第1部(44) キーティングはルシアス・ハイヤーを処分

ここ数週間の間に、ある恐怖がキーティングに執拗にとりついている。

僕はコンテストに負ける。

キーティングは自分が負けることを確信している。その確信は、結果を待つ日々が過ぎるごとに、大きくなって行く。キーティングは仕事にも手がつかない。誰かが彼に話しかけると、彼は飛び上がるほどギクリとする。夜になっても眠れない。

キーティングは、ルシアス・ハイヤーの家に向かって歩く。 キーティングは、今自分に残された唯一のやり方で、来るべき災厄(さいやく)から自らを救うべく、ハイヤー宅に向かっている。

もし、僕が、コンテストに負けたら、フランコンはショックを受ける。いずれハイヤーは死ぬけれども、もしハイヤーが死んでも、フランコンは躊躇(ちゅうちょ)するんじゃないか、僕を共同経営者にするのを。事務所から勝利者を出せなかったという屈辱の苦々しい感情が後々まで響くことによって。

もしフランコンが躊躇したら、もう駄目だ。機会をうかがっている奴はいっぱいいる。ベネットがいる。僕は、あいつを事務所から追い出すことができなかった。クラウド・ステンゲルは、自分で事務所を構えてうまくやっている。あいつときたら、最近フランコンに接近してきて、ハイヤーの共同経営権を購入したいと申し出てきている。

眠れない夜を幾晩も過ごたすえに、キーティングは決心した。すぐに、この問題を処理しなくてはならない。設計コンテストの勝利者の名が発表される前に、フランコンの共同経営者にならなければならない。キーティングは、ハイヤーを追い出し、彼の立場に取って代わらねばならない。もう数日しか残っていない。

キーティングは、事務所のハイヤーの執務室のファイルを調べた。で、見つけたいと思っていたものを見つけた。それは、ある建設請負業者からの手紙だ。15年も前に書かれたものだ。その手紙には、単にハイヤー宛に2万ドルの小切手を同封したと書かれているだけに過ぎない。キーティングは、その建築業者の請け負った建物に関する記録を調べた。その建設には、実際にかかった費用より多額の費用がかけられたようであった。はっきりそう見えた。ハイヤーが古磁器の収集を始めたのは、まさにこの年からだった。ハイヤーが業者からピンハネしたのだ。

キーティングが訪問したとき。ルシアス・ハイヤーは、書斎でひとりだった。書斎は狭い。薄暗い部屋だ。空気は、まるで長年もの間、誰も入ったことがないかのように重い。濃い色合いのマホガニーの壁板に、何枚かのタペストリーがかかっている。値段もつけられないくらい高価そうな骨董家具のいくつかが、非の打ち所もなく整えられている。しかし、その部屋は、幾分か、ある種の貧しさと凋落(ちょうらく)の匂いを漂わせている。

ハイヤーは、昔からいる召使が、キーティングの来訪を知らせると、肩をすくめた。はて、どうしてだろうといった気迫のない態度で、ハイヤーは目をぱちくりとさせた。それでも、キーティングに腰掛けるように勧めはした。

キーティングは、自分が発した最初の声の響きを聞き、自分が冷静であると知る。ハイヤー邸に来る道すがらずっと自分につきまとってきた恐怖が消えている。キーティングは自分に言い聞かす。トム・デイヴィスとクラウド・ステンゲルは処分した。さあ、今、もうひとり排除されるべき人間がいると。

キーティングは用件を話す。ハイヤーの書斎の静かな空気の上に、キーティング発する短く簡潔で完全な文が流れる。

「ですから、あなたが明日の朝、引退するとフランコンにおっしゃらなければ、これは、アメリカ建築家協会に行くわけです」

キーティングは、二本の指の間に、例の建築請負業者の手紙の端をはさみながら言う。

キーティングは待っている。ハイヤーは、身じろぎもせずに座っている。青白い出っぱり気味の目を空ろに開いている。口も大きく丸く開けている。やっと、ハイヤーの口が動く。薄いピンクの舌が見える。下の歯並みに舌はあたり、ちらちら震えている。

「しかし、私は引退したくない」

ハイヤーは単純に、率直に、いささかすねた哀れっぽい調子で答える。

「あなたは、引退しなければならない」

「したくない。するつもりはない。私は有名な建築家だ。いつだって有名な建築家だったし、今でもそうだ。いちいち私にあれこれ指図するのは、やめてもらいたい。みんなが私に引退しろと言う」

「あなたは状況を理解しておられますか?」

キーティングは例の手紙を、ハイヤーの半分閉じられた指の中に押しつける。ハイヤーがその手紙を手にしたとき、薄い手紙が震えた。キーティングは、それをじっと見る。それから、その手紙がテーブルに落ちる。ハイヤーの左手は、指が麻痺しているようだ。その指が手紙をやみくもにぐいと押す。ハイヤーは息を詰まらせながら言う。

