第2部(41) 嵐の前の小さな嵐

5月にはいって、ホテル・アクイタニアの建設が中断された。

ホテルの所有者たちのうちのふたりが株相場で破産した。ひとりの所有者が、遺産相続問題のからんだ資金について、誰やらから難癖(なんくせ)をつけられ、金が出せなくなった。もうひとりの所有者は、他の誰かの相続財産の使い込みをした。

というわけで、ホテル建設の母体であった株式会社は、もつれにもつれた裁判沙汰のために吹き飛んでしまった。その問題の片がつくには、何年もかかる見込みだった。ホテルの建設は、未完成のまま宙に浮いてしまった。

ケント・ランスィングはロークに言う。

「僕がちゃんと片はつける。数人は殺すはめになっても。連中の手が出せないようにするよ。いつか必ずホテルは完成させる、君と僕とで。しかし、時間が必要だ。かなりの時間がかかるな、これは。君に我慢してくれとは言わないよ、僕は。君や僕みたいな人間は、何年かかってもやり遂げるという中国の殺し屋みたいな忍耐力がなければ、最初の15年間でさえ生き残ることはできないからな。戦艦を隠すみたいな忍耐力だな」

『バナー』の社屋のドミニクのオフィスの机の端に腰をおろし、エルスワース・トゥーイーは大きな声で笑う。

「未完成交響曲!」

この言葉は、ドミニクが自分のコラムで使ったものだ。「セントラル・パーク南の未完成交響曲」と書いたのは彼女だ。以来、建設が中断されたたままのホテル・アクイタニアのあだ名は、「未完成交響曲」になった。

ニューヨークに初めて来たような人々が、マンハッタン目抜き通りの5番街沿いの一等地に、いかにも金のかかっていそうな建物が、骨組みはできているもののガラスもはめられず窓が空虚に口をあけたまま放置されていることに注目する。その建物は、壁は半分ぐらいしかできていないし、梁はむきだしのままである。で、彼らは、あれは何かと質問する。すると、ロークのことなど聞いたこともないし、ホテル建設の背後にある事情など何も知らない街の人々は、クスクス笑って答える。「ああ、あれ?未完成交響曲さ」と。

夜も更けてから、ロークは建設が中断されたたままのホテル・アクイタニアの向かいの通りのセントラル・パークの木々の下に立ち、ホテルを見上げる。マンハッタンの空を区切る、どんどん建てられてゆく高層建築群の中で、死んだような黒々とした姿をさらしているホテルを見上げる。ロークの両手は、粘土で作ったホテルの模型をなぞるように動いている。これだけ距離があると、粘土模型を拡大したまま壊れているようなホテルの姿は、ロークの手のひらの中に、すっぽり入る。しかし、彼の手に本能的にこめられた模型を創造しようとする動きがそのときに掴むことができるのは、空気だけだった。

ロークは、ときどき未完成のホテルの中を全部歩き通すことを自分に強いる。空っぽなホテルの枠組みをおおってぶらさがっている厚板が揺れる。その揺れる厚板の上を彼は歩く。天井のない部屋を通り抜ける。床のない部屋を通り抜ける。皮膚の裂け目から出る骨のような桁を見る。あらゆる場所から梁の突き出た出口にいたるまで、端から端まですべて、ロークは歩き通す。

年老いた警備員が、1階の裏にできている小部屋に住んでいる。警備員はロークが誰だかわかっているので、好きに歩き回らせておく。1度だけ、ロークが出口から出てきたとき、その警備員が突然言ったことがある。

「俺には、息子がひとりいたんだけどね。と言っていいのか、まあ死んで生まれてきたんだがね」

何ゆえだったか、警備員はそう口に出さずにはいられなかった。自分がほんとうは何を言いたかったのかよくわからずに、その警備員はロークを見つめた。警備員は、ロークの真摯な仕事ぶりをよく知っていた。

ロークは目を閉じて微笑む。老いた警備員の肩に優しく手を置く。それは握手のような仕種だ。それから、ロークは歩き去っていく。

しかし、ロークがそうしていたのも最初の数週間だけだった。それから、彼はホテル・アクイタニアのことを、自分に忘れさせた。

10月のある宵のこと、ロークとドミニクは、完成した「殿堂」の中をいっしょに歩いていた。1週間もすれば、「殿堂」は公開される。ホップトン・ストッダードが旅行からもどってくる日の翌日に、公開は予定されている。この建物の建設作業に従事した人間以外は、まだ誰も「殿堂」を目にしていない。

よく晴れた静かな宵だった。「殿堂」の敷地には誰もいないし、物音もしない。石灰岩の壁に差し込んでいる日没の赤い色は、朝の最初の光のようだ。

ロークとドミニクは、「殿堂」を眺めながら立っている。それから中に入って、大理石の彫像を前にする。ドミニクをモデルにした彫像である。ふたりは、互いに何も言わない。

ふたりの周囲に形作られた壁が影を作り、ふたりを包む。その影まで、その壁を作った人間によって形成されたように見えるほど美しい。日没の薄れていく光の動きは、計算しつくされた規則性を持って流れている。その光は、刻々と変化する壁の表面に声を与える言葉のようだ。

「ローク・・・」

「何だい?」

「ううん・・・何でもない・・・」

ふたりは、ドミニクの自動車の置いてある場所まで、いっしょに歩いていく。ロークの手は、ドミニクの手首を握っている。

(第2部41 超訳おわり)

(訳者コメント)

もうすぐ大きな嵐が来ます。

ロークもドミニクも巻き込まれる嵐です。

このセクションは、その大きな嵐の前触れのような小さな嵐が書かれている。

このホテル・アクイタニア建設中断は、1930年代に入ってからの、1929年のニューヨーク市場の株価大暴落の影響で、ホテル・アクイタニア建設に出資していた富豪たちが破産したので、起きた。

作者のアイン・ランドは、あえて、この小説の舞台の1920年代や30年代のアメリカの世相に言及していない。

それは、ランドの年上の女性の友人のイザベラ・パターソンが、「小説の中に具体的な世相はあまり書き込まない方がいい、この小説は時代を超えたもっと普遍的な問題を扱っているのだから」と、忠告してくれたからだ。

それにしても、これからのロークとドミニクの運命について……訳者の私も辛いです。

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