第1部(29) ハワード・ローク独立

ハワード・ロークは自分の事務所を開いた。

古いビルの最上階にある広い一室に自分のオフィスを構えた。大きな窓がひとつあり、家々の屋根を高く見下ろしている。事務所の窓の手すりから、ハドソン河が遠く帯状に見える。ロークが窓ガラスに指を押しつけると、指の下を、河をすすむ船の小さな航跡が縞のように見える。

事務所内にあるのは、机と2脚の椅子と大きな製図台だけだ。入り口のドアのガラスには次のように書かれてあった。「ハワード・ローク、建築家」と。その言葉を眺めながら、ロークは長い間、事務所の外の廊下に立っていた。それから中に入り、ドアを閉める。製図台からT定規取り上げて、まるでそれが船の碇であるかのように、再び振り下ろす。

ジョン・エリク・スナイトはロークの独立に反対した。ロークが自分の製図用具を引き取りにスナイトの事務所に出かけたとき、スナイトは急いで受付までやってきて、温かくロークと握手して、ロークを自分の机の前に座らせて、大きな声で話し始めた。

「いいかい、君は、僕に反対しないだけのきちんとした見識の持ち主だと僕は思っている。昨日僕が何を言ったにせよだ。どういうことかわかるよね。あのとき、いささか僕は正気を無くしていた。君がしたことに対してではなくてさ、こう僕が言いたいのは、君があの完成予想図に、あの完成予想図にしなければならなかったことが・・・まあ、ともかく気にしないで。君は気分を害していないよね?」

「いいえ、全く」と、ロークは言う。

「もちろん、君はクビになどなっていない。君は僕の言ったことを真に受けたわけではないよね?今すぐにでも、君はうちに戻ることができる」

「何のためにですか?」

「何のためとは、どういう意味?ああ、君はヘラー邸のことを考えているわけね。しかし、君はヘラー氏の言ったことをまともに受けとってはいないよね?あの人物がどういう人間か君も見たじゃないか。あの狂人は1分に60回気持ちを変える。彼は君に手数料などほんとうには払わないって。わかっているだろう。そういうことは、そんな単純なものじゃないの。そんな具合には、されないものなの」

「僕たちは契約書をかわしました。昨日ですが」

「へえ、そう。それは、まあ素晴しいことじゃない!そうかあ、いいかい、ローク、我々がこれからすることを君に言おう。君はその設計料をこの事務所に渡す。で、僕は君が君の名前を僕と並べることをよしとする。つまり、『ジョン・エリク・スナイト&ハワード・ローク建築設計事務所』だ。そして、我々は設計料を分け合う。それは君の給与に加えられる。したがって、君は昇給する。君が事務所に入れる設計料は、その後も同じ配分で分け合う。そして・・・なに、なによ、君は何を笑っている?」

「失礼しました、スナイトさん。すみません」

「君は、よくわかっていない。うちに残ることは君にとって保険になるんだ。君は早々と調子に乗りたくはないだろう?手数料というものは、そんなふうに、君の膝に簡単に転がり込んでこないの。そんなことは起きないの。滅多にないの。そうなったら、君はどうする?僕の言うようにすれば、君は安定した仕事を持って、独立するための練習もできるわけ。もし、それが君の求めることならばね。4年か5年もすれば、君は飛躍する準備もできているだろう。それが誰もがすることなの。わかる?」

「はい」

「じゃあ、同意するね?」

「いいえ」

「君はまったく頭がおかしいよ!今、独り立ちするだって?経験もなく、コネもなく・・・そうだよ、何もかもないくせに!そんなことは聞いたことがない。この業界の誰にでも聞いてみたまえ。連中がどう言うか聞いてみたまえ。それは途方もないことだぞ!」

「おそらく」

「いいかい、ローク、聞いてくれる?」

「スナイトさん、もしそれがお望みならば、僕はお話をうかがいます。しかし、あなたが何をおっしゃっても、何も変わらないということが、僕が今ここで言うべきことだと思います。それでも構わないとおっしゃるのならば、お話をうかがいます」

スナイトは、長い間、話し続ける。ロークはそれにじっと耳を傾けている。何の意義もさしはさまずに、釈明もせずに、答えもせずに。

「そうか、もしそれが君の姿勢ならば、君が路頭に迷っても、君をここに迎えることなんかしないからね。いっさい期待しないでよ」

「期待しません」

「この業界の誰も君を採用しない。君が僕にしたことを耳にすればね」

「それも、僕は期待していません」

数日間、スナイトは、ロークとヘラーを告訴しようかと考えた。しかし、それはやめることに決めた。こういう状況に似た前例がなかったからだ。ヘラーはスナイトにちゃんと設計案を出した努力に報いてその代金を支払った。ヘラー邸の設計は実際はロークがした。それに、いまだかつて、オースティン・ヘラーを告訴した者などいなかった。

