その日の晩、ドミニクがロークの部屋にやって来たとき、ロークは微笑んだ。それは、いつもの予期されていたことを知ってかすかに笑う時の微笑ではなかった。ドミニクを待ち、待つことの痛みに耐えていた微笑だった。
ドミニクが証言した公判の日以来、ロークはドミニクに会っていなかった。ドミニクは自分の証言が終わった後、すぐに法廷から退室してしまった。
そのとき以来、ロークはドミニクから何の連絡も受けていなかった。ロークはドミニクのアパートまで行った。しかし、メイドが、フランコン様はお会いできないそうですと、答えるだけだったのだ。
今、ドミニクがロークを見つめながら微笑んでいる。ドミニクがこんなに完璧にロークを受け入れる姿勢をとるのは、これが初めてのことだった。ロークの姿を見さえすれば、あらゆることが解決し、あらゆる問いが答えられるかのような、満たされたまなざしをロークに向けている。自分が存在する意味は、ただロークを見つめている女であることだけに尽きるかのように。
一瞬の間、ふたりは互いを前に黙って立ち尽くしていた。ドミニクは思う。最も美しい言葉は、語られる必要のない言葉だと。
ロークが体を動かしたとき、ドミニクは言った。
「公判のことは何も言わないで。後からね」
ロークはドミニクを両腕の中に抱いた。ドミニクはロークに背を向け、ロークのまっすぐ伸びた体を背中で迎えた。ロークの胸の幅の広さを自分の胸の幅の広さで感じるために。ロークの両の脚の長さを、自分の両の脚で感じるために。ロークに背中から抱かれながら眠るときのように。そのあと、ドミニクはもう自分の体の重さを感じない。ロークの体が押しつけられて、ドミニクの体は、彼によって持ち上げられていたから。
その夜、ふたりはベッドをともにした。いつ自分たちが眠ったのかふたりともおぼえていなかった。ふたりとも疲れきって前後不覚に眠ってしまうときが何度かあったが、その合間に、ふたりの体が身悶えながら痙攣しながら重なるような、そんな激しい行為が何度も繰り返された。
朝が来た。ふたりは衣服を身に着ける。ドミニクはロークが部屋の中を動いているさまをじっと見つめる。体に蓄積されていた力をすっかり出し切ったような、そんなロークの弛緩した動作を見つめる。
ドミニクは、ロークと過ごした夜に自分がロークから受け取ったものについて考える。ドミニクの手首の重い感覚は、ドミニクの強さがロークの神経の中に伝わり流れていることを告げている。ふたりは互いのエネルギーを交換したかのようだった。
ロークは、今、部屋の一角にいる。ほんの一瞬だがドミニクに背を向けている。そのとき、ドミニクは言う。「ローク」と。彼女の声は静かで低い。
ロークはドミニクの方を振り返る。まるで予期していたかのように。多分、これからドミニクが言う言葉も推量してわかっているかのように。
ドミニクは、部屋の床の真ん中に立つ。初めてこの部屋に来た晩に、そうしたように。ある儀式が遂行されるのを厳(おごそ)かに待ち構えるように立つ。
「愛しているわ、ローク」
ドミニクは、この言葉を初めて口にした。
ドミニクは、これから告げる言葉が彼女の口から出る前に、その言葉がロークの顔に与える表情を見たような気がした。
「昨日、私は結婚したわ。ピーター・キーティングと」
もし、そのとき、声をたてまいと唇を噛み、口元を歪め、両のこぶしを堅く握り締め、自らが受けた衝撃から身を守るために、受けた衝撃に対する自らの激情から身を守るために、そのこぶしをひねっている男を目の当たりにしたのであったのならば、ドミニクにとっては、かえってもっと耐えやすかったろう。
しかし、そうではなかった。そのときロークは、そういう行動をとらなかった。受けた衝撃を和らげ軽減するために、ショックを身体や動作に表現するということすらロークはしなかった。彼は、その衝撃を、ただ黙って丸ごと受け入れてしまっていた。ドミニクには、そのことがよくわかった。
「ローク・・・」ドミニクはささやく。震えながら優しくささやく。
「大丈夫だよ」と、ロークは言う。そのあと、彼は言う。
