その晩、煤煙(ばいえん)で汚れた台所で夕食をとっているとき、ロークは新聞を広げた。ゴシップ欄のところに、ロジャー・エンライトの名前が見える。その短い記事を読む。
「それは、ゴミ箱行き途上にある、もうひとつの大計画といった状態である。石油王であるロジャー・エンライトも、今回ばかりはどうしようもなさそうだ。さすがの彼も、エンライト・ハウス建築という自らの最新の誇大妄想に歯止めをしなくてはならないはめになるだろう。問題は建築家らしい。名建築で知られる6人もの建築家たちが、決して満足しないエンライト氏によってお払い箱になったと聞く。彼らは、すべて超一流の建築家たちなのにも関わらず」
ロークは、自分が頻繁に闘ってきた心の痛みを感じる。何とか、その痛みが自分をあまりに傷つけることがないように、今まで戦ってきたのに。自分ならばやり遂げることができるであろうことが、まざまざと目に浮かぶのに、それをする機会が自分には閉ざされているので、やりきれないという痛みを感じる。
そのとき、理由もなく、ロークはドミニク・フランコンのことを思う。彼女は、そのとき彼の心にあった痛みとは何の関係もない。なのに、建築ができないという苦痛について考えているときでさえ、ドミニクのことが自分の心にある。そのことに気がついて、ロークは衝撃を受ける。
一週間が過ぎた。そんな頃のある晩、ロークに手紙が届いた。その手紙は彼が閉ざした事務所宛だった。それは、ニューヨークで住んでいたアパートに転送され、さらにそこからマイクの家に転送された。最後にマイクが、その手紙をロークのいるコネティカットに送ってくれたのだ。その手紙の封筒には石油会社の住所が刻印されていたが、そんなものは、ロークにとっては意味がない。ロークは手紙を開く。読む。
「親愛なるローク氏へ。私はあなたとお会いしたいと努力してまいりましたが、あなたがどこにおられるのかわかりません。すぐに私に連絡をしていただきたい。あなたにとって最も簡便な方法で構いません。あなたが、あのファーゴ・ストアを設計した人物ならば、私は、是非とも、私が計画するエンライト・ハウスに関して、あなたと話しあいたく存じます。ロジャー・エンライト拝」
30分後、ロークは汽車の中にいた。汽車がニューヨークに向かい出発するとき、ロークはドミニクのことを思い出す。自分がドミニクを置き去りにしたことを思い出す。その思いは遠いものに思える。重要ではないものに思える。ただ、そんな時でさえ、まだドミニクのことを思っている自分を知り、ロークは驚く。
私は受け入れることができるわ。とドミニクは思う。私は、私の身に起きた全てのことを、いずれ忘れるようになるわ、たったひとつの記憶以外は。とドミニクは思う。
その記憶とは、ドミニクが自分の身に起きたことの中に悦びを見出したということだった。それは、あの男にもわかっていた。彼女よりももっとわかっていたろう。あの男は、彼女のところに来る前にすでにそれがわかっていたし、それがわかっていたからこそ来たのだ。それ以外の理由では、あの男は来なかったろう。ドミニクは、あの男に答えを与えなかった。答えていれば彼女自身を救ったであろう答えを。単純な嫌悪という答えを。
しかし、ドミニクは、その嫌悪の中に歓喜を見出していた。自分の恐怖の中に、男の力の中に歓喜を見出していた。それこそドミニクが欲しかったものだった。自らの純潔が剥奪(はくだつ)され貶められることこそ、望んでいたことだった。しかし、ドミニクは、それゆえにあの男を憎んだ。
ある朝、ドミニクのもとに一通の手紙が届いた。朝食のテーブルにそれは置かれていた。勤務する新聞社の上司のアルヴァ・スカーレットからの手紙だった。それには、こう書かれてあった。
「・・・ドミニク、いつ帰ってくるんだい?ここに君がいないので、どれぐらい社の者が寂しがっているか僕は言えないくらいだ。君は、確かにそばにいて気持ちがいいという人間ではない。僕だって、ほんとうは君が怖い。しかし、こうやって離れてみると、僕は君のふくれあがった自我を、もっとふくらましてあげてもいいと思う。告白すると、みんな君が帰ってくるのを、今か今かと待っている。まるで皇后のご帰還のように」
ドミニクは手紙を読み、笑う。彼女は思う。もし、みんなが知ったら・・・私は強姦された・・・私は採石場から来た赤毛のろくでなしに強姦された・・・私、ドミニク・フランコンが・・・屈辱を受けたという激しい感覚に襲われながらも、その強姦されたという言葉は、ドミニクに、あの男の腕の中で感じたのと同じ種類の悦びを与えた。
近辺の土地を歩き回りながら、道路で人々と行きかいながら、その行きかう人々が、町の女領主である自分に会釈するときなど、ドミニクはそのことを思う。できることなら、みんなに聞こえるようにドミニクは叫びたい。私は強姦されたのよ!と。
