第1部(42) ヘンリー・キャメロン死す

ヘンリー・キャメロンの症状がぶり返した。

医者は、キャメロンの妹に、回復はもう望めないと断言した。妹にとっては信じられないことだった。彼女は希望が芽生えてきたのを感じていたのに。ベッドに依然として横たわっているとはいえ、兄は平静で、ほとんど幸福でさえあるように見えていたのだから。幸福とは、彼女が兄に関して連想するのが、それまでのところ全く不可能な言葉であった。

しかし、ある晩、兄が突然に言った。

「ハワードを呼んでくれ。ここに来るよう頼んでくれ」

妹は戦慄(せんりつ)した。引退して以来のこの3年間、この兄は決してロークを呼ぶことはなかった。これまでは、単にロークがやって来るのを待つだけだった。

1時間もしないうちに、ロークはやって来た。キャメロンのベッドの側に座った。キャメロンは、いつものようにロークに話しかける。この特別な招聘(しょうへい)について、キャメロンは何も語らない。何も釈明しない。

暖かい夜だった。キャメロンの寝室の窓は、暗い庭に開け放たれている。話している文と文の間が空き、ロークと自分の間に沈黙が支配するとき、キャメロンは気がつく。屋外の庭の木々の静けさを。夜も深まった時間帯の全てが動きを止めているような静寂を。

だから、妹を呼んでこう言った。

「居間に寝椅子を用意してくれないか。ハワードは、ここに泊まる」と。

ロークはキャメロンを見て理解した。ロークは同意する言葉の代わりに、うなづく。ロークは、キャメロンのまなざしと同じくらいに厳かなまなざしをキャメロンに返す。そうすることによって、キャメロンが何を自分に伝えたのかを、ロークもキャメロンに伝える。

ロークは、3日間その家にいた。そこにロークが泊まっていることに関しては、何ひとつ言及されることがなかった。どれくらい長く泊まることになるかも、口に出されることはなかった。ロークがその家にいるということは、何の言葉も必要でない自然な事実として受け容れられていた。キャメロンの妹も理解していた。何も言ってはいけないということも、彼女にはわかっていた。彼女は黙って家事をしていた。運命に従うという諦念(ていねん)と呼ばれる勇気を持って、彼女は黙々と家事をこなしていた。

キャメロンは、いつも傍(かたわ)らにロークがいるのを望んでいたわけではなかった。時には、こう言った。

「外に出たらどうだ。ハワード、庭を散歩してきたら。綺麗だぞ。草が芽吹き始めている」

キャメロンはベッドに横たわりながら、開け放たれた窓から、満足げに見つめている。薄青い空を背景に立つ葉の落ちた木々の間を移動しているロークの姿を見つめている。

キャメロンは、自分と食事をともにしてくれとだけ、ロークに頼んだ。キャメロンの妹は、キャメロンの膝の上に盆を置いた。ベッドの側の小さなテーブルにロークの食事を置き、給仕した。キャメロンは、生涯で一度も求めたことのないものの中に喜びを感じているようだった。日々の生活の中の細々とした、ありきたりのことを温かく感じるということの中に。家族とともにいるという感覚の中に。

3日目の晩、キャメロンは枕を背もたれにし、いつものように話していた。しかし、キャメロンの言葉はゆっくりとしか発せられなかった。頭を動かすこともなかった。ロークは、キャメロンの言葉にじっと耳を傾ける。キャメロンの話が途切れる恐ろしい間に、何が進行しているのか、ロークにはわかっている。キャメロンの身に最後のときが近づいているとわかっている自分自身を、ロークはキャメロンにさらけ出さないように神経を集中する。いとも当たり前に見えるように、さりげなく見えるように、何気なく見えるように、ロークは心を配る。

キャメロンの言葉も、いとも自然に聞こえる。しかし、その自然な言葉を発するのに、キャメロンは全力をふりしぼっている。しかし、それは、キャメロンが最後まで隠したいことである。