「ちょっと待って・・・いいよ。話して」
「ローク、私はあなたに出会う前、あなたのような人に会うことをずっと恐れていた。私にはわかっていたから。そうなれば、あの証言台で私が目にしたことを見なくてはならないとわかっていたから。あの法廷で私がしたことを、しなければならなくなるとわかっていたから。私は、あんなことしたくなかった。だって、あなたを弁護するなんて、あなたにとっては侮辱でしかないもの。あなたが弁護されなければならないなんて、そんなこと私自身にとっても侮辱でしかない・・・ローク、私は何にでも耐えられる。世間のほとんどの人々にしてみれば、最も簡単で気楽に思えるもの以外なら何にでも耐えられる。でも、中途半端さとか、徹底しないで適当なところですますこととか、いい加減さとか、どっちつかずとか、そういうものには私は耐えることができない。あなたの人となりを考えると、あなたのような人が属する世界以外のどんなものも私は受け容れることができない。少なくとも、あなたが、あなたなりのやり方で戦うことができる世界でなければ、私は受け容れることができない。でも、そんな世界は存在していない。現実にここに存在する世界と、あなたとの間で引き裂かれた人生なんて、私には生きていけない。それは、あなたの敵になる価値もないような人々や物事と闘うことですもの。あの連中と同じ手を使って、あなたの戦いを支えるなんて、あなたに対するあまりにもひどい冒涜行為だわ。それは、私がピーター・キーティングのためにしたことを、あなたのためにすることだわ。嘘をついて、おべっか使って、はぐらかして、妥協して、あらゆる愚劣さに対して迎合することだわ。あなたに機会を与えるために、そんな連中に恵みを乞うなんて、私には耐えられない。あなたを生かすために、あなたがちゃんと才能を生かすことができるようにするために、連中に懇願するなんて、私には耐えられない。それは、私があまりに弱すぎるからかしら?だから、私にはできないのかしら?あなたのために、この世の中の全てを受け容れることと、あなたを愛しているからこそ他の全てのことが受け容れられなくなることと、どちらが強いことになるのかしら。私にはわからない。わからない。私は、あなたをあまりに愛しているから」
ロークはドミニクを見つめている。彼女が話し続けるのを待っている。ロークは、こんなことは、とっくの昔に理解していた。ドミニクには、それがわかっている。しかし、それでも、今、このことは語られなければならない。
「ローク、あなたはあんな連中のことなど意識もしないのね。私は意識してしまう。意識せざるをえないの。ローク、あなたは勝てない。あの連中はあなたを破滅させる。あなたが破滅するのを見るまで私は生きてはいないわ。そんなことになるくらいならば、私はまず自分自身を破滅させる。それだけが私に赦された唯一の防御よ。いったい、他に私があなたのために何ができるというの?私は、あなたにピーター・キーティングとの結婚という犠牲を提供する。私は、あの連中の世界の中で、私自身に幸福を許すことを拒否する。私は苦しみを取る。それが、あの連中に対する私の答え。それが、あなたへの私の贈り物。おそらく、もうあなたには会わないわ。会おうともしない。でも、私は、あなたのために生きる。毎分毎分をあなたのために生きる。私がとる恥ずべき行為のさなかでも、あなたのために生きる。私は、私なりのやり方で、私ができる唯一のやり方で、あなたのために生きる」
ロークは、話そうと体を動かした。そのときドミニクは言う。