ドミニクは、日々が過ぎていくのを意識しなかった。奇妙に外界とは距離を保ち、自分自身に繰り返している言葉を心に秘め、ひとりぼっちで満たされたものを感じていた。それから、ある朝、庭の芝生に立っているときに、理解した。もうあれから一週間が過ぎたのだ。一週間もあの男に会っていない。ドミニクは踵を返し、芝生を横切る。道路に急いで歩を進める。採石場に行くのだ。
採石場までの何キロもの道をドミニクは歩く。道路を歩いていく。帽子もかぶらずに夏の陽にさらされながら。ドミニクは急いでいるわけではない。急ぐ必要はないから。それは必然的なことだから。あの男にまた会うことは必然的なことだから。
ドミニクには目的があったわけではない。目的と呼ぶには、あの男に会う必要性は、あまりに大きかった。その後のことは・・・他の目的は確かにあった。隠された重要なことはあった。それは彼女の心の中にぼんやりとわきあがってくる。しかし、まず何よりも、今は、ただひとつのことだけのために歩く。あの男に会うこと。再び会うこと。
ドミニクは採石場に来た。ゆっくりと、注意深く、愚かしく、周囲を見回す。あの男がいない。自分が目にしたもののありえない言語道断さというものが、彼女の頭にすんなり入ってこない。だから愚かしく見回す。
あの男が、そこにいないことは、すぐにわかった。採石場の作業はたけなわで、太陽は、一日で一番忙しく活気に満ちた時間帯ゆえに高く上がっている。視界の中に、怠けてのんびりしているような作業員など誰もいない。しかし、あの男は、その作業員たちの中にはいない。呆けたように待ちながら、ドミニクは突っ立っている。長い間、そうしている。
それから、現場監督が目に入った。彼に近寄って行こうと、やっとドミニクは動く。現場監督が言う。
「こんにちは、フランコンのお嬢さん・・・いいお天気ですな。秋はそう遠くないですよ。秋が来ます。葉っぱをご覧なさいよ」
ドミニクは、訊ねる。
「ここで働いていた人がいたでしょ・・・とても鮮やかなオレンジ色の髪の・・・あの人どこかしら?」
「ああ、はい。あれね。行きましたよ」
「行った?」
「やめたんでさ。ニューヨークに行ったんです。と思うけど。えらく急に行ってしまって」
「いつですか?一週間前?」
「さて、いや、ちょうど昨日でさ」
「あの人は誰なの」と言いかけて、ドミニクはやめる。こう質問し直す。
「昨晩、あんなに遅くまでここで仕事していた人は誰ですか?爆発音が聞こえましたが」
「お嬢さんのお父さんとこのビルの仕事で特別の注文だったんです。例の、コスモ=スロトニック社のビルですよ。急ぎの仕事でして」
「そうでしたか・・・わかりました・・・」
「お嬢さんにご迷惑をかけまして、すみませんでした」
「あら、よろしいのよ、それは・・・」
ドミニクは歩いて帰る。ドミニクは、あの男の名前を誰かに聞くことはないだろう。それは、彼女にとって自由を保持する最後の機会になる。
ドミニクは、身のこなしもすばやく、突然の安堵感に気持ちも軽く歩く。私はあの男の名前さえ知らないことに、なぜ今まで気がつかなかったのかしら。なぜあの男に名前を聞かなかったのかしら。
ドミニクは不思議に思う。それは、多分、一目見たときから、私にはあの人について知らなければならないことが全てわかっていたからだわ、とドミニクは思う。ニューヨークの街で名前も知らない労働者を見つけるなんて無理だわ。だから私は安全だわ。もし、あの男の名前を私が知っていたならば、私はすぐにニューヨークに行ってしまうもの。
未来は単純だった。あの男の名前を決して誰にも訊ねないということ以外に、ドミニクにはすることがない。
ドミニクには執行猶予期間がある。あの男の名前を誰にも尋ねないという決意は、いずれきっと敗北してしまうだろう。もしくはその決意がドミニクを敗北させてしまうだろう。
そうなったときには、ドミニクは、あの男の名前をなんとしてでも知ろうとするだろう。でも、少なくとも、それまでは私は安全だわ・・・とドミニクは思う。
(第2部10 超訳おわり)
(訳者コメント)
実に巧い展開だ。
唐突にロークに、自分が設計したかったエンライト・ハウスを設計できるかもしれないチャンスが来た。
石油王ロジャー・エンライトのオフィスまで行ったのに、エンライトの秘書に門前払いを食わせられたロークだったが、その石油王がロークの設計によるファーゴ・ストアを見てエンライト・ハウスの設計を、実質上依頼して来たのだ。
サッサとニューヨーク行きの列車に乗るローク。
建築のことで頭がいっぱいなのに、なのに、ドミニクのことも考えている自分に驚くローク。
ドミニクの方は、自分が一旦決意したら、「あの男」が誰であるか突き止めることができることを知っている。
「あの男」に再会することを可能にできる自分自身の行動力をドミニクは知っている。
しかし、ドミニクはあえて、その自分の力を行使しない。
さて、どんなふうに、ドミニクとロークは再会するのだろうか?
このあたりから、この小説はグングンガンガン読者を引きつけて行く。
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