コード・ビルやホテル・アクイタニアの基礎工事が終わり、やっと最初の鋼鉄の柱が立った頃、翌年1月の初めごろに、ロークは例の「ホップトン・ストッダード人間精神の殿堂」の設計図にとりかかっていた。
最初の図面ができたとき、ロークは秘書に言った。
「スティーヴン・マロリーという彫刻家を呼んでください」
「所長、マロリーですか?どなたでしょう・・・ああ、あの狙撃犯のスティーヴン・マロリーですね」
「何だって?」
「その人、エルスワース・トゥーイーを狙撃したでしょう?」
「へえ、そうだったのか。なるほど」
「あの、所長は、そんな人に御用があるわけですか?」
「そう、そんな人に」
それから2日の間、秘書はあちこちに電話をかけまくった。美術品のディーラーや画廊は言うにおよばず、建築家たちや新聞社にも問い合わせた。誰も、スティーヴン・マロリーがどうなったのか、どこにいるのか知らなかった。
3日目になり、秘書はロークに報告した。
「住所がわかりました。イースト・ヴィレッジです。ここにいると教えてもらったのですが、この方、電話をお持ちではないようです。確かにここに住んでいらっしゃるのか確認できません」
ロークは、こちらに電話していただけないかという旨の手紙を、その住所宛に書かせた。
その手紙に返事はなかった。何の返答もないまま一週間が過ぎた。それから、やっとスティーヴン・マロリーから電話があった。秘書は電話をロークにつないだ。
「もしもし?」
「スティーヴン・マロリーです」
若く硬い声だ。そう告げたあとは、マロリーは黙る。いかにも、こらえしょうのなさそうな好戦的な沈黙だ。
「マロリーさん、お会いしたいのです。僕の事務所にいらしていただけませんか。ご都合のいい時間をお選びください」
「何を話すために俺に会うの?」
「もちろん、彫刻の仕事の制作費についてです。私が手がけている建物のために、彫刻を制作していただきたいのです」
長い沈黙があった。
「へええ・・・どのビル?」
マロリーの声は、死んでいるかのように生気がない。
「ホップストン・ストッタード人間精神の殿堂です。お聞きになったことがおありでしょうが・・・」
「ああ、聞いたことある。おたくが、あれやってるの。あの建物のこと知らない人間などいないよ。マスコミ対策に支払っている金と同じくらい、俺に払うつもり?」
「僕は、マスコミになど金を出していません。僕は、あなたが望むだけの金を支払います」
「そんなに大きな額になりっこないだろ」
「うちの事務所に何時ごろ来ていただけるでしょうか?」
「おたくの方で決めてよ。俺が暇なことは知ってるくせに」
「明日の午後2時はいかがでしょうか?」
「いいよ。僕はおたくの声、気に入らないな」
ロークは笑った。
「僕は、あなたの声が気に入りました。それはさておき、ともかく明日午後2時にここでお会いいたしましょう」
「了解」
マロリーは電話を切った。ロークは、ニヤリと笑いながら受話器を置いた。しかし、すぐにその笑いが消えた。電話をじっと見つめてロークは座ったままだ。顔が曇っている。
案の定マロリーは約束を守らなかった。何の連絡もないまま3日が過ぎた。ロークは、直接マロリーに会うべくイースト・ヴィレッジに出かけて行った。
マロリーが住んでいる下宿屋は、街灯のついていない路地にある。みすぼらしい褐色砂岩でできた小さなアパートである。フルトンの魚市場の臭いが漂ってくる。そのアパートの半地下には、洗濯屋と靴屋があり、その建物の両端に狭い入り口がついている。
だらしない姿の家主の女が言う。
「マロリーの部屋?5階の裏手さ」
家主は関心も払わず足をひきずって立ち去った。ロークは、くもの巣のように配管がはりめぐらされた天井にくくりつけられている電球以外に照明のない木製の階段をたわませながら、5階へと階段を昇って行く。汚いドアをノックする。
ドアが開く。やつれた若い男が入り口に立っている。髪がボサボサに乱れている。下唇が四角い形をしている。意志の強そうな口元である。ロークが今まで見たこともないような陰影に富んだ目をしている。その若い男が言う。
