゥーイーに聞こえる。急ぎの仕事で残業している製図係が助言を必要として電話をかけてきたのだが、キーティングは、きつい口調で指示を与えている。トゥーイーは振り返り、ドミニクを見て微笑む。

その微笑は語っている。もっと早くに語られるはずだったのに、語られることをドミニクの態度が許さなかったことを。ドミニクがトゥーイーの視線をとらえたときに、彼女の顔に目に見える変化はない。しかし、ある表情の交換はあった。トゥーイーの意図を理解することを拒絶するのではなく、それを理解している表情である。トゥーイーにしてみれば、拒絶という閉ざされたまなざしの方がよかったのであるが。ドミニクの表情が示すトゥーイーの意図の受諾は、拒絶よりもはるかに侮蔑的であったから。

「で、君はまた私たちの仲間に帰ってきたわけですね、ドミニク?」

「そうですわ、エルスワース」

「お慈悲を求めて懇願するなんてことは、今度はしない?」

「まるで、そうしなければいけないみたいですわね」

「いや、いや。ドミニク、私は君に感心しています・・・ご機嫌はいかがですかな?ピーターは確かに悪くはないとは想像しますよ。まあ、君と私が心に描いている男ほどいいわけではないですが。彼は、まあ最上級ですからねえ。しかし、これで君は学ぶべき機会を失くしましたねえ」

ドミニクは気分を著しく害した顔をするわけでもない。ただ、ほんとうに不思議そうな顔をする。

「エルスワース、何をおっしゃっているのかしら?」

「ねえ、ねえ、君。私と君とは、互いにお芝居しあう段階は過ぎてしまったのではないのですか?君は、あのキキ・ホルクウムの客間でロークに会ったとき以来、彼に恋したのでしょう。露骨に言ってしまえば、君は彼と寝たかったわけだ。しかし、彼は君を歯牙(しが)にもかけなかった。だからこその、君のあの一連のふるまいがあったわけでしょう」

「それが、あなたが想像していらしたこと?」

「十分に露骨だったでしょう?軽蔑された女なのですよねえ、君は。ロークこそ、君が望む男でなければならなかったという事実と同じくらいに露骨ですねえ。君は、あの男を最も原始的に欲望していたでしょう。ところが、あの男は君が存在していることすら気にかけなかった」

「エルスワース、私は、あなたを過大に評価していたみたいです」

ドミニクには、もうトゥーイーがそこにいることに関心をなくしてしまった。警戒する必要もないのだ、こんな男には。彼女は退屈そうな顔をする。トゥーイーは、何が何だかわからずに眉をしかめる。

隣室からキーティングが戻って来る。トゥーイーは、キーティングが席につこうと傍らを通ったときに、彼の肩を軽くたたく。

「お暇乞(いとまご)いする前に、お話しておきたいことがあります。例のストッダード殿堂の改築についてなのですが。ピーター、私は、あれを君に建て直してもらいたいのです」

「エルスワース・・・!」

ドミニクは立ち上がり静かに言う、

「客間で、コーヒーでもいただきましょうか」

(第2部53 超訳おわり)

(訳者コメント)

このセクションはカットしてもいい気がした。

しかし、キーティングとトゥーイーの本質的な鈍感さを示すセクションなので、残した。

キーティングもトゥーイーも、ドミニクという女性を全く理解していない。

頭はいいが、ただの気位の高い気難しいお嬢さんとしか思っていない。

だから、ドミニクとロークが恋人同士であるということを想定もしていない。

ストッダード裁判でのドミニクの逆説的ローク弁護の意味もほんとうはわかっていない。

キーティングならいざしらず、トゥーイーすらわかっていない。

この程度の人間かと、口は異常に達者だが、他愛のない人間であると、ドミニクはトゥーイーを見限る。

しかし、そういう類の人々と社交する退屈さも、ドミニクが自分に課した試練なのだ。

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