ピーター・キーティングは困惑していた。キーティングの仕事に対するドミニクの突然の献身は目もくらむばかりだった。それは、キーティングを大いに嬉しがらせるものであり、かつそれによって入ってくる金は巨額だった。誰もが、キーティングにそう言った。
しかし、キーティング自身は、目がくらむとも思えなかったし、ドミニクから大いに認められちやほやされているとも思えないのだった。反対に、彼は不安だった。
キーティングはガイ・フランコンを避けようとした。フランコンはすぐ訊いてくるのだ。
「やあ、ピーター、調子はどう?あっちの方は、うまくやっているかい?娘は君に夢中みたいだねえ!みんなのドミニクが、ねえ・・・こうなるとは誰が想像したろうねえ。あの子にこんなことができるとはねえ?5年前にあの手でやってくれていたら、僕なんか億万長者になれたのにねえ。しかしねえ、そりゃ、父親のためでは、あそこまでする気になれないだろうがねえ・・・」
ガイ・フランコンは、そこまで言って、キーティングの顔にかんばしくない表情が浮かんでいるのに気がついて、語尾の言葉を変える。
「自分の男のためでないとあそこまでできない・・・と言っていいかな?」
「ガイ、あの、お願いですから、僕たちは、そういうことは・・・」
キーティングは言いかけて、ため息をつき、口ごもり、結局は口を閉ざす。
「わかる、わかる、わかる、君の言いたいことは。我々は、そういうことは、早まってはいけない。しかしねえ、ピーター、僕たちの仲じゃあないか、婚約したとかそういう公的なことではないというのだろう?しかし、それ以上のことになっているけどね。婚約以上に大っぴらだからねえ、ドミニクのしていることは」
そこまで言って、ガイ・フランコンの顔から微笑が消える。彼は、しごく真面目な顔つきになる。正直に年齢の出た顔つきである。彼にはめったにないような、本物の威厳が出た顔つきである。ガイ・フランコンは単純明快に言う。
「ピーター、僕は嬉しいよ。それこそ僕が望んでいたことだ。こうなって、僕は幸福を感じている。よき手に娘を委ねることができるのだから。娘のことにせよ、他のことにせよ・・・」
「あの、すみません、勘弁していただけませんか?かなり急ぎの仕事を、今かかえているんです。昨晩だって2時間しか眠っていません。例の、あのコルトン工場の件です。ドミニクには感謝していますが、しかし、とんでもなく大変な仕事ですよ、あれは。だから、お待ち下さいませんか。仕事がうまくいって、ちゃんと小切手を見るまでは、お待ち下さい。」
「なかなかに、うちの娘はすごくないかね?教えてくれないか、なんで娘は、ああいうことしているのかねえ?」
キーティングは、自分には答えようがないと、フランコンに告げることができなかった。キーティングは何ヶ月もドミニクとふたりきりで会っていなかった。ドミニクの方から会うことを拒否されていたのだから。
ドミニクと最後にかわした会話を、キーティングは思い出す。トゥーイーの家での会合からの帰りのタクシーの中での会話だ。ドミニクから侮辱をうけたときの彼女の静謐(せいひつ)な無関心を思い出す。ドミニクから受けた軽蔑を知ってしまえば、ドミニクからどんな思いを味あわされるか、何にしても予想がつきそうなものだった。しかし、まさかこういう形になろうとは思ってもいなかった。ドミニクはキーティングのために闘う戦士となった。宣伝係となった。彼女は、ほとんど客引きみたいなことをしている。
ドミニクが、頼まれもせずにキーティング擁護作戦を開始したときからも、何度も、キーティングはドミニクに会うことは会っている。彼女が主宰するパーティに招待された。未来の顧客に紹介されもしたりした。キーティングはドミニクに礼を言おうとしたし、その理由を問いただそうともした。しかし、ドミニクがする気もない会話をドミニクに強いることは無理だった。
キーティングとドミニクの周りには、いつも興味津々のパーティ客たちでごったがえしていた。だから、キーティングは、愛想よく微笑えみ続けるしかなかった。ドミニクの手が何気なくキーティングのディナー・ジャケットの黒い袖に触れたり、ドミニクがキーティングの傍らに立つとき、彼女の太ももが彼のそれに触れることもあった。彼女の態度が、キーティングに対して、非常に内輪で親密なものであるときもあった。こういうことのいっさいがっさいを気にかける風もない彼女の雰囲気によって、彼女の態度は、これ見よがしにもっと親密に見えた。
然し、キーティングは苦々しく思うのだった。僕は、ドミニク・フランコンがピーター・キーティングに恋していないと考えているニューヨークでただ独りの人間だと。
