第1部(45) キーティングが手にした偽りの名誉

ピーター・キーティングは、確かに勝利のトランペットが鳴るのを夢見てはいた。しかし、それが交響楽的に炸裂する音は予想もしていなかった。

コンテストの優勝者を告げる一台の電話の鳴る音から、それは始まった。次に事務所の電話という電話が鳴り出した。ひっきりなしに次から次へと鳴った。交換手の指の下から炸裂するように鳴った。交換手は配電盤のスイッチを操作するだけで必死である。ニューヨーク中の新聞社から電話があった。有名建築家からもあった。質問だの、インタヴューの申し込みだの、祝福だのの電話である。

次に、エレベーターから人があふれ出てきた。事務所のドアというドアから、人が押し寄せてきた。メッセージや電報もあった。キーティングが知っている人々も来れば、彼が会ったこともない人々も来た。受付係は恐慌状態になった。誰を受け入れ誰を断ればいいのかわからなくなった。

キーティングは、握手しまくった。延々と続く手の流れだ。車輪のような手の流れだ。柔らかな湿った歯車が、ばたばたとキーティングの指に触れ回転していく。最初のインタヴューで自分が何を言ったのか、キーティングは覚えていない。インタヴューが行われたフランコンの部屋は、人やカメラでいっぱいになった。フランコンは、部屋にある酒入れのキャビネットの扉を開けっ放しにし、人々に酒をふるまった。

フランコンが期待した以上の宣伝効果である。新聞のあちこちの頁から、ピーター・キーティングの顔がアメリカ中の人々を見上げる。ハンサムで健康で輝く瞳と黒い巻き毛に彩られた笑顔だ。新聞の見出しは、キーティングが優勝して報われるまでに経験してきた貧困や苦労や憧れや、絶え間のない努力を書き立てた。すべてを息子の成功のために犠牲にしてきた母の息子への信頼を書き立てた。この「建築界のシンデレラ」について書き立てた。

キーティングの設計した(ということになっている)「世界で最も美しいビル」の完成予想図が、新聞紙上に発表された。その図の下には、次のような賞賛の言葉が記されていた。

「素晴らしい技術と設計の簡素さのために・・・その清潔で容赦のない効率性に・・・芸術における伝統と現代の巧みな配合の巨匠ばりの妙のゆえに・・・フランコン&ハイヤー建築設計事務所とピーター・キーティングに・・・」

キーティングが、審査員のシュープ氏やスロトニック氏と握手している姿は、ニュース映画にも報道された。キーティングは、主賓(しゅひん)として建築家たちの宴会にも出席した。映画会社の宴会にも出席した。そこではスピーチもしなければならなかったが、建物について話したのか、映画について話したのか、彼は覚えていない。彼は建築家のクラブやファンクラブにも顔を出した。

コスモ=スロトニック社の特別大作が上映される最初の週の毎日、キーティングは、コスモ劇場の舞台に上がり観客に挨拶した。黒いタキシードを身につけたほっそりと優雅ないでたちで、キーティングは足元の照明ごしに観客にお辞儀した。それから建築の重要性について2分ほど話した。彼は、アトランティック・シティの美人コンテストの審査員団の議長もした。その優勝者はコスモ=スロトニック社のスクリーンテストを受けることになっていた。彼は、賞金稼ぎで有名なボクサーといっしょに写真を撮られた。見出しは、「チャンピオンたち」である。

彼の設計した(ことになっている)ビルの模型が制作された。それは、設計コンテストに応募してきた他の優秀作品の写真とともに、全米中のコスモ=スロトニック系の映画館のロビーに展示されるべく、映画館から映画館へと順に送られた。

キーティングの母親は、最初はすすり泣くだけだった。両腕でキーティングを強く抱きしめ、信じられないと喉を詰まらせ言うだけだった。息子に関する質問には、口ごもりながら答えるだけだった。写真を撮られるときは、どぎまぎと困惑しながらもポーズをつけ、しきりに嬉しがった。

しかし、その状態にも母親は慣れた。母親は、優越感から見下しながらも丁寧に応じるといった調子を少々声に交えながら、記者たちの質問に対して、はきはきと答えるようになった。息子が写真に撮られるときに自分も撮られないと、はっきり機嫌を悪くした。母親はミンクのコートを買った。

