キーティングは、しばしばキャサリンとは会っていた。彼は、彼女と婚約したことは公にしていない。しかし母親は知っている。もはや、そのことは、彼自身の貴重なる秘密ではない。
キャサリンのほうといえば、会えなくてもキーティングは必ず自分の元に戻ってくるという確信を、キャサリン喪失してしまっていた。前よりはよく会えるようにはなっている。だからキーティングが来るのを待つ寂しさは消えている。しかし、キャサリンは、キーティングが自分と会うことにもはや意義を感じていないのではないかと、なぜか最近は時折に思うようになっている。
キーティングは、キャサリンにこう告げる。
「キャティ、例の映画会社のコンテストの結果を待とうよ。長くはかからない。5月には発表される。もしそうなったら、僕は君の叔父さんに会う。そうなれば、君の叔父さんは僕に会いたがるさ。だから、僕は勝たなければならない」
「あなたが勝つってわかっているわ、私には」
「そのうえ、あの老いぼれハイヤーがさ、もうあとひと月ぐらいらしい。医者の見立てではね。2回目の卒中がいつ起きても不思議じゃないって。もうすぐハイヤーは死ぬ。もう早くサッサと死なないのならば、あいつを事務所から僕が追い出してやるぞ」
「あら、ピーター、あなたがそんな風に口をきくのは耳にしたくないわ。いけないわ・・・ひどく利己的じゃないの?」
「ごめん。うん・・・そうだな、僕は利己的だよ。自分でもそう思う。でも、みんな、自分のことしか考えてないだろ?」
キーティングは、ドミニクとは、キャサリンとよりも、もっといっしょに過ごしていた。ドミニクは、キーティングのことを満足げに見つめる。彼女にとって、キーティングがもっと大きな存在になり問題になることなぞ金輪際ありえないかのように、彼女はキーティングを何の緊張も見せずに眺める。キーティングは、ドミニクにとって、時々の取るに足りない夜のための取るに足りない仲間として適当であるから。
ドミニクは僕のことを気に入っていると、キーティングは思う。しかし、だからといって、ドミニクが自分に特別な感情を持っているわけではないと、キーティングにはよくわかっている。
キーティングは、時にはドミニクがフランコンの娘であることを忘れる。自分をドミニクに会うべく駆り立てる理由の全てを忘れる。駆り立てられる必要など感じなかった。キーティングはドミニクが欲しかった。今や、彼女が自分の前にいるという胸がわくわくする感情以外に、彼女に会いたい理由などないのだった。
しかし、にもかかわらず、キーティングはドミニクの前にいると、救いようのない気持ちになる。自分に対して無関心でいられる女がいることは、キーティングには許せない。彼は待つしかない。ドミニクの気持ちを推し量る。ドミニクが、彼に反応してもらいたいことを推測し、反応しようとするしかし、いっこうに何の手ごたえも得られない。
春の夜、キーティングとドミニクは、いっしょに舞踏会に出かけた。ふたりで踊ったとき、キーティングはドミニクの体を、もっと自分の体に引き寄せた。ドミニクの体に自分の指を触れさせ、強く押しつけた。ドミニクは身を引いたりはしない。ほとんど、当然予期していたと言わんばかりの動じないまなざしで彼を見るだけだ。舞踏会を抜けるとき、キーティングは彼女のショールを持ち、指を彼女の肩に置いたままにしておいた。彼女は身動きもしないし、ショールを引っ張ることもしない。待っているだけだ。キーティングが指を離すまでそうしていただけだ。それから、ふたりは、タクシーを止められる場所まで歩いた。
今夜のドミニクは、タクシーの中でキーティングと離れて座り、黙っている。ただし、沈黙を必要とするほど、キーティングの存在を重要なものに考えたことなどドミニクにはない。
彼女は座っている。両脚を交差させて、しっかりとショールを胸に寄せている。彼女の二の腕あたりに、キーティングは柔らかに手を寄せる。彼女は抵抗しない。しかし、その動きに応じることもしない。キーティングは彼女の髪に唇で触れる。それはキスではなかった。キーティングは、ただ自分の唇を彼女の髪に長い間触れたままにさせておいただけだ。
ドミニクのペントハウスがあるビルの前でタクシーが止まったとき、キーティングはささやく。
「ドミニク・・・上がってもいいかな・・・ほんの少しだけ」
「構いませんわ」
ドミニクが答えるその言い方は平板である。何がしかの個人的な特別な感情は、その言い方にはこめられていない。是非招待したいという気持ちはこめられていない。しかし、それまでのドミニクは自室にキーティングを入れることを決して許さなかった。キーティングは、彼女のあとについていく。心臓が大きく鼓動を打っている。
ドミニクが自分のペントハウスに入ったとき、1秒にも満たない間があった。彼女は立ち止まり待っている。キーティングは彼女をじっと見つめる。どうしたらいいのか、わからないといった面持ちで、困惑しながら。キーティングは、あまりに幸福だった。彼女が再び動き出し、キーティングから離れて客間の方に歩いていったとき、キーティングはやっと気がついた。さっき1秒にも満たない間があったことに。彼女は腰を掛ける。両の手は力が抜けたかのように両脇にたれている。両腕は体から離れ、彼女は無防備だった。瞳は半ば閉じられ空ろである。
「ドミニク・・・ドミニク・・・なんて君は美しいんだ!」
キーティングはささやく。キーティングは、彼女の傍らにいつのまにか移動している。ずっと一貫性も何もないことを、ささやくばかりだ。
「ドミニク・・・ドミニク、愛している・・・僕を笑わないで、お願いだから笑わないで!・・・僕の全人生を・・・君が望むものは何でも・・・君は、自分がどれくらい美しいかわかっているの?・・・ドミニク・・・愛している・・・」
キーティングは、両腕を彼女の体に回す。彼女の顔に自分の顔を重ねようとする。そうしながら、彼女の反応を、肯定的なものにせよ拒絶にせよ確かめようと動きを止める。キーティングには何もわからない。彼は、ドミニクを激しく自分に引き寄せ、彼女の唇にキスをする。
キーティングの両腕は離れる。ドミニクの体が椅子に戻り、前のように椅子にもたれるのを感じる。あえぎながらドミニクを彼は見つめる。それは、キスというものではなかった。彼が抱き、彼がキスしたものは、生きていなかった。女ではなかった。ドミニクの唇は、彼の唇に応えて動くということはしなかったし、彼女の両腕は、彼を抱こうと動くこともなかった。それは、嫌悪感というものでもなかった。嫌悪感ならば、キーティングにも理解できたろう。キーティングが自分を永遠に抱くにせよ、抱くのをやめるにせよ、再びキスするにせよ、欲望を満たすべくさらに行動するにせよ、私の体は、そんなことはどうでもいいのよと言わんばかりのドミニクの態度である。
ドミニクはキーティングを眺めている。ほんとうは、キーティングの向こうにあるものを眺めている。側のテーブルの上にある盆から少し離れて落ちているタバコの吸殻が目に入る。ドミニクは手を動かし、その吸殻を盆の上にすべるように置く。
「ドミニク、君は僕にキスしてもらいたくなかったの?」
「してもらいたいと思いましたわ」
ドミニクは答えるが、キーティングに微笑んだりはしない。他に答えようもないという様子で、あっさりと答えるだけだ。
「前に、キスしたことはないの?」
「何度もあります」
「君は、いつもあんなふうにふるまうの?」
「いつも、あんなふうにふるまいます」
「どうして、君は僕にキスしてもらいたかったんだい?」
「やってみたかったから」
「君って人間的じゃないね、ドミニク」
彼女は椅子から立ち上がる。その動きの鋭い簡潔さは、もとのいつものドミニクだ。ドミニクの声からは、告白するような、どうしたらいいかわからないといった困惑は、これっぽっちも聞き取ることができない。そのことを、キーティングはわかっている。
ふたりの間にあった親密さは終わっていた。たとえ、ドミニクが話すとき、彼女の言葉が、今まで彼女が言ったどの言葉よりも、親しく心を打ち明けるように聞こえようとも、親密さは消えていた。なぜならば、ドミニクは、まるで自分が何を打ち明け、誰に打ち明けようが、何も気にしていないかのように話すのだから。
「私は、あなたがそこらで耳にしたことがあるような類の奇形のひとりかもしれませんわね。冷感症というのかしら?ごめんなさい、ピーター。ご存知のように、あなたには、競争相手はありません。でも、存在しない競争相手のひとりでもありますのよ、あなたご自身も。がっかりなさった?」
「君は・・・いずれは、そういうのも治るよ・・・いつかは・・・」
「ピーター、私は、もうそんなに若くはありません。25歳です。男性と寝るのは、面白い経験にちがいありませんわね。私は、そうしたいと望んできました。身を持ち崩した女になるというのは、なかなかわくわくするでしょうね。他のあらゆる点では、私は身を持ち崩しているのですけれども。でも、実際は・・・ピーター、あなた、もうちょっとで真っ赤になりそう。とても面白いわ」
「ドミニク!君は今まで恋をしたことがないの?少しでも人を好きになったことは?」
「ありません。ほんとうは、あなたに恋したかったのですが。そのほうが便利だと思いますし。私、あなたに問題があると感じているわけではありません。全然そうではありません。ただ、何も感じないのです、私は。相手があなただろうが、上司のアルヴァ・スカーレットだろうが、ルシアス・ハイヤーだろうが、私にとっては同じです。どこがどう違うか、わかりません」
キーティングは立ち上がる。もう、ドミニクを見たくもない。窓辺に歩いて行き、立つ。外の夜景を見つめる。もうドミニクに対する欲望は忘れてしまっている。彼女の美しさも。しかし、彼女がフランコンの娘であることは、今もちゃんと忘れていない。
「ドミニク、結婚してくれない?」
キーティングは、今こそ、それを言わなければならないとわかっていた。ドミニクに対して、ほんとうは嫌悪と憎しみを感じているということは、もはや、どうでもいい。自分と自分の未来の間に、自分の感情を置くことは許されない。自分の人生の華々しい成功のためには、ドミニクとの結婚が必要なのだ。キーティングは、その必要性だけを考える。
「真面目に、おっしゃっています?」と、ドミニクは問う。
キーティングはドミニクの方を振り返る。早口で彼は話す。今、彼は嘘をついているので、言葉がいともなめらかに口から出てくる。嘘をつくのは難しくない。
「愛しているんだ、ドミニク。夢中なんだよ、君に。チャンスを僕にくれないか。もし他に誰もいないならば、構わないだろう?君も、僕が好きになるよ。だって、僕は君を理解しているから。僕は忍耐強くなるし、君を幸福にするよ」
ドミニクは、突然肩をすくめる。それから声をたてて笑う。単純に笑っている。笑いとして完璧な何の含みもない笑いだ。彼女が身につけている薄いドレスの泡の模様が大きく揺れている。彼女が笑うので、それにつれて大きく揺れている。彼女は、すくっと、まっすぐ立っている。頭を後ろにのけぞらせて笑っている。
キーティングにとっては、ドミニクの笑いは目をくらくらさせるような振動だ。震える弦のような笑いだ。それは軽蔑だった。なぜならば、ドミニクの笑いには、苦々しい響きも、あざけるような響きもなかったから。だからこそ、軽蔑なのだ。単に彼女は、全く単純に陽気に笑っただけだったから。だからこそ、軽蔑なのだ。
しばらくしてから、その笑いが止まる。ドミニクは、キーティングを見ながら立って、真面目な調子で言う。
「ピーター、私が、もし何かひどいことを自分に課したくなったら、あなたと結婚します。自分を罰したくなったら、吐き気がするほど自分を罰したくなったら、あなたと結婚します。こう言ったことは約束だと思って下さって構いません」と。
「僕は待つよ。君がどんな理由で僕を選ぶにせよ」
「ピーター、ほんとうは、あなたは私にプロポーズなさる必要はありませんのよ。どのみち、あなたは父の事務所の共同経営者におなりになります。私と結婚しなくても大丈夫なのに。さあ、もうお帰りになる時間ですね。忘れないで下さいね、水曜日は馬術のショーに連れて行って下さるのでしょう。ええ、そうよ。水曜日には、馬術のショーに行きますのよ。馬術ショーって好きだわ。お休みなさい、ピーター」
キーティングは、彼女のアパートを後にする。暖かな春の夜を歩いて帰って行く。彼は荒々しい気分で歩いている。
もし、今このとき、キーティングに対して、もしドミニクと結婚すれば、フランコン&ハイヤー建築設計事務所の所有権をくれてやろうと誰かが言ったら、キーティングは即座に拒絶できる。今のこの瞬間ならば、キーティングは、にべもなく断る。ドミニクなど大嫌いだ。
しかし、キーティングは思う。明日の朝になれば、僕はドミニクとの結婚を承諾するだろう。断るなんて、僕にできるはずがない。
そういう自分自身を、キーティングは憎んだ。
(第1部43 超訳おわり)
(訳者コメント)
The Fountainheadを翻訳していたのは、48歳から2年間だったので、正直に言うと、こういうセクションは訳していて退屈だった。
今は、もっと退屈だ。
どーでもいいわ……という気分になる。
小説というものは、時に恋愛小説というものは、若い頃に書いて若い頃に読むべきものだ。
人間の類型を学ぶためにも、感情教育のためにも。
私ぐらいの年齢になると、なんでこんなことが問題になるんだろ……という展開が多いので、小説なんて読んでいられなくなるし、恋愛小説は特に読んでいられなくなる。
業界の内幕もの的情報小説なら面白いのだけれども。
そういう意味で、小説家は従来の小説家よりはるかに実質的な情報を求められるので大変だ。
それにしても、他人に自慢できるという理由で、自分の名誉になるという理由で、社会的栄達の手段になるという理由で、何よりも美貌の持ち主ということで、結婚相手の女性を選ぶ男性というのは、存在しているのだろうなあ。
特に好きでもなんでもないけれど、安楽な生活ができるという理由で、経済力や資産のある男を夫として選ぶ女性は少なくない。虚栄心のために、社会的地位の高い男を選ぶ女性も少なくはない。
それはそれで目的合理的な選択と決定だ。
問題は優先順位ですね。
結婚相手に1番何を求めるのか、結婚生活に1番何を求めるのか。
1番求めているものが結婚によって獲得できるし保持できるのならば、まあ、後はどうとでもなるね。
そこのところが曖昧模糊としたままだと、ややこしいことになる。
自分の欲望の整理ができていないと、ややこしいことになる。
キーティングは、キャサリンが提供してくれる自分への信頼や尊敬や思いやりを必要としているし、かつ虚栄心や名意欲を満たしてくれるドミニクを所有したいとも思っている。
自分の欲望を絞り込めていない。
のちに、キーティングは酷い目にあうけれども、まあ自業自得。
人間を舐めてる。人生を舐めてる。
キーティングは置いておいて
ドミニクは、ロークと同じく真実を観ている人間だけど進み方がよく分かってないのかなと思いました。
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そうなんです。恐怖を抱えているんです、
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