キャメロンは、建築材の未来について語る。

「軽金属産業には目を離すなよ、ハワード・・・もう・・・数年もすれば・・・軽金属はすごいことができるようになる・・・プラスティックにも目を離すな。全く新しい時代が来るぞ・・・そこから始まる・・・新しい道具や新しい手段や新しい形式を見つけるんだ・・・見せつけてやれ・・・あの大馬鹿どもに・・・人間の頭脳がそこからどんな富を生み出すかを・・・どんな可能性を・・・先週、俺は新しい種類の合成タイルの記事を読んだ・・・俺は思った、その使い方を、他の・・・どんな材質もできないような・・・たとえばだ、小住宅だと・・・5000ドルくらいの価格の・・・」

しばらくしてから、キャメロンは話をするのをやめ、じっと黙っていた。目は閉じていた。それから、ロークはキャメロンが突然、小さな声でこう言うのを耳にした。

「ゲイル・ワイナンド・・・」

ロークは、いぶかしんで、キャメロンにもっと近寄る。キャメロンの言葉を聴き取ろうと体を傾ける。

「俺は・・・これほど人を憎んだことはない・・・ゲイル・ワイナンドだけだ・・・いや、俺はあいつのことに注目したことはない・・・あの男自体はどうでもいい・・・あいつが代表しているものが問題だ・・・この世界の間違いの全てを、あいつは代表している・・・絶えがたいほどの粗野と俗悪を代表している・・・ハワード、お前がこれから戦わねばならないものこそ、ゲイル・ワイナンドだ・・・」

それから長い間、キャメロンは何も言わなかった。再び目を開いたとき、キャメロンは微笑んだ。そして、こう言った。

「俺はわかっている・・・お前の事務所が、今どういうことになっているか・・・」

ロークは、その件については一度もキャメロンに話したことはなかった。

「いいんだ・・・何も言うな・・・わかっている・・・しかし・・・それでいい・・・恐れるな・・・俺がお前をクビにしようとした日のことを覚えているか?・・・あの時、俺がお前に言ったことは忘れろ・・・ああは言ったが、俺は全てを語ったわけではない・・・俺はまったく後悔していない・・・戦うだけの価値はあった・・・俺の人生は戦うだけの価値はあったぞ・・・ローク、お前も恐れるな・・・」

キャメロンの声が途絶えた。もう彼は声を発することができない。しかし、物を見る機能だけは、まだしっかりとしている。キャメロンはベッドに横たわっている。ロークを静かに見つめている。苦しむことなく穏やかにロークを見つめている。

1時間後、ヘンリー・キャメロンは死んだ。

(第1部42 超訳おわり)

(訳者コメント)

このセクションを訳した日は、ちゃんと覚えている。

2001年12月31日だ。

大晦日の夜に泣きながら訳した。

おせち料理代わりの大量のおでんを作りながら、煮込みながら、パソコンに向かって、泣きながら訳した。

ヘンリー・キャメロンの最後の3日間。生まれて初めてで最後のキャメロンにとっての「家族の団欒」の日々。

親も兄弟もないロークにとっても、その3日間は「家族との日々」だった。

私としては、多くは語られていないし描写されてもいないキャメロンの妹が気になる。

看護師を引退した後に、不遇の兄キャメロンを引き取り世話をしたキャメロンの妹の静かな忍耐強い生き方について、もっと、アイン・ランドよ、言及せいと言いたくなる。

キャメロンの看病や身の回りの世話や、キャメロン死後の手続きなど、みなキャメロンの妹はひとりで引き受けたに違いない。妹の支えがあってこその、キャメロンは最晩年の穏やかな日々を過ごすことができたのだから。

この小説で、以後、このキャメロンの妹に言及されることは一度もない。

アイン・ランドは才能の豊かな小説家であり、ユニークな思想家であるけれども、人間としては成熟しそこなった思う。

名もない「地上の星」には目が行かない幼稚さが、アイン・ランドにはある。

まあ、30代で書いた作品だから、しかたないか。

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