「アメリカ建築家協会に送ってはいけない。協会は僕のライセンスを取り上げる」

「そうですよ。そうなりますね」

「新聞にも載る」

「ありとあらゆる新聞にね」

「そんなことはさせない」

「僕は、そうするつもりですよ。あなたが引退しなければ」

ハイヤーの両肩がテーブルの上に落ちる。

「そんなことは絶対にしないだろう、君は。お願いだ、しないだろう。君はいい子だ。君はいい子だ。君は、そんなことしないだろう。な?」

ハイヤーは哀れっぽい調子でもぐもぐと言っている。例の黄ばんだ四角い手紙はテーブルの上にある。ハイヤーが脳卒中の最初の発作以来麻痺して動かない左手が、テーブルの端をゆっくり這う。その手紙をつかもうとする。キーティングは、体をかがめ、ハイヤーの手からその手紙をひったくる。

ハイヤーは、首を片側に傾(かし)げ、口を開きっぱなしにしながら、キーティングを見つめる。キーティングが自分を殴るのではないかと思っているような顔つきである。うじうじと哀れっぽく懇願するような目つきである。

「おねがいだ、そんなことはしないだろう、君は?私は君に悪くしたことはない。ああ、思い出したぞ。私は君に一度親切にしたことがあるぞ」

「何だって?あなたが、僕に何をしてくれたって?」

「君の名前はピーター・キーティングだ・・・ピーター・キーティング・・・思い出した・・・私は君に一度親切にしたことがある・・・君はガイがえらく信頼している青年だな。ガイを信用してはいけない。私はガイを信用していない。しかし、君は好きだ。近いうちに、君を主任設計士にしてあげよう」

ハイヤーの口は、こう話しているときも、開けっ放しだ。だらしなく開いたままだ。細い唾液(だえき)の線が、口の端からたれている。

「お願いだから・・・そんなことしないでくれ・・・」

吐き気を感じ、キーティングの目はぎらつく。たまらないほどの嫌悪感が彼を苛(さいな)む。その嫌悪感に耐えられなかいからこそ、彼は、それをさらに増幅させねばならない。

「あんたは、みんなの前でさらし者になるんだ。あんたは不正利得者として弾劾(だんがい)される。みんなが、あんたを指差す。新聞は、あんたの写真を載せる。建設費をピンハネした建物の所有者は、あんたを告訴する。あんたは豚箱に入れられるんだ」 キーティングの声がキンキン響く。

ハイヤーは何も言わない。身動きもしない。

「出て行け!事務所から出て行け!何のために居座るんだ?あんたは役立たずなんだよ。役に立ったことなんか一度もないくせに!」

キーティングは、大きな声で言う。テーブルの端で伏せられていたハイヤーの黄ばんだ顔が、その口を開けて、うなり声のような湿ったゴボゴボと水が漏れるような音を出す。

「私は・・・私は・・・」と、ハイヤーは喉を詰まらせている。

「黙れ!あんたには、出て行くか出て行かないか、それしか言うことはないんだ。すぐに考えろ。あんたと議論してる時間などない」

ハイヤーは震えるのを止める。ひとつの影が、彼の顔を斜めに横切る。まばたかない目。半開きのままの口。その顔の中に流れ込んだ闇。まるで溺れ死んだかのような、ハイヤーの顔がキーティングには見える。

「答えろよ!なんで答えないんだよ!」

ハイヤーの横顔がぐらつく。ハイヤーの頭が前につんのめる。その頭がテーブルの上に落ちる。落ち続け、床に転がる。まるで切り落とされたかのように。

最初にキーティングが感じたのは安堵だった。ハイヤーの頭の次に、彼の体が崩れ落ち、床に小山のように横たわったのを見たときの安堵だった。ハイヤーの体の一連の動きは、何の音も発しなかった。

キーティングは思う。とうとう来たな、医者が言っていた二番目の卒中だ。すぐに何とかしなくてはならない、しかしまあこれでいいんだ、ハイヤーはこれで引退せざるをえなくなる。

それから、膝まずいたままで、キーティングはハイヤーの体の方に近づいていく。「ハイヤーさん」と、キーティングは呼びかける。彼はハイヤーの頭を用心しながら持ち上げる。それからその頭を降ろす。ハイヤーは死んでいた。

キーティングは、ハイヤーの死体のそばで、手を膝に乗せ、ぺたりと床に座りこむ。目は、まっすぐ前方を見ている。キーティングは自分のからだが震えているのを知る。嘔吐したくなる。立ち上がり、部屋を横切り、ドアを開けっ放しにする。ハイヤー宅に召使がひとりいることを、彼は思い出す。助けを呼ぶ声に聞こえるように叫ぼうと、キーティングは召使を呼ぶ。

いつものように、キーティングは事務所に通勤している。彼は様々な質問に答えた。その日、ハイヤーに呼ばれ、夕食後に彼の家に行ったのだと説明した。ハイヤーは引退の件について話し合いたかったのだと説明した。その話を疑う者は誰もいなかった。誰も疑いようがないことは、キーティングはわかっていた。ハイヤーの最後は、誰もが予想していたような形で来たのだから。フランコンはといえば、安堵以外は何も感じていない。フランコンは言った。

