次の日の晩、玄関のベルが鳴ったとき、応対に出たのはトゥーイーだった。
訪問客がピーター・キーティングだとわかったとき、トゥーイーは微笑んだ。例の公判の後、キーティングが、いずれやってくるだろうと彼には予想がついていた。キーティングが自分を必要とするだろうと、トゥーイーはわかっていた。ただ、もっと早く来るだろうと想定していたのだが。
キーティングは、何か迷っているかのような態度で入ってきた。両手が手首には重過ぎるといわんばかりに元気がない。目は腫れているし、顔の皮膚には張りが全くない。トゥーイーは明るく言う。
「やあ。ピーター、こんばんは。私に会いに来たのですか?入りたまえ。君はついていますねえ。今晩の私には、特にしなければならないことがないのですよ」
「違うんです。僕はキャティに会いたいのです」と、キーティングは言う。
キーティングは、トゥーイーの顔を見ない。トゥーイーの眼鏡の向こうにある表情も見ない。陽気にトゥーイーは言う。
「キャティ?そうか、当然それはそうですよね。君は、キャティに会いにここに来たことがなかったでしょう。だから、ついそういう考えが私には思い浮かばなくて。しかし・・・まあ、いいでしょう。お入りなさい。姪は在宅しています。こちらです・・・君は姪の部屋を知らないですね・・・2番目の部屋です」
キーティングは、廊下を重い足取りで進んだ。キャサリンの部屋のドアをノックして、彼女が答えると、すぐに入った。トゥーイーは、じっとキーティングの後姿を見ながら立っている。何事か考えている表情である。
入ってきた客の顔を見て、キャサリンは飛び上がった。一瞬の間、呆けたように、信じがたいものを見るように立ちつくした。それから大急ぎでベッドまで行き、そこに放置されていたガードルをつかんで、枕の下に押し込んだ。次に、かけていた眼鏡をむしりとるようにはずし、両のこぶしの中に眼鏡を隠したが、すぐにポケットの中にすべらせた。キャサリンは、どちらの行為をする方が、まずいかしらと頭をめぐらす。このままじっとしているか、鏡台に行きキーティングのいる前で化粧を直すべきか。
半年の間、キャサリンはキーティングと会っていなかった。ここ3年間ほど、間隔はあいていたにしても、ときどきは会っていたのに。昼食も数回ともにしたことがあるし、数回は夕食もいっしょだった。映画には2回行ったことがあった。いつも人がいる場所で会っていた。
キーティングがトゥーイーと知り合うようになって以来は、彼は自宅にいるキャサリンを訪ねることはしなくなっていた。ふたりが会うときは、いつも何事も起きなかったかのように話していたが、結婚の件については、もう随分と長い間、話題にのぼっていなかった。
「やあ、キャティ。君は、今は眼鏡かけているんだ。知らなかったなあ」
キーティングは優しく言う。
「こんなの、ただ・・・本読むときだけよ・・・私・・・こんばんは、ピーター・・・今夜の私ってひどい顔しているでしょう・・・会えて嬉しいわ、ピーター・・・」
キーティングは、体が重そうに座り込む。帽子を手に持ち、コートは着たままだ。キャサリンは、どうしたらいいかわからないといった風情で、微笑しながら立っている。それから、彼女は両手で曖昧な円を描くようなしぐさをして、訊ねる。
「ちょっとの間だけなのかしら、それとも・・・ピーター、コートを脱ぎたいのではなくて?」
「ちょっとの間だけ寄ったんじゃないんだ」
キーティングは立ち上がり、コートを脱ぎ、帽子を取り、放り捨てるようにベッドの上に置いた。それから、キャサリンの部屋に入って初めて、微笑を顔に浮かべて、訊ねる。
「君は忙しい?僕を追い出したい?」
キャサリンは、両手の手首に近いあたりで目をおおって、また急いで両手をたらした。いつも会っていたときのように彼に会わなくちゃいけないわ。私は、今、軽やかに普通に聞こえるように話さなくっちゃいけないわ。