ある日、たまたまレストランで、キーティングはドミニクと出くわした。ドミニクがひとりで昼食をとっているのを目にした。だから、その機会をすばやくつかんだ。まっすぐ、ドミニクのテーブルに進んだ。ドミニクが自分にしてくれている信じがたい善行以外の何も思い出さない旧友のように振舞おうと心に決めながら。キーティングは、最近自分が手にした数々の幸運について明るく話したあと、こう訊ねた。
「ドミニク、君は、どうして僕に会うのをいやがっているの?」
「何のために、私があなたにお会いしなければなりませんの?」
「だけど、それはおかしいじゃないか!だってさ、君にお礼する機会を僕に与えてくれてもいいと、君は思わないかい?」
「もうお礼の言葉はお聞きしましたわ。何度も」
「そうだね。でも、ほんとうは、僕たちふたりきりで会わなければいけないと思わなかったかい?僕が、少々・・・とまどっているとは思わなかったのかい?」
「思いもしませんでした。そうね、そうかもしれませんね」
「だからさ?」
「だから、何でしょう?」
「これで全部なの?」
「これで・・・いままでのところ全部で5千ドルぐらいになりますかしら、あなたに渡った設計料は」
「君は意地が悪いね」
「そういうことを私がするのは、やめた方がよろしいかしら?」
「いや、違うよ!その、そういうことではなくて・・・」
「手数料のことでは、ありませんでしたのね。よかった。私は、今まで通りにいたします。さあ、これでもう私たちには他に話すことがあるのかしら?私は、あなたのために、ああいうことをする。あなたは、私がそういうことをして嬉しい。完全に合意が成立していますわね」
「合意だなんて、僕の気持ちとは裏腹な言葉だ。僕は、すごく君に感謝している。眩暈がするくらいにね。僕は君に感謝している。どうしたらいいかわからないほどにね」
「よかったわ、ピーター。さあ、もうお礼の言葉はお聞きしましたから」
「わかるよねえ、君が僕の仕事について大いに考えてくれているとか、気にかけてくれているとか、注目してくれているとか、そういうふうに考えるほど、僕は自惚れたことは一度もない・・・」
と、ここまでキーティングは言って、こう訊ねる。
「君は、ほんとうに僕がすごい建築家だと思っているの?」
キーティングの声は少しだけ上ずっている。なぜならば、この問いは、釣り糸をひっぱる鉤(かぎ)のようなものだったから。長く隠されていた鉤のようなものだったから。これこそが、自分が心の奥にかかえている不安の核心であることを、キーティングは自覚していた。
ドミニクは、ゆっくりと微笑み、こう言った。
「ピーター、あなたがそんなことを尋ねるなんて、人が聞いたら笑いますわよ。特に私に訊ねるなんて」
「そうだね、わかっているんだが、しかし・・・君は、本気で言っているの?君が僕について言ってくれている様々なことだけれど」
「効果ありますでしょう?」
「うん。でも、それは、僕がいいと君がほんとうに思っているからなの?」
「あなたは、ひっぱりだこですわ。それが証拠になりませんの?」
「うん・・・いや・・・僕が言いたいのは・・・ドミニク、僕は一度だけでいから、君の口から聞きたいんだ。僕が・・・」
「よろしいかしら、ピーター、私は次の仕事がありますので急いでいます。でも行く前に、あなたにお知らせしておかなければならないことがあります。明日か明後日か、ロンズデイル夫人からあなたにお話があると思います。ちゃんと覚えておいてください。あの方は禁酒主義者です。犬が好きで、煙草を吸う女性がお嫌いです。輪廻転生を信じていらっしゃいます。あの方は、パーディー夫人のお宅より素敵なお家を建てたいとお思いなの。ホルクウムがパーディー夫人のお宅を設計したのですけど、あなたが、パーディー夫人のお宅は、これ見よがしでけばけばしく見える、本当の簡素さというものは、はるかに金がかかるとロンズデイル夫人におっしゃれば、万事うまくいきます。細かいところについても、あの方といろいろ議論してもいいですわよ。そういうのが、あの方のご趣味ですから」
キーティングは、ロンズデイル夫人邸について、うきうきと考えながら、ドミニクと別れた。それで、自分がドミニクにした質問については忘れてしまった。
あとになって、それを思い出したキーティングは、忌々しく恨めしい気持ちになった。
この鬱憤(うっぷん)晴らしとして、キーティングは、トゥーイーが集めた例の「アメリカ建設者会議」の会合に出席するのが楽しみになった。なぜ、こんなことを鬱憤晴らしと自分が感じているのか、キーティングにはわからない。しかし、それはそうなった。その会合に出るのは快適な行為だった。ゴードン・L ・プレスコットが、建築の意義について話しているとき、キーティングは注意深く耳を傾ける。内容のない実にくだらない話である。