ある晩、やっとキャサリンと過ごせるひとときである2時間をキーティングは見つけた。キャサリンは、ふたりの将来の輝かしい計画をささやく。キーティングは、満たされた思いで、キャサリンを見る。ほんとうは彼女の言うことなど耳に入っていない。こんなふうに、ふたりでいるところを写真に撮られたら、どう見えるだろうかとキーティングは考えている。どれぐらいの新聞社が群がるだろうかと考えている。

ドミニクとは1度だけ会った。しかし、彼女は、キーティングの獲得した名誉に対して無関心であった。もちろん、おめでとうございますと言ってくれたし、きわめて適切に祝福してはくれた。しかし、キーティングに向けるまなざしはいつもと同じだった。まるで何も起こらなかったかのような視線だった。建築に関する様々な記事の中で、唯一ドミニクのコラムだけが、コスモ=スロトニック社のコンテストと優勝者について言及しなかった。

「私はコネティカットに行きます。夏の間は父の別荘で過ごします。父は、その別荘に関しては、私の好きにさせてくれるますから。いいえ、ピーター、いらっしゃらないで。どなたもお呼びしたことがないのです。私はそこでは、誰にも会わないですむから行くのです」

ドミニクは、夏の間にキーティングに会うことを礼儀正しく拒絶した。ピーターはがっかりした。しかし、だからといって、自分の勝利の日々の悦楽が減ることはなかったが。もう、キーティングはドミニクなど怖くない。ドミニクの態度を変えてみせるという自信を、キーティングは感じていた。秋にドミニクと再会する頃には、そうなっているさ・・・と彼は思う。

しかし、彼の勝利の喜びを損なうものが、ひとつあった。そのことが、しばしば気になるということもないし、やたら大きく彼の心に聞こえてくるというものではなかったが。キーティングは、自分自身に関して何を言われても賞賛されても飽きることはなかった。しかし、彼が設計した(ということになっている)コスモ=スロトニック社の建物そのものについては、あまり耳にしたくはなかった。それを耳にしなければならないとき、その建物の正面の「伝統と現代の巧みな配合の巨匠ばりの妙」に関しての評は気にならなかった。

しかし、設計そのものに関する評価を聞くのは苦痛だった。人々はその設計についてこそ多くを語り賞賛したのであるが。

「素晴らしい技術と設計の簡素さ・・・その清潔で容赦のない効率性・・・独創的なまでに空間を無駄なく使用する様・・・」

この評価を耳にすると、キーティングにはあるものが聞こえた。あることを思い出した。そのことについて、キーティングは考えることはしなかった。彼の脳の中には、それを思考する言葉はない。そんな言葉を彼は自分に許さない。

ただ単に重い暗い感情がそこにはあった。キーティングが自分に考えることを許さないあるものとは、ひとつの名前だった。ハワード・ロークという名前だった。

(第1部45 超訳おわり)

(訳者コメント)

ロークに修正描き直してもらった設計案が優勝してしまった。

キーティングは自分でも想像もつかなかった名誉と賞賛の中に放り込まれる。

大きな映画会社のニューヨーク・ビルの設計の「素晴らしい技術と設計の簡素さ・・・その清潔で容赦のない効率性・・・独創的なまでに空間を無駄なく使用する様・・・」は、まさにハワード・ロークの設計のコンセプトなのだが。

幸運は誰でも望むものであるけれども、幸運は怖いものでもある。

不運を生き抜くのは大変なことであるが、幸運の中で自分を見失わずに地に足をつけて生きるのも大変なことだ。

戦争を生き抜くのも大変だけれども、平和を生き抜くのも大変であるように。

日本は平和を生き抜き、平和に甘やかされず、平和に脳を劣化させないことができているだろうか。

いや、平和を生き抜くことに日本は失敗したと、断言できるだろう。

日本が努力で勝ち得たわけではない政治状況がたまたま日本に許した幸運のために、日本は劣化した。

もちろん、ピーター・キーティングも、幸運を生き抜くことができない。

自分が獲得するのがふさわしくない名誉と財を得てしまったキーティングは、これからますますくだらない人間になっていく。

クズ以下のピエロになっていく。

虚構の登場人物とはいえ、ピーター・キーティングみたいな人間は、実世間にもけっこう生息する。

「あ、こいつはキーティングだな」と思わせられる人々に、私も遭遇してきた。

65歳ともなると、そのような「ピーター・キーティング型人間」の行く末を見る機会も出てくる。

自分の能力にふさわしくない幸運は怖い。

そんな類の幸運に負けないことは難しい。

実は、どんな幸運も呪いで十字架のようなものかもしれない。

幸運を使いこなし適切に担っていくことは、容易なことではない。

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