ロークは、来るべき公判で自分を代弁する弁護士を雇うことを拒否した。自分自身の弁護は自分で何とかできると言った。しかし、どのように自己弁護をするのかについては言わない。オースティン・ヘラーはカンカンに怒った。ロークの考えを変えさせようとした。
「オースティン、僕には、心からほんとうに従いたいルールというものが、いくつかあります。僕は、誰もが着るような類のものを着ることは構いません。みなと同じものを食べることも、みなと同じ地下鉄に乗るのも構いません。しかし、僕には世間の人々と同じようにはできないことが、いくつかある。これは、そのなかのひとつなのです」
「君は、裁判所の公判室や法律に関して何を知っているというのかね?ストッダードが勝ってしまうぞ」
「ストッダードが何に勝つのですか?」
「この告訴は、彼が勝つ」
「告訴がそれほど重要なことですか?僕には何もできません。あの建物にストッダードが手出しすることを止めることはできないのです。あの建物の所有者は彼です。彼は、地上の表面から、あの建物を吹き飛ばすことだってできます。あの建物をニカワ工場にすることだってできます。僕が告訴で勝とうが負けようが、ストッダードはそうできます」
「しかし、そうするために、あいつは君から金を取るだろう」
「ええ。彼は僕の金を得るでしょう」
スティーヴン・マロリーは、何につけても、評したりはしなかった。しかし、彼の顔は、ロークが始めてマロリーに会った晩と同じ暗い表情をしている。ある晩、ロークはマロリーに話しかけた。
「スティーヴ、話していいんだよ。話して君の気が楽になるのならば」
「話なんて何もないよ。ハワード、あんたが、この世間で生き抜くことなど、どうやってできたのかわからないって、俺は前に言ったことあるだろう?」
「馬鹿馬鹿しい。僕のことで君が怖がることなどない」
「俺は、あんたのために怖がっているんじゃない。そんなことしても何の役にも立たないだろう?俺が怖いのは別のことなんだよ」
数日後、ロークの部屋の窓辺に腰を掛けながら、外を眺めていたマロリーが、唐突に話し始める。
「ハワード、前にさ、俺が怖がっていた野獣のことを話したのを覚えているかな。俺は、エルスワース・トゥーイーについて何も知らない。俺は、あいつを狙撃するまで、あいつに会ったこともない。俺は、あいつの書いたものを読んだだけだった。俺が、あいつを撃ったのは、あいつは知っていると思ったからだった。俺が怖れている野獣について、あいつは何でも知っていると思ったからだった」
ストッダードがロークへの告訴を発表した日の晩に、ドミニクはロークの部屋にやって来た。彼女は何も言わなかった。テーブルの上にバッグを置き、その親密な時間を引き延ばしたいと思っているかのように、ゆっくり、ゆっくり、手袋をはずした。彼女は自分の指を見おろした。それから頭を上げた。彼女の顔には、ある表情があった。ロークの最悪の苦しみを知っていて、その苦しみは自分のものでもあるのだから、苦しみを緩和する言葉など求めもせずに、このように冷静にその苦しみに自分も耐えているのだという表情が。
「ドミニク、君は間違っているよ」
ロークとドミニクは、いつもお互いにこんなふうに話す。まだ始めていなかった会話を続けるように話す。ロークの声は、穏かで優しかった。
「僕は、そんなふうに感じていない」
「知りたくないわ」
「君には知っていてもらいたい。君が想像していることは事実と違う。この一件は、僕にとっては大きなことじゃない。つまり、この一件のために僕が破滅するなんてことはない。多分、確かにこの事件は随分と僕を傷つけた。だから、僕は自分が傷ついているということさえ、わかっていないのかもしれない。しかし、それでも、この事件で僕が駄目になることはない。僕のために、君が苦しみを抱えたいと思っても、僕が抱えている以上の苦しみを君が抱える必要はないよ。僕って人間は、完璧に苦しむということができないんだ。僕は、今まで徹底的に苦しんだことがない。苦痛は、僕の中のある点までは確かに届いく。だけれども、その地点で止まってしまう。僕の心の中に、何物も触れることができない点がある。何物も達することができない点がある。その点がある限り、それは本当の苦痛にはならない。だから、君はそんな顔しちゃあいけない」
