ロークは、フランコン&ハイヤー建築設計事務所の製図室の製図台のところで、手に鉛筆を持って立っている。オレンジ色の髪がひと筋、ロークの顔にかかっている。囚人の制服みたいな、真珠のような光沢のあるお仕着せのグレーの上着を着ている。
ロークは、新しい仕事を受け入れることをすでに学んでいた。彼と彼が描いている建物の図面との間には、ほんとうならば建てられるべき建物の図面があった。自分ならばそれをどうすればいいかロークにはわかっている。今ここで自分が引いている線をどう変えるか、輝かしき建築物を完成させるためには、その線をどこへ引いて行ったらいいか、ロークには、ちゃんとわかっている。
しかし、その自分の見識を活かすことは、いっさいできない。彼は、そのあるべき理想に命を与えることができない。指示されたようにロークは従わねばならない。線を引かねばならない。
そのことが、彼にとって非常に苦痛だった。冷たい怒りの中で、彼は自分自身に対して肩をすくめる。彼は思う。「難しい?・・・そうさ、でも学んだじゃないか」 と。
それでも、その苦痛は残る。そして救いようのない驚愕(きょうがく)も。彼が見たものは、書類とか、事務所とか、設計料とかという現実よりも、もっとはるかに生々しく現実的なものだった。
他の人々には、なぜそれが見えないのだろうか?なぜそのような無関心でありえるのだろうか?ロークには理解できなかった。彼は、自分の目の前で広げられている製図用紙を見る。なぜこのような愚劣さが存在しているのか?ロークには全く不可解であった。こんな類のことは、いまだかつて知らなかった。その愚劣の極みのような製図にあまねく浸透している現実というものが現実であったことなど、それまでなかったことだったのだ、ロークにとっては。
僕は待たなければならない・・・僕が何を感じるかなどどうでもいことだ・・・それは遂行されねばならないことなのだ・・・ロークは、待たねばならなかった。
ロークには、今度の職場でも友人がいなかった。彼は、ひとつの家具のごとく、有能に、非個人的に、黙って、そこにいた。
ロークが配置された工学技術課の課長だけが、ロークが勤務を始めて最初の2週間が過ぎたあとに、キーティングに言った。
「あんたは、私が思っていたより、見る目があるみたいだな、キーティング。ありがとう、助かっているよ」と。
「何を見る目?」とキーティングは訊ねる。
「いや特に意味はないよ。ほんと」と、その課長は答えた。
たまに、キーティングはロークのいる製図台に近づいて来て、静かに言う。「今夜、仕事がすんだら、僕のところに立ち寄ってくれないか、ハワード」と。
ロークがやって来ると、キーティングは、本筋の話に入る前に、こう切り出す。「さて、ここはどうかなあ、ハワード。君が望むことがあるならば、何でも言ってよ。そしたら僕は・・・」
ロークは、キーティングの言葉を遮(さえぎ)って、尋ねる。「どこにある?今度のは?」と。すると、キーティングは、ひきだしから数枚の完成予想図を取り出す。
ロークは、その完成予想図を見る。それらをキーティングの顔めがけて放り投げて、出て行きたいと思う。しかし、ひとつの思いがロークを引きとどめる。それは建物だ。建築物だ。溺れている人間を見たら、救助するために飛び込まざるをえないように、僕はその建築物を救わなければならない。それがロークの思いだった。
それから、彼は何時間もその完成予想図の書き直しをする。ときには徹夜で。そのあいだ、キーティングは座って見ているだけだ。
ロークは、建築物と、それを形成できる機会を見ている。どうせ自分が考えた形は変えられ、引き裂かれ、歪められることになることは、わかっている。しかし、それでもなお、なにがしかの秩序と論理は、その設計の中に残るだろう。僕が拒否したら、この建築物はこのままのひどいものとして建てられてしまう。僕が直せば、それよりはましなものができあがるだろう、たとえ僕の理想通りに建てられなくても。
ときどき、キーティングの描いたものでも、いつもよりは、単純で明晰で素直な完成予想図を見ると、ロークは言った。「悪くないよ、ピーター。だんだんうまくなっているね」と。すると、キーティングは、心の中で奇妙なささやかな動揺を感じるのだった。ガイ・フランコンや顧客やその他の誰に対しても感じたことがないような動揺を。彼らの世辞や追従(ついしょう)からは感じたことのないような静かで私的で貴重な何かを。
キーティングは、ロークへの秘密の従属を代償する行為を見つけていた。朝、キーティングは製図室に入って来ると、ロークの製図台の上に図面の束を放り投げて、こう言う。「ハワード、これやっといてくれたまえ。急ぎの用だからな」と。
昼間は、キーティングは給仕の少年をロークにやり、少年に大きな声で言わせる。「キーティングさんが、すぐに来るようにおっしゃっています」と。
また、キーティングは、自分の部屋から出て来て、ロークのいる方向に歩きながら、製図室全体に向かって言う。「あの12丁目の配管工事の仕様書はどこにあるんだ?ああ、ハワード、君ね、ファイルを調べて、僕のところに持って来てくれたまえ」と。
最初のうち、キーティングは、ロークがどう反応するか怖がっていた。しかし、ロークから何の反応もないのを見ると、ただ無言の従属ぶりを目にすると、キーティングは、もう自分自身を律していられなくなった。緊張などしていられなくなった。
彼は、ロークに命令するとき、官能的歓びを感じた。ロークの受動的な従順さに対する恨みが、憤怒(ふんぬ)のような感情になっていた。
彼はロークに命令し続けた。ロークが怒りを表さない限りは命令し続けることができるとわかっていた。しかし、ほんとはじりじりとたまらなくなるほど望んでいた。ロークが怒り狂って崩れることを。
しかし、その爆発は来なかった。
(第1部19 超訳おわり)
(訳者コメント)
ロークは設計はしない、それ以外のことならば何でもするという約束で、キーティングのいる事務所に雇用された。
なのに、結局、またキーティングの設計を直している。
根っからの建築家なので、できの悪い設計図に黙っていられない。
ついつい徹夜してでも夢中になって、キーティングの仕事の下請けをしている。
キーティングの影武者をしてしまっている。
キーティングはその負い目があるので、昼間、他の従業員の前で、ロークに偉そうに指示したり命令する。
サドマゾの世界。
キーティングみたいなクズをこの世にはびこらせるのは、ロークのような人間かもしれない。
能力があるので、ついつい無能な人間の仕事の手直しをしてしまう。
建築を愛しているので、できの悪い建築物になるとわかっている設計図に手を加えてしまう。
ロークは建築への愛のために、無能さをかばい、不正に加担している。
ほぼ無敵でinvincibleに見えるロークの唯一の弱点は、これだ。
もっと大きな視点から冷酷になれないローク。
この世界のことはすべて人間に責任があると思っているロークは、神を信じていないロークは、どうしても無能を放置できない。
こーいう「おせっかいローク、結果的に世話焼きローク」というのは、女性がいかにも描きそうなヒーロー像だ。
ほんとうは、キーティングの仕事に手を貸してはいけない。
無能と無責任に対して、それにふさわしい結果がもたらされるのが遅れる。
なんとなく、そのままにしてはいけない。打ち捨てられた作品を、助けなくてはってのは分かる感情です。
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ロークにとって建築物は生き物ですから。
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