「待って。言いたいことを全部言わせて欲しいの。あなたは私に訊ねるかもしれない。じゃあ、なぜ私が自殺しないのかって。それは、私があなたを愛しているからよ。あなたが存在しているからよ。そのことだけが私に死ぬことを許さない。あなたが生きているということを知るために、私は生きていなければならない。だから、私はこの現実のあるがままの世界の中で生きていく。この世界が要求する人生のありようのままに生きていく。中途半端ではなく、徹底的に。私は、この世界に懇願したり、この世界から逃げたりしない。この世界を迎え撃つために自分から歩いていく。この世界に挑んで、ズタズタに傷つき醜くなるわ。この世界が私にできる最悪の運命を私はあえて選ぶ。だから、中途半端にまともな男の妻としてではなく、ピーター・キーティングの妻として生きることを選んだの。そして、私自身の心の中には、誰も触れることのできない心の奥には、私自身の堕落という防御壁に大切に守られた場所には、あなたへの思いがあるの。あなたの思い出があるの。たまに、私は独り言を言うでしょうね。『ハワード・ローク』と。そんなとき、その名を口にするだけの価値が自分にはあったのだと思って、私は私を慰める」
ドミニクは顔を上げ、ロークの前に立っている。ドミニクの唇は固く引きしめられずに、柔らかく閉じている。それでも、ドミニクの口の形は、彼女の顔の中であまりにくっきりとしている。苦しみと優しさと諦めが、そこに形となっている。
ロークの顔から、さきほどドミニクが感知したロークの表現されなかった苦しみが消えているのを、ドミニクは見る。まるで、さきほどの苦しみは、長い間に、彼の一部となってしまったかのようだ。なぜならば、その苦しみは受容されてしまっていたからだった。さきほどの苦痛は、もう生々しい傷ではなく、単なる傷跡になっているようだった。
「ドミニク、今、僕がこう言ったとしたら・・・・すぐに君の結婚を無効にして、この世界だの僕の苦闘だの忘れて、怒りなど感じないで、関心も持たず、希望も持たず、ただ僕のためにだけ存在してくれと僕が言ったら・・・僕が君を必要としているということのためだけに、僕の妻としてのみ、僕の所有物としてのみ存在してくれと、僕が言ったら・・・」
ロークは、さきほどドミニクがキーティングとの結婚を告げたときに、自分が見せたであろうと同じものを、ドミニクの顔に見た。しかし、ロークはひるまない。ロークはドミニクの表情を静かに見つめている。
しばらくしてから、ドミニクは答える。その言葉には、苦しい響きがこめられていた。彼女の唇からもれるのではなく、まるで彼女の唇が無理に強いられて唇の外から音を集めてくるかのような、そんな苦しい響きがこめられていた。
「そのときは、あなたの言うとおりにする」
「じゃあ、僕がそう君に言わない理由はわかるよね。僕は君を止めたりしない。ドミニク、僕は君を愛しているから、止めたりしない」
ドミニクは両目を閉じる。ロークは言う。
「君は、こんなこと聞きたくなかったと思ってる?でも、僕は君に聞いて欲しい。僕たちはいっしょにいるとき、あまり話さなかったよね。互いに何も言う必要がなかったから。全く必要なかったから。でも、これから僕たちはいっしょにいられなくなる。だから、僕は君に言わなければならない。ドミニク、僕は君を愛している。僕が存在しているのと同じくらいに自己本位に、僕は君を愛している。僕の肺が呼吸するのと同じくらいに自己本位に、僕は君を愛している。僕は、僕自身の必要から呼吸している。僕の体に酸素を送るために、僕が生き抜くために、僕は呼吸している。僕は君に与えた。僕の犠牲ではなく、僕の憐れみではなく、僕の自我と僕のむきだしの欲望を君に与えた。君が僕に愛されたいと思うならば、君は僕から犠牲も同情も得ることはできない。ありのままの僕と僕の欲望しか得られない。これだけが僕の愛し方だ。僕が望む君が僕を愛するやり方もそうであって欲しい。ありのままの君と君の欲望で僕を愛して欲しい。犠牲も同情も要らない。今、君が僕と結婚したら、僕は君の存在すべてになってしまう。君の自我と欲望は消えてしまう。君は君自身ではなくなってしまう。そうなったら、僕は君が欲しくなくなってしまうよ。君も僕を愛さなくなるよ。『私は、あなたを愛している』と言うためには、人は、まず『私』でなければならない。無私の人間が他人を愛することなどできないんだよ。僕が、君という『降伏者』を君から得ても、何も獲得しないのと同じことだよ。そんなものは空虚な残骸(ざんがい)でしかない。もし、僕が君に、僕に降伏することを要求したら、僕は君を破滅させることになる。君が消えてしまう。だから、僕は君を止めない。僕は、君を君の夫のところに行かせる。今夜、僕はどうやって過ごしたらいいのかわからない。どうやって君の不在を耐えることができるのかわからない。それほど今の僕は苦しい。でも、僕は君を行かせる。君自身が選んだ戦闘から逃げない君でいて欲しい。そういう君という人間全体が僕は欲しい。降伏者なんて僕は要らない」