ロークの事務所に来た最初の訪問者は、ピーター・キーティングだった。キーティングは、ある日の昼に突然やって来た。ロークとキーティングは1年ほど会っていなかった。

キーティングはズカズカとロークのオフィスに入り込み、ロークの机の上に腰をおろした。陽気に微笑みながら、部屋をなぎ払うように両腕を大きく広げながら。

「さて、さて、ハワード!大したものだな!」

「やあ、キーティング」

「君自身の事務所だせ!君自身の名前で、何もかも君自身のものだ!もう、すでにして!すごいじゃないか!」

「ピーター、誰に聞いた?」

「こういうことは漏れるものさ。僕は、君が業界でどうやって暮らしているのか、ちゃんと気にかけていたからね。君には予想もつかないだろうけれど。僕が君を祝福し、君のためによかれと祈っていることは、言う必要もないよな?」

「うん、必要ない」

「いい場所に決めたじゃないか。明るくて広いなあ。多分、この種の事務所はそうあるべきなんだろうな。全然もったいぶってない。しかし、最初から何でも期待通りってわけにはいかない。ハワード、見込みは確かってわけじゃないだろう?」

「確かじゃないよ」

「えらい機会をつかんだものだな」

「多分」

「ほんとうに、やるつもりなのかい?つまり、独力で?」

「みな独立するつもりだろう?」

「最初に事の顛末を聞いたときは、君はスナイトに謝るほうがいいと思ったよ、僕は。独立を撤回して、スナイトとうまくやった方がいいと思った」

「僕は思わなかった」

「ほんとうに、やるつもりじゃないんだろう?」

「やるつもり」

キーティングは、こんな恨みのような気分の悪くなるような感情を、なぜ自分が味わっているのか、その理由がわからない。なんで、ここに来たのだろうか。噂がほんとうのことではなかったと確かめたかったのか?ロークは不安な気持ちでいて、降参したがっていると確かめたかったのだろうか?

ロークの独立の話を耳にした時からずっと、この恨みのような感情はキーティングに呪いのようにとりついていた。それは、その原因など忘れてしまった後になってもなお心に残る不愉快な何かに関する感情だ。その感情は、理由もなく、キーティングによみがえってくるのだった。黒い怒りの波となって。

で、彼は自分自身に問いただした。一体何なのだ?僕が今日耳にしたことは、何だったっけ?そのとき、彼は思い出した。ああ、そうだ、ロークだ。ロークが自分の建築設計事務所を開いたって聞いたんだ。

キーティングは苛々しながら自分に問う。それがどうした?同時に、気がつく。自分がそのことに直面すると心が痛む、ということを。まるで軽蔑されたかのような屈辱を感じる、ということを。

「ハワード、あのさあ、君の勇気には感心するよ。僕はけっこう多くの経験を積んできたし、この業界ではそれなりの立場も築いてきた。だけど、僕でさえ、このような段階を踏む勇気はないねえ」

「うん、君にはないだろうね」

「ともかく、君のほうが最初に跳んだというわけだ・・・君の成功を祈るよ」

「ありがとう、ピーター」

「君は成功する。きっと成功すると僕は確信している」

「そう?」

「もちろんさ、もちろん!君はそうではないの?」

「僕は、そういうこと考えたことがない」

「そういうこと考えたことがない?」

「あんまりね」

「じゃあ、君は確信が持てないのか、ハワード?自信がないの?」

「そんなに熱心に、なぜそんなこと聞く?」

「え?なぜって・・・いや、熱心になんて、そんな。ハワード、今の段階で成功する確信がないというのは、まずい心理状態だよ。つまり、君には疑いがあるわけだ?」

「全然ないよ」

「だって、君はさっき言ったじゃ・・・」

「ピーター、僕は万事に確信を持っている」

「設計事務所登録をすることは考えたのかい?」

「申し込んだ」

「君は学位を持っていないからなあ。審査の段階で難しいかもしれない」

「多分ね」

「もし資格を得られないならば、どうするの?」

「ちゃんと得られるさ」

「そうか、ならばアメリカ建築家協会で君と会う日も近いわけだ。君が僕を見下げなければね。君は自分の事務所を持つ一人前の会員だけど、僕まだ単なる準会員だしな」

「僕は、アメリカ建築家協会には入らない」

「入会しないって?ちゃんともう資格はあるのに」

「資格はあるかもしれない」

「入会するよう招待されるよ」

「僕の邪魔しないように、招待するなって協会に伝えておいて」

「はああ?!」

「ピーター、こんなような会話は7年前にもしたことがあったね。スタントン工科大学の君が入っているフラタナティ(訳注 アメリカの大学の入会審査のある男子学生クラブ。全米ネットワークを持つ。日本の大学のクラブとは全く違う)に、僕を入会させようと君がしたときのこと。ああいうことは、もうするなよ」

「その機会があるのに、君はアメリカ建築家協会に入らないのか?」

「どこにも僕は属さない。いつでもね」

「しかし、君はそういうことがどれだけ助けになるか知らないだろう?」

「何の助けになる?」

「建築家でいることのためにさ」

「僕が建築家でいるために、誰の助けも要らないよ」

「自ら事態をややこしくするだけだよ、それでは」

「そうだね」

「それでは、かなりきつくなるぞ」

「わかっている」

「協会からの入会案内を断ると、協会を敵にすることになる」

「どちらにしても、敵にするだろうな」

ロークが、事務所開設の知らせについて最初に誰に報告したかといえば、それは、もちろんヘンリー・キャメロンだった。ヘラーとの契約書に署名した日の翌日に、ロークは、キャメロンがいるニュー・ジャージーに行った。

その日は雨が降っていた。キャメロンは庭にいた。ぬかるんだ小道をゆっくりと足をひきずりながら歩き、杖にぐったりともたれていた。1日に数時間は歩けるぐらいにはキャメロンは回復していた。体を曲げながら、苦労しながらキャメロンは歩いている。キャメロンの脚の下には緑の最初の息吹があった。

その緑色の草の芽から視線をはずしたとき、キャメロンには丘を登ってくるロークの姿が見えた。眉をしかめた。つい1週間前にロークとは会ったばかりなのに。

「はて?また何の用だ?」

「お伝えすべきことができました」

「俺は待てるがね」

「僕は待てませんでした」

「何があった?」

「僕は自分の事務所を開きます。最初の建築の契約に署名したばかりです」

キャメロンは、杖をぐるりと回す。杖の先端が地面に押し込められる。杖の柄が広い輪を描く。彼の両手は、片手がもう片手の上に重ねた形で、杖の持ち手を押さえつけている。キャメロンは、ゆっくりと長い間うなずいている。感に堪えぬ様子で、キャメロンの両目は閉じられている。それから、おもむろに彼はロークを見て、言う。

「そうか、いい気になるんじゃないぞ。腰かけたいから手伝ってくれ」

キャメロンは初めて、人に助けを求める声を出す。キャメロンの妹にしろ、ロークにしろ、キャメロンが倒れて以来、彼に対してしてはいけない無礼があった。それは、彼が身動きするときに手助けするということであった。しかし、今日のロークは、キャメロンの肘をとり、ベンチに連れて行く。キャメロンは夕陽を前方に見つめながら、せかせかと訊ねる。

「どんな契約だ?誰との?設計料はいくらだった?」

キャメロンは黙ってロークの話に聴き入る。水彩で描かれたものの上に、鉛筆描きの線があるひび割れた厚紙の完成予想図を、キャメロンは長い間、見つめている。それから、キャメロンは、素材となる石や鋼鉄や、敷地近辺の道路や、建築請負業者や、費用のことなどを訊ねる。祝いの言葉は彼から出ない。コメントの類は何も出ない。

ただ、ロークが帰るとき、キャメロンは唐突に言う。

「ハワード、事務所の写真を撮って俺に見せてくれ」

そう言ってから、キャメロンは頭を振って、罪を犯したように顔をそむけ、うめく。

「俺も年をとったな。いいんだ、忘れてくれ」

ロークは何も言わなかった。

3日後、ロークはまたニュージャージーに行った。「また俺を邪魔しに来たか?」と、キャメロンは言う。ロークは黙ってキャメロンに封筒を渡す。キャメロンはロークの事務所の何枚かの写真を見る。道路の行き止まりにあって、むきだしのがらんとした事務所内部の写真を見る。その大きな窓の写真を見る。入り口の写真を見る。その中でも、キャメロンは入り口の写真をじっといつまでも手に持っている。

「さて」と、キャメロンはとうとう声を発する。

「俺は生きて、これを目にすることができた」と。

「俺が望んでいた形ではないにしろ、一応見たことになる。いわゆる、これは、いつかあの世で俺が地上を眺めたときに目にするものの影とか兆しみたいなものだろうな。本番は、あの世でじっくり見させてもらおう」

キャメロンは、事務所の入り口の写真を自分とロークの間に掲げる。

「ハワード、これを見ろ。これはあまり多くを語ってない。単に『ハワード・ローク、建築家』だけだ。しかし、これは、城の入り口に彫り付けられたりするような言葉に似ている。人がその言葉のために死ぬような、そんな生きる指針となるような重要な言葉に似ている。これは、やみくもに大きく実に暗澹(あんたん)とした何かに対峙した挑戦だ。この世の苦痛という苦痛が・・・ところで、お前はこの地上にどれだけの苦しみがあるかわかっているのか?ともかく苦痛という苦痛が、お前がこれから直面するであろうことから生まれてくる。それがどういうものになるかは、俺にはわからない。なぜ、そんな苦しみがお前めがけて放たれなければならないのか俺にはわからない。ただ、そういうことが起きるということは俺にはわかる。お前が最後まで自分を信じ実行できるのならば、お前の勝ちだ。ハワード、その勝利は単にお前だけの勝利ではない。お前が勝てば、勝利を獲得すべきだったのに、世界を動かしたのに・・・しかし決して世間から認められることがなかった何かが勝ったことになる。お前が勝てば、かつて打ちのめされ滅びていった人々の仇を討つことになる。お前がこれから苦しむであろうように、かつて苦しみ泣いた人々の仇を討つことになる。神がお前を祝福して下さいますように・・・神がどんな存在か俺は知らん。しかし、人間の心の中の最上なるもの、ありうる限り気高い心を見るには、神だけがふさわしいだろうからな。ハワード、お前がこれから行く道は地獄への道だ。苦難ばかりが待っている。それでも、ハワード・ロークは進む」

(第1部29 超訳おわり)

(訳者コメント)

このセクションも訳していて幸せだった。

ヘンリー・キャメロンとロークが登場すると、私は嬉しい。

ロークが自分の事務所を持った時のキャメロンの喜び。

キャメロンは、よくわかっている。

ロークがこの先どんな目にあうのかわかっている。

嫉妬に嫌がらせに無理解に故意の怠慢に、明確な悪意を持った批判に攻撃に策謀。

キャメロンは信仰者ではないが、神に祈らざるを得ない気持ちになる。

ロークのような青年が勝つような世界でなければ、この世界の意味がない。

世界を美しくするために建築家になることを選び、設計建築が好きで好きでたまらなくて、それ以外のことは眼中にない青年が、建築の仕事ができない世界なんて意味がない。

責任を持って最上の結果を出そうと粘り努力するロークは、最初の仕事から、建築請負業者の怠慢に出会う。

建築請負仕事などしたくもないし興味もないが、その仕事に従事し、なるたけルーティンで最低限の労力で仕事をこなし、カネさえ入ればいいという姿勢の建築請負業者は、世間に多いのだろう。

ハワード・ロークにはわからない。自分がしたいことを明確に把握し、自分がしたいことに全身全霊で取り組むロークには、世間の人々の安逸さの追求が人生の目的であるような生き方はわからない。

とはいえ、そのような人々を非難する気はロークにはない。

ただ、わからないだけだ。

ともかく、この世界は、ハワード・ロークのような人間の創意工夫によって進歩し開拓されてきた。

キャメロンは、ロークがこの世で受ける迫害を蹴飛ばして、ロークがしたい仕事を十全にできれば、世間に承認されずに、この世界の進歩と繁栄に寄与してきた無名の多くの人々の無念を晴らすことができると考える。

ここが、キャメロンの弱いところだ。

だから、アルコールに溺れたんだな。

ハワード・ロークは、無名の人々の無念を晴らしたいというようなルサンチマンはない。

そんなことはどうでもいい。

世界に貢献して亡くなった無名の「地上の星」たちも、そんなことはどうでもいいはずだ。

自分が心からしたいことに挑み、それを楽しみ、全力で挑み、その充実を満喫する。

これほどの、人間の栄光はない。

これほどの、幸福はない。

自分で自分を認めることができた人々にルサンチマンなどない。

この世的な栄達とか出世など、どうでもいい。

他人の承認など必要ない。

まあ、ぶっちゃけて言えば、The Fountainhead という小説に貫くものは、作家のアイン・ランドが後に掲げた思想(Objectivism)よりも、自然で大きくて前向きで高次元だ。

生の肯定であり、人間賛歌だ。

自分を信じ、自分を愛し、自分の人生に自分が捧げる祝福だ。

能天気な「中2病」?

人間が罹患していい唯一の病気は、中2病ですよ。

やはり、締め切りに追われて、アンフェタミンという覚醒剤を飲みながら書いたからなのか、この小説に漲る高揚感はハンパない。

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