「ううん、ううん、全然忙しくないわ」
キーティングは腰を下ろして、黙ってキャサリンを招くかのように、片腕を伸ばす。キャサリンは、すぐにキーティングのところに行く。キーティングの手に自分の手を置く。キーティングは、キャサリンを引っ張り、自分が座っている椅子の肘掛けの上に座らせる。傍らのスタンドの灯りが、キーティングの顔を照らす。キーティングの顔の表情に気づくぐらいに、もうキャサリンは平静さを取り戻している。キャサリンは、驚いて息を呑む。
「ピーター、どんなひどいことを自分にしてきたというの?なんていう顔をしているの?」
「酒を飲んだけさ」
「駄目よ・・・そんなふうじゃ!」
「そんなふうか・・・でも、もう終わったんだ」
「何が終わったの?」
「僕、君に会いたかった、キャティ。ずっと、君に会いたかった」
「まあ・・・いったい世間の人は、あなたに何をしたのかしら」
「誰も何もしなかったよ。もう大丈夫だって。僕は大丈夫。だって、もうここにいるから・・・キャティ、ホップトン・ストッダードって聞いたことある?」
「ストッダード?・・・知らないわ。どこかで、そんな名前を見たことはあるけれど」
「そうか、気にしないでよ。どうでもいいことだから。その件のことを考えていただけでさ。随分と変な奇妙なことだったって考えていただけでさ。あのね、ストッダードってのは、自分の腐り果てた状態を、もうこれ以上は受け入れることができない老いぼれのろくでなしなんだ。こいつが罪滅ぼしをしようってんで、ニューヨークに大きな贈り物をしようと思って、ある物を建てた。だけど、僕ならそんなとき・・・自分で受け入れることができなくなったら、罪滅ぼしにやることは、本当にしたいと思っていたことをするけどな・・ここに来るとかさ」
「自分で受け入れられないときって・・・何をなの、ピーター?」
「キャティ、僕は、すごく汚いことしちゃった。いつか君に話すよ。でも今は駄目だ・・・ねえ、僕のことを赦してくれるって言ってくれない?何を赦すかは聞かないで。僕は思うだろう・・・僕は思うんだろうな、僕は赦されたんだって、決して僕を赦せるはずのない人間から赦してもらってきたって。傷つくことがなくて、だからこそ赦してくれるはずのない誰かから・・だけど、だからなおさら、僕にとっては事がまずくなる」
キャサリンは、わけがわからないような顔をしている。しごく真面目に彼女は言う。
「私は赦すわ、ピーター」
キーティングは、何度も何度も、ゆっくり頭をふってうなずく。それから、こう言う。
「ありがとう」
キャサリンは、キーティングの頭に自分の頭を押しつけて、ささやく。
「あなた、とても辛い経験をしたのね?」
「うん。でも、もういいんだ、大丈夫」
キーティングは、キャサリンを自分の両の腕の中に引き寄せ、彼女にキスをする。そのあとは、もう例の殿堂のことは考えなかった。キャサリンも自分を悩ましている善と悪のことは考えなかった。ふたりは、そんなことを考える必要がなかった。自分たちが、とても綺麗な気持ちでいたから。ふたりとも、とても清浄に感じていたから。
「キャティ、なんで僕たちは結婚していないの?」
「わからないわ」
そうキャサリンは答えてから、ただ、次のことだけ言う。
「急ぐ必要がないってお互いにわかっているからだと思うわ」
キャサリンは今のキーティングの弱っている状態につけこみたくなかった。
「だけど、僕たち急いだ方がいい。まだ遅すぎるということがなければ」
「ピーター、あなた・・・あなたは、もう私にプロポーズしてくれないつもり?」
「そんなびっくりした顔しないで、キャティ。君がここ数年の間、ずっとこの件に関しては疑いを持ってきたことは、僕だって知っている。今、そのことを考えると、僕はたまらなくなる。今夜、ここに来て君に言いたかったのは、実はそのことなんだ。僕たちは結婚する。すぐに結婚するんだ」