ロークの言葉は、ロークが話していることに耳をすませているドミニクにとってよりも、それを話しているローク彼自身にとって、はるかに辛く響いている。ドミニクは、ロークの声から、それを聴き取ることができる。ロークの言葉の中には、集中と緊張が懸命に注意深く保たれている。だから、ドミニクは、黙って耳をすませている。
「君は、この世界を恐れないことを学ばなければならない。あの法廷で君が傷ついたようには、決して傷つかないことを学ばなければならない。僕は、君にそれを学んで欲しい。僕では君を助けられないんだ。君は、君自身で君自身の道を見つけなくてはならないんだ。君がそれを学んだとき、君自身の道を見つけたとき、君は僕のところに帰ってくる。ドミニク、あの連中は、君を傷つけることなどできやしないよ。あの連中は、君を破滅させることもできない。君は勝つ。なぜならば、君は、この世界から自由を獲得するために一番困難な闘いの方法を選んだのだから。僕は君を待っている。君を愛している。僕たちが待つ間、何年もの間、僕はこの言葉を言い続ける。ドミニク、僕は君を愛している」
ロークはドミニクに口づけをする。ドミニクはロークの部屋を去る。
(第2部51 超訳おわり)
(訳者コメント)
このセクションは、訳している時にロークが可哀想で可哀想で、小説の中の出来事なのに、胸が痛くなった。
いやあ……こんな恋愛物語は見たことない。
こんな硬派な恋人たち見たことない。
真に自由に真に独立した人間同士の間でなければ真の絆は保持できないという前提のもとに、まだその段階に達していないから、愛してはいるが、互いに別々に生きていこうと決めた恋人たち。
日本みたいな精神風土では、こんな恋人たちはリアルじゃない。
日本では、孤独と自分自身から逃げるための恋愛や暇つぶしの色事はワンサカあるけれども。
うーん、でも私は、こーいうのいいなあ!!と思ってしまった。
こんなこと語れる男ってカッコいいなあ!!と思ってしまった。
作者のアイン・ランドの妄想の中の理想の男性像が、ほとばしっているセクションであります。
女性作家でなければ造形できないですねえ……こんな男性像は。
ドミニクは、現実の汚れた俗悪さの中ではロークが生きていけないと恐怖している。
ロークの敗北必至の闘いのために自分にできることは何もないと思う。
自分がロークの傍にいても、何もできないと思う。
ならば、ドミニクは自分自身に耐え難いことを課して、心の奥にロークのことを秘めて生きていこうと思う。
それが、ロークの苦闘に満ちるであろう人生の重荷を分け合う方法だとドミニクは思う。
ロークは、ドミニクの世界への恐怖がわからない。
ロークにとっては、建築という仕事を通して地上を美しくすることに自分が従事できればいいのであって、世間とか他人とか人々の邪悪さとか、どうでもいい。
どんな苦しみもロークの心の奥にまでは届かない。過ぎて行く風景だ。
ドミニクがロークを真に理解し、ロークとともに生きて行くには、ドミニク自身がロークと同じ水準にならなければならない。
ドミニクが世界や他人を恐れたり、自分の苦しみを恐れたりすることから解放されるための作業は、ドミニク自身がしなければならない。
誰も代わってそれをすることはできない。
ロークはドミニクに時間を与えた。
これからは、ドミニクの大冒険だ。
ドミニクの大修行だ。
ロークは、物語の最初から人格が完成されている。
ぶっちぎりに、はるか前方を走っている。
この小説は、ロークという人間にドミニクが追いついて行くプロセスを描く風変わりな恋愛物語でもある。
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