しかし、キーティングは、大いに満足しながらこの話を聞いた。彼は他のメンバーに目をやった。彼らは、みな気をつけながら黙っている。キーティングがこういう状態が好きなように、他のメンバーもこういう状態が好きである。チューインガムを噛んでいる少年がいる。マッチ箱の背をヤスリがわりにして爪を磨いている男もいれば、粗野にも伸びをしている若者もいる。
「アメリカ建設者会議」は、一ヶ月に一度会合を持つ。会合は、ウエスト・サイドの車庫の上階にあるやたら広い、がらんとした部屋で開かれる。実質的な活動は何もない。人の演説に耳をすませ、ルート・ビールの安いブランドのものをチビチビ飲むだけである。会員数は急速に増加するということはなかった。会員の質が向上するということもなかった。この集団が到達すべき具体的な成果というものはない。ただ集まって無為に時を過ごすだけであるが、一見いかにも意味ありげな会合というものは、キーティングにとって、実に好もしいものだった。
エルスワース・トゥーイーは、「アメリカ建設者会議」の会合にはみな出席した。しかし何も発言しなかった。隅に腰掛けて聴いているだけだった。
ある日の晩、キーティングとトゥーイーは、会合の後、連れ立っていっしょに帰った。ウエスト・サイドの暗いさびれた通りを歩いた。で、コーヒーを飲もうと、みすぼらしいドラッグストアに、ふたりは立ち寄った。
ドラッグストアとはトゥーイーらしくないと思ったので、トゥーイーの行きつけの店ということで有名になった高級レストランについて、キーティングは言及した。トゥーイーは笑って、こう言った。
「どうして、ドラッグストアではいけませんか?少なくとも、ここならば、誰も私たちのことに気づく者はいませんからね。誰にも邪魔されません」
ふたりがついたテーブル席のブースの色あせたコカ・コーラの商標に向かって、トゥーイーは、エジプト製の煙草の煙を吐き出す。トゥーイーは、サンドイッチを注文した。ハエの糞のしみがついているわけではないが、ついているように見えるピクルスの破片を、トゥーイーは優美にかじる。
食べたあとで、彼はキーティングに話しかける。彼は、行き当たりばったりの調子で、しゃべる。最初のうちは、彼が言うことには大した意味はない。これこそ彼の声である。エルスワース・トゥーイーの比類なき声だ。キーティングは、自分が広大な草原の真ん中に立っているような気分になる。夜空に星が煌くその下で、迷うことなく抱かれ、帰属する場所を与えられながら、確信に満ち、安全に守られているように感じているような、そんな気持ちになる。その比類ない声は、こう言っている。
「優しさですよ、ピーター。優しさです。それこそ、我々が最初に守らねばならないことです。おそらく唯一のものかもしれませんね。ですから、昨日の私のコラムで、あの新しい劇を私はこっぴどく批判したのです。あの劇には、本質的な優しさが欠けていました。ピーター、我々は、周囲の人の誰にでも、優しくなければなりません。我々は他人を受け入れ、赦さなければなりません。我々ひとりひとりの中には、人様から赦されねばならないことが、いっぱいありますからねえ。あらゆることを愛することを学べば、もっともつまらない人々、もっとも小さな人々、もっとも卑しい人々、そういう人々を愛せば、君の中のもっとも卑しい部分まで愛されるでしょう。そうなってこそ、我々は普遍的な平等というものがどういう感覚のものであるかわかるのです。人々と兄弟のように結びついているといった大きな安らかさ、それこそ新しい世界ですよ、ピーター。美しい新世界です・・・」
(第2部27 超訳おわり)
(訳者コメント)
このセクションは訳していて退屈だった。
キーティングやトゥーイーが登場すると、テンション下がる。
もてはやされ、仕事に追われるキーティングは、ドミニクがほんとうに自分のことを優れた建築家だと思っているので、自分のことを宣言してくれているのだろうかと、訝しむ。
どこまでいっても、他人の承認が欲しいキーティングである。
忙しくとも無意味で無為な団体の「アメリカ建設者会議」の会合に行くのは、本当は好きではない建築の仕事から逃げる口実になる。
トゥーイーに会うのは、かれがキーティングの全てを肯定し受け入れてくれて気楽だからである。
キーティングが求めるものは、常に自分自身からの逃走だ。
ほんとうの自分に直面しないために、虚飾と虚偽の中で生き続けるキーティング。
こういう人は多いのだろうなあ。
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