「苦痛が、どこで止まるですって?」
「あの殿堂を設計して建てたのは僕だということ以外に、僕が何も考えられなくなり、何も感じられなくなる地点さ。僕はあの殿堂を建てた。他のことは、もう何も重要なこととは思えない」
「あなたは、あれを建てるべきではなかったわ。世間の連中がやっているような類のことに、あの殿堂を渡すべきではなかったのよ」
「そんなこと、どうでもいいんだよ。彼らが、あの殿堂を破壊しても、それさえもどうでもいい。あの殿堂が存在した、かつて在ったということだけに意味があるんだ」
ドミニクは頭を振った。
「私が、あなたからいろいろな仕事を奪ってキーティングにくれてやっているとき、実はあなたを救っているのだと、あなたはわかっていたかしら?あなたに、こんな状態をもたらすような権利を世間に与えないためだったのよ・・・あなたの建てた建物の中に住む権利など世間に与えないためだったのよ・・・あなたに触れる権利など連中に与えないためよ・・・どんなやり方にしろ、そんな権利を世間の連中に与えたくなかったのよ、私は」
(第2部43 超訳おわり)
(訳者コメント)
アイン・ランドは、アメリカの国民作家だ。
「アメリカの国民作家」とは、平たく言えば、「アメリカに生まれたってことは、アメリカ人であるってことは、素晴らしいことであり誇らしいことなんだよ!」と読者の心と脳に強く訴えかける作品を書く作家のことだ。
それが事実か虚偽かはどちらでもいい。
国民作家の機能は、作家本人が何を意図しようが、プロパガンダ担当だ。
日本で言えば、「坂の上の雲」を書いた司馬遼太郎だ。
司馬遼太郎は、幕末明治を舞台にした一連の小説によって、「自力で近代化を成し遂げた偉大なる日本人」を讃えた。
もちろん、それは事実ではない。
高度成長期の自我が肥大した日本人にとっては、事実よりも、誇大妄想的自画像が必要だったのだ。
ともかく、この小説The Fountainheadは、Atlas Shruggedほどではないけれども、アメリカの国民文学ではある。
それは、この小説の終盤で、よくわかる。
唐突に、アメリカ建国の理念をロークは語るので。
しかし、主人公のハワード・ロークは、およそアメリカ人っぽくない。
ロークは闘争的でない。
戦わない。
口論しない。
自分が告訴されても弁護人さえつけない。
自分がストッダード殿堂を設計して、この地上に立ち上げることができたことだけで満足している。
どんなに傷ついても苦しんでも、ロークの精神の奥の奥には、傷も苦しみも達しない。
ロークにとっては、外部で起きることは彼の力で止めることができないものであり、生起しては通り過ぎていく自然現象だ。
自然現象と戦ってもしかたない。
自然現象のような他人の理不尽な言動と戦っても無意味だ。
それは、その他人の問題であって、彼の問題ではない。
だからロークは争わない。
自然災害によって物質的ダメージは受けるが、それは彼本人の選択の結果でもなければ、彼本人の意志の産物でもないのだから、そのことで彼の魂が揺さぶられることはない。
起きたことに対して淡々と対処するだけのことである。
ゆえに、ロークは恐れてもいないし不安になってもいない。
彼の本質に対して、告訴されたこと自体は大きな意味は持たないから。
ハリケーンに意味はない。
マロリーやドミニクは、このようなロークの心のありようが、まだ理解できない。
もちろん、オースティン・ヘラーも理解できない。
こんな人物が主人公のこの小説は、ほんとうは非アメリカ的だ。
この小説はアメリカ人にだけ読ませておくには、もったいない。
ハワード・ロークって、最高に上質な日本人っぽくないですか?
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