ルシアス・N・ハイヤーは、頑固にも死ぬことを拒否していた。脳卒中から回復し、医師の反対も無視し、ガイ・フランコンの助言も意に介さず、ハイヤーは事務所にもどってきていた。
フランコンは、ハイヤーに引退を勧めた。ハイヤーはその申し出を断った。目に涙を浮かべ、頑固に何かを見つめているだけだった。実際には何も見つめていなかったのではあるが。
ハイヤーは、事務所に数日おきに出勤した。習慣どおりに手紙箱に置かれた郵便の束を読むんだ。机につき、何も描いてないノートに花を落書きし、それから帰宅した。脚をゆっくりと引きずりながら歩いた。両肘を両脇に押しつけたまま、二の腕を前方に突き出し、指をかぎ爪のように半ば閉じながら歩くのだった。指が震えることもあった。ハイヤーは左手が全く使えなくなっていた。それでも引退する気はなかった。あくまでも、彼は事務所の文房具に自分の名前がついているのを見たいのだった。
なぜ、自分が、社会的に有力な顧客を紹介されなくなったのかと、ぼんやりと考えるときがハイヤーにもあった。事務所で手がける建築物の完成予想図も、それが半ば完成するまで見せてもらえないのは、どうしてかと考えることもあった。この件についてフランコンに苦情を言うと、フランコンはこう反論した。
「ルシアス、今のような状態にいる君を煩わせるなんて僕には考えられないよ。ほかの人間ならば、引退しているだろうからね、とっくの昔に」と。
フランコンは、もの柔らかな調子で、ハイヤーをいぶかしがらせたが、ピーター・キーティングの方は、ハイヤーをはっきり困惑させた。キーティングは、ハイヤーと会うと、かろうじて挨拶するという具合になっていた。それも次第にもっと無礼になっていった。忘れていたが思いついたので、挨拶するという態度になっていた。ハイヤーがキーティングに話しかけても、その話の途中でキーティングはさっさと向こうへ行ってしまうのだった。
最初の頃は、ハイヤーも大目に見ていた。それから、何とか控えめにも不器用にも、キーティングをなだめようとした。そして、とうとうキーティングに対して理屈では説明できない恐怖を抱くようになった。ハイヤーは、フランコンに苦情を言った。ハイヤーは、権威ある人間の声の調子で、はっきりと怒りを示しながら言った。そのようなことは、それまでのハイヤーはしたことがなかったのであるが。
「ガイ、君が可愛いがっている、あのキーティングとかいうのは、だんだん始末に負えなくなっているね。あれは無礼だ。君は彼をクビにすべきだ」
「だからですよ、ルシアス。あなたは引退なさるべきだと、だから、僕は言うのです。神経過敏になっておられますね。ありもしないことを、あると思うようになっておられる」
フランコンはハイヤーにそっけなく答えた。
そうこうしているうちに、コスモ=スロトニック・ビルの設計コンテストの件が起きた。
カリフォルニア州ハリウッドのコスモ=スロトニック映画社は、ニューヨークに巨大な自社ビルを建設することを決定した。映画館と40階分のオフィスを収める高層建築である。
その高層建築の設計者を世界的規模で募るコンテストは、1年も前から公示されていた。コスモ=スロトニック社は、自社ビルについては大いにこだわった。コスモ=スロトニック社は、「パルテノンとパンテオンをいっしょにしたような歴史に残るような建造物」でなければならなかった。
そのビルの設計コンテストは、世界中の建築家すべてに開かれた。そのビルは、ブロードウエイに建てられる予定である。10億ドルという破格の予算がつけられている。そのビルは、現代の科学技術の天才を象徴することになるものであり、かつ、アメリカ国民の精神を象徴しなければならない。それは建てられる前から、「世界で最も美しいビル」であると発表されているのだ。
コンテストの審査員は以下の人々で構成された。コスモを代表するシュープ氏に、スロトニックからはスロトニック氏が出た。スタントン工科大学のピーターキン教授に、ニューヨーク市長に、アメリカ建築家協会を代表してラルストン・ホルクームも入っている。それと、エルスワース・トゥーイーが審査員に加わっていた。
「ピーター、がんばれよ」と、フランコンは、興奮しながらキーティングに言った。
「やれるだけのことはやるんだ。君が持てる力を全部注ぎ込んでくれ。これは、君にとって素晴らしいチャンスだぞ。もし勝てば、世界中に知られることになる。君が勝ったら、この事務所の入り口に、この事務所の名前と同時に君の名前も掲げるぞ。賞金は6万ドルだぞ」
「僕の名前も掲げるなんて、ハイヤーが反対するでしょう」
「反対させておけばいいさ。だからこそ、そうするつもりなのさ。自分がするべきことが何であるか、あいつは頭にちゃんと叩き込むべきなんだ。ピーター、僕の気持ちはわかっているな。僕のビジネス・パートナーは君だ。僕は君には感謝している。君はそれだけのことをしてきた。このコンテストは、君が名実ともにこの建築設計事務所の共同経営者になる鍵となるかもしれないぞ」
キーティングは、設計図を5回描き直した。しかし、自分の手の下にある設計図のことは、ほんとうには彼の頭にない。彼は、自分以外のコンテスト参加者のことを考えている。勝利をおさめ、彼よりも優れた建築家として公に賞賛されるかもしれない男のことを考えている。
いったい、誰が勝つのだろうか。誰がこの難問を解決し、誰が僕を凌駕するのだろうか・・・とキーティングはあれこれ考える。僕は、そいつを打ち負かさなくてはならない。その他のことは、すべてどうでもいいのだ、僕には。
やっと完成予想図ができあがった。白い大理石の建築物の細部まで描かれた全体図がきれいに描かれた。その全体図が自分の眼前に広げられたとき、キーティングが感じたのは、とてつもなく大きな不安以外の何ものでもなかった。
それは、まるでゴム製ルネサンス様式の宮殿だ。ルネサンス様式の宮殿が40階の高さまで伸ばされているという具合だ。キーティングが、なぜルネサンス様式を選んだのかといえば、建築の審査員というものは、すべからく円柱を好むという不文律を知っていたからだ。あのルネサンス様式一本やりのラルストン・ホルクームが審査員団の中にいるのを思い出したからだ。キーティングは、ホルクーム好みのイタリア式宮殿のすべてから借用した。自分の設計案はいいできのように思える・・・いけるかもしれない・・・しかし、キーティングには確信がない。これについて意見を求めたい人間なんて誰もいないぞ、僕には。
そのとき、やみくもに怒りの感情が襲ってくるのをキーティングは感じる。その怒りの感情は波のようにやって来た。キーティングには、なぜ自分が怒りを感じたのか、その理由がわかっていた。彼が意見を求めたい人間は存在している。求めるだけの価値ある人間は、ほんとうは存在している。
しかし、キーティングは、その人間の名前を思い出したくない。その人間のもとに行きたくない。しかし結局、自分は、その人間のところに行くだろうと、キーティングにはわかっている。キーティングは、この件について頭から追い払った。僕は、どこにも行かない。
しかし、時間が迫ったとき、彼はフォルダーの中に、完成予想図を何枚か入れ、ロークの事務所に出かけた。
ロークは事務所にいた。ひとりでいた。大きな机についていたが、何の仕事もしていなかったことは明白だった。
「こんにちは、ローク!元気かい?邪魔かな?」
「やあ、ピーター。邪魔じゃないよ」
「あまり忙しくないのかい?」
「うん」
「数分ほど、座ってもいいかな」
「どうぞ」
「やあ、ハワード、君は大した仕事をしたじゃないか。ファーゴ・ストアを見たよ。素晴らしいね。おめでとう」
「ありがとう」
「ずっと、あれ以来、仕事の注文はひっきりなしかい?すでに設計料を3つも稼いだとか?」
「4つだよ」
「へえ、そうか。大したもんだ。何だってね、サンボーン邸の件では、なかなか難儀したそうじゃないか」
「うん、難儀した」
「まあねえ、順風満帆ってわけにはいかないよな。全てが調子よくはいかない。以来、設計料は入ってないのかい?全然?」
「うん、全然」
「いずれ機会が来るさ。たとえば、このコンテストだけどさ。君は、もう参加の申し込みはしたんだろう?」
「何のコンテスト?」
「ええ?だから例のコンテストさ。コスモ=スロトニック社ビルの設計コンテスト」
「僕は参加しない」
「君が・・・参加しないだって?」
「しない」
「なぜだい?」
「ピーター、君はこんなこと言うために、ここに来たのではないだろう」
「本当のこと言うとさあ、僕のコンテスト応募作品を君に見せようと思ってさ。別に、僕は君に助けてくれと頼むつもりなどないからな。ただ、君がどう反応するかと思ってさ。こう単なる一般的な意見を聞きたくてね」
キーティングは、持って来たフォルダーを急いで広げる。
ロークは、その完成予想図を凝視する。キーティングは、きつい口調で問う。
「どうだい。いいかい?」
「いいや。ひどいね。君だってわかっているくせに」
それから、何時間もの間、ロークは説明を重ねた。キーティングが持ってきた設計図にいくつも線を引いた。キーティングの設計案の劇場の迷路みたいな構造をすっきりとさせた。余分な窓は省いた。いくつかのホールのもつれた仕組みは簡潔にした。無駄なアーチはつぶした。階段はまっすぐに置いた。
ロークがその作業をしているとき、キーティングはその作業をじっと見つめていた。空は暗くなり、街のビルの窓に明かりがともった。キーティングは、一度だけ口ごもって言った。
「すごいよ、ハワード!なんで、君はコンテストに参加しない?こんなふうにできるのに」
「今の僕は虚脱状態なんだ。空っぽなんだ。今の僕では顧客が求めるものを提供できない。でも、他人の無茶苦茶な設計図を見たら、訂正することぐらいはできる」
ロークが作業を終え、設計図や予想図を机の片側にまとめて寄せたとき、キーティングは小さな声で言う。
「それで、正面図は?」
「君の描いた正面図なんかどうでもいいよ。僕はルネサンス様式の正面図なんか見たくもない!」
ロークはそう言いながらも正面図にも一応目を通す。ロークは、自分の手が、その図に斜線をいくつか引いてしまうのを、どうにも止めることができなかった。
「いいよ、もう。どうしても、そうしなくちゃならないのならば、ルネサンス様式にしておけばいいさ。こればかりは、君のためにでもできないんだ。自分自身でやってくれよ。こんなようなのでいいさ。ピーター、もっと単純にするんだ。もっと単純で、もっと直裁(ちょくさい)に。不正直なものから、なるだけ正直なものを作るんだ。すぐ帰って、僕の指示どおりの何かを考えてみるんだ」
キーティングは家に帰った。ロークの描いた図面を写した。ロークが急いで描いた正面図を、きれいな完成図に描き直した。それから、それらの設計図は封をされて郵送された。宛名は、きちんと、こうあった。
ニューヨーク市コスモ=スロットニック映画株式会社宛
「世界で最も美しいビル」設計コンテスト係御中
コンテスト参加作品を同封した封筒には、送り主として次のように名前が記されていた。「フランコン&ハイヤー建築設計事務所、建築家、ピーター・キーティング、准設計士」と。
(第1部40 超訳おわり)
(訳者コメント)
キーティングのクズぶりが、またも炸裂している。
キーティングの設計案を修正してしまうロークも悪い。
でも、あまりに酷い設計図を見ると、ついついロークは修正したくなってしまう。
見るに見かねてお節介を焼いてしまう。
お節介を焼くつもりはないが、手伝うはめになる。
剽窃をすることを許してしまう。
何年も経過してから、ロークは、キーティングがクズになったのには、自分にもいくばくかの責任があると反省することになる。
結果的に、キーティングの剽窃癖を助長したのは、ロークなのだから。
コメントを残す