ドミニクはホールに立ちどまり、そのドアを見つめた。「ハワード・ローク建築家」と、そこには銘打たれている。
ドミニクがロークの設計事務所に来たのは、これが初めてである。長い間、ここに来るのには抵抗があった。しかし、ドミニクはロークの設計事務所を見なければならない。見たいのだ。
受付にいた秘書は、ドミニクが自分の名を告げたとき仰天した。ドミニク・フランコンが『バナー』のコラムで、しきりにローク批判をしていることは、良く知られていることだったから。
しかし、秘書はロークにその来訪者について知らせた。戻ってきた秘書は、「フランコン様、どうぞこちらへ」と、ドミニクをロークのオフィスに通した。
ドミニクが入って来たとき、ロークは笑った。全く驚いてもいないかすかな微笑だ。
「いずれ来るだろうなと思っていたよ。ここの案内しようか?」
「あれは、何かしら?」
ロークの両手は粘土で汚れている。長いテーブルの上の描きかけの図面紙がいっぱい重ねられている中に、ある建物の粘土模型が置かれている。角度やテラスをおおざっぱに検討するためのものである。
「ホテル・アクイタニアかしら?」と、ドミニクは訊ねる。
ロークはうなずく。
「いつも、粘土で模型を作るの?」
「いや。いつもじゃないけど。ときどきね。ここらあたりに大きな問題があってさ。しばらく、その問題と遊んでいたいから。これは、僕の好きな仕事になるな。実に難しい」
「お仕事を続けてらして。あなたが仕事しているところを見ていたいわ。気が散るかしら?」
「全然」
しばらくの間、ロークはドミニクが側にいることを忘れてしまっている。
ドミニクは隅に座り、ロークの手の動きをじっと見つめている。その手が粘土で壁を作るのを見ている。その手が、ビルの構造の一部を壊すのを見ている。その手は、またゆっくりと、忍耐強く作業を始める。ためらいつつも、その手の動きには奇妙な確かさがある。
ドミニクは、ロークの手のひらがなめらかに動き、長いまっすぐな面を作るのを見ている。ドミニクの目の動きよりもすばやく、ロークの手が空間からサッとある角度を作るのを見ている。
ドミニクは椅子から立ち上がり窓辺に行く。はるか眼下に広がるマンハッタンを埋める数々の建築物は、ロークのテーブルの上の粘土模型ほどの大きさにしか見えない。ロークの両の手が、眼下に広がる数々の建築物のセットバックや角や屋根を形作っては、それを壊し、また形成している・・・そんなふうに、ドミニクには思えてならない。
ロークの手が無心に動き、階段状に上昇していく遠くに見える建物の形をなぞる。その建物を自分の手が所有している手ごたえをロークは感じている。自分の悦びのために、その手ごたえを味わっている。ドミニクには、どうしてもそう思えてならない。
ふとテーブルの方を振り向くと、身をかがめて模型に注意深く集中しているロークの顔に、髪が一筋かかっている。ロークはドミニクの方を見ていない。自分の指の下で作られていく形を見ている。ドミニクは、他の女の体の上で彼の両手が動いているのを見つめているような気持ちになる。彼女は、壁に頼りなくもたれる。激しい肉体的な喜悦を感じている。
(第2部37 超訳おわり)
(訳者コメント)
このセクションはカットしても、物語の進行上どうということはないのだが、残した。
ドミニクは、ロークが仕事しているところを見るのが好きだ。
ロークが設計した建物を見るのが好きなように、ドミニクの存在も忘れて仕事に集中するロークを見るのが好きだ。
時代設定は、ちょうど1930年か1931年あたりである。日本で言えば昭和5年か6年だ。
写真は、その時期のマンハッタンである。
ロークの事務所から、このような風景が見える。
ドミニクは、ロークの手から、このような街の景観が生まれるような気持ちになっている。
それは、いかほどのエクスタシーだろうか。
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