「何か用?」
「マロリーさん?」
「そうだけど」
「ハワード・ロークです」
マロリーは大きな声をたてて笑う。ドアの枠にもたれている。片腕を、入り口を塞(ふさ)ぐように伸ばして反対側のドアの枠に押しつけている。客人を部屋に招き入れる気はないようだ。明らかにマロリーは酔っている。
「おやおや、直接のお出ましか」
「入ってもいいですか」
「何のために?」
ロークは、側の階段の手すりの上に腰を下ろす。
「なんで約束を守らなかったんですか?」
「約束?ああ、そうか。じゃあ、理由を申し上げましょうか」
マロリーは重々しい調子で話し始める。
「実はこういうわけさ。ほんとに約束どおり行くつもりだったよ。そのつもりだった。で、おたくの事務所に向かった。でも、映画館の傍を通ったら、『枕ひとつに頭がふたつ』って映画がかかっていたんだよねえ。で、入ってしまった。俺はあの映画を見なければならなかったんだよねえ」
マロリーはニヤニヤ笑いながら、体の脇に伸ばした腕を揺らして見せる。
「君、僕を部屋の中に入れたほうがいいよ」
ロークは静かに言う。
「何だよ、あんたいったい。じゃあ入れよ」
部屋は狭い穴蔵(あなぐら)だった。奥には、寝て起きたままに放置されているベッドがある。新聞の束がゴミのように溜まっている。古い衣類とガスコンロがある。安物雑貨店で売っているような額入りの風景画がある。羊のいる気分が悪くなるような茶色の牧場の絵とか、そういう類のものを描いた絵だ。スケッチや人物像など、マロリーの彫刻家という職業を示すようなものは何も部屋にはない。
ロークは、部屋に一脚だけある椅子の上に乗っている何冊かの本とフライパンを持ち上げ床に積み、椅子に腰をおろす。マロリーはニヤニヤ笑いながら、酔いで少しだけ体を揺らしながら、ロークの前に立つ。
「あんたさあ、やり方がおかしい。物事はそういうふうには進まないの。あんたは、ひとりの彫刻家を追っかけてシャカリキみたいだけどさ。ことは、こういう具合に進むものなの。まず、俺を事務所に呼ぶ。最初は俺が行っても居留守を使う。二度目に俺が行ったら、俺を1時間半待たせる。それから、おもむろに応接室にやってきて、俺と握手する。で、どこそこの誰々を知っているかと俺に訊ねるわけ。で、お互いそいつらと友人であるのは結構だとか何とか言うわけ。でも、今日は急ぎの用もあるので、もうすぐ昼食だから、食事がてら仕事の話をしようということになる。で、そのあとは、この件を2ヶ月間保留にしておく。それから制作手数料を俺に払う。だけど、そのあとになって、あんたは俺が駄目だと言うの。実は最初から俺には不都合があったと言うの。そうして、あんたはその件をゴミ箱にほうり投げる。それから、他の誰かを雇って、そいつが仕事をする。こういう具合に物事はすすむのさ。今回ばかりではなく、いつもね」
こう言いながらも、スティーヴン・マロリーの目は、じっとロークを観察している。それはプロの目だ。話すにつれて、マロリーの声から尊大な陽気さが消える。最後の言葉を言い終わる頃には、その声は生気を失くし、平坦になっている。
「違う。今度は違う」と、ロークは言う。
若者は、無言でロークを見つめて立っている。
「あんたが、ハワード・ロークか。俺、あんたの建てるもの好きだ。だから、あんたに会いたくなかった。会わないでおけば、あんたの建物見るたびに、反吐(へど)が出そうになるなんてことにはならないだろうからさ。あの建物は、あの建物にふさわしい人物に作られたんだって、ずっと考えていたいからさ、俺は」
「僕は、僕の作った建物にふさわしいことをしているよ、今」
「そんなこと、ありえないんだよ!」
マロリーは寝乱れたままのベッドに崩れ落ちるように腰かけ、前かがみになる。マロリーのまなざしは、ロークの顔つきを測る精度の鋭い秤(はかり)のようだ。ロークを観察し、ロークを値踏みし、ロークの人物を測り認めたことをはっきり表現している不敵な目だ。
ロークは非常に注意深く言葉を選んで話し始める。
「聴いてください。僕は君にストッタード殿堂のための彫像を制作してほしい。紙をくれませんか。今ここで契約したい。もし、君の作品が使えずに、他の彫刻家を雇うことになったら、僕は君に百万ドルを賠償すると契約書に書く」
「あんた普通に話せるんだね。俺は酔っ払っていない。全然、酔ってはいないんだ。なるほどね」
「え?」
「あんた、なんで俺を選んだ?」
「君が、いい彫刻家だから」
「ほんとうのことじゃないな」
「君がいい彫刻家だってこと?」
「違う。それがあんたの理由ではないな。俺を雇えって誰があんたに頼んだ?」
「誰も」
「俺が寝た女?」
「君が寝た女なんて知らないよ」
「建物の予算の関係?」
「そうじゃない。予算に限りはない」
「俺への哀れみか?」
「いいや。どうして僕が君を哀れむ必要がある?」
「トゥーイーを撃った奴を雇うのはいい話題になるからか?」
「まさか。冗談じゃない」
「そうか・・・じゃあ、何なんだよ?」
「なぜ、君は、一番簡単で単純な理由のかわりに、そういう下らないことばかり探ろうとするのかな」
「どの理由だって?」
「僕は君の作品が好きという理由だよ」
「なるほど。それはみんなが言うことさ。それは、誰もがそう言って、言われた方はそう信じることになっている類のことさ。誰かが、そういう奴の頭の蓋(ふた)を吹き飛ばしたら、何が出てくるかなあ。そうか、いいじゃないの、あんたは俺の作品が好きと。で、ほんとの理由は何?」
「僕は君の作品が好きだ」
マロリーは真面目に話し出す。声はすっかり素面(しらふ)に戻っている。
「ということは、俺が作ったものを、あんたは見ているということだな。で、あんたはそれが気に入った。それを気に入らなければならないと誰に言われたわけでもなく、なぜそれを気に入るべきなのか説明を受けたわけでもなく、あんたは、あんた自身で、あんたひとりで・・・俺のことを何も知らずに、そんなことは何も気にしないで・・・ただ、俺が作ったものを見ただけで・・・あんたが、俺の作品の中に見たものだけで判断して・・・ただ、それだけで、あんたは俺を雇おうと決めて、わざわざ俺を探して、ここにまで来て、こうやって無礼な目にあっているというわけだ。あんたは俺の作ったものを見て、俺が必要だと思った。それが、あんたの言いたいこと?」
「そのとおり」と、ロークは答える。
マロリーの目を大きく開かせたものは、直視するのが怖いものであった。マロリーは頭を振り、自分をなだめるような調子で答える。
「まさか」
マロリーはさらに前かがみになる。声に生気はなく、懇願するような響きが混じっている。
「ロークさん、俺はあんたに怒ったりしない。俺は、ただ知りたいだけなんだ。わかったよ。あんたは俺に仕事をさせたいと考えた。あんたの言う条件で俺が引き受けると、あんたはわかっている。あんたは、俺に百万ドルの賠償する契約などする必要はないよ。この部屋を見てよ。勝負は最初からついているじゃないか。なのに、なぜあんたは本当のことを話してくれない?俺にとっては、この問題は非常に大事なことなんだ」
「何が、君にとって非常に大事だって?」
「つまり・・・その・・・いいですか、俺は思っていないんだ。誰かが再び、俺を雇うとは。しかし、あんたはそうしたいと言う。いいさ。俺は、そうする。ただ、俺はもう再び、そうは考えたくないんだ。誰かのために自分が仕事しているのだとは・・・俺の作品を好きな誰かのために仕事しているとは。俺はもうこれ以上は、やっていけなかった。もし、あんたが本当のことを言ってくれるなら、俺の気分はずっとよくなる。俺は・・・もっと静かな気持ちになれる。あんたは俺に何か装う必要はないよ。だって、俺はもうゼロなんだから。何者でもないのだから。俺は、本当のことを言われたからといって、あんたを恨んだりしない。感情を害することもない。俺に真実を言う方が、ずっとはるかに品位のあることなんだ。それが単純で正直なことでしょう。本当のことを言ってよ。そうしてくれれば、俺はあんたをもっと尊敬する。ほんとうに」
「おい、どうしたんだ?こんなふうになるなんて、いったい君は何をされてきた?なぜ、そんなことを言っているんだ、君は?」
「だって・・・」
突然マロリーはうめき声をあげる。声が割れる。頭がうなだれる。マロリーはやっと抑揚のないささやき声で言う。
「だって俺、2年間も仕事なかったんだ」
マロリーの片手が、弱々しく部屋を示して円を描く。
「俺、2年間こうしてたんだ。あんたが俺に言ってくれるようなことは、この世には存在しないという事実になんとか慣れようとしてきたんだ・・・」
ロークは、マロリーの傍まで歩いていく。マロリーのあごを上向きして、顔を上げさせる。それから、こう言う。
「君は、いったい何を気にしているんだ。君は、そんなこと気にかけるには、あまりに良すぎるのに。しかし、君が知りたいというのならば、言ってもいい。君は現在最高の彫刻家だ。僕はそう思う。なぜ、そう思うかというと、君の作る人間の彫像は、ありのままの人間ではなくて、ありうる姿の、あるべき姿の人間を描いているからだ。君は、可能性というような漠然とした段階を超えて、見る者に何が可能であるかを明確に見せてくれる。君の目が確実にとらえた人間の可能性を彫刻の形で見せてくれる。君の作品は、僕が今まで見てきたどの作品よりも人間への軽蔑がない。君は、人間というものを、とてつもなく尊敬している。君の作品は、人間の中にある英雄的なるものを描いている。だから、僕がここに来たのは、君に便宜をはかってやるためでもなければ、君を憐れんでいるからでもない。僕は単純な利己的な理由で、ここに来た。手に入る限りもっとも良質な食べ物を人に選ばせる理由と同じだ。ちゃんと生き残るにはそうしないといけないだろう?それが生きる法則だよ。最高のものを求めるというのが。僕は君のためにここに来たのではない。僕は、僕自身のために、ここに来たんだ」
マロリーはロークの傍から急に体を背け、ベッドに顔を押しつける。両腕は伸び、片方の腕は自分の頭を包んでいる。両のこぶしは、しっかりと閉じられている。背中で、シャツの布地がかすかにふるえている。マロリーはすすり泣いている。ふるえているシャツと、のろのろとねじられて枕に一層沈み込む両のこぶし。
今まで一度も泣いたことがない男が泣いているのをロークは見つめている。マロリーの気持ちはロークにもわかる。痛いほどわかる。自分が心から愛する仕事ができない辛い日々をロークも経験してきたから。
ロークは、ベッドの端に腰を掛ける。マロリーのねじれた手首から目が離せない。マロリーの姿から目をそらさずにじっと見つめているのは、辛い作業だった。
しばらくしてから、やっとマロリーは身を起こして座りなおす。ロークを見る。ロークの顔は、これ以上ないほどに静かで優しい。憐れみのかけらもない優しさだ。他人の苦しみを秘かに喜びながら見つめている人間の顔つきではない。同情を必要とする乞食の姿に心動かされている顔ではない。他人が受けている屈辱を貪(むさぼ)るような表情はロークの顔にはみじんもない。ロークの顔は疲れ、こめかみあたりが締めつけられているようだ。まるで殴打(おうだ)を受けたかのような顔でもある。
しかし、彼の瞳はあくまでも静かだ。マロリーを黙って見つめているだけだ。ことの事態をきちんと理解している硬い清潔なまなざしだ。そのまなざしには、マロリーへの敬意がこめられている。
「さあ、横になれよ。しばらく横になったら」と、ロークは言う。
「あんた、どうやって今まで生き延びてきた?」
「横になれって。休めよ。あとで、いろいろ話そう」
マロリーは起き上がる。ロークはマロリーの肩をつかみ押し戻す。床からマロリーの足が浮き、枕に彼の頭が沈む。その若者は、もう抵抗しなかった。
ロークがベッドから一歩退いたとき、がらくたでいっぱいのテーブルにぶつかった。何かが音をたてて落ちた。マロリーが落ちたものをつかもうと身を起こす。ロークは、そのマロリーを腕で押し止め、落ちたものを拾う。
それは、安っぽいみやげ物店で売っているような小さな石膏の飾り板だ。腹ばいになっている赤ん坊が、前に向かって這い這いしながら、ふと肩越しに恥ずかしそうにふりかえっている絵柄だ。その絵の数箇所の筋肉の造形は、隠しようもないマロリーの彫刻の才能を示している。その才能が表現されるのを休んでいる最中に、うっかり激しく才能がほとばしってしまったという趣だ。才能が表現されるのを休むとは、わざと見え透いて粗野で陳腐であろうとする試みだ。納得できなくて、拷問を受けているようなそんな、ぎこちない努力だ。
それを見つめるロークの手が震え始めている。それは、実際はほんの一瞬の動きだったのだが、何分も続いた動作のようにマロリーには思えた。その飾り板をつかんでいるロークの腕は、ひじの曲がったところに空気の重さを集めるかのように、じっとしたままでいるかと思うと、おもむろに前方にサッと動いた。飾り板が部屋を飛んだ。壁にぶつかり粉々になった。殺意を感じさせるほどの激しい怒りを、ロークの動きは示していた。
「ローク?」
「なに?」
「ローク、俺もっと前にあんたに会いたかった」
マロリーは表情を変えずに言う。目を閉じ、頭は枕におき横たわっている。
「そうすれば、他の理由があるんじゃないかとか詮索しないですんだのに。俺、あんたに感謝する。俺に仕事をくれるからじゃない。ここに来てくれたからじゃない。あんたが、俺のために何かしてくれるからじゃない。ただ、あんたがあんたでいることに感謝する」
それから、マロリーは体を伸ばし、ぐったり疲れて、身動きもせずベッドに横たわる。長い長い苦しみの段階をやっと終えた男のように眠り始める。
ロークは、窓辺に立ち、荒(すさ)みきった部屋とベッドに寝ている若者を眺める。なぜ、自分は今何かを待っているような気分になっているのだろうと、ロークは思う。僕は頭上で炸裂(さくれつ)する爆弾を待っている?。馬鹿馬鹿しい。なぜ、こんなことを思うのか。
しかし、そのときロークはわかった。そうだ、これこそ塹壕(ざんごう)の穴に閉じ込められたとき兵士が感じる気持ちだ。このマロリーの部屋の荒廃は貧乏のせいではない。この荒廃はある戦争の傷跡なんだ。世界の兵器庫に保管されているどんな武器よりも、さらに邪悪な爆発物によって引き裂かれた略奪の跡だ、これは。戦争か・・・何との戦争だ?この戦いの敵には名前も顔もない。この若者は戦闘に傷ついている戦友だ。
ロークは寝ているマロリーを見おろして立つ。奇妙な新しい感情がわいてくる。自分の両腕でこの若者を担ぎ上げ、安全地帯に運んでやりたいという気持ちだ・・・地獄と安全地帯だけは、明確にどこそこにあると誰も指し示すことができないが・・・つまり地獄も安全地帯もどこにも存在しないのもしれないが・・・
ロークは、ホテル・アクイタニアの設計を自分に依頼してくれたケント・ランスィングのことを思い出す。ケント・ランスィングは、確か戦争にまつわることを何か言っていたな、と思い出そうとしている。
しばらくして、マロリーが目を開けた。片方の肘で体を支え、頭を上げる。ロークは椅子をひいて腰をおろす。そして言う。
「さあ、話せよ。君がほんとうにここで話したいことを話せよ。家族のこととか、子ども時代のこととか、友だちのこととか、自分の気持ちとか、そんなことは話さなくていい。君が考えることを僕に話してくれ」
マロリーは、信じられないと言わんばかりの面持ちでロークを見る。そして小さな声で言う。
「あんた、どうして俺の気持ちがわかる?」
ロークは微笑んで、何も言わない。
「あんたは、なんで俺を殺しつつあったもののことがわかるの。ゆっくりと、何年もかけて、憎みたくない人々を俺が憎むように仕向けるもののことがさ・・・あんたも感じたことある?あんたの一番の友だちが、あんたに関するあらゆることを愛してくれても、一番肝心なことは愛してくれないっていう状態、経験ある?あんたにとって最も大事なことが、連中にはどうでもいいことなんだ。ほんとにどうでもいいことで、その響きでさえ、感じ取ることができないんだ、連中には。だけど、あんたはその響きを聞きたいって言う。俺がしていること、したいことを、あんたは知りたいって言う。俺が考えていることを、あんたは知りたいって言う。そんなの退屈ではないかい?」
「いいから話せよ」
それから、ロークは何時間も座っていた。マロリーが自分の作品のことや、作品の背後にある思想のことや、彼の人生を形成してきた思想のことについて、ほとばしるように大いにしゃべるのに、じっと耳を傾けた。
溺れかけていた人間が、やっとの思いで海岸にたどり着き、空気をたっぷり吸い込み、新鮮な空気にむせて空気に酔うように、マロリーはしゃべり続けた。ロークは聴き続けた。
(第2部(38) 超訳おわり)
(訳者コメント)
このセクションは、非常に好きだ。
ロークとマロリーの出会いは感動的だ。
この二人は生涯の友人になる。
二人の共通点は、自分が好きで選んだ仕事をほんとうに愛していること。
自分の仕事を、可能な限りの人間の高い豊かな可能性を表現するものにしたいと思っていること。
あるがままの人間ではなく、より高みを目指す人間を前提に、仕事をしていること。
こういう人間は孤独になりやすいが、同志とめぐり合えば、その友情と互いへの尊敬は、互いを支える。
こういう人間は孤独で戦ってきた時間が長いので、真の友に出会ったときの喜びは深い。
ところで、私は「芸術産業」のことは、わからない。
だいたい、芸術のことがわからない。
興福寺だの京都の国立博物館だの、法隆寺宝物殿だの、そういう長い歴史をくぐってきたものは、ただただ圧倒されるような何かを発している。
しかし、現代の有名な画家の記念美術館に行っても、どこがいいのかわからない。
なんで、こんなくっだらね〜〜迫力もなんもない絵が持て囃されて、画家は勲章もらうんかね〜〜と思う。
日本の有名な公募展を観に行っても、ザザザザと観て歩いて終わりだ。
なんも胸に響いてこないから。
まあ、さすがボストン美術館とか、メトリポリタン美術館とか、ロシアのエルミタージュ博物館だと、とんでもない絵に出逢うこともある。
でもまあ、現代美術の展覧会だと、面白いと感じても、すぐに忘れる。
おそらく、誰の絵が入賞して、誰の絵が最優秀賞かというのも、どこかの人脈とか、誰かの弟子とか、どこかの芸大ネットワークとかで決まるのだろうなあ……と思う。
どこにも属さない天才の絵が公平に認められるなんてことはないのだろうなあと思う。
よく街中にオブジェが飾られている。
名古屋のどこかには、全裸の女性がゴルフをしてる像が飾られていた。
誰が全裸でゴルフしますかね?
まあ、ああいうくだらない彫刻もなんかのコネで採用されて買われるのだろう。
そのコネ・ネットワークに入っていない彫刻家の作品は、どんなに良くても芸術作品マーケットに流通することはないのだろう。
ということで、スティーヴン・マロリーのように、どこにもコネのなさそうな、一般受けするようなことは考えていない彫刻家は、ただただ自分が育んでいる理想の人間像を彫刻という形で表現したい人間は、ほんとうは世に受け容れられることはないのだろう。
それでも、創造して残しておけば、いつか誰かの心に衝撃を与えるよ。
画像の彫刻は、私なりに、マロリーの作品のイメージに近いものをネットから勝手に選んで、貼り付けた。 すみません。
私が1番好きな彫刻は、この首のないサモトラケのニケ像だ。
小学生の時に、図書館の西洋美術全集で観て、一目惚れした。
今にも高く飛び立とうとする女性像。
飛翔しようとしている女性像の首がないのが残念とは思わなかった。
製作者は、普遍性を持たせるために、あえて首は作らなかったのではないかなどと、高校時代には考えた。
まさか、これが、キリスト教徒の暴徒によるギリシアやローマ時代の多神教の神々の彫像の破壊の一例なんて、思いもしなかった。
仏教寺院遺跡をぶっ壊すタリバンみたいな連中は、いつの時代にもいたんだな。
壊したってダメだよ。美しいものは美しいんだ!
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