「いいわ、ピーター」
「誰にも言わなくていい。日取りとか、結婚式の準備とか、招待客とか、そんなことどうでもいい。今まで、いつだって、あれやこれやで、僕たちは結婚するのをやめさせられてきた。こんなふうに僕たちが結婚をダラダラ延期してきたなんて、どうしてだったんだろう。いったい何のせいだったのか、何が起きてきたのか、もう正直言って僕にはわけがわからない・・・もう誰にも何も言わなくていい。街から出て、結婚する。あとで、みんなに発表して説明すればいい。誰かが何か言ったのならばね。つまり、君の叔父さんとか、僕の母とか、他の誰かとか」
「そうね、ピーター」
「明日、あんな仕事なんかやめちまえよ。僕は、一ヶ月間の休暇をとれるように事務所にかけあってみる。何とかやってみる。ガイは渋い顔するだろうけれどさ・・・見ものだろうなあ。すぐ用意してね。たくさんのものなんか必要ないよ。ところで、化粧のことも気にしないで。君、さっき今夜はひどい顔してるって言ったよねえ?今の君ほど可愛らしいことはないよ。あさっての朝、9時に僕はここに来る。そのとき出発できるように用意しておいて」
「わかったわ、ピーター」
キーティングが帰ったあと、キャサリンはベッドに突っ伏して声をたてて泣いた。すっかり緊張も抜け、安堵して、体裁を構うことなく、世間のことなんか気にしないで泣いた。
エルスワース・トゥーイーは書斎のドアを開け放しておいたので、キーティングが自分の書斎に気にもとめずにドアを通り過ぎて出て行くのを見ていた。それから、姪のすすり泣きが聞こえてきた。トゥーイーは姪の部屋まで行き、ノックもしないで入っていく。それから訊ねる。
「どうしたの?ピーターが何か君を傷つけるようなことをしたのかい?」
キャサリンは、ベッドから半分だけ身を起こし、叔父を見る。顔にかかっていた髪を後ろにふって、勝ち誇ったように泣いている。
それから、自分が言いたいと感じていた最初の言葉が何であるのか考えもせず、思わずキャサリンは言った。自分では理解できないことを叔父に言った。しかし、叔父のトゥーイーには姪の言ったことが理解できた。彼女はこう言ったのだ。
「私は、もう、あなたのことなんか怖くないわ、エルスワース叔父様」
(第2部49 超訳おわり)
(訳者コメント)
やっとキャサリンが、自分の幸せを素直に求め始めた。
キャサリンの意識は知らずとも、キャサリンの無意識は、魂は知っている。
自分を不幸にしているのは、叔父のエルスワース・トゥーイーだと。
自分が自分の人生を生き生きと生きることをしていないのは、自分が叔父の価値観の影響下にあるからだと。
幸福になりたいという当然の思いを自分で潰しているからだと。
キャサリンは、すでにソーシャルワーカーの仕事に就いているから叔父から離れて暮らすことはできるはずだ。
でも、キャサリンは自立することができない。
それぐらいに有名な知識人である叔父に洗脳されてしまっている。
有名な知識人でもクズが世の中にはいると思い用心するには、キャサリンは若過ぎる。
そこに、ピーター・キーティングが、こんなところから出て結婚しようと言いにやって来た。
キャサリンは解放される!
これで叔父から逃げることができる!
自分を守ることができる!
キーティングは、裁判でロークについて嘘ばかり並べ立てたので、さすがに自分に嫌気がさしてる。
キーティングは、そこまで悪になれない。そこまで悪になれるほどの彼なりの大義に似た目標がない。
弱るとキャサリンのところにやって来て、しかし結婚についてはグズグズと先延ばしにうやむやにしてきたクズ男キーティングも、やっと目が覚めたか……
なわけないでしょ……
クズはクズだよ……
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