「遅かれ早かれ、そうなるとわかっていたからね。彼は自分や周囲の人間が無駄に延々と苦しまないように、ああやって逝った。良かったじゃないか。悔やむことはないさ」

キーティングの態度は、前よりもずっと平静なものになっている。それは、鈍感に麻痺した状態の持つ平静さだ。仕事の最中でも、自宅でも、寝床でも、彼には次のような思いがつきまとっている。僕は殺人者だ・・・いや、そうではない。しかしほとんど殺人者だ・・・ほとんど殺人者・・・キーティングは、それが決して事故ではなかったことを誰よりもわかっている。

ハイヤーの死後数日が過ぎてから、フランコンはキーティングを呼んだ。

「座りたまえ、ピーター。さて、君にいいニュースがある。今朝、ルシアスの遺書が公開されてね。君も知ってのとおり、彼には親戚がいないだろう。まあ、しかし、僕は意外だったね。僕はルシアス・ハイヤーを見損なっていたようだ。しかし、今となってみれば、時には、いいことも彼はしていた気もする。ハイヤーは君に全財産を残した・・・ものすごいことだろう、ええ?だから、君は出資金については心配することはないわけだ。我々が共同でここを・・・どうした、ピーター?ピーター、どうかしたのか、気分でも悪いのか?」

キーティングの顔は、フランコンの机の端に突っ伏してしまっている。彼はフランコンに自分の顔を見せられない。気分が悪くなりかけていた。吐き気がしている。恐怖を感じながら、キーティングは、あの晩ハイヤーがどんな思いでいたことかと考えざるをえなかった・・・

遺書は5年前に作成されたものだった。おそらく、事務所でハイヤーに思いやりらしきものを見せた唯一の人間であったキーティングに対して、ハイヤーの愛情が意味もなく迸(ほとばし)ったのだろう。もしくは、フランコンに対する嫌味の身振りであったのかもしれない。

どちらにしても、その遺書は作成されたものの、ハイヤー自身からも忘れられてしまっていたのだ。遺産額は20万ドルに及んだ。それに事務所が得る利益のうちのハイヤーの取り分と古磁器のコレクションが加わっていた。

その日、周囲の祝福の言葉を聞かずに、キーティングは事務所を早退した。帰宅して、母親に知らせた。居間の真ん中で唖然(あぜん)としている母親をそのままにして、寝室に入り鍵をかけてしまった。

キーティングは夕食の前には寝室から出たけれども、黙ったままだった。その晩は夕食もとらず、いつも行っている安酒場でさんざん飲んだ。しかし、頭は残酷なほどに冴えていた。酔いつぶれることもできなかった。

飲むほどに、あのときの成り行きが明瞭に目に浮かぶ。キーティングは、グラスにうなずきながら、頭だけはしっかり醒めている。後悔することなんか何もないと、キーティングは自分に言う。僕は、誰もがやることをやっただけだ。キャサリンは言っていた。僕が利己的だって。誰だって利己的じゃないか……ハイヤーの遺産に関する意味のない質問を、これからも僕はずっと浴びるのだろう……

それを思うと、キーティングは酷い苦痛を感じる。

しかし、もう二度と意味のない質問がキーティングに浴びせられることはなかった。翌日から、そんな時間はキーティングにはなくなってしまった。彼は、コスモ=スロトニック社のコンテストに優勝した。ロークのアイデアを剽窃した設計案によって。

(第1部44 超訳おわり)

(訳者コメント)

このセクションは訳していても不快だった。

作家ってすごい。

私などは、嫌いで軽蔑してしまう人間については、名前まで忘れてしまう。

不快で、こいつは私の人生から消えてよし!となると私の意識から消えてしまう。

だから、教授会の時は困った。

「ナントカ先生のご意見ですが……」と発言しようとしても、名前が出てこないのだ。

意識から消えてしまっているので、名前が出てこなかった。

随分と無礼と失礼を重ねた人生であった。

なのに、作家は、実に不快な人物でさえ、じっくり描写しないといけない。

すごい。

ピーター・キーティングみたいなクズなど、虚構の人物でも、私なら延々と描写したくない。

嫌いなら消えてしまう。

しかし、ここまで自覚的にクズをやれるのも、あっぱれかもしれない。

自分のしていることに対する明確な自覚もなく、クズやってる人間よりは、アイン・ランドの世界の住人は自覚があるだけ、マシかもしれない。

画像は、クラーク・ゲーブルです。

お口直しに。

目直しというべきか。

『風と共に去りぬ』Gone with the Windで、レッド・バトラーを演じたクラーク・ゲーブルです。

実は、クラーク・ゲーブルも、The Fountainhead映画化のときに、ハワード・ローク役として候補にあがっていたらしいです。1901年生まれですから、映画化のときは40歳を越えていて、年齢的にちょっと無理でした。

結局は、アイン・ランドがゲイリー・クーパーをイメージしてロークを描いたということで、ゲイリー・クーパーがローク役に選ばれました。

ゲイリー・クーパーだって、1901年生